久紫side 三
実質、幽藍を支配するのは春野宮の分家連中だ。 その中にあって、幸乃の名は本家筋に近い分家同様、かなりの地位を占めているらしい。 これに気付いたのは、案内の度に纏わり付く娘らが、幸乃の娘にあっさり追い払われる様を見た時。 そして、幸乃の庇護を受ける久紫の家には、決して近付かない事実を知った時――。
まるでお守りか何かのような、幸乃の姓を備えた娘。 彼女は夏の暑さに辟易する様は微塵も見せず、今日もてきぱき、仕事をこなしていく。 そんな幸乃の娘を呼ぶ時、最近久紫は決まって困惑するようになった。 幽藍に来てだいぶ経つというのに、いつまでも「幸乃の娘」で良いものか? 仮にも毎日顔を突き合わせている相手なのに…… かといって名で呼ぼうにも、その名を未だ正しく知らず。 交流を嫌う極度の人見知りがなければ、島国には珍しい余所者を受け入れる様子から、容易く娘の名を聞き出せるというのに。 「アー……幸乃の娘」 惑って呼んでも、幸乃の娘は大して不審がる様子もなく。 「はい。いかがされましたか、異人さん?」 微笑んで用を待つ。
異人さん……
線引きのような呼び名に、随分と慣れてしまった久紫は、それでも思い切って一度、尋ねた事があった。 「……異人サン……とは、何ダ?」 浮かんだのは、戸惑い。 「お気に召しませんか?……お名前を呼ばれるのが、あまりお好きではないようでしたので――」 何の事かいぶかしむ間もなく、思い出されたのは会って最初の己の言。 宮内久紫と敬称なく娘に呼ばれて、つい、言ってしまった。 ――幸乃殿。貴殿の娘御は、初対面に対して呼び捨てを礼儀とするのカ? なぞれば頭の痛くなる言葉。 幾ら知らぬ土地に気張り過ぎ余裕がなかろうと、ただ口に出されただけの名に対して、あそこまで過剰に反応するとは。 しかも己より齢若い娘相手に対して。 それを気遣い、呼び名を考え、異人さんと出された答えに、どうして首を振れるだろう。
だからか、幸乃の娘は自分を「幸乃の娘」と呼ばれても、さして疑問に思わず。 「ええと? 買出しの入り用はございましたか?」 一向に訪れない応えに業を煮やした問い。 「ナイ」と短く答え、娘は「そうですか」と頷き、燦々と照りつける陽の下へ出て行く。 見送って後、少し手を休めるつもりで、風通しの良い開け放たれた窓辺近くに腰を下ろした。 目を閉じれば、片眼鏡に覆われた左目では感じ取れない、右の目蓋をくすぐる風に、ふと口にする。 「コハル……と、言ったか、確か」 この国の字を当てては暖かな響きに、しかし、久紫は眉根を寄せた。 例えこの名が正しくとも、これを知った状況に目を閉じ溜息を吐く。
最初に気付いた異変は、春の終わり頃、幸乃の娘が帰って後のこと。
ノック音にてっきり娘が忘れ物でもしたのかと返事だけして、人形の最終調整を続けていたのだが、入ってくる気配がない。 困惑しつつも、空耳だったかと首を振れば、また同じノック音が響いた。 これが幾度も続き、作業の邪魔に苛立ち始めた久紫は思い切って戸を開けたが、そこには誰もいない。 拍子抜けして閉じかけた手を止めたのは、ひらりと落ちた、白い手紙。 判別できず開けて読めば、“お慕いしております”の一言のみ。 誰が出したものか突き止めようと、裏を返し表を返し――けれど名の一つさえない。 分かったのは、手紙に染み付いた甘い香の匂いだけ。 いぶかしみながらも、珍しい、そう思った。 知人宅で過ごしていた間、久紫の下にはからかい半分と思しき娘たちが、引っ切り無しにやってきたものだが、この家に住むようになってからは一切無く。 それがここに来て、再び片鱗を見せ始めた事に、久紫は嫌な予感を抱く。
予感は、すぐに的中した。
次の日、またも同じ状況で現われた手紙には、“この想い、いかほどか、貴方様に届きましょうや?”と書かれていた。 「……知るか!」 低く呻いたところで、聞く相手はない。 いかほど、どころか、どこの誰とも知れぬ相手からの想いなど、何故届くと思えるのか。 手紙の主は、かなり強引な思考の持ち主のようだ。 そして次の日もまた、幸乃の娘が帰って後、現れた手紙には“夢で貴方様にお会い致しました。きっと赤い糸で結ばれているのですね”という文章。 怒りに息が詰まり、一転して怖気が走る。 こんな怨念めいた想いを付きつけながら、一向に現れない手紙の主。 ひょっとして、これは手の込んだ悪戯・嫌がらせの類では? 物珍しい異国の人形師をからかい、遊んでいるのではなかろうか。 そう思えば再燃する怒り。 だが、気味の悪い手紙は続く。 その度、怒りから恐れ、恐れから怒りが湧き起こり、久紫は精神的に参ってきた。 怒鳴り散らせる当の相手もなく、次第に堪っていく鬱屈から、些細なことで幸乃の娘に当たりかけては罪悪感までやってくる。 徐々に重くなる疲労。 