久紫side 十七ノ伍

 

 あれから時を経て――――

 終わりの始まりはどこであったのか。

 境など幾ら考えようと判別できないが、一つだけ確かなことがある。

 

「貴方じゃ、アノ人のようナ人形は造れないんだモノ、仕方ないワ――」

 

 外へ口にしたのは、二番目に恋した女が、緩やかに壊れていった時の言。

 重なったのは、「貴方はあの人じゃないもの」と蔑んだ母の言葉で――

 けれど。

 ぽつりぽつり語る話を、熱の身でありながら、しっかり聞き続けてくれる小春。

 彼女を見ていると、違うのではないかとの思いが生じてくる。

 佐々峰雪乃――

 喜久衛門と相思相愛の仲でありながら、些細なことで行き違い、喜久衛門が真に愛するは人形と思ったまま死んだ、女。

 心を病んだのは確かだろう。

 生身の己では愛されないと身投げし助かった命が、本当に無事と言えるかなぞ、分かるのは当人のみ。

 愛しき者が近くにある内は平静を装い、去った後ではその扉に縋る、狂気は雪乃へ宿っていて。

 時期も、悪かった。

 久紫はその時、弟子という立場から師の出来を求められ、背けていた代替の役割が、得た名へ降り掛かる憂き目にあっていた。

 そこへ告げられる壊れた言葉は、過去と相まっては久紫を苛み、雪乃を遠ざけ。

 彼女の死によって、喜久衛門が後を追うように死んだなら、雪乃へ恨みを持ち寄り。

 絡みついた邪念は、どこまでも久紫から見た雪乃を貶める。

 しかしてこの邪念、しゅるり、解く鍵がある。

 ここに。

 小春という、雪乃と同じ世話役を担う、少女が――。

 

 

 

 喜久衛門の生前、多くの国を回ったものだが、そんな彼が眠りについたのは、何の因果か生家の近くだった。

 世界的に著名となっていた喜久衛門だが、故郷にあっても弔問客は少なく、単純な数だけでも、一年前の雪乃の葬儀の半分に満たない。

 その満たない半分さえ、大半は人形関係の取引があった連中で、聞こえてくる声はどれも才能を惜しむものばかり。

 聞くに堪えない、金ヅルを失ったと嘆く声が遠退けば、残されたのは広い洋館造り。

 この国の景観をぶっ壊してやったわい、とうそぶく喜久衛門が屋敷を特注で造らせた理由は、こっそりと雪乃が教えてくれていた。

 慣れぬ地に住む、久紫を慮ってのことだと。

 そんな風に、喜久衛門のヘタな愛情表現を理解していた雪乃。

 腹立たしかった。

 最後の最後で見誤り死んで、師までのちに連れて行った女が。

 喜久衛門が生きていた際には、決して立ち入らなかった部屋へ入る。

 最初に目にしたのは、生き人形。

 雪乃の死に顔を写し取り微笑む――

 直前まで凪の表情だったのが、内を表し荒れ狂い。

 叫んだところで返事が得られる訳もなし。

 項垂れては喜久衛門の遺品へ手をつけた。

 通信の技術が日々発達していくとはいえ、小さな島国の片隅で人形師が一人死んだことは、こちらが伝えねば、周囲には広まるまい。

 弔問客が雪乃より少ないことも手伝って、躍起になって死を伝える相手を探す。

 本当は、死んだことなぞ認めたくないのに、無意味な意地を張って、帳面をひたすら捲り。

 ぱたり、その手が止まる。

 一つの帳面にあって。

 目で文字を追って、震える指で何度も捲って。

 手から零れ落ちても、しばらくは動けず。

 急に込み上げる吐き気。

 両手で押さえ、涙ぐめば、蝋燭の明りが一本揺れる中、生き人形の微笑と出会う。

 ぐらぐらざわめく頭。

 覚束ない足取りで近寄り。

 立ち姿の人形のその、帯を――――

 解いた。

「…………」

 言葉なく、落ちた帳面を見やる。

 それは、喜久衛門がしたためていた日誌。

 雪乃が死んでから始まる内容は全て、雪乃に関して。

 あたかもその日その時、雪乃が喜久衛門と共にあったかのように。

 あたかもその日その時、雪乃が喜久衛門と語り明かしていたかのように。

 あたかもその日その時――――

 生き人形を作り上げ、“それ”から離れても、日誌が語るのは雪乃のことだけ。

 久紫の記憶にある以降の日々、喜久衛門は碌に人形も作らず、方々の女のところへ行っては、苦情を持ち寄り帰るを繰り返しており。

 それなのに、書かれている対象は全て、彼女だけしかおらず。

 

 

 

