久紫side 十八

 

 ……何だか、小春の様子がおかしい。

 気付いたのは、彼女が床払いしてから程なく。

 それからずっと、冬の初めと思しき冷たい風が吹いて幾日か経っても、彼女の奇妙な様子は変わらない。

 

 

 久紫が声を掛けては飛び跳ね、用を聞くため振り返っても目の動きはおどおど。

 頬に薄っすら赤みが差しているのを心配し、尋ねてみても「大丈夫」と言う。

 が、相手は意地っ張りの前科者。

 いまいち信用できず、看病時ではごくごく当たり前であった手計りを実践。

 すると逃げる素振りを見せるので、後頭部を押さえて避けぬよう固定。

 徐々に体温が上がっていくのが伝わり、顔を覗き込めば見事な夕焼けの赤さが宿っていた。

 これは大変だと休むよう勧めれば、首をぶんぶん振って言うのだ。

 泣きそうな顔で。

「大丈夫です。具合が悪い時はきちんと休みます。もう、無理はしませんから」

 と。

 心配しているはずが、どうも虐めている気になってしまい、久紫は引き下がるしかない。

 それでも念を押すつもりで、両頬を包み込み、なおも赤い顔へ告げる。

「幸乃の娘……正直なトコロ、俺はアンタが居てくれた方が助かる。ケド、アンタが休むのを邪魔スルつもりはない。人付き合いの悪い俺ダガ、伸介どもとはそれナリにやっている。だから…………ソノ……」

 段々と久紫の言葉が消えていった。

 その時になってようやく、シチュエーションの悪さを察した。

 目線を合わせて屈んだ先にある、朱に染む頬、俯き潤む瞳、震える吐息、柔らかそうな唇。

 添えた手から伝わる脈は速く。

 まるで、何かを期待するような……いやまさか。

 無意識だろう、小春の手がいつしか久紫の手へ伸ばされており――そんな馬鹿な。

 都合の良い解釈を払い除け。

「……ま、マア兎に角、本当、無理はシテくれるナ?」

 言っては離れ、手を離せば小春の手も共に落ち、華奢な肩まで落ちたように見えては、困り果ててその頭を撫でた。

「……異人さん?」

「イヤ…………スマン」

 ぱっと離せば「いえ」と言って、自分の手で撫でた箇所に触れる小春。

 次第に熱を忘れた顔がかーっと赤く染まれば、しまったと久紫は思う。

 よくよく考えたら、今の行動はどうしたって、子ども扱いではないか。

 弁明しようと思っても、良い言葉は浮かばず、小春がそっぽを向いては告げる言葉もなし。

 

 そしてある日、久紫はとうとうその言葉を聞いてしまった。

 

 

 カシャン……と遠くで何かが割れる音を聞く。

 小春が何やら言っているようだが、近い距離にも関わらず、それすら遠くて。

 ――辞める、なんて……父様に頼まれているのですから。無理に決まってます。

 つい先程、小春の呟いた言葉がぐるぐる巡る。

 茶を頼んだものの、様子のおかしさから近づけば、聞こえて来た独り言。

 何が悪かったのか……少し考えるだけでも原因は山ほど浮かんだ。

 中でも尤も悪い原因は、夏祭りの翌日、伸介と交わした会話。

 告白。

 物憂げな様子は病を患ったせいと知ったから、ではあの想いはどうなったのか――

 考えれば答えは今し方出た気がする。

「や、辞めル!?……幸乃の娘……辞めタかったのか……?」

 確認するまでもなかろう。

 世話役という仕事に誇りを持つ小春が、独り言とはいえ、辞職を口に出した事実は重い。

 理由もきっと、世話役の身でありながら、人形師の心を乱してしまった責任から。

 それでも今の今まで世話役を続けていたのは、父・信貴が頼んでいたためで。

 欠片も想われていない己を思えば、嫌な動悸から立ちくらみを起しそうになった。

 失恋。

 立ち聞きで想いが伝わり、立ち聞きで終わった恋。

 酷く、滑稽だった。

 事実から逃れるよう、一歩退いたなら、小さな手が腕を掴んだ。

「わわっ、異人さん!? 危険ですから動かないでください!」

 危険?

 危険とは何のことだ?

