久紫side 十九

 

 久紫が好いた者に共通する事項があるなら、それは必ず隣は埋まっているという現実。

 母には、あの男。

 雪乃には、喜久衛門。

 そして――――

 

 

 いつも通り、やって来た小春。

 決まった相手がいるとは思えぬ、まだあどけなさの残る顔立ちは、目の端で久紫を凝視し、次第に強張っていく。

 正確には、布で巻かれた左手を見て。

「どう……なされたのです、か?」

 挨拶もなく尋ねられたとて、答えられるモノではなかろう。

 小春と春野宮の男の口付けを見、察した事実――失恋から我を忘れて傷つけたなぞ。

「何でもナイ」

 格好悪い、以前に、そんなくだらない理由で、人形師が商売道具である手を傷つけたと知れば、世話役が気を負ってしまう。

 これ以上の迷惑はかけないと決めたのだから。

 ……それとも、責任を取るのだろうか。傷を負わせたと、あの男と別れ、久紫を選んで。

 馬鹿馬鹿しい。

 だとして、久紫が救われるはずもなし。

 小春を困らせたい訳でも、苦しませたい訳でもないのだ。

 想いの方向を見誤った今、望むのは彼女の幸せだけ。

 

 けれど、我が侭が一つでも許されるのならば――――

 

 おずおず、左手へ伸ばされる手に気付く。

「ヤメろ!」

「きゃっ!?」

 短い悲鳴、尻餅をつく姿。

 払った腕の強さからしまったとは思いつつ、虚しさが去来する。

 やめてほしい……勤めであっても関わるのは……いっそ、辞めてくれまいか。

 昨日、呟いた台詞通りに。

 許されるなら。

 もう、顔を見なくて済むように。

 誰かの手で幸福を浮かべる貴女を見て、俺が不幸を願わぬ内に。

 遠ざけて、遠くで、祈らせて。

 その、幸福を。

 

 ――誰にも言わなかった事がある。

 

 幽藍へ来て一度だけ、日も浅く、久紫は島を出ようとした。

 まだ小春と会話すら満足に出来なかった頃に。

 ここに居ても結局は同じことだと、早々に見切りをつけて。

 だが、見つかってしまった。

 押し留められた――船乗りから。

 無断で島を出られては、自分たちのクビが飛ぶ、と。

 正規の手続きを踏もうと、閉まる直前の役所へ顔を出せば、応えは否。

 不憫に思ったのか、近くにいた初老の男が教えてくれた。

 喜久衛門の死後、春野宮へ苦情が殺到したらしい。

 それらの主は全て喜久衛門の顧客であり、中には別の取引先から入手した者まであったが、一様に言うのは、世界的に有名である人形師を一番長く抱えていたくせに、という不備の指摘。

 島国の、生家とはいえ、みすぼらしい土地で、喜久衛門を死なせたと。

 裏に隠されている思いは、自分たちが高値で購入した人形の、その価値を陥れる真似をするなというモノで。

 だからこそ、その弟子である久紫を取り込んでは、島から出せぬ――そう聞き。

 吐き気がした。

 春野宮にではなく、人形の所有者たちへ。

 死に場所すら、自由に選ばせないのか、と。

 ならば幽藍の方がマシと結論付け、今日まで至り。

 

 今更身に染みる、島を出れぬ、小春から遠ざかれぬ不自由。

 省みるモノがなければ、方法は幾らでもあるというのに、迷惑を考えては行動が制限され。

 胸内で願うことしかできない。

 彼女が辞めてくれることを。

 誰かの耳に入れる訳にはいかない。

 彼女の世話役としての能力は、いつも満足のゆくモノであったから……。

 はっと気付けば、またしても小春の手が伸ばされていた。

 遠ざけようとしても、しつこく食い下がる手。

 その先を掠めて、久紫は一瞬動けず、隙を狙われ布が取り払われた。

 顔を背けても、脳裏にちらつくのは、食い下がる手の主の、泣きそうな傷ついた表情。

 気まずい意識の端で、はらり、布が落ちれば、小春が更に強張ったと分かる。

 左手に負った深い裂傷へ、息を呑む音が聞こえたから。

「……どうなされたのです? これは……」

 何度問われたとて、答えられる代物ではない。

「………………………………」

 返せるのは、ただただ無言。

 示せるのは、拒絶。

 

