久紫side 十七ノ参

 

 出迎えた皺の主は、彼の姿を見るなり、おーおーと喜んで拍手した。

「ほっほっほ。似合っておるぞ、小僧!」

 間違いなく、皺の主は“小僧”と彼をそう呼んだ。

 ……にも関わらず。

「なんの、つもりだ!」

 頭に刺さった簪をべしっと床へ投げ捨てれば、纏められていた髪が解け、黒く長い地毛が彼の服の上へ落ちる。

 赤と白を基調とした、ゆったり華やぐ造りの――女物の衣へ。

 怒り肩を揺らせば、酒の入った朱混じりの顔が、新たな皺を作って、くつくつ揺れた。

「いやいや、悪いのぉ。ちょっとしたお茶目じゃ。大目に見てくれや」

「ぐっ……」

 出来ることなら、握り締めた拳を呑気な面へ埋めたかったが、所詮己は買われた身。

 これも皺の主が趣味と思えば、恥辱を感じる心を消し去り、代わりに皮肉げな笑みを浮かべた。

 しっかり化粧まで施された彼の顔は、それだけで色香を纏い、華やいだ。

 しなを偽り、髪を掻き揚げ、皺の主の酌でもしようと手を伸ばし。

 ぱしっと叩かれる手。

「阿呆。子にはまだ早いぞ?」

「……酌を」

「いらんわ。……と、何か勘違いしておるようじゃな?」

 ぴしゃりと拒否をした皺の主は、酔いどれの眉を情けないハの字へと変えた。

「あのな、ワシな、稚児はいらんのよ」

 言い聞かせる口調。

 カッとなった彼は、叩かれた手で卓の杯を払った。

「ふざけるな! では、何故、私を金で買った!?」

 いらないと、言われた気がした。

 どんな役割さえ、お前には与えられぬと。

 値段が付けられたところで、何ひとつ、彼に出来ることはないのだと。

 けれど、ビックリした顔の皺の主は、転じて、悩める姿勢をとる。

「金で?……ああ、あの金か? アレは別にワシの金じゃないし」

「……は?」

「どうせ、陰険狸が後で拾うしなぁ」

「狸?」

「となると……ふむ? さて、ワシはどうしてお前さんを連れてきたのかね?」

「おい?」

 本気で尋ねられた質問は、彼の方こそ答えが知りたかった。

 むむむむむ……

 唸ること数秒。

 ポンッと手が打たれた。

「おお、なるほど! よし、じゃあ、お前さんはワシの弟子じゃな!」

「は?……弟子?」

 なんの――と続く前に、先手が打たれた。

 皺の主は突き出した親指で、己の胸をぐっと差し。

「そう、この天才人形師、――――様の弟子となる運命なのじゃ!」

 名乗ったようだが聞き取れないのは、名を拒絶する彼のせいか、聞き慣れない発音のせいか。

 だが、彼が興味を惹かれた言葉は別にあり。

「運命?」

 馬鹿げていると鼻白む。

 代替でしかない己の運命なぞ、男女が連れ添い終わった今、何があろうとのたまうか。

 軽蔑の淀んだ眼差しを向ければ、受け取った皺の主はにやりと笑う。

「ふっ。泣き虫小僧めが。いっちょ前に生意気な面をしおってからに――」

 泣き虫?

 皺の主の言い様に首を傾げる彼。

 泣いた記憶なぞ、物心ついてから数えられるほどしかない。

 泣いていては、生きられぬ。

 泣いたところで、どうにもならぬ。

 やり過ごすには、歯を食いしばり、心を殺し――

 そうして生きてきた時間を浮べたなら、皺の主が不穏に動いた気配すら察せず。

「そんな恩知らずへは、こうじゃ!」

「わっぷ!」

 言うなりがばっと抱きつかれ、跳ね除けようとした身体は、見た目よりずっとしっかりしていて。

 唐突に思い出した、倉の――

「あの時の……怪物?」

「…………言うに事欠いて、怪物たぁ何事じゃい」

 ぺちっと額を張られはしたものの。

「ほほほほほ。萎れてしまえ、腐ってしまえ」

 と離さぬ温もりに、彼はその胸を軽く叩き罵倒しながら、知らず知らず安堵していた。

 