 ぼんやり思い出したのは、ただ近づくだけでは不味かろうと、持ち出した空の湯呑み。

 ああ、割れた音、あれは湯呑みを落としたせいか。

 それで危険……

 なんだか物凄く悲しくなる。

 どこまでも仕事に忠実な小春。

 これで腕を掴む手が無遠慮だったら良かったのに、あんまりにも優しく柔らかく掴むものだから。

 気付けば華奢な両肩を掴んでいた。

 口が、辞めるに至る原因を勝手に探り出す。

「辞めルのか? 本っっ当に、辞めてしまうノカ!? 俺に何か問題でも……いや、問題だらけだったカモしれないが――」

 すると逸らされる視線。

 気まずそうな顔と赤らんだ頬で、やはり告白のせいだと勘付く。

 けれど、否定したかった。

 次々浮かぶ妥協案を片っ端から出していく。

 決して、告白のせいなのかとは言わず。

 頷かれては、立ち直れない気がして。

 終いには「人形が恐ろシイのか? 人形を作るのを辞めヨウか?」と、それでは小春が人形師の世話役をする理由もなくなるが、知ったことではなかった。

 大切なのは、小春の辞めたい理由が久紫の想いとは別にある、その一点のみ。

 だが、小春は一向に頷いてはくれず。

 段々追いつめられ、言葉に詰まり始めた時。

 くすくすくす……

 嘲る響きを孕む、小さな笑い声が戸口から訪れた。

 

 