 袖が、引かれた。

 過去から今へと導くように。

 見やれば、話を聞いては熱を上げてしまった小春が、布団の中で久紫を見ていた。

 逸らさない瞳で。

「わたくしは死にません。まだまだやりたいこともありますから。大人しく寝てれば治るのですから、ね?」

 虚を衝かれた。

 一瞬、何を言われているのか分からず、思い出したのは、死なないでくれと語りの最初に言ってしまったこと。

 脱走する小春を留めるべく、喜久衛門と雪乃の死を語っている内、何度か交わした会話はあるのに、死なないという言葉だけが鮮明に残る。

 情けなくも、忘れていた自分の言葉を、語りを聞きながらも憶え、応えてくれた真摯な言葉が嬉しかった。

「ソウ……だな……」

 いつの間にか小春の額へ添えていた手に気づき、離す。

 失った温もりを求めるように、袖を掴んだ手へ重ねれば、若干の冷えを感じた。

 両手で包み込む。

 

 ふと、返る過去がある。

 

 今の小春の位置に久紫、久紫の位置に雪乃がいる過去が。

 喜久衛門が何処かへ旅立ち、幾日もせず熱病に臥せった時。

 同じ病を患った喜久衛門は寝込まず直したと、不甲斐ない己を呪えば、彼女は言った。

「久紫様は久紫様。喜久衛門様は喜久衛門様ですもの。早くと焦るお気持ちは、僭越ながら察するに難くありませんが、どうか今はただ、ご自身の治癒のお力を信じてくださいませ」

 ゆったりと笑んで――。

 

 佐々峰雪乃とは本来、そういう女性であった。

 

 他を慮っては自身を省みず、同じ熱病に浮かされては、休みもせず働き。

 小春に似ている気もするが、雪乃の方が何倍も柔軟で、何倍も頑固で。

 休めばいいと久紫が勧めても、さらりと受け流し、やりたい仕事はきっちりこなして。

 お陰で久紫は、帰ってきた喜久衛門から散々説教をされるのだが、後で雪乃が謝罪と共に美味い菓子を持ち寄っては容易く懐柔されて。

 人である彼女の表情は、思い起こせば豊富に巡り、多くは笑顔で彩られていた。

 

 だから、久紫は思う。

 もしや――と。

 病んだ身で久紫へ告げたあの言は、本当は、別の意を含んでいたのではないかと。

 

 貴方じゃ、あの人のような人形は造れないんだもの、仕方ないわ――悩んだって、貴方は貴方でしかないのだから。

 

 続くのはたぶん、そんな言葉。

 病みにより繕う語りが崩れたゆえ、母と似通う響きとして届いた、捻じ曲げられた雪乃の思い。

 ただの良心的な思い込み――そう言われても仕方ない、確かめる余地もない想像だが、様々な要因から遠ざけた、雪乃に関する記憶は物語る。

 たとえ病もうとも、彼女は世話役に徹すると。

 証拠に、久紫が「俺は師匠ではない」と返せば、雪乃は決まって「そうね」と穏やかに微笑むのだ。

 満足そうに、安心したように。

 余裕のなかった当時の久紫は、その笑みさえ、無駄だと、諦めろと言っているようにしか感じ取れなかったが。

 過去から背けた分だけ、歪む視界、書き換えられる思い。

 胸の中にいる、彼の師の記憶へ、今一度問う。

 恨んでもいいか、と。

 返ってくる言葉は、「好きにせい」。

 加えて、「だが」と言う。

「だが、雪乃を恨むは門違いじゃ。お前にゃ権利は元より、動機さえありゃせん」

 幻聴というには、あまりにはっきりとした声音で、彼は久紫を嘲った。

 なんだか無性に笑いたくなった。

 最初から、答えは己の内にあったのだ。

 背け続けたから、遠ざけてしまっていたから、思いも依らぬ憶測が飛び交う羽目になる。

 一つ理解が深まれば、続け様に分かることがある。

 

 寂しかった――――ずっと。

 

 己が代替と知る前から。

 喜久衛門や雪乃と共にあっても。

 

 母を支えねばならぬ彼を支えてくれる者はなかった。

 雪乃を頼る久紫を頼ってくれる者はなかった。

 久紫の経た関係はどれも一方的で、どちらかしかなかった。

 受諾と拒絶。

 杯を満たすためだけの水差し。

 水を受け入れるためだけの器。

 いつかその身は枯れ、いつかその身を冷やす。

 汲む者、飲む者がなければ、簡単に終わってしまう。

 

 ――情けなくも頼った記憶はあるが、頼られた憶えはない。

 それでも。

 