 

 

 

 

 ミヤウチキクエモン――するりと入って来た名前。

 切って短くなった黒髪が、首を傾げる彼に合わせて揺れた。

「ミヤ・ウチキクエモン? ミャウ・チキクエモン? ミャウチ・キクェモン?」

「ちゃうちゃう。キクエモン・ミヤウチじゃて」

「キケモン・ミャウチャ?」

「……わざとか、小僧? なんだったら、師匠でええわい」

「……分かった、師匠」

 こっくり頷けば、皺の主――宮内喜久衛門は、少々乱暴に彼の頭を撫でた。

 

 彼が喜久衛門の庇護下に置かれて、半年の月日が流れていた。

 とはいっても、一緒にいたのは最初の二・三ヶ月のみ。

 後の三・四ヶ月、喜久衛門は彼を招いた屋敷へ残し、どこか遠い国にいたらしい。

 帰って来るなり、

「よお、弟子よ。天才人形師、ミヤウチキクエモン様がお帰りだぞ!」

 と叫んでは、勉強していた彼の部屋へ突入し、抗議する教師に土産の本を渡していた。

 ちらっと見えた内容は…………真面目な教師が生徒の前で鼻の下を伸ばすような、不埒な代物。

 なんともなしに溜息が漏れては、はたと気づく、名前と思しき言葉を理解したこと。

 しかして、響きは馴染みが薄く、何度か尋ねれば役割で落ち着いてしまった。

 正直、不満である。

 呼ばされた感満載だが、師を師と呼ぶのは普通でも、折角聞こえた名なのだ。

 どうにかして言おうと四苦八苦したなら、喜久衛門が前触れなく彼の鼻を抓んだ。

 すぐ放されても、つんとくる痛みから、赤くなっていると察し。

「喜べ。土産があるぞ、久紫」

「…………クシ?」

「そうだ。お前さんの名前だよ。ないって言ったからのぉ、勝手に付けさせて貰ったわい」

 犬猫じゃあるまいに、さらりと言われた内容に唖然とする。

 屋敷で会ったのなら、男とも面識があるはずの喜久衛門だが、それについては触れず。

 変わりに名を尋ねられれば、彼は「ない」と応えたのを思い出した。

 以来、小僧と呼ばれ続けたものだが。

「クシ……」

 自分の名。新たな響き。

 口を覆えば、胸がとても熱い。

「そう。宮内久紫じゃ。悪いが拒否は出来んぞ。これは立派な貰い物じゃて」

「貰い物?」

 ミヤウチが喜久衛門と同じ姓と知り、余計熱くなった胸が急に捩じれた。

 またこれも、誰かの名前なのか、そう考えては凍えて痛み。

「ああ。さるお人から、ポチやタマじゃ、あんまりだと言われてなぁ。けどな、そのお人が出したクシという名は、ポチやタマよりもっと酷い。なんせ、物の名称だからのぉ」

「物……」

 的確ではないか。

 知らぬ人物へ、彼は荒んだ笑みを浮かべた。

 代替を終えたなら、次は物。

 ただの肉塊。

 その響きを師と仰げという男がもたらすなら、彼は確かに物であり――

「で、な? 言ったんじゃ、ワシ。クシじゃ酷すぎるとな。そうしたら、そのお人は言うんじゃよ。クシというのは古来より伝わるお守りだから、きっとその名を持つ人を守ってくれるとな」

「守る?」

 名が?

 たかが名前が、自分を?

