久紫side 二十二

 

 …………ええと……それは……?

 やっぱりかと思いながら、照れくさくて鼻の頭を掻く。

 熱に浮かされた彼女へ語った過去の合間。

 しつこく迫った女を払うため、喜久衛門が用いた方便は、その後、彼と雪乃の運命を死へと導いてしまったが。

 ――生きた女に興味はない。

 伸介の妹を払うため、利用した言葉は彼女も聞いていて。

 しつこい女を払うための虚言と説明しては、俯いた顔が朱に染まる。

 

 もっと早く、伝えていれば良かったのだろうか。

 そうすれば、喪失は少なく済んだかもしれない。

 否、結局喪失を迎えようと、受け入れる覚悟ぐらいは出来たはずだ。

 

 時間が、欲しい。

 切に願う。

 叶わないと、知っているから。

 

「……本当に、宜しいのですか?」

 艶やかな着物姿の娘に問われ、力なく久紫は頷く。

 

 

 家が燃え、依り所の無くなった久紫を温かく迎えたのは、春野宮の分家、さつきの家であった。

 結納を払った夜半の火事、明けての救い。

 推測はする必要もなく、あの火事が春野宮の手に寄るものと断定出来た――それでも。

 人形も、家も、目の前で焼け落ちて、それをただ眺めるしかなかった久紫に、込み上げる思いはなかった。

 随分と、色んなモノを、あの家には置いていたらしい。

 それは形あるモノだったり、香りであったり、景色であったり、音であったり、記憶であったり――――

 心、でもあり。

 たかだか二年近く。

 しかし、歩んだ時間は確かにあって。

 でも、今は何もない。

 在るのは焼け跡、明朝から降りしきる雨により、鎮火された残骸たち。

 す……と音がした。

 のろのろ顔を上げたなら、艶やかな着物が襖の奥へ隠れゆく。

 誰だろう……考え、ああ、伸介の妹かと思い当たる。

 妹――遠からぬ未来、久紫の妻(いも)になる娘。

 或いは、さつきの婿となる久紫。

 濡れ羽色の髪が掛かる先。

 天井は高く、見渡す場所も寒々と広い室内。

 一角、敷きつめられた、結納と思しき品は絢爛豪華を極めていた。

 回らない頭で気付く、結納の意。

 久紫から渡せる物なぞ預けてある金ぐらい――

 かといって、あの家で稼いだ金を渡したくはなかった。

 だから、これらの品は貰えない――

 貰いたくもない。

 けれど昨日は醜態を晒した男、取り戻した笑顔で首を振る。

 御身があれば充分だと。

 つまり、久紫自身が結納であると同意。

 その意を裏付けるように、訪れたさつきの両親は言う。

 我が娘は、長らく貴方様をお慕いしておりました――と。

 早い話が可愛い娘へ、物を一つ、与えるくらいの気持ちなのだろう。

 続くのは、さぞや幸福な家庭を築くことでしょう、という言葉。

 彼らが考えるのはあくまで娘の幸福――否、先程のさつきの表情から察するに、考えるは己らの幸福だけやも知れず。

 憤りに鳴る喉すらなかった。

 着物へ視線を落とせば、知らぬ浅葱の色彩。

 ずっと、分家から使いが来るまで、焼けた家を見つめ続けていた久紫の服は、煤と泥と雨とに汚れていた。

 招かれて、湯浴みと着替えを勧められ、藍染の作務衣、その処分を知っては留めた。

 怪訝な顔をされたなら、人形造りを理由に洗って貰い――

 もしかするとそれは、ささやかな抵抗だったのかもしれない。

 あの家から無事に持ち寄れたモノは、抜け殻のような己が身、片眼鏡、作務衣だけであったから。

 もう、何ひとつ失いたくないと……お前たちから奪われたくないのだと。

 

 

 