決まって幸乃の娘が帰ってから来る手紙に、いっそ娘が家に居てくれれば、こんな気の滅入る状態から脱せるのではないか…… とまで考え、柱に頭をぶつけるのが日に数度。 幸乃の娘の性別を忘れた訳ではない。 いや、忘れるどころか仕草一つ一つに、あどけなさが残るものの女を見ては、胸にひやりとする思いが掠めてしまう。 決して女嫌いという訳ではないが、知人宅の娘らより前、幼少のみぎりからどうも久紫は女というものに苦手意識があった。 ――原因は理解していようとも解消する術はなく。 けれど一つ分かっているのは、幸乃の娘は事情を話さずとも頼めば家に残り、いつも通り働く、ということ。 それこそ性別など差し置いて、世話役に徹するだろう。 だとしても冗談ではない。 仮にも男女が一つ屋根の下、何事がなくとも、世間の好奇がそれを許さない。 こんな小さな島では尚の事。 己の我が侭で、ただでさえ毎日毎日、休みもせずに来てくれる嫁入り前の娘に、そんな傷物の噂を流されては堪ったものではない。 小さな背に縋りつきたい思いを必死に留めては、掻き消すように別の考えに没頭する。
こうなった原因の犯人をひっ捕らえれば良いのだ、と。
何故すぐに思い浮かばなかったのか、己の間抜けさに内心呆れつつ、娘が帰って後、家の影に隠れ、現れるであろう手紙の主を待つ。 そしてついに、ついに姿を現した人物を見て、久紫は愕然としてしまった。 戸の前、例の文と何かの丼を持って、挙動不審に辺りを見渡すのは、女ではなく、小男。 嘘だろ……と思う反面、喜久衛門と出会う前からも、そんな誘いをされたことがある久紫。 傍からそういう関係を見ても、特に思うところなどありはしない……が。 対象が己であれば話は別。 昔の因縁も相まって、出てきた結論は――明確な害意。 コイツを葬らねば俺に未来はない! 異を唱える者のない極論から、久紫の精神が崩壊寸前だと知れても、やはり止める者とてなく―― 家の影から飛び出しては、驚き逃げようとする首元を引っつかんで、腹に一撃加えてから、蹴りつける。 「コノっ、変態めっ! 何の用ダ!?」 「ひぃっ!?」 気弱な声に、更に拳に熱が入った。 まさか人形師にここまでの暴力が振るえるとは思わなかったらしい。 あまり自慢できないことだが相当な場数を踏んでいる久紫。 一通りのやり方は身に刻んで久しい。 なおかつ、必要があれば山に入って己で木を切り倒し、これを一人で家へ運ぶため、体力的にも申し分なく。 見くびるな! そう教え込むつもりでもう一度かざした拳。 しかしここに来て久紫は、小男が別の何かに腫れた視線を投じ、怯えているのに気付いた。 青褪め震える小男が上擦った声で、目線の先にある物体を呼ぶ。 「ど、丼が……」 これをそのまま追えば、小男の手から落ちた丼が中身をでろりと地に広げる様。 何とも形容しがたい、液体とも固体ともつかないその、中身。 何に青褪めているのか。 ……………それ以前にあれは一体何のか。 問おうとすれば甲高い悲鳴が耳をつんざく。 尋常ならざる様子に慄いて小男から手を離し、悲鳴の主を眼で捜す。 見慣れぬ姿は町へ続く道の上。 広いおでこと鮮やかな着物の娘が、憤怒の形相で近寄るのを知っては、気圧され退く。 届いた甘い香の匂いにくしゃみが出そうになった。 しかし、嗅いだ事のある不快な気分を呼び起こす匂いに、視線を再度娘へ戻せば、小男を怒鳴りつけ殺す勢いで叩きのめす様。 つい先程までの己を顧みず呆気に取られていれば、こちらに気付いて娘は頬を染める。 「嫌ですわ、わたくしったらはしたない。お初……というのも他人行儀ですわね。わたくし、春野宮さつきと申しますの」 微笑む娘に久紫は小男を一瞥してから察する。
つまり、元凶はコイツなのか、と。
「異人さん、起きてください。風邪引いてしまいますよ?」
突然の声に、微笑む夕方の娘の顔が消える。 何が起こったのか判別できず、しばらく唸れば耳をくすぐる忍び笑い。 顔を上げれば、短い髪の娘の姿。 「……幸乃の娘……か?」 当たり前のことを問えば、困ったような笑い顔に内心ほっとした。 いつの間にか眠ってしまったらしい。 では、アレは夢…… 鮮明過ぎて夢と現の境さえ霞ませる、悪夢のそのもののような娘。 しかし、あれが現実にあるのは確実で、ゆえに頭の痛くなる思いにかられてしまう。 それにしても―― 手渡された手紙を受け取っては苦笑が浮かぶ。 幸乃の娘は本当に、お守りなのかもしれない。 久紫の内に生じた悪夢でさえ払ってしまったのだから。 一方で小柄な彼女を有り難がる、自身の不甲斐なさを情けないとは思いつつ。 だが、綺麗さっぱり消失した不快に渡された手紙を開きかけては、動きが固まる。
その内に潜んでいた甘い香の匂いに、喉がひくりと鳴いた。 |
UP 2008/6/23 かなぶん
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