久紫side 二十五

 

 死の願いは、叶わず……

 

 遠くで鳥の声がした。

 身じろげば腕に温もりがあり、どこかの店で一夜を明かしたと知る。

 しかも下にある硬い感触から、布団すら引かず寝入ったのだと。

 夢で、折角彼女に――小春に会えたというのに、現実はどこまでも久紫に優しくない。

 自然、笑いが起きる。

 衣擦れの音から、何かを掛けたと分かるが、確かめる気にもなれなかった。

 ただ、あんな夢を見たせいか、掛けられた衣より、増して腕の中の体温が心地良い。

 もっと欲しくて抱き寄せ、自分の身すら触れられなかった唇を頭へ押し付ける。

 擦り寄っても、相手は余程豪快な性格なのだろう、起きる気配すら見せず。

 気を良くした久紫は、薄っすら開けた視界の先、下へ流れる黒髪から覗くうなじへ口付け――

 驚く。

 堪らず軽く食んでは舐め、吸い。

 初めて知る肌の質感に、惜しんで離した口から吐息が漏れた。

 どこの女だろう、これは。

 薄く色づいた箇所を舌先でなぞり、それでも起きない身に苦笑。

 頭を元の位置に戻しては、下に敷かれた腕はそのまま、自由のきく手で遊ぶような動き。

 くつくつ、まどろみかけながら笑い、肩を辿っては袖を伝い、袂を目指すよう動いては、ほっそりした腕をなぞる。

 するりと這える柔らかさは、首筋と似た味を舌へ呼び。

 滴るモノが喉をごくりと鳴らした。

 欲しいと思った。

 否、渇望する。

 この女なら、全てを忘れさせてくれる気がして。

 ねだるように、未だ眠る手の平へ、己の手を重ねる。

 こちらもまた、滑らかな触り心地だが……

 少し、硬い。

 不思議に思い、己の方へ手を持ち上げた。

 じっくり眺める内、重なった手は、久紫の脳裏でおずおずと茶を差し出し。

 

 ぴしっと音を立て、動きが止まる。

 

 今度は慎重に、手を下へ戻し。

 最初の位置に己の手も戻せば、言葉が出た。

「マサカ…………」

 今までの手遊びに比べれば、ささやかな吐息混じりの声音。

 けれど、腕の中の娘は反応し。

 混乱した久紫は、現実かどうかを確かめるべく、戻したばかりの手を娘の肩へ。

 身じろぎを受け、ゆっくり敷かれていた腕を引き抜き、顔を覗き込んだ。

 そこにいたのは、間違いなく。

「……小春……?」

 忘れさせてくれるどころか、忘れようと思っても忘れられなかった娘。

「……おはようございます」

 世話役の時は、差し込む陽よりも早い時間に起きていたはずの彼女。

 それなのに、まだ眠いと目を擦る様は幼くて可愛らしく。

 ――それなのに、首筋へ色づいてしまったソレは扇情的で。

「っ!」

 慌てた久紫、悪戯な口を押さえて飛び退いた。

 身を起こした小春が不思議そうな顔で首を傾げたため、跡は髪に隠されたが。

 だらだらと、背筋を通る汗。

 しゅるり、掛けられた衣擦れの音を追った小春は、ついで手を挙げ。

 首筋へ向けられたと思えば青褪め、行き着く先が額と知ってはほっとしつつ、残念に思い。

 どうやら小春、首への口付けには全く気付いていない様子。

 ヘタをすると、見つけたところで、虫刺されとしか思われないかもしれない。

 ――気の早い虫ですね。

 想像にそう評され、ぐぅの音も出ない久紫。

 と。

 絶妙のタイミングで、久紫の腹から盛大な腹の虫の音が響く。

 首を傾げた小春は己の腹をまず見、いや違うだろう、とつっ込む前に久紫を見。

 正確には腹を見たのだろうが、顔が殊更赤くなるのを久紫は止められず。

 すっ……と視線が窓を向いては、安堵と寂寥が半々訪れた。

「ああ、朝餉の支度……」

 何かしら納得した風体の小春。

 立ち上がり、どこかへ去ろうとする袖を咄嗟に引いた。

 こちらを見もせず払う仕草に動揺、見たら見たで袖を引っ掛けた障害物へ送る、冷ややかな目があり。

 怯みかけたが、髪と背で少しばかり印象の違う彼女へ、どうしても尋ねたいことがある。

「本当に……小春、カ?」

 阿呆な問いとは自分が一番分かっている――がしかし。

 問われた小春は、一瞬変な顔をし。

「……………はい。あの、朝餉の支度を――?」

「ア……す、スマン」

 答えを貰ってほっとする久紫。

 離しはしたものの、未だ湧かない実感から炊事場まで着いてゆき、手際よく調理を進める様を眺める。

 まだ寝惚けているらしい小春は、一度としてこちらを見はしないが……

 目の前に、手を伸ばせば、すぐそこに小春がいる光景は、久紫の心を安らかなものへと変えてゆく。

 

 

 

 久紫は元々、物事を楽しい方へ持って行くのが苦手だった。

 だから、思う。

 出された食事に手をつけた瞬間、目が覚めるのではないか。

 詮無い事――だが、真実そうなっては立ち直れない。

 それでも、日々の少ない食事にとうとう我慢できなくなった腹がある。

 匂いにつられる唾液で催促され、恐る恐る、箸をつけ。

 含んで、噛んで、味わって、呑み込んで。

 溜息が出てはぞっとした。

 食感はあろうとも、顔を上げた先には誰もいない……

 そんな想像に胃が竦み。

 視線を小春へ向けたなら。

 黙々と眠そうな目で口を動かすその姿。

 やや機械的な運びだが、空腹であるらしい箸は止まらず。

 ただし、久紫と目があったなら、ぴたり、止まって。

「お口に合いませんでしたか……?」

 久紫が考えもしない問いをするものだから、慌てて否定し、飯を掻き込む。

 夢ではない。

 じわりじわり滲む実感に眩暈を起しつつ、何度も味わいたくて、顔を上げては小春に魅入り。

 その都度、小春が不思議そうに眉を寄せるが、その自然な反応も嬉しくて、久紫は忙しない食事を続ける。

 