 悪い冗談だと笑うことも出来たのに、彼の胸は熱を取り戻す。

 名に裏切られ、絶望した彼だからこそ、否定しようにも、名の持つ効力に包まれてしまう。

 どくどく巡る熱に翻弄される彼を知らず、なおも喜久衛門は次ぐ。

「んでもな。やっぱりワシは難色を示した。するとな、そのお人、剥れてしまってな。否定するくらいなら、クシという響きに良い形を与える努力をしろ、というんじゃ」

「クシの形……」

「そうじゃ。探したのよ、ワシ。頑張ったのよ、ワシ。して選んだのよ、ワシ」

 もったいぶる笑み。

 興味なさげにそっぽを向けば、窘めて言う。

「やれ、お前まで剥れるか。まあ、聞け。久紫とはな、久遠に貴くあれ、という意じゃ。久は永き時を、紫は貴きモノを表しておるゆえ――願わくば、誰人にも惑わされぬ、真に強き者となれ」

「……師匠」

 おざなりに頭を撫でられ、熱くなり過ぎた胸が苦しい。

 笑いたいのか泣きたいのか分からない衝動が襲ってくる。

「クシ……クシ・ミャウチ…………私の、名前……」

 大切にしようと、思った。

 最初から誰かのものであった名とは違う、その名を。

 少なくとも二人、この名を作り出すため、悩んでくれた人がいるのだから。

「ありがとう、師匠。……最高のお土産だ」

 泣きたくなるような微笑みを浮べ、礼。

 

 が、しかし――――

 

「は? 土産? まだやっとらんぞ?」

「え……だって、名前――」

「ああ、そりゃ物のついでじゃ。思い出したから尋ねたまで。そのお人は結構真剣じゃったがな」

 ……この、ジジイ。

 冷めた感動をどうしてくれようか、生じる憤怒の情。

 差し出された一冊の本を受け取りつつもねめつけ、正真正銘の土産へ視線を落とし――

「ほ。どうじゃ? なかなか――――って、ああっ!?」

 濁音の悲鳴を尻目に、彼は燭台の火へ本を差し出した。

 メラメラ燃える紙を、磨かれた石の床へ落せば、貧弱な悲鳴が打ちひしがれる喜久衛門の喉を通った。

「お、あ、う、ああっ……くぅ、なんと惨い。今を時めく人気絵師の傑作集であったのに。教師へ渡したものより格別で……ああっ、あとでワシ、見せて貰おうと思って、表紙を眺めるだけに留めて……なんとっ! 勿体なきことを!!」

 大人しく萎れていれば良いものを、喜久衛門は彼へ縋りつくなり、恨みがましい目でさめざめ泣いた。

 大人とは思えぬ呆れた態度を示されて、彼はちょっぴり、成り行きでも喜久衛門を師と仰いだことを後悔し――。

 けれど宮内久紫は、師と呼べる相手がこの人で良かったと、この時初めて、宥めながら思うのだ。

 

 

 

 

 

 人形師として喜久衛門が最初に行ったのは、小刀でひたすら薪へ線を刻め、というもの。

 意味が分からず、がむしゃらに刻み続けては、一口に木と言ってもクセがあることを知る。

 これを答えとして提示すれば、喜久衛門は首を振り、

「ちゃうちゃう。ただ単に、燃えやすい木が欲しかったんじゃ」

 と言って、真っ直ぐ刻めた品を、あっさり火へくべてしまった。

 次いで、何かしらあるはずの過程をすっ飛ばし、丸太で人の手を作れという。

 知ったのは、手一つ取っても表情があることで。

 答えを持ち寄っては、喜久衛門は首を傾げ、

「久紫は面倒なことばかり考えよるのぉ? ワシはただ、これをこうしてな――」

 と言って、夜中、屋敷中の床へ手を並べては、普段澄ました女中たちの、上げる悲鳴を聞き、笑っていた。

 言いつける時は真面目なのに、結果を持ち寄れば不真面目になる。

 掴み処のない喜久衛門に対し、久紫が下した評価は「悪戯好きの天才爺人形師」。

 そしてこの悪戯好きの天才爺人形師、何を思ったか、今度は久紫を伴い、ある場所へ来ていた。

 すなわち――――

 

