久紫side 二十四

 

 気だるい動きで壁へ背を預け、差し出された吸い口を咥えた。

 燻る紫煙は狭い室内を漂い、換気も為されずどんよりした重さを持つ。

 するり、煙管を離されては近づく紅。

 行き着く先は、目指したはずの唇ではなく、背けた頬。

 舐め取り、女が拗ねた顔でしなだれかかった。

「ねえ……やっぱりダメなの? イイじゃない?」

 しなやかな指が煙管を再び咥えた唇へ赴き、触れる直前、胸ごと身体を押し退ける。

「やんっ」

 甘い非難が起これば、襖が外れる勢いで開けられた。

「おいっ、久紫!」

「あら、春野宮様ん」

 くすくす倒れて笑う女は、押し入ってきた伸介の足へと絡み、ざく切り頭の眉間に皺が寄った。

 おもむろに、女へ手を伸ばす伸介。

 愉しそうな誘う目の女も、抱き上げてと言わんばかりに手を伸べて。

むにっ。

 両頬を抓む。

「ふぁっ!?」

 ありったけの色香を籠めたのに、なびかないどころか、自慢の顔を崩され、女の顔が見る見る赤くなった。

 対する伸介はといえば、手を外すなり指を見て。

「げげっ、厚化粧じゃねぇか」

「し、失礼な!」

 憤慨しつつもそそくさと去っていく女。

 残されたのは、ぷわり、煙を浮べる久紫と、途方に暮れた伸介の二人だけ。

 

 

「もうっ、いやっ、不潔だわ、久紫ちゃん! アタシ、実家に帰らせて貰いますっ!」

「…………」

「いーやー、無視しないでんっ! 俺ばっかり可哀相じゃねぇか!!」

 同情してよ、よよよよよー……

 まるでちんどん屋のような騒がしさで、久紫に付き纏う伸介。

 煙管を咥えたまま、花街を形成する店の一つから出てきた久紫は、強風に煽られた動きで、次の店へ入ろうとし。

「ちょ、ちょい待ち、久紫!」

 袖を引っ張られてはよろけ様、向かいの店へ。

「あらん、またいらしたのね、人形師様。はい、ご案なぁ……って、何してらっしゃるの、既婚者様」

「何って、見りゃ分かるだろ? 可愛いダチを救おうと必死なんだよ!」

 当然のように久紫の頭を抱く客引きの女と、袖を引いては止めさせようとする伸介。

 単純な力の差だけを鑑みれば、伸介の圧勝だろうが、入るつもりの体重が邪魔をして上手くいかない。

「がー、久紫! どうしたんだよ、お前! 遊びが過ぎるぞ! 死にたいのか!?」

「…………」

 答える代わりに柔らかく笑む。

 ぎょっとした伸介の手が一瞬緩んだのを見逃さず、女がぐぐいっと久紫の身体を店へ引っ張り込んだ。

 ご丁寧に蹴りまでつけて奥へ寄せた女、戸を閉めては振り返り、追いかけようとする伸介へ、揉み手を頬へ寄せつつ笑いかけ。

「毎度ご利用、ありがとうございまぁす。で、お客様? 今日はどういった御用でしょう? 当店へ用がないのでしたら、他のお客様のご迷惑となりますので、お帰り願いたく――」

 

 

 火皿の灰を落とせば、煙は消え。

 新たに酒をちびりちびり口へ運ぶ。

 撒く風の新鮮さに目を細め、開いた障子奥の顔を見た。

「……余程、暇、なのカ?」

 答えはひくり、眉を上がらせ。

「……しばらくぶりに声が聞けたと思いきや…………随分な言い様じゃねぇか」

「ホオ」

「ほお?」

 折角指摘してやったというのに、聞き違えた伸介の眉は一段と跳ね上がり。

 苦笑した久紫は、親切にも己の頬を指差してやった。

「ミズホに殺されるゾ?」

「っ! い、いつの間に?」

 ひやかし紛いの客は容赦なく追っ払う店だ。

 内容に興味なく入るには難しく、勲章といって良い紅の跡を拭った伸介へ、喝采の変わりに肩を揺らして笑う。

「ご苦労なコトだ。見限れば易いモノを」

「……るせぇ。んなことして、お前が死んでみろ。非難されるのは俺だぜ?」

「それはソレハ……悪いことをシタナ。今の内に謝ってオコウ」

 絶句する伸介を淀んだ視界に入れつつ、酒を煽れば盃が奪われた。

「いい加減に――」

 激昂間近の伸介から取り戻す気もなく、盃は諦めて銚子から飲み干し。

 ふわり、浮かんだ記憶は見るともなしに見た、太夫の姿。

 無作法に息を呑む音が聞こえ、ちらり、視線を移せばそこには彼女が――

「イカンな」

「ああ、全くだ! 早くこんな店――」

「もう一本、つけてクレ」

「おいっ!」

 ひたすら非難を続ける伸介へ、久紫はただただ苦笑する。

 

