久紫side 十七ノ肆

 

 つい最近まで子ども扱いされ、久紫もそれに甘んじていた。

 しかし、喜久衛門の背を頭一つ分越えた時から、久紫の扱いは先へ進み――

 乗じて、男としても扱われるようになる。

 

 

 店にあった酒の味を全部覚えれば、しなだれかかる女へ騒がせる胸はもうなかった。

 不意打ちのような口付けを受けても、応えも赤らみもせず跳ね除け、酔えぬ水の代わりを催促する。

「もうっ、前まではあんなに可愛かったのにぃ!」

 まるで、昔はおしめ取り替えて上げたのに! というノリで愚痴る女だったが、それはそれ。

 所詮は接待する側とされる側。

 営利目的に親しむ情は必要ない――――と久紫は考えている。

 今度は少しばかり毒性の強い水を注いだ女、軽く呑んだ久紫から杯を奪っては、一気に煽ってみせた。

「ぶはぁっ! んーまい! お姉さん、もういっちょー!!」

「頼んでない」

 ばっさり切り捨てれば、女がよよよと横へ泣き崩れた。

「ひっどぉい。イイじゃないのさ、馴染みのお姉さんよ、私。今日は酔いたい気分なの」

「ならば帰る。俺の用は済んだ」

 ざっくり言い切れば、女がわたわた慌て出した。

「ちょっ、まっ、マジで!?」

「ああ。俺は師匠の使いで来ただけだ。呑んだのは、師匠から命じられたからに過ぎない」

「ふーん?……何、女は飽きたから男へ走るってわけ――――って、何、その怖い顔」

 久紫から自分の顔は見えないため、どれほど怖いかは分からないが、強面の男を馬鹿にして突っつける女の青は、度合いの酷さを物語っていた。

 言いたい言葉を器用に紡げる口はないから、顔の要因である感情はぐっと堪え、粗雑になった言葉で言う。

「検討違いも甚だしい。師匠の命令は、女に興味があるようにしろ、という代物だ」

「……なに、じゃあ本当に男好き?」

「……違う。俺は女にも、増して男にも、興味がない」

 吐き捨てれば、女は変な顔をした。

 それはそうだろう。

 なにせ、この店の売上げは、異性が持つ興味で成り立っているのだ。

 だからこそ、久紫は早く立ち去りたかった。

 自分はただの使いでしかない。

 ここに、いるべき人間ではない――決して。

 いつしか来る度、そう思う、理由は……

 女を払って足早に出口へ。

 歩数をカウントし、文句を言う女の声を消して。

 気持ちが、悪かった。

 喜久衛門と共にあっては平気だが、知らぬ人間の只中に一人いると、警戒する心が生じてしまう。

 過剰なまでの防衛本能。

 ならず者で形成された街で培われた感覚は、血を尊ぶあの家の中傷で歪み、女の拒絶で構えるべき範囲を広げていた。

 十歩、五歩、三歩……

 知らず数える、その距離。

 出口。

 解放された喧騒と冴える夜気。

 扉を閉じれば一息ついて。

 直後。

「逃がさない」

「っ!?」

 響く、鈍い痛みに呻きが喉で潰れ、久紫の視界は暗転する。

 

 

 赤く灯る、注意信号。

 目の裏を焼く熱さは、暗がりに炎の紅を知らしめる。

 自然、震える瞼。

 目を、開けてはいけないと、内で誰かが言う。

 意識を失う直前、聞こえた声の主を暗に示すそれへ、久紫は反し、目を開ける。

「良かった。死んじゃったかと思ったわ」

 そこにいたのは、荒い息をつく女。

 視線を逸らせば、ベッドに縛り付けられていると知る。

 もっと巡らせれば、もう一つのベッドが目に入り、そのすぐ傍の扉を出て行くシルエットがある。

 逞しい男の、服を羽織りながら去る、裸の背が。

 もう一度、視線を戻す、空のベッドの乱れ具合は。

「気にしないで。頼んだツケよ。貴方を、ここへ連れてくるための代償――」

 女は目を細め、生々しい口元を拭い、久紫へと手を這わせた。

 ぞくりとする色ある目つきは、出会った頃から変わらない。

 喜久衛門は、あの後も色んな女を紹介したが、彼女だけは決して触れさせはせず。

 久紫はこれを不審と思わず、逆に、有難いとさえ思っていた。

 とろんとした目のこの女は、最初から得体が知れなかった。

 初めて会う人間へそう思うのは当たり前だが、内の警戒が存在の有無でかなり違っていた。

 彼女がいなければ、気分は悪くとも、今日のように人をぞんざいに払いはしない。

 彼女がいたからこそ、劣悪な気分の下、今日のようにぞんざいな払い方をしたのだ。

 久紫自身、説明のつかない気味の悪さ。

 内包する女は、仰向けの状態で、手足をベッドに縛り付けた身体へ跨り。

「――――」

 呼んだ。

 男の名を。

 捨てられた、捨てた、彼の名を。

 慄けば、這った手ごと、とろんとした目が久紫の顔へ向かう。

 頬へ手が這わされては、口の端へ口付けて。

「忘れた日は、一日とてなかった。私を捨てた貴方を」

「!」

 微笑みながら、含まれる害意。

 重なる、影。

 ……母、さん?