 きゃらきゃら笑う女たちに囲われ、身を小さくしていれば、腕をちょいちょい突かれた。

「あらん、ぼくぅ? がっちがちよぉ? あっちのお部屋で、お姉さんが解してあげようかぁ?」

「こらこら。お客様に向かって、ぼく呼ばわりは失礼でしょ? せめてお兄さんってお呼びしなくちゃ」

 ねえ? と一番近くにいる妙齢の女から、覗き込まれるよう微笑まれ、久紫はぐるぐる目を回した。

 屋敷で勉強を教わった際、教師を選んだのが喜久衛門だったせいか、余談で話を聞かされていたため、こういう店の存在を知ってはいたが。

 頬に触れる、柔らかい感触。

 びっくりして頬を押さえて仰け反れば、とろんとした目つきの女が、赤く熟れた唇をぺろりと舐める。

 ぞくりとするほど色っぽい目つきに気圧されれば、懐が弄られ、地肌に細くしなやかな指が這い――

「お止め」

 ぴしゃり、喜久衛門の傍で酌をしていた女が横目で睨めば、周りの空気がぐっと冷え込んだ。

「ここはそういう場所じゃない。指名されれば話は別だが、ただ客引きがやりたいなら外でおやり。私の旦那の連れに手ぇ出して、無事で済むとお思いかい?」

 言いつつ女は紫煙を燻らせる、皺の頬へ口付け。

「ちぇっ……何さ。どうせ一番に喰うくせにさ」

「何か、言ったかい?」

 ぎろっと睨みつけられた女は竦みあがり、久紫へ手を這わせた女は、渋々といった様子で離れる。

 安堵の息が知らず漏れては、その女の眼がまだ己を未練がましく見ているのを知り、慌てて喜久衛門のところへ。

 袖へしがみつけば、ひょいと位置をずらされ、喜久衛門を旦那と称した女の隣に身体が置かれた。

 背はだいぶ伸びた久紫だが、背以外で喜久衛門には未だ敵わず、混乱したなら細工の美しいグラスが渡された。

 注がれるのは透明な液体。

「さあ、どうぞ?」

 見ているこちらが困るほど、妖艶な笑みがある。

 逃げるように勧められたグラスを一気に煽る久紫。

 ……変な味がした。

 喉も妙に熱い。

 渋い顔をして、しばらく黙っていたなら、喜久衛門が赤ら顔を驚かせ、にやっと笑う。

「ううむ……駄目じゃのう? 勢いでいけるかと思ったんじゃが……まあ、良い。それも一興じゃて」

 それから久紫の頭を拘束した喜久衛門。

 ごにょごにょと、酒臭い息を耳へと吹きかけ。

 飛び跳ねた赤い顔の久紫は、振り返っては女を見た。

 微笑まれ、口が開閉を繰り返し。

 とんっと背を押された。

「言って来い。何事も経験じゃぞ? 経験は必ずや、人形造りにも役立つでな。なに、この女、とうは立っておるが、それゆえ様々な趣向を教えてくれるぞ?」

「しゅ、趣向っ!?」

「とう、とは失礼な話ね、センセ。でも――私じゃ、やっぱりご不満?」

「! い、いや、そういう意味では!」

 不必要に大きく否定したなら、女はくすくす笑い、久紫の手を引いた。

 言葉を失くし、大人しく従った久紫は、それでも一度だけ喜久衛門を振り返り。

「まあ、気楽にのぉ」

 と、本当に気楽そうに親指を突きつけて笑う姿へ、物凄い疲労感を憶えた。

 

 


UP 2008/10/24 かなぶん

目次 

Copyright(c) 2008-2017 kanabun All Rights Reserved.

inserted by FC2 system