 

 

 渡された茶。

 温まった心を更に温めてくれるかと思いきや、落ち着いた分、徐々に冷えていった。

 思い出す、小春の姓。

 これが夢でなければ何だというのか。

 現実だろうが、小春には伴侶がいて、久紫には祝うことしかできないのに。

 嬉しくもない、想う彼女の婚姻を、痛みを隠して祝うことしか――

「……………ソレで、イツまでココに居られる?」

 なのに出てきた言葉は婉曲。

 意気地なし。

 罵りたかった、自分を。

 いい加減、認めろ。

 忘れられなくとも、自分の位置くらいはしっかりと、認識して――

「待ってください! 貴方もですか!?」

 いきなり怒鳴られて驚く。

 顔を上げれば、真っ赤になった小春が、ちょっぴり目に涙を浮かべて言った。

「もう、皆様方、本当に情報に疎くてらっしゃる! あれから一ヶ月も経って、何故、わたくしが志摩様なぞに嫁いだという偽りが払拭されないのです!?」

 ……いつわり?

 理解できない。

「イツワリ……嘘、なのカ?」

「勿論、嘘です! もう、嫌……」

 間髪入れず、答え、項垂れる小春。

 金槌で殴られた衝撃が久紫を襲う。

 待って欲しい。

 情報が上手く頭に伝達されない。

 ぐるぐる混乱しながら何の反応も示せない久紫は、ただただ小春を見つめ続け。

 すると小春は姿勢を正して、手をつき、頭を下げて。

「あの時は何も言わずに帰ってしまい、申し訳ありませんでした。その後も尋ねてくださったのに、逃げてしまって」

「小春?」

 あの時と表される時を探りつつ、逃げるという言葉から、近づいてはその頬へ手を伸べた。

 自然に受け入れられて驚き、手を添えられては胸が跳ね、離されたなら一抹の不安を抱え。

「痕が……」

 そう言われて、ようやく思い至るのは、あの時の柔らかな感触。

「手が使えれバこんなモノ、問題ナイ」

 気恥ずかしくなり、顔を背ける。

 ちらりと掠めた小春の唇にどくどくと血が巡り。

 知られたくないと、別の言葉を探す。

「……逃げたコトはもう、どうでもヨイ。ソレよりも、小春がいなくなってカラ大変だったんだ。家は燃えるシ、馬鹿げた婚姻とヤラに付き合わされるシ……しゃもじもなくなって」

「しゃもじ……?」

「握り飯を作ロウと思ったんダガ――」

「あ!? 返すの忘れてました」

 素っ頓狂な声に思わず小春の方を向き。

「いえ、志摩様が異人さんのお宅に現れた時、絶対あの方、良からぬコトをしでかすと思ったもので拝借していたんです。お陰で口への接吻を免れて――」

 …………はい?

 寝耳に水。

「……ツマリ、あの男とは、ソノ――口付けを交わしていない……と?」

「あ、当たり前です! 何故あのような方と!」

 …………あれ?

 ちょっと待て。

 口付けが嘘……を考慮しつつ、先程から引っ掛かる小春の言葉を思い返し。

 もしかして小春は――あの男が…………嫌い?

 初めて遭った時の、彼女にしてはあまりに珍しいぞんざいな態度も思い出して。

 口元を覆い、項垂れる久紫。

「ナンてこった。俺は……ソウとも知らないで……」

 瑕などなんだの理由を付けて、小春に口付けをして。

「スマない」

 穴があったら入りたい気分だ。

「アノ時は……アノ時の雰囲気は……俺の責任だ。ワルい。スマない」

 元々、小春から詫びられる話ではない。

 それが実は勘違い。

 余計、罪悪感が久紫の中に湧いてくる。

 拙い感触が甦れば、小春は初めてだったのだろうと気付き。

 取り返しの付かないことをしてしまった…………

 後悔が後悔を呼び、羞恥で染まった顔が青くなる直前。

「――――くらいで」

 小春の声が聞こえた。

 何を言われたのか分からず、のろのろ顔を上げる。

 そこにいたのは、久紫以上に顔を赤く染めた小春。

 目が合わさり、きっと睨みつけられ、久紫の覚悟が決まった。

 これ以上、瑕をつけてはいけない。

 ふしだらな真似をしてしまったと、きちんと謝って、手順を踏んで島から出て行こう。

 役所から拒まれようと、今度こそ――――

「ええと、その、わたくし、異人さんのこと……ずっと、お慕いしておりました!」

 謝るように下げられた頭。

 停止する思考。

 何を、言われたのだろう? 小春が……俺を? 慕うというのは、それはあれ、もしかして……

 理解する合間に、続け様。

 

「うえ、ちょっと押すなよ、お前ら!」

 

 知った声と共に、襖が倒れる。

 呆気に取られて見やったなら、口元を押さえた絹江の前で、雪崩れ込んで来た姿たち。

 一番下に伸介がいて。

 その上には、幸乃家の手伝いと思しき女たちがおり――。

 

 このため、全て理解するまで、久紫の頭は混乱に彩られてしまう。

 

 


UP 2008/12/17 かなぶん

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