 貴方はあの人じゃない――そう言った、女。

 なのに、そろりと右眼へ、喜久衛門から賜った片眼鏡へ伸びる手は、間違いなく久紫へ、代替へ向けられていて。

 冷たく熱い痛みが頬と眉を掠めた。

 引っかかれたと気づいたのは、飛ばされた片眼鏡の音を聞いて。

「……あら? その灰……いえ、黒?……どちらだったかしら。愛しくも厭わしい貴方の目の色は――まあ、いいわ」

「つっ!」

 ざらつく舌が、薄皮を抉った傷を強く舐めた。

 何度も舐めては、吸いつき、小さく噛んで。

 ぱさつこうとも柔らかなカーブを描く、短い薄茶の髪が、久紫の顔を執拗に撫でる。

 ようやく離れた女の顔は、サイドテーブルの燭台の揺れる光だけで判別できるほど、上気していた。

 琥珀の目に宿る狂気も、同時に色濃く。

「ねえ、赦してあげるわ。貴方が私を裏切って、男を宛がって、孕ませて。そりゃあ私も悪かったわよ? 切った貴方を顧みず、そんな男に走って……でも聞いてよ。そいつったら、私に酷い暴力を振るうのよ。お陰で今まで派手に使えた金は全部治療費に消えて。子どもも何度も殺されてさ。だからね、だから――ある日、壊しちゃった」

 舌をぺろっと出して笑う。

「全部、ぜーんぶ。私を今まで作ってきたもの、全部。そしたらね? そいつが泣いたの。俺が悪かった、助けてくれって。でも私、そこまでそいつのこと、恨んでなかったからさ、いいよ、って言って、燃やして上げたの。家ごと、全部ね。だってさ、可哀相だったんだもの。痛そうだったんだもの。血だってたくさん、たくさん出しちゃっててさ」

 言って女は頬の傷へ爪を立てる。

 なのに、反応できないのは、彼の眼に映る影があるため。

 あったかも知れない未来。

 母の、在り得た先。

 久紫が――否、彼が辿るはずだった、代替の結末。

 血が出ても、それを女が舐めとっても、彼の眼には母しか映らず。

「私もね、壊れていいかなぁって思ったんだけど。でも、やっぱり忘れられなかったの、貴方のこと。趣味の散財を隠して猫被った私に、ビタ一文くれなかったばかりか、触れもせず冷笑だけを向ける貴方がっ!」

 細い指が首に掛かる。

 絞めた痕を女が慈しむように撫でる。

「本当、冷たい人。久々に会ったら私のこと知らんぷりしてさ。それとも忘れちゃった? それともそれとも、おじょーさまだった奴が、こんなとこにいて、ビックリしただけ? 後悔しちゃったりなんかして?」

 歌うような朗らかさで、彼の帯を解き、服を脱がせ。

「でも、全部全部、今更どうでも良いことよ。だって、貴方は一生、ここでこうして暮らすの。私に飼われるの。だけどね、養うには稼ぐ必要があってね。だけどね、私は貴方から離れたくないから、お仕事するのよ、隣でね。さっきの男みたいの相手に。ふ、ふふ、ふふ……なぁに、その顔。信じられなぁいって書いてる。心配しなくて結構よ。おじょーさまの時だって、ちてきこーきしん満たしてきたんだから。今更今更……」

 近づく女の顔。

 待ち望んだ玩具を手に入れ、愉悦に歪んだ微笑。

 拒む権利は、彼にない。

 だって彼は代替で。

 彼の目の前にいるのは――――

「なによっ、その目!」

 衝撃は左。

 反動で己の内にある頬肉を噛む。

 掴まれたのは、左の頬。

 爪が、食い込む。

「思い出した……思い出したわ、その黒目。あの、女の眼……貴方が笑ってた。私は嗤ってた、あの、女の――――いーこと思いついたっ!」

 忌々しいと拉げた顔から一転、女は終始とろんとした目を弓とする。

 飛び退き、手にしたのは。

 燭台。

「ふ、く……くふ…………貴方が、いけないんだわ。だって私は貴方を見てあげようとしているのに、貴方は眼の中にあの女を映すばかりか、あの女と同じ色を入れちゃって。それともその目は、あの女のモノなのかしら?……最低。自分のモノだって主張するつもり? 下賤の出が」

