久紫side 

 

 見目麗しい生き人形に付けられた雪乃という名は、モデルとなった女の名が由来とみて間違いなかろう。

 女の名を、佐々峰雪乃という。

 師である喜久衛門が生涯唯一人、心底惚れ抜いていた、彼より年上という割に随分と若い容姿の“雪乃”。

 無論、彼女は生まれながらの人間であるから、歩んだ年月の分、滑らかな肌を半永久的に持つ人形とは違い、多少なりとも皺を刻んではいたが。

 製作の依頼は喜久衛門本人から、そんな雪乃の葬儀の最中に為された。

 病に斃れた彼女の骸の髪に手をかけた喜久衛門は、戸惑う久紫へ頭を垂れて懇願した。

 ――久紫よ、人形の肌を――