久紫side 二十三

 

「久紫様!」

 早朝、上気した頬でやってきた娘は、嫁入り前の身も忘れて、眠る男の身体へ圧し掛かる。

「ぅげ……」

 潰された蛙の声が出て、ぼんやりした眼を開いては、現状把握に数秒。

 結局導き出されたのは困惑で、けれど娘は構わず言った。

「久紫様! こうなったら最後の手段ですわっ!」

 袖を捲くって、白い柔肌を晒し。

「折ってくださいまし!」

「…………………………は…………」

 あー……夢か。

 どうせ見るなら、違う夢が良かった。

 全くもって、色気のない――――

「お待ちください! 現実逃避しないで、さあ、早く!!」

 まだ寒いし、眠いし……と寝に戻る久紫を留めるさつきは、圧し掛かった身体を弾ませる。

 コレが艶かしい動きだったなら、久紫とて跳ね除けるなりなんなりするのだが、いかんせん激し過ぎた。

 げぇげぇ鳴いた後で、凄絶に咳き込み、否応なく起されてしまう。

 叩き起こされた方が、どれだけマシか。

 涙まで浮かべて、元凶の娘を睨んでみたが、枕元に座るさつきが怯む気配はない。

 それどころか、懲りもせず腕を突き出され、久紫の方が怯んでしまった。

「意味が……分からんのダガ…………」

「だって久紫様、喧嘩慣れされているのでしょう? でしたら、上手く骨を折れますわよね?」

 きょとんとした顔つきで問われ、答えになってないと頭痛を憶える久紫。

 遠くない将来、この娘が伴侶になると思えば尚更痛みは増し、降りては性懲りもなく、胸を締めつける。

 甦るのは「待て」と言う声。

 何故今更――――

 思えば、さつきが言った。

「本日、本家の方々がいらっしゃるのです。これはまたとない機会。巧くゆけば私たちどころか、伸兄様たちも救われ」

「シン……にー、サマ?」

「ぁ」

 瞬間、顔面を真っ赤に染め上げたさつき、誤魔化すような咳をしては、仕切り直しとばかりに、またも腕を差し出し。

「ですから、折ってください。わたくし、覚悟を決めましたの」

 脈絡もない発想を回らない頭で考え、現れた答えを述べる。

「……ソレは……婚姻を破棄すると?」

「……勿論、ですわ…………ここだけのお話にしておいてくださいね? 実は」

 慕う者がいる……

 さつきは照れ隠しのような微笑を浮べて言った。

 だから久紫との婚姻は破棄しなければならない、破棄するにはさつきの両親を納得させる理由がなければならない――と。

 腕を折れ。

 そう、言われて。

 短絡的且つ暴力的ながら、覚悟が――拒絶があって。

「…………」

「久紫様?」

 諦めたところで、どれもが自分を望まないと知って。

 

 昏く歪む心がある。

 

 道連れが、欲しいと思った。

 目覚めて間もない、光を上手く受け入れられない視界の先に。

 白い腕を差し出す娘が一人。

 これが夢なら飛び切りの悪夢。

 浮かんだ選択を思い、評し。

「出来ない……」

「はい?」

 不思議そうに小首を傾げるから、俯いた口が歪んでゆく。

「イイじゃないか……別に。慕う者がいたトテ。婚姻したところで、どうせ」

「……久紫様、寝惚けておいでですか?」

 覗き込まれた目は黒く、冷ややか。

 綺麗だと、久紫はさつきを前にして初めて思う。

 元より綺麗な顔立ちではあったが、強い意思を秘めた瞳は、輝かしい未来を射る視線は、力に溢れていて。

 久紫と同じ位置まで引きずり下ろしたいと思った。

 相手に添えず、代わりにすらならない者を側へ置く、そういう位置へ――

 けれど、迷いのない者を迷わせる方法なぞ、最初からない。

 不穏を察したのだろう、さつきは大仰な溜息を零し、立ち上がっては言う。

 吐き捨てるように。

 馬鹿にしたように。

「その程度、でしたの? 久紫様の御覚悟とやらは。これなら――」

 

