久紫side 五
久紫の心配を他所に、小春は次の日も変わらず訪れては仕事をこなしていく。 少しばかりその眼が赤いのは気になったが、世話役を続けてくれるのなら他に言うべきことはないと首を振った。
それから幾日過ぎ、秋。
おでこの広い娘の脅威が夢からも消え失せ、ほっとしたのも束の間、今度は変わっていないと思っていた小春の様子が妙なことに気付いた。 具体的にどこが、とは分からないのだが、何か、こう、久紫を見る眼に時折哀愁が漂うのだ。 咎めるつもりはないが不思議に思い、その眼に出くわして一度、何気なく問えば、 「申し訳ございません」 と謝られてしまった。 そんなにきつい言葉で問うてしまったかと悩むなか、次第に目で追うことの多くなった小春の背が、人形の手入れに差し掛かる。 ふと思い出して、己の右手を開いたり閉じたりしつつ、凝視した。 春野宮の娘を追い返す際に抱き締めた人形だが、触れた背の感触は歪そのもの。 喜久衛門との合作――とはいえ、人形の体部分はほとんど久紫が作り上げた物だ。 その際、滑らかな肌質を表現したはずで、一度だけ知人に見せた時、彼は是非ともこの人形を譲ってくれないか、と鼻息も荒く久紫に迫ったことがあった。 加減一つなく無碍に払っては諦めさせたが……
「生きた女に興味はない」――方便ではあるが、久紫現在の真実の言葉でもある。 だからと久紫は人形になぞ欲情する類の人間ではない。 遠い大陸の片田舎に住む知人でもあるまいに。 これを踏まえ、鈍い陽の入り、久紫の眼前には寝かされた等身大の人形の姿。 関節部を晒さねば、製作者の一人である久紫とて人間の女と見紛う人形に、どうしたものかと首を捻った。 仰向けは難なく出来るが、問題は歪な感触の背を調べるために、この人形をうつ伏せにして良いものか。 小春の手を散々撥ね付けといてなんだが、人形の体には多少の傷が付いても問題ない。 何せ久紫が製作した部分なのだから。 厳しいのは、人形の顔だ。 見るものを安堵させる作りは、師である喜久衛門の腕前を余すことなく、柔和な表情に浮べていた。 少しでも傷ついたけば修復はかなり難しい。 治すだけなら可能かも知れないが、味のある顔つきが歪むのは必至であろう。 「……と、ナレば」 誰もいないのだから親しんだ国の言葉を語れば良いのに、思うところあって久紫はなるべくこの国の言葉に慣れようとしていた。 最初の頃は決意を固めても、すぐに他の国の言葉が漏れたものだが、今では自然にこの国の言葉が出てくる。 ただし、発音は未だに上達しない。 喜久衛門に引っ付いて各国を渡り歩いていた久紫。 様々な言葉を発音含め習得してきたのだが、どうもこの島国の言葉とは相性が悪かった。 ゆえに、幽藍では本島と称される島に滞在した折、喜久衛門に対して発音の不備を嘆いたことがあった。 そんな彼に喜久衛門は茶目っ気たっぷりに仕方ないさと首を振る。 ――この国の言葉は抑揚が少ないからのぉ。なればこそ、数も増えようものさ。ほれ、ワシはワシ、久紫、お前は己を俺、というように、な? 分かったような分からないような台詞に頷けば、好々爺は自分より高くなった久紫の頭を撫で、そのままでも充分味がある、安心せい、と笑う。
「おっと……いかんイカン」 思い出に浸りかけた己を叱咤しつつ、寝かせた人形の身を起こさせた。 背に回っては帯を緩めて脱がしかけ、障子越しの陽の光に手が止まった。 こんな場面を人に――小春に見られたらどう思われるか。 もうすぐあの娘が来る時間だが、ここまで来て止めるのもおかしな話と首を振り、別にこれは人形なんだし、と誰にでもなく言い訳めいたことを思う。 さっさとやって、さっさと終わらせれば良いのだ、そう腹を据えぐっと人形の着物に手をかけて下げ、 「おは――っ!?」 勢い良く開いた戸と止まった声に、悪戯がばれた子供のように心臓が跳ねた。 戸口からの陽が陰らないのを考えるに、小春はかなりの動揺っぷりを久紫の背後で展開している様子。 不味いところに出くわされた気分に陥りながら、振り返っては、本当に困惑した小春を認め、内心の動揺をひた隠し。 「幸乃の娘……何をヤッテる?」 「あ、いえ、はい。お、おはようございます」 いつも通りの挨拶を返す余裕さえなく、鼻を鳴らすに留めた。 どうして想像というものは、よくない方向を好んで現実としてしまうのか? 何か物凄い勘違いをさせた気がしてならない。 