 招いてもいないその男は、居間へ上がるなり頭を垂れて名乗った。

「ご高名な喜久衛門殿の弟子にして、ご自身もまた、ご高名であらせられる宮内久紫殿にお会いでき、春野宮志摩、光栄の極みに存じます」

 この島国の人間では珍しい、色素の薄い長い髪を茶色の上着の背で緩く結い、新緑の着物を纏った姿は、一見すると柔らかな印象を与える。

 事実、整った顔立ちは今まで出会った誰よりも親しみやすく、浮べる微笑もまた、人好きのするもの。

 しかし――

 久紫はどうも、この男が気に喰わなかった。

 初対面を警戒するのとは違う、臨戦態勢で相対すべき相手だと、内側から警鐘が鳴らされている。

 示すのは、敵、という物々しい認識。

 隙だらけの身であるにも関わらず、出来ることなら避けて通りたい、そう思わせる不快があった。

 丁度、久紫を男と違え「飼う」とのたまわった女のように。

 あれよりこの男の眼はまともだが、なればこそ、より一層気味が悪い。

 そんな内心を悟られぬよう、鼻を鳴らして返事をすれば、小春が新しい湯呑みを側に置いた。

 ふわりと漂う茶の芳香から、緊張が一時和らいだのも束の間。

「小春。私にも、おくれ」

 さも当然のように男は小春へ茶を催促する。

 そこで気付く、本来であれば男を客としてもてなすだろう小春の不備。

 人形師仕えなら、呼ばれずともこの島を所有する春野宮姓、自然、客となる男へ先に茶を出すはず。

 今まで小春が茶を出さなかった相手は数いれど、どれも久紫ではなく彼女の知り合いだったがため。

 これが変に習慣付いてしまい出し忘れてしまった――と考えるのが妥当かもしれない。

 軽々しく「小春」と呼べる男は、彼女の知り合いに違いないのだから。

 が、茶を頼まれた小春の顔は渋い。

「志摩様? どういった御用でこちらに来られましたか?」

 苦々しい表情を一切変えず、茶を手渡す小春。

 見て取れる、嫌悪。

 伸介へ呆れる視線を投げかける様は幾度か見たものの、ここまであからさまな負の感情は初めて見た。

 小春でもこういう顔が出来るのかと、半ば感心しかけ。

 茶を受け取るに似せて、小春の手を引っ張り、己の隣へ座らせた男を認めては目が見開かれた。

 ちらり、小春が座る陰で、男がこちらを見て嗤ったのだ。

 目を細めて、柔らかな微笑の奥で、嘲笑を抱えて。

 瞬間、苛立ちが募った。

 何もかも見透かしたような顔つきで、久紫を見下す態度。

 それも、隣に小春を従えた絵でもって。

 理解する、会って間もない男が、久紫の恋慕を察したこと。

 弱点をつかれた呻きが喉で転がれば、嘲笑だけを器用に消し去った男は小春へにこりと笑む。

「この前来た時、約束したじゃないか。今度は宮内殿にお伺いを立てたい、と。一緒に行こう、と。でも君は仕事だっていうから、わざわざ来て上げたのに」

 ……こいつ、わざとか。

 馬鹿丁寧な挨拶をしたくせに、今の話を聞く限り、本来の目的は久紫ではなく、小春。

 加え、小春へ向けての言を装った会話の内容は、牽制に等しく。

 久紫と同じく、この男も小春を――

 いや、何か違う。

 直感でそう思った。

 己の想いを美化する気はないが、男が小春へ掛ける言葉は、師・喜久衛門の相手をからかう時の声音と似つつ、それを更に悪意で染めた響きを孕んでいた。

 小春も既に察しているのだろう、心底呆れた口調で男に言った。

「あらあら、それはご苦労様ですこと。どうせならずぅーーーーーっと、お待ちになっていらっしゃれば宜しかったでしょう?」

 普段なら決して、吐かれぬ嫌味。

 驚けば、男も負けず劣らず応酬。

「本当、君ってつれないねぇ。私はこんなにも君を好いてるのに」

「――――熱っ!?」

 囲炉裏を挟んだ告白風景。

 立ち聞きどころか目の前で行われたやり取りが信じられず、茶を思いっきり零してしまう。

 すぐさま反応したのは小春――ではなく。

「大丈夫ですか? 大切な御身に火傷でも負われれば、幸乃殿に私は何てお詫びをすれば良いか」

 手渡された手拭を無碍に払えず、渋々ながら受け取る久紫。

 素早い動きをみせた手拭の主は安堵の息らしき息を吐き。

 小春からは見えない角度で、面白いと久紫を嗤った。

「……!」

 熱の混乱から冷めたなら、男の言葉が遅れて久紫の腹を煮え滾らせた。

 なぞればつまり、人形師という品物を春野宮へくれた幸乃に申し訳ない――そんな意が伝わり。

 頭を下げようがこの男にとって――引いては春野宮にとって、久紫は――引いては喜久衛門は、金を生み出すからくりに過ぎず。

 金づるという言が表すような人ですらなく。

 けれど男は久紫の怒りを飄々と受け止め、振り返っては手を差し出して言う。

 小春へ。

「じゃあ小春、そろそろ行こうか?」

「は?」

「何だト?」

 言葉は違えど、異口同音に困惑が発せられ、男は背を向けたまま肩を竦めた。

「実は幸乃殿が君に用があるというんだ。私はその迎えなんだよ。なに、平気さ。宮内殿の世話なら、ほら――」

 男が指差したのを受けて、戸口から影がさっと消える。

 しばらく見ていれば、伸介と瑞穂、さつきが気まずそうに現れた。

「分家の彼らがやってくれるだろうから。ね?」

 同じ春野宮でありながら、わざわざ伸介たちを分家と呼ぶ。

 ならばこの男、本家筋の人間なのだろうか。

 だとするなら、春野宮の腹心である幸乃の使いという構図はおかしい。

 いぶかしんでいる内、小春と目が合った。

「…………し、失礼します」

 何かを隠す素振りの慌てた姿。

 一つ、憶測が久紫の中に生じ始める。

 これにより、顔が段々と険しくなるのを止められず。

 

 

 

 小春と男、二人が去って後、強張った顔の三人は、三者三様に訪れた謝罪を述べる。

 一通り、喋り終えたのを見計らい、縺れる舌で久紫は問うた。

 幸乃に長子はいるか、と。

 息を呑む音が三つ聞こえ、長い沈黙を終えてから、伸介が代表で答えた。

 是、と――。

 憶測が確信へ近づく。

 乗じ、久紫の身体は制止も聞かず。

 走り。

 止まり。

 憶測を真にしたくなくて、引き返そうと踵を返し。

 諦めきれず、また走り――

 幾度かそんな動きを繰り返せば、辿り着いてしまった幸乃の家。

 小春が倒れた時以来だというのに、案内もなく来られた感動も薄く。

 開かれた門扉の内へ、入るかどうか、また迷い。

 決心し、顔を上げ。

 その耳へ届く、二つの声。

 一つは先程の男のからかう声で。

 もう一つは……よく知る彼女と同じ声の、知らない響きを持った音。

 確信が、すぐそこまで訪れる。

 決心は失せ偽りを期待し、門扉から覗く、敷地の庭。

 鼓動が大きく跳ねる。

 