 見つめた先、薄っすらと赤らんだ顔の小春は、久紫を受け入れもすれば拒みもする。

 縒っても解れ、解れてもまた縒ることが出来る糸のように。

 繰り返し繰り返し。

 強みを知り、弱みを知り。

 それでもこうして、傍に在る貴女が暖かいから、向き合えた過去に私は一つの結論を導き出せる。

 ようやく――――

 

「でも…………やはり傍にはいないでください」

 ………………………………………………………………………………………………………………………………。

 絶妙のタイミングで小春はそう言う。

 折角出てきた結論も、ハの字にしょぼくれる。

 言葉の意が、伸介たちを見送ってのち、俯いたままの自分を慮ってのこととは知りつつも。

 ちょっぴり、寂しさが募った。

 けれど小春は苦笑して言うのだ。

「忘れて頂いては困りますが、わたくし、これでも女人のつもりですから」

「アあ……」

 過去に没頭するあまり、現在、小春と二人きりの状況であったことを忘れていた久紫。

 急に戻ってきた気恥ずかしさは、珍妙な頷き方に気づいて慌てた。

「いや、違うゾ? 今のは深い意味はナクて、忘れて……いや、ソウではなくて」

 どう弁明を図ろうか考えれば考えるほど上手い言葉は見つからず、笑う小春の眦から涙が零れたのを見ては、頬を掻きつつ苦笑する。

 

 ――恨んでは、いなかった。あの男にせよ……母にせよ。

 導き出された結論。

 だからと会いに行くという話には至らないが、固執する必要はないと悟った。

 なまじ経験があるから、偏見があるから、物事を曲げて見てしまう。

 ただ、それだけのことだから。

 

 

 

 

 

 傍にいないで、と言われたものの、開けてしまった部屋は元々久紫の寝所。

「ウ…………」

 最初の頃こそ習慣付いた己の行動に惑ったものだが、ここ最近はきちんと居間を寝所扱いとし、小春の寝顔を見ていなかったのに。

 かといって、間違いを口実に留まるつもりは毛頭ない。

 大人しく寝ていれば治る、と小春自身が言っていたのだから、久紫とて信用するのが道理であろう。

「イカンいかん……」

 言いつつ、ちらり、誘惑に負けて小春の顔を覗き見――

 月影の面差しをいぶかしんでは、決意虚しく、彼女の傍に膝を落とした。

「…………小春?」

 熱とは違う、苦しみ喘ぐ声を受けて、ゆるゆると伸ばす手は、額を捉える前に捕らえられた。

 驚けば、小春は身を起し、月明かりも許さぬ隠れた瞳で、久紫と向かい合う。

 仄かに色づく紅の唇が告げる。

 掠れた、声音で。

「わたくしは……あの方では、ないのです。お願い……違えないで――」

 そのままぐらりと傾いでは、慌てた久紫が受け止める胸へ縋り、嗚咽混じりに震える。

 動揺しながらも、久紫は華奢な身体を抱き締めた。

 誰かへ向けたものでありながら、一時でも過去と小春を重ねた己へ向けられたような言葉。

 大丈夫、と返す代わりに、背を擦ってやる。

 自分はこれからも決して、誰かを見て過去を重ねたりしないと誓う。

 小春への慰めにはならにかもしれないが、重ねられる苦しさは身を持って知っているから。

 ふっと弛緩する身体。

 次いで聞こえる寝息に腕を緩めれば、小春が眠っていた。

「……寝惚ケてた、のカ?」

 知らず入っていた肩の力が抜ける。

 けれど縋る力を思い起こせば、違えないでと訴えた先には何かしらあるのだろう。

 せめて、夢の中だけでも安らかであれば良いのに。

 久紫は願い、布団へ小春を戻そうと屈み、離し――――

「………………こ、小春?」

 ぎゅーっと掴まれたままの懐を知り、近い距離に焦る久紫は、解こうと試みるのだが。

「……人形師様」

「っ! イヤ、コレは、違う!」

 背後からやってきた、小春付きの女の声へビクつき、彼女と小春を交互に見ては、ヘタな弁明を図ろうとし。

「お休みなさいませ」

 まるっきり変わらぬトーンで挨拶されてのち、すー……と板戸が閉まった。

「んなっ、そ、ソレでヨイのカ。イヤ、助けるダロう、普通……」

 この場合、助けが欲しいのは自分か小春か。

 …………俺だ。

 うっかり落ち着いて見てしまった小春の顔に、久紫は自分の理性を信じるしかない状況に追い込まれ。

 

 

 次の日、目覚めた小春は、朝餉に隈をこさえて現れた久紫へ、どうしたのかしらと首を捻った様子。

 終ぞ尋ねられず、彼はほぅ……と息を吐き。

 女が小さく舌打したのを聞いては、何故だか小春の母を思い出した。

 

 


UP 2008/10/29 かなぶん

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