 

 

 あれから毎日、酒を呑む。

 あれから毎日、煙を呑む。

 女へは手をつけず。

 つけようとすれば邪魔が入る。

 不穏を察し纏わり付く伸介、女を贔屓とする男、何より――――己自身の。

 口にするモノは僅かな食事と酒、煙管。

 人肌の温もりは忘れて久しい。

 ――否。

 忘れ、られない。

 

 

 

 記憶を飛ばせず意識が飛び、目覚めたのは半ば常連となった宿。

 崩れ落ちるよう寝入ったらしく、伸ばした手の先に白い盃。

 もう片方の手へ、ゆっくり視線を向けたなら、握り締めた銚子。

 まどろみに片足をつっ込んだまま、身を起こさず横にし、ふらふら銚子の中身を探る。

 少し、残っていた。

 盃を放る。

 かたん……と小さく倒れる音を聞きながら、うつ伏せになり、口付けるよう掲げた銚子の縁を迎え。

 とぷり、温く喉を伝う液体。

 零れた一つは端を伝い、顎を伝い、喉を伝う。

 仰け反らせて干し、まだ残ってはいまいかと、舌先を用いて陶器の肌を弄る。

「終わり……カ」

 そのまま突っ伏し、右袖で口を拭い、ふんわり笑んでは、まだ起きたままの左手を見た。

 銚子を頼りなく持つ手。

 包帯は取れても、赤い痣となった裂傷。

「…………」

 淀んだ黒と灰の世界で、白い銚子が落ちた。

 宙を舞うように、返される手の平。

 いつだったか、これを女のようだと評した者がいた。

 あまりに笑える話だったから、面白がって触れさせたところ、酷く残念そうに言う。

 硬い、と。

 当たり前だと思い出し、笑い。

 伏せ揺れる頭へ左手を乗せ、一人ごつ。

「名残だ、コレは」

 綺麗に見えるのは、それが習慣づいたせい。

 満遍なく荒れてしまったため、保護するべく、久紫の身体が勝手に作り上げた鎧。

 なのに、刻んだ裂傷は深く、赤い痣を示し。

 頭上の手をゆるりと下ろし。

 口元へ指を掠める。

 触れようとしても触れられず、吐息だけが爪先を湿らせて。

 おもむろに、痣をなぞる舌。

 ちりりと痛む幻想。

 眉を顰めて痛みを逃し、幾度も舐めて。

 ふいに終わりを告げ、返しては手の甲へ、己の額を押し付けた。

 擦り付けて――――笑う。

 閉じた瞼に浮かぶ、彼女の姿。

 瑕をつけたいと望んだ己。

 いっそのこと、あんな子供騙しではなく、本当に瑕をつければ良かったと後悔する。

 そうすれば、受け入れられず、はっきりと拒まれただろうに。

 あれが勝負で、敗因があるとするなら、まさにソレ。

 伸介は、どうでも良かったのだろう、と挑発したが。

 結局、根っこの部分で、嫌われたくなかった。

「ハ……」

 短い笑いが鼻をつく。

 どれだけ思い巡らせたところで、解決なぞ、何ひとつ見当たらないのに。

 忘れた方が楽なのに。

 忘れられる、はずなのに。

 酒を呑んでも煙を巻いても、戯れで触れても、酔わず溺れず。

 顎を擦り、生える髭の感触を確かめれば、虚しくなった。

 これだけ無精な生活をしているにも関わらず、元より薄くとも滑らかな触り心地は、偏に怖れて。

 彼女に――たとえ隣に誰があろうとも、認めて欲しいから。

 たかが髭の一つで、自分を認識されない想像は怖かった。

 髪も同様。

 揃えることはあっても、伸ばさず切り落とさず。

 愚かだと、思う。

 気を配ったところで、認められたところで、報われるモノなぞない。

 自己満足というには人に依り過ぎて、頼りなく。

「……小春…………」

 名を呼べば、未だ震える心が在り。

 呼び続けたいのに、近くに彼女の姿はなく、あったところで資格もなし。

 何せ彼女の隣は埋まっており、何より自分はどこまでいっても異人――余所者。

 仕舞いには、女の腕まで折った無法者。

「っふ……く、ククククク…………」

 儚い願望すら抱けず、眠った後。

 見た夢は、ただの闇。

 

 

 些細なことで喧嘩の日々。

 井蛙之見持つ、いきがるだけの小悪党相手、負けはないがゆえに怖れられる。

 未だ手に残る折れた響きを失くすべく、代わりを求めて容赦なしに叩き潰すから。

 新たな名残さえ、蓄積されるだけだというのに。

 繰り返す悪循環の末、一通り馴染みとなっていた店から出入りを断られては、致し方なし。

 酒と場所を求めて向かったのは、喜久衛門が贔屓にしていたあの店。

 彼女が案内し、だからこそ、今まで足を踏み入れなかった――。

 