 抱き合う男女がそこにいる。

 

 額を寄せ合い。

 重なる二人の姿は男の影にあり――――

「…………くっくっくっ……最高だよ、小春」

 男が笑えば、

「お褒めに預かり光栄ですわ」

 彼女が笑う。

 傾ぐ身体。

 また、大きく跳ねた鼓動は、影であった男が愉しそうな瞳で、久紫を捉えたがため。

 離れる二人。

 恥ずかしがるように男から離れる様子は、とても彼女らしくて。

「小春」

 男が呼べば、彼女は振り返り。

 今度は唇ではなく頬へ男の顔が近寄り。

「な、何を考えてらっしゃるんですか!?」

「勿論、小春のことを」

 真っ赤になった彼女の顔はすぐさま背けられ。

 見送った男は、もう一度、久紫へ視線を投じては、口元へ人差し指を翳した。

 他言は無用だと、暗に伝わり――

 

 

 

 

 

 帰り、戸口を後ろ手で閉める。

 居間へ腰掛けては、しばらくぼんやりと宙を眺め。

 夕陽が差し込む窓の影を受け、振り返れば、夕餉分と思しき食事があった。

 傍には手紙が添えられ。

 何故と考え、伸介たちの訪問を思い出し、何も言わず出て行ったことを後悔し。

 瑞穂が作ったらしい夕餉を頂く。

 らしい、というのは、手紙にそう書いてあったからに過ぎず。

 でなければ、これがさつきが作った物だったとしても、久紫は判別できなかっただろう。

 なにせ、幾ら噛んでも、味がしないのだ。

 そんな頭でぐるぐる巡るのは、寄り添う男女の光景。

 どんなに楽観視したとて覆せぬ、推測の正しさ。

 幸乃家に長子がいるのなら、名を継がせるのはそちらで構うまい。

 浮かぶ、名がある。

 ――春野宮小春。

 姓にも春を抱えた娘。

 幸乃と呼んでいたのは己だけ。

 皆、小春と呼ぶ。

 そして男は言ったのだ。

 幸乃殿が君に用がある、と。

 信貴の姓は娘である小春にも宿るはずが、まるで別の姓が彼女にある言い方で。

 いつからかは知れぬ、婚姻関係。

 当て嵌めれば、今日――あるいは久紫の告白を聞いた反応も説明がつく。

 職場に来た伴侶を諌め、既婚から告白へ返事も出来ず。

 使いを義父から頼まれては、あのような男であっても、払うことは出来まい。

「ッ!?」

 鋭い痛みが走る。

 驚けば、鮮血が左手を伝っていた。

 夕餉を終え、知らぬ内、人形造りを開始していたらしい。

 これまたいつの間にか灯していた、蝋燭の明りだけが頼りとはいえ、手に馴染んだ動作は傷を忘れて久しいというに。

「……深い、ナ」

 ぽつり、呟く。

 じくじく痛む手を垂らし、血を垂らしながら、包帯を求め。

 しかし、どうしても見つからない。

 どこに何があるのかも分からない。

 自分の家なのに――

「…………違う。人形師の家ダ。ココは、俺の家では……」

 思いを口に出せば、渇いた目が熱くなる。

 慌てて袖で拭い、どろりと伝う生温さを感じては、仕方なしに夕餉へ掛けられていた布を用い、応急処置を施した。

 終えれば、不恰好な形が左手に宿る。

 それが面白くて、目元を覆い。

 口元まで手が下がったなら、指が知らず知らず唇を這う。

 

 小春と――慕う彼女と、己ではない男の、口付け。

 

 何度でも浮かぶ光景。

 交わされた会話から幾度も交わしていると察し。

「……アア、駄目だな…………血ヲ拭かねば……これ以上、迷惑は………………」

 久紫は光景から逃れるように、床の血痕を拭う。

 

 


UP 2008/11/10 かなぶん

修正 2008/11/13

目次 

Copyright(c) 2008-2017 kanabun All Rights Reserved.

inserted by FC2 system