 

 

 不思議と静かな時間であった。

 捕らえられた手は大人しく手当てを受け。

 目の端では、見るともなしに見てしまう、まるで自分が裂傷を負ったような顔つき。

 涙を堪えるように、昂る感情を押し殺すように、下唇を噛み締めて。

 そんな小春を傍らに置きながら、久紫は思う。

 このまま時が止まってしまえば良い――と。

 どうせ共に歩めぬのなら、情愛を交わすでもないこの距離、手だけが離れず繋がれた時が、ずっと続けば良い。

 そうすれば小春は永遠に、久紫の手を案じ続ける。

 世話役として、人形師の手を――

 でなければ、暇を出そう。

 彼女へ。

 なんともなしに考えたなら、理由は簡単に浮かんだ。

 年頃の娘だから。

 やはり幽藍の噂は危険なのだ。

 既婚者、あるいは婚約でもしていたなら、尚の事。

 小春が病に臥せた時、絹江は構わないと言っていたが、きっと彼女は昨日の男が気に入らないだけ。

 血縁でない者同士の親縁で不仲なぞ、血縁であっても仲が良かった覚えのない久紫には、易く想像できる図。

 そうして思い耽る内、左手から手当てとは違う感触が伝わってきた。

「!?」

 驚いて見やれば、小春が綺麗に巻かれた包帯へ、己の額を押してつけていた。

 どくんっ

 跳ねるは心音ではなく。

 昏い、想い――。

 拒絶していた行動を咎めもせず、それどころか受け止める素振りで、敬うように甲へ額を預けるから。

 瑕を一つ、つけようか。

 外からでは決して分からぬ、小春だけが知る内の瑕を。

 世話役を誇りとする彼女なら、妻の役割も誇りとするだろう。

 だから、ほんの少し、瑕をつければ……それは決して、彼女の内から消えはしまい。

 責めるかもしれない。

 親愛の情でもなく、増して好いた相手からでもないモノを受けては。

 久紫を恨んで。

 ならば一生、責めてくれればいい。

 砂粒に等しくとも、久紫を留めてくれるなら、どんな感情でも構わない。

 

 拒絶、されようとも――

 

 そっと、俯く頬へ右手を添えた。

 柔らかく撫で上げれば、乗じて小春の顔が上がる。

 これを酷く歪な笑みで迎え。

 手当てされたばかりの左手で、彼女の右腕を引き寄せ。

 雰囲気に呑まれた様子の小春は、抗うことなく従い。

 近づく瞳、小春の手が久紫の胸に預けられる。

 離れた右手でもう一度、惚ける頬を撫でた。

 突き飛ばされるか、頬を張られるか、覚悟し――――

 

 触れる、柔らかさ。

 