「武勇伝、聞いておりますよ」

 茶化すように太夫が言えば。

「やっぱりなぁ。あらかた片付いちまったもんな、柄の悪い連中」

 またも勝手に同行した伸介が頷いた。

 話題の主たる久紫は語りに加わらず、酒を呑み続け。

 諦めたのか、それとも別の意図からか、この店に来てから伸介は久紫が酒を呑むのを止めない。

 変わりに、絶え間なく盃を満たし続ける太夫との会話を続ける。

「そういや……あれから一ヶ月、だよなぁ…………」

 意味深な沈黙は久紫を一瞥するが、酒を呑む手は休まず。

 ざく切り頭から溜息が零れ、太夫がころころ笑う。

「いけませんわ、伸介様。そんな露骨な態度では」

「うーん、俺も分かってはいるんだけどねぇ。もうちっと、こう、イイ感じに色々引き出したい訳よん」

 言ってそろそろ伸ばされる手。

 ぺしんっと弾いた太夫は、「客だぞ、俺は」という非難へ微笑む。

「客は客でもお代、払うつもりないでしょう?」

「そりゃあ勿論、迷惑料として」

「いけません。弱り目に祟り目、なんて。……喜久衛門様が化けて出ますよ」

「げぇ……そりゃ勘弁」

 降参と両手を上げる伸介。

 それまで様子を見つめるだけであった久紫は、ぽつり、言う。

「化けて……出て、頂けるモノか」

 小さな小さな独り言。

 けれど拾った太夫は遠くを見る目で優しく笑む。

「ええ。きっと。……貴方のところでしたら。負い目がある私よりずっと、可能性は高いと思いますよ」

「負い目……」

 不思議そうな顔で見たなら、太夫がにっこり笑った。

「はい。それに、今更ノコノコ出て来られても、私が困りますし。ああ、でも、もしいらっしゃったなら――」

 そっとしなやかな動きで両手を合わせ、頬へ寄せては柔らかく言う。

「私の手で直々に、地獄へ送って差し上げたいとは思います」

「…………何したんだ、喜久衛門の爺さん」

 さらりと吐かれた言葉の真に慄く伸介は、伺うようにこちらを見る。

 たぶん、喜久衛門の地獄行きを願う太夫へ、殴りかからないかと心配して。

 杞憂、だ。

 久紫は太夫へ同意の笑みを返す。

 注がれる酒。

 受け取り、飲み干し。

「サテ」

 傾いだ身体は己で支えて立ち上がり、添えられる位置の手はやんわり断る。

 出遅れた伸介も立とうとするところへ、ちょいっと手を添え転がした。

 恨みがましい視線を向けられては、「この間の礼ダ」と笑い、青褪めたのを見て笑い。

 口ではどう言おうとも、喜久衛門を想う太夫を見て、久紫は少しだけ、泣きそうになった。

 

 一ヶ月前――幽藍で聞いた噂で、彼女の婚姻を知る。

 あの男の下で、果たして幸福なぞ在りえるのか。

 考えることさえ無駄と知りつつ、それでも祈ってしまう自分がいる。

 どうか幸せに、と。

 結局、どこまでいっても忘れられないのだと知った。

 それなら太夫のように、遠くで想い続けても良いだろう。

 隣に相手のいた喜久衛門を思い出し、あんな風に優しい光を宿すことが出来るなら。

 ぼんやり、空を見上げる。

 夜が間近に迫ろうとも、暖かな春の風が通り抜け、軽く目が開かれる。

 霞んだ視界。

「……呑み過ぎた、カ?」

 目を押さえ、ふらふらと辺りを巡り。

 宿を求めて引き返し――――

 

 眼前。

 

「あ…………?」

 立ち止まり、捉えた姿を見つめた。

 

 去りゆく、その背。

 

 知った姿より少しばかり伸びた髪。

 少し、伸びた背。

 着物の色は見知らぬ桜色だが……。

 酒の呑み過ぎで幻覚を見たのだと、冷静になろうとして。

 

 その娘は俯き。

 前を向き。

 振り向かず。

 歩を早めて。

 こちらに気付かず。

 

「っ!」

 

 詰まった息。

 縺れる足。

 気付けば頼りなく駆けて。

 手を伸ばし。

 捕らえるように抱き締め。

 

「っきゃああ――!?」

 

 悲鳴が、娘から上がった。

 その、金切りの音色に何故か酔う。

 もがく動き、色気のなさが、心地良い。

 

 小春――――

 

 呼んだが最後、久紫は、死ぬなら今が良いと願い。

 娘にしがみついたまま、正体を無くす。

 

 


UP 2008/12/12 かなぶん

修正 2009/5/11

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