 最後は低く、呻いては、髪を優しく梳き上げ、溶けた蝋を湛える炎を近づける。

 対する彼は――否、久紫は、己を取り戻して息を呑む。

「待っててねー? 今、解放してあげるわぁ。私が、あの、女から」

「っ! やめろ、俺は――!!」

 男と唯一違う、黒いその目は、久紫が久紫であるために必要だった。

 たとえそれが、ただの女となり果てた、母から受け継がれたものであろうとも。

 ――惑うなと、強くあれと、願われたのに背いた罰なのか、これは。

 思うともなくして思い、だが、背いた正気の分だけ、久紫は精一杯、抵抗を試みる。

 頑丈な拘束は解けずとも、諦めず。

 と。

「やめんか、愚か者!」

「ぎゃっ!?」

 唸る怒声と共に、扉を打ち破った小さな影が、跨る女の横っ面を蹴った。

 吹っ飛んだ女は追わず、影――喜久衛門は携えた杖で、久紫の拘束を叩き壊し、憤怒の形相で立ち上がろうとする女へ叫ぶ。

「何を思っての所業かは知らぬが、こやつは宮内久紫、列記としたワシの身内じゃ!」

「身……内? だって、その男は――――で」

 告げられた名を聞いて、喜久衛門が小さく、久紫にしか届かぬほど小さく言う。

「痴れ者が」

 女か、それとも――名の主へか。

 どちらともつかぬ反応は、もう一度告げる。

 今度は諭すように。

「こやつは宮内久紫じゃ……名が違うじゃろう? 容姿とて、ほれ、お前のいう男とどれほど似ておる? 世に三人は同じ顔がいるという話は知っとるか?」

 女は併せて首を振り、耳を塞ぐ。

「いやよ。違うわ。同じよ。だって、私はその男を飼うってずっと思ってて。大事に大事に一生、私が飼ってやるって」

「大事? ならば、その手に持つ燭台はなんじゃ? 滴る蝋は? 何を消そうとした? 何を思って久紫へ斯様な仕打ちをした?」

 静かな声音。

 冷たい怒気。

 応える声はなく――――

 しばらくして。

 「冗談よ」と女はとろんとしたままの眼で笑い、「やってらんないわ」と肩を竦めた。

 

 

 名に守られたな。

 ぽつり、そう言った声はしばらく閉ざされ。

 ある日唐突に、別の国へ行こうと言い出した。

 あの一件以来、塞いでいた久紫は耐え切れなくなって、問う。

 男との関係を。

 あっさり、喜久衛門は答えた。

「顧客じゃ。正確には、だった、じゃが」

「……だからか。だから俺を――」

「そうじゃな」

 簡単に肯定されて、皮肉な笑みがへの字に曲がる。

「倉に来たじゃろ? だから拾った。それだけのことよ。大体、忘れたくとも忘れられんだろう、初対面のジジイの胸を、涙と鼻水でべちゃべちゃにした餓鬼なんぞ」

「…………」

 慰めは期待していなかったが、ぽんぽん出てくる悪口も予想はしていなかった。

 仕舞いには、喜久衛門から問うてきた。

「久紫、殺すか、あの男」

「……は?」

「ここを発つ前に悔恨は綺麗さっぱり失くしておきたいでな? お前さんにゃ、そうする動機はあんだろ? いっちょ、すぱっとさくっといってみっか?」

「……普通、止めるものではないのか?」

「阿呆抜かせ。なんでたかだか客の一匹、ワシが庇い立てせにゃならん? ワシが好きなのは身内贔屓じゃて。他のモンなぞ知るかいな」

 飄々と言ってのけた顔は、どこまでも呑気。

 内容が内容だけに、コツコツ溜めた毒気が抜け、気圧された形となった久紫は、問う。

「……いいのだろうか。恨んでも……あの男を…………何よりあの、女を……」

 ――母を。

 ぽつり、けれど吐き出せば胸が軋み。

「権利はないぞ?」

 為された答えへ困惑を示せば、似た顔の喜久衛門と出くわす。

「恨みたきゃ勝手に恨め? だが、それはお前の中での話だ。何かの保障がある訳でもなし。だというのに、権利なぞあるか? ないだろう? ワシゃ特に許しもしないが、否定もせん。ただ聞くだけだ。あの男を殺すか、と。協力しろっちゅうならしてやらんでもないが」

 真意を測れず眉だけ顰めたなら、喜久衛門は大仰な溜息を吐いた。

「言うたじゃろう? ワシは身内贔屓が好きだと。聞くが宮内久紫よ。ワシと同じ姓を持つお前は、ワシが形作った名を持つお前は、ワシの身内ではないんか? だとするなら、なんと寂しいことよのぉ。加えて弟子にまでしてやったっちゅうに、他人扱いか、ワシ」

 甲斐性なしめ、と貧弱な声で嘆く。

 途端、久紫は全てがどうでもよくなった。

 忘れられるわけはないが、恨み続ける気持ちにもなれなかった。

 最初から、恨みたかったのかどうかさえ、不鮮明で。

 恨みたいなら恨めと、久紫を身内として扱う喜久衛門が言うものだから。

「……行く」

「そか」

 それで良いのか? とは、喜久衛門は聞かなかった。

 だから久紫は、新たに得た名だけを取った。

 意味を失い捨てられ、捨てた名から目を背けて。

 背けるという意識こそが、その名を捨て切れていない証と、知る由もなく――。

 

 


UP 2008/10/27 かなぶん

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