 瞠目すれば小春の瞳が閉じられ、胸に置かれた手が軽く握られた。

 離れたなら、瞼が震えて持ち上がり、視線が交わされる。

 ………………………………………………………………………………………………………。

 今しがた起こった事が信じられず、食い入るように小春の目を見つめた。

 恐る恐る、口元を覆う。

 何故、と問いたかった。

 昨日男と口付けを交わしておきながら、何故久紫を受け入れることが出来るのか。

 同情だろうか。

 相手がいる小春へ、恋慕を向けた久紫に対する。

 だが、問う資格はない。

 問いかけの原因を作ったのは久紫なのだから。

 小春の方にこそ、何故と問える資格がある。

 たとえ、相手がいるにも拘らず、別の男と接吻を交わしたとしても。

 すると気付いたのか、小春の顔が真っ赤に染まり、自分の頬へ手を当てる。

 彼女も信じられない様子で、重ねた跡をなぞった。

 情事と表すには拙いモノであったが、軌跡を追う仕草は艶めき色を見せ。

 振り払うように久紫は言った。

「スマない……忘れてクレ」

「…………はあ」

 きょとんとした顔が頷く小春に浮かぶ。

 それでも問い返さないのは、あくまで世話役に徹する無意識からか。

 乗じ、空の湯呑みを差し出せば、

「……はい、只今……」

 小春はこれを受け取り、ふらりと離れた。

 小柄な背を目で追いつつ、浮かぶ思惑。

 都合の良い……期待を、しても良いのだろうか。

 差し出された茶を受け取り。

「幸乃の娘……」

 拒絶を望んでいたのに受け入れられて、浅ましさから彼女を呼ぶ。

 座る身が、そこにはあって。

 巡り続ける思考。

 熱が交われば、勢いしか残されず。

「ソの…………小春、と呼んデモ良いだろうカ?」

 ――後悔した。

 彼女が自分の名を唇と共になぞるから、混乱に乗じ、とんでもない訴えを起してしまった気がして。

 言い訳が、口をついた。

「イヤ……その……皆が名で呼ぶノニ、俺だけ違うというのが……ナンというか……」

 濁すよう、語尾が小さくなれば、小春がコクリ、頷く。

 ――信じられなかった。

 信じられないほどの嬉しさが込み上げてきた。

 卑屈な口付けが許され、名を呼ぶことを許され。

 だから久紫は気付かない。

 小春が不自然な行動を起していることに。

「……小春」

 初めて口にした時と同じ感覚で、彼女の名を、彼女を想い、呼んだなら――――

 

 風が……凍てつくほど冷たい風が、火照った久紫の頬を弄った。

 

 向けた視線の先、いつの間にか窓を開け放った小春は、知らない女の顔をしていた。

 怖れるように、己が身を抱き締めて。

 雪がちらほらと侵入し、着物へ纏わることさえ構わず。

「小春……?」

 呼べば、こちらを見る瞳。

 久紫を見つめているにも関わらず、初めて見る人間と接するような、酷い怯えが感じ取れた。

 一歩、小春が退く。

 その姿があまりに儚く映り、久紫はいぶかしんで立ち上がり。

 振られる、彼女の首。

 短い髪がさらさらと流れ。

「……小春?」

 もう一度、大切なその名を呼んで――

 なのに。

 

「っ――いや!」

「小春!?」

 

 近づこうとすれば、拒絶が示された。

 そして一度も久紫を顧みず、小春は――幸乃の娘は出て行ってしまう。

 残された久紫は追いかけもせず、茫然と、立ち竦み。

 刺す寒さを感じては窓を閉めて、開けられたままの戸を閉めて。

 居間に腰掛けて。

 考える暇も要せず、彼女の行動から為される、結論。

 

 やはり、許されはしなかった。

 

「は…………当たり前、ダ。小春は……あの娘は……イヤ俺とて……望みは、しない。不義ナゾ――――」

 あくまで久紫の望みは拒絶。

 不義を働こうとした悪意が、真実、望んでいたのは……。

 それなのに、受け入れられて勘違いしていしまった。

 彼女は、雰囲気に呑まれてしまっただけだ。

 想いは、別にあるのだから。

「……単純……だな、俺は。……期待、なんゾ…………するものデハないト……分かって、いたハズ……なのに」

 揺れる喉。

 漏れるは、嗚咽ならぬ嘲り。

 壊れたように肩を震わせて、己を嘲笑う。

 

 

 

 良いではないか。

 望んだ通り。

 拒絶は、された。

 それにきっと。

 きっとあの娘はもう来ない。

 辞めたも同然。

 顔を見て、不幸を願う心配もない。

 だから。

 だから――

 幸福を。

 願いが叶ったのだから。

 彼女から遠ざかったこの位置で。

 彼女の幸福を――――

 

 祈れるのか、俺に?

 拒絶された、私に……

 

 


UP 2008/11/15 かなぶん

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