確認したが最後、撤回するのが難しいような―― 結局戸が閉まっても掛ける弁解もなく、逃げるように視線を戻した久紫。 その先、人形の背に歪な紋様を捉えては、一変、ぞくりと粟立つ思いに駆られた。 「……名前、ですか?」 「雪乃……か。師匠だな、コレは……」 頷き、酷いクセ字の紋様を読み上げれば恐ろしさが喉を通った。 小春はこれに気付いた様子もなく、 「へえぇ。この方、雪乃さんって仰るんですね」 「人形に方やサンはいらんだろう」 楽しそうな声音に、恐ろしさを撥ね退け呆れて言えば、何が気に入らないのか、むくれた口調が返って来た。 「酷い言い様ですね。木で造られているとはいえ、形となれば、名前くらい――――もしかして、異人さん、お人形に名前、付けない主義ですか?」 驚いた気配が伝わり、多少困惑してしまう。 「主義というか……モノに名前付ける酔狂な趣味はナイ。第一、師匠だって付けてなかっただろうガ」 名を付けないのは異常、と告げられた気分で、師を口に出しては己を納得させる。 「……喜久衛門様は……確かに付けてはいらっしゃいませんが」 「ダろう?」 そうそう、師匠は確かに付けていない。 自分は間違ったことはしていないはずだと笑えば、何故か小春が怒り出した。 「けどそれは、お人形を手にした方が付けるのが良いと、末長く可愛がって頂くためだと仰ってました!」 驚いて振りむけば居心地の悪い非難する眼。 人形の方を向いては響く声がある。
「貴方はあの人じゃないもの」と嘲る二重の声が――
過ぎる怖気に息が詰まった。 吐き気がする。 「師匠と俺は違ウ。求める方向性も、理由も……」 分かりきっている言葉を口にしては、人形の着物を直し、元の位置に固定する。 終始無言を貫き、何事か言われるのを恐れては、 「外の空気を吸ってクル」 それだけを告げて家の外へ逃げた。
作れど作れど、喜久衛門と全く違う人形たち。 滑らかな肌は人間そのものだというのに表情がどれも硬い。 悩む久紫に喜久衛門は苦笑混じりに告げた。 ――人はそれぞれ違う者で、同じ者は一つもない。代わりに作るのではなく、自身の作りを誇れ。 多少なりとも救われた言だが、世間は当初、久紫の作りしモノを認めなかった。 世界的に有名である宮内喜久衛門の弟子……なれば、師と同じモノを作れ、と。 これを師の言で払い続けていた久紫だったが、故郷に赴けば、いつかしか聞いた狂気の幻聴が打つ。
――貴方はあの人じゃないもの。
それはかつて、久紫が本当に守りたかった者の、あまりに身勝手で――壊れた微笑みから滲んだ本心。 元より、代わりと考えてもみなかった久紫は、その女の言葉にようやく、彼女が誰かを己に重ね、接していたのを知った。 誰かを重ねたからこそ久紫を頼り、個を手にした彼に勘付いては突き放す。
個を持っては認められず、故に掠れ、亡くす、人形の貌。
耐えかね、何故人形の質感を人に近付けないのか、喜久衛門に尋ねたことがあった。 全て完璧であったなら、久紫も世間の認識を甘んじて受け入れられたのに。 徐々に理解される過程で、人形の肌を褒めながら、だからこそ吐かれる溜息は、喜久衛門の弟子という名への期待の反動。 しかし、喜久衛門はこれを鼻で笑った。 驚く久紫に狸の笑みを向けて。 ――そうまで人の実に近付けたいなら、やはり、あそこしかあるまいて。 はめられた、と気付くまで時間は掛からなかったが、確かに“そこ”から帰り、作る人形の表情は、自分が作ったモノかと疑いたくなるほど豊か。
そして――――艶に満ちていた。
見上げた秋空は、雨を忘れた明るい曇り。 幽藍の案内を頼んでも、あの場所だけは不要だと思い、終ぞ口にはしなかったが…… 「第一、コハルは女ダ…………イヤ、しかし――」 腹を決める。 頭は冷えても心が定まらないなら、習う他あるまい。 家に戻って呼べば、何故か謝られた。 何の事か判別できず首を振り、案内を頼めば、笑顔が出てきた。 逆にこちらが謝りたい気分に陥り、卑怯とは思いつつも目線を逸らす。 行き先を尋ねる瞳が優し過ぎて、直視するのが憚られた。 「…………師匠が好んでイタ場所なのダガ」 なるべく平静を装い先を告げ、目線を戻しては内心で呻く。
回りくどい指定にも関わらず、小春が不恰好な笑みを浮かべては、胸中に後悔だけが過ぎる。 |
UP 2008/7/7 かなぶん
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