 志摩様の方が小春さんには相応しい。

 

 

 

 ぼぉーっとした頭で、鉛色の海を見つめる。

 降る雪はちらほらとした粉の様相。

 腰掛ける流木下の砂へ落ちては容易く溶け、残らず。

ぱし。

 軽く叩かれた頭が弾む。

 振り返ればそこに、久方ぶりに見た、初めて見る複雑な表情を浮かべた伸介がいた。

「よお……やって、くれたな?」

 掠れた声音は、激情を抑えているようだった。

 久紫は何も言わず、ただ、海へ視線を戻す。

 溜息が、死角から落ちた。

「けしかけたのは確かにさつきだが……本当に、やっちまうとはな」

「…………」

 応えはせず、久紫は己の両手を見つめた。

 生々しく伝わった振動の残滓に震え、消し去るように手を握り締めた。

 

 良家の娘は喘ぎを一度だけ上げ、歯を食いしばり、脂汗を流しては、朱色の唇を笑みに象る。

 ――これでしばらく、貴方は自由。

 我に返れば自分の手が恐ろしく、押し殺す悲鳴を聞いたなら、さつきの両親が呼ばれ。

 詰り、殴られたのを皮切りに。

 ぷつん……と。

 何かが事切れた。

 決壊した激情は単純な暴力に移行せず、蹲る娘の心配を後回しとした両親を冷徹な目で追い込む。

 娘を思い、激怒に駆られる絹江のような姿があったなら、煽られたとて実行してしまった久紫はその怒りを甘んじて受ける。

 だが、さつきという自分たちの娘を傷つけられて浮かんだその光は、あまりに歪んでいた。

 これを盾として、目の前の人形師を思いのままに出来ると――。

 「出て行け」と命令口調で懇願するまで続けていた無言の圧は、居場所のない久紫を海岸へと誘う。

 

「……だがまあ…………あのバカ親どもにはイイ薬になったかもな。俺も便乗した節があるし、お前のことをとやかく言えねぇけど」

 久紫が去って後、屋敷で一悶着があったらしい。

 治めたのはこの伸介。

 妹の婚姻には出席しろと一時的に謹慎を解かれた身で、どさくさに紛れ、瑞穂との婚姻をもぎ取ったという。

 それでも、さつきは彼の妹で。

「ス――」

「謝るな」

 ぽかり、殴られた。

 今度は強めに。

 もう一度、伸介を振り返る久紫。

 予想に反し、その顔は笑っていた。

 皮肉に。

「忘れたかったんじゃないのか? 小春の事」

「…………」

 無言を返して逸らそうとした目は、小馬鹿にする肩を竦める動作で止まった。

「違うな。悔しかっただけか。だって取られちまったんだもんな? 突然、前触れもなく、いきなり。大切な大切な――」

 

 お人形さんが。

 

 呼応し浮かぶ、悪夢。

 壊れてしまった、彼女。

「っ! 違う!」

 伸介の胸倉を掴み上げ、冷淡な目に怯みながら噛み付く。

「小春は物ではナイ! それに俺は――――っ」

 口走り掛けた言葉に驚いて飲み込む。

 胸倉へ向けた両手の力が抜けていくのも気付かずに。

 何を――言おうとした?

 けれど考える暇を与えず、伸介は久紫の両手を払う。

「悪ぃ。分かってるさ。だが、さつきもな……物じゃないんだよ」

 静かな声音と相反する激しさで、久紫の腹に拳が捩じり込む。

「かっ!?」

 折れ曲がったなら、勢いのまま、組んだ両手が背を打ち、倒れるのを許さないと膝が下から突き上がる。

 流れ作業のように、起きた上半身へ、足裏を叩きつけられ。

 痛みに喘ぎ、激しく咳をし、砂へ沈もうとする髪が掴まれた。

 両膝をつく眼前、久紫の顔より高い位置でしゃがむ伸介は、悲しそうな顔をしていた。

「俺、さ? 別にどっちでも良かったんだよ。お前が小春に付こうがさつきに付こうが。でもお前、どっちも選ばなかっただろう?」

「そ……んな、コト……は」

「あるんだよ。お前は小春を選んだつもりみたいだけどよ? ならどうして、さつきとの婚姻を反故しなかった? 本当はどうでも良かったんだろう? 小春じゃなくても」

「っち――」

「違わねぇんだよ」

 小突くように髪が放された。

 よろけて砂へ座れば、久紫が座っていた流木に伸介が腰を下ろす。

 