 それから幾日過ぎたのかも分からず。

 周りの慌ただしさだけが遠く聞こえる。

 数度、さつきが訪れ、折に尋ねたのは伸介のこと。

 謹慎されていると答えが返る。

 理由は瑞穂の件かと思いきや、久紫の家へ火付けした疑いによって――

 馬鹿げている。

 瑞穂との円滑な婚姻にこぎつけられなかった腹いせで、妹と婚姻を交わす久紫の家に火を付ける、なぞ。

 誰が納得するものか――――いや。

 幽藍の人間は納得するだろう、この噂を。

 正確には、疑わしくとも納得せざるを得ない。

 出所が、幽藍を所有する本家筋に近い、春野宮であるならば。

 黒は白く、白は黒く、変え染め上げられる権力があるなら――。

 ぞくり、粟立つ思いが久紫を巡る。

 そういう、コト、なのだろうか?

 さつきとの婚姻を投げ出さぬよう、自由に出来る権力をちらつかせて。

 権力を得たなら、伸介の解放を。

 いや違う、彼らの婚姻を為そうとして。

 宿る命が殺されるその前に。

 急かす、動き。

 実際、伸介らの件も、手筈の一つに過ぎないのかもしれない。

 本当は。

 さつきと婚姻を結ばせるその本心は――

 

「やあ、ご機嫌麗しゅう、宮内殿」

 

「……お……前は…………」

 いつの間に入って来たのか、その男は変わらない柔和な笑みを浮かべて、久紫の前へ座した。

 両手をついて、頭を下げ。

「此度のご婚約をお聞きしまして、祝意を表すべく、馳せ参じた次第にございます。ふふ、おめでとうございます」

 耳慣れする優しい声音で、薄っぺらい祝いを吐く。

 上げた顔は、笑みのまま。

「いえ、安心致しましたよ? なにせ宮内殿は小春が世話役を務めさせて頂いた方。私としても、不安の種はなくしておきたかったものですから」

 ぬけぬけと、言う。

 しばらく忘れていた憤怒が手に宿るのを感じる久紫。

 察せないのか、春野宮の本家の男は、心底楽しそうに笑って。

「しかし――これなら別段、諦めさせる必要もないかな? 想いを残して嫁ぐ小春、なんて、想像だけでもとても素敵――くっ」

「どういう意味ダ!?」

 胸倉を掴んで一気に持ち上げる。

 苦悶の声を上げながら、楽しそうに笑う顔は崩れず。

「どういう……とは、ね。つ……まり、小春は、貴方を、好いている、のですよ」

「ナ…………」

 見開かれる眼。

 認めた男は愉しげに笑みを深めて、久紫の手を無造作に払った。

 弱い一打を受け、容易く座り込む久紫。

 解放を得た男は激しく咳き込み、目に涙を浮かべては嗤い続け。

「ねえ? 素敵でしょう? それなのに、私に嫁がなくてはならない。あの、小春が。ゾクゾク、しません?」

 唇へ開いた指先を這わせては、なぞり、微笑み。

「ふふふふふ……どこまで持つかな、アレは。私に壊されるのが先か、姉のように、慕う男を想い壊れるのが先か」

「何を…………」

「ねえ、賭けませんか? どちらが先か。私に壊されたら私の勝ち。想いに壊されたら貴方の勝ち。そうですね、賞品は壊れた彼女がイイでしょうね」

「! お前っ」

 人差し指を口元へ当て、良い案を思いついたと嗤う様。

 瞬間で返される憤りのまま、殴りかかろうとして――

 

「どうですか、異人さん?」

 

 傾げた首、届く直前、止まる拳。

 やんわり、男は拳を下へ導いた。

「……駄目、ですねぇ? 賭けにはならないかも知れません。小春の想いとて、私の思い過ごしかもしれませんし。だって、ねえ?」

 くすくす、嘲笑う。

 仕草は女のように艶やかに。

 するり、伸びた指は久紫の胸へ翳され。

「恋い慕う殿方を、異人さん、など無粋な言葉で表す……在り得ない話、でしょう?」

 とんっと軽く押される身体。

 よろけ、続け様にもう一つ。

「それに私たちは……ねえ、貴方も見たでしょう? 小春もきっと、望んでいるのですよ。私の本性を知りながら――壊される、ことを」

 無様によろけて、尻餅をつくように倒れる久紫。

 ほぼ同時に、襖が開かれた。

「っ! 久紫様!? 志摩様、何を――」

 悲痛な叫びはさつきから。

 駆け寄っては久紫を庇うよう立ち塞がり。

 だが、男が見つめるのは久紫のみ。

 さつきのことなぞ、最初から眼中にはなく。

「私がここへ来たのは、貴方を怖れてのことでした。色々と、ね。情報を耳にする機会もありましたし。……貴方は断ち切ったつもりでも、血というものは因習を好むものですから。――――殿」