 ただ、それだけの動作――それなのに。

 

 見開かれた久紫の目に気付かない伸介は、へっと笑った。

「悪かったな。結構効いたろ、俺の拳。さつきに頼まれてさ。骨折り損のくたびれ儲けになっても癪だから、変わりに殴って来いってよ。勝手だが……まあ、可愛い妹の頼み、たまにゃ聞いてやらなきゃよ」

 照れ隠しのように頭を掻き。

「さつきもな、真剣に悩んでたんだよ。お前を諦めた、って言ってたけど、ヲトメ心は複雑みたいでな。餌、チラつかされちゃ、飛びつこうかどうか、迷うってもんだろ」

「…………エサ、か。俺は」

 俯く久紫。

 薄く笑うそれへ、伸介はにゃははと笑う。

「気にすんなって。いや、おあいこだろう? お前だって、さつき利用して、色々終わらせようとしてたみたいだし」

「…………そう、ダナ」

 自嘲が黒い前髪の下を象る。

 満足そうに頷いた伸介は言う。

「……実はさつきに頼まれた分以外にも入ってんの、あれ。俺の唯一の肉親、傷つけたお前が、どうしても許せなくてなぁ」

 清々しいまでの笑顔で、頬を弄る海風へ目を細めた伸介。

 それを眺めた久紫はふいに立ち上がり。

「だから――――久紫?」

 呼ばれても構わず、背を向けて歩く。

「うげ、やっぱり拙かった? 怒ったか、おい?」

 これへは、手をひらひら振って答え。

 いぶかしむ声は届いても前を行き、追う気配がないのを知っては、少しだけ見返る。

 海を眺め、流木へ腰掛ける姿があった。

 先程まで、そこにいたのは久紫で。

 

 ――今はもう、いない。

 

 

 家も焼けて。

 訪れた幸乃の家に人の気配は感じず。

 どこにも、居場所がなかった。

 だから、出て行こうと思った。

 役所へ向かう。

 幽藍を実質支配する分家の令嬢を傷つけ、その当主を恐怖させたのだから、当然、出て行けるものだとばかり思って。

 役所を出て、吐いた息は白く。

「……ダメ、か」

 島を支配するのは分家でも、管理しているのは本家。

 心情はどうあれ、本家の意向には従わざるを得ないらしい。

 幸い、というか、金に関して、しばらく人形造りをしていない久紫でも、困ることはなかった。

 稼いだ金の保管場所は春野宮の本家で、役所へ申請すれば、幾らでも預金を引き出せたから……

 思い出す、彼女を人形と言われ、反論し、言いかけたその言葉。

 

「本当は……忘れたく、なかっタ」

 

 口にすれば、喉が震えた。

 酷く、笑えた。

 未だ想いが縋っていたのだと知った。

 何故?

 待て……と言われたからだろうか?

 飼い主に忠実な犬のように、待っているのか、彼女を、未だに――未練がましく。

 なら、忘れてしまえ。

 他からモノとして扱われようと、久紫は人で、人は器用に忘れる術を持っているから。

 思い立ち、今しがた引き出した金の重みを確かめる。

「ドレくらい……遊べるカ」

 空を向き、目を閉じ、浮かぶのは喜久衛門の姿。

 雪乃を失い、人形を捨て、花街へ走り、病んで死んだ――。

 良いかもしれない、それも。

 どうせなら最期まで、あの人の跡を追おう。

 

 俺に残されたモノなぞ、もう何も、ないのだから。

 

 


UP 2008/12/7 かなぶん

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