 久しく遠退いた言語。

 耳にしたくない言葉。

 その姓。

 追ってきた名。

 驚いて、見つめた先に微笑はなく、冷ややかな光がある。

 酷く空虚な、これこそがこの男の本質とでもいうべき――――

 

 

 

 

「っ…………く、はぁ……ユ、め?」

 目が覚めて、寄せた眉が解かれた。

 しん……と静まり返った夜の空気。

 だだっ広い屋敷中、片隅に手付かずの品が積まれて影を作る。

 荒い、呼吸。

 なんて悪夢……

「ぅぐっ…………」

 脳裏に散らばる残滓が思い返されて、苦いものが込み上げてくる。

 吐き出せば少しは楽になるだろうが、吐き出してこれ以上の弱みを見せたくなかった。

 だから片手で口を押さえ、堪える様にもう片方で布団を握り締め、不快を嚥下する。

「ん……グ…………く……ふっ」

 目を閉じれば頬を伝う雫。

 零れ落ちても拭えず、やがて項垂れては息が吐かれる。

 荒く、白い、呼気。

「はぁ、はぁハァ…………っふ、ざけ、ヤがって」

 拳を振り上げ下ろしても、感触は布団の柔らかさ。

 本当に殴りたい相手は、彼女がいる本島へ、取り戻した人好きのする笑みを浮かべて帰っていった。

 それでも数度、布団を殴りつける久紫。

 罵倒はこの島国の言葉に限らず、他の言語を用いて男を呪う。

 今まであった全てを男のせいとして。

「祈りすら……許さナイ、と?」

 ふいに訪れる静けさ。

 耳に馴染む男の声が、弱々しくも柔らかな声に入れ替わる。

「幸福を……願ってモ…………異人の俺ではダメだと……アノような男でもイイと……」

 異人さん――遠く呼ぶ、彼女の声がこだまする。

 

 鮮明に甦るは、先の夢。

 

 気付いた時には遅く、手を伸ばしても届かず。

 赴く、誰もいない、屋敷。

 予感だけがざわめき蠢き。

 戸も襖も無限と評せるほど開け放ち。

 辿り着けば、転がる、その姿は――――

 

 無残に、壊れ果て……

 

 幾度、夢の中で呼んだか知れぬ。

 けれど返される言葉はなく。

 攫う手があればそれを取った彼女の。

 初めて交わした視線は、哀しげな微笑。

 ――さようなら。

 言葉のない、別れ。

 

 気付かされたのは、それでも諦めきれない己の浅ましい想い。

 まだ、燻っているのかと、募る苛立ちが鬱陶しい。

「くっ」

 袖口で目元を力一杯拭う。

 そうして顔を上げた景色、その蒼白さを知った。

 おもむろに立ち上がり、揺れる心のまま、廊下へ続く障子を開ける。

 畳とは違う、廊下のひやりとした硬質が足の裏を辿る。

 すっと熱が冷める感覚に、廊下の、庭へ続く板戸も開けた。

 細い光が漏れていた、少しばかり開いたその先には。

 しんしんと。

 降りる、雪。

 なのに、雲の切れ間から覗く月は、綺麗な円を描き。

 吸い込む冷気が肺を刺し、久紫の口から堪えきれぬ咳が一つ、月光を白く濁らせ――

 

 まるで静謐な世界を侵した錯覚に陥り、ここは自分がいて良い場所ではないと、光を閉ざす。

 

 


UP 2008/12/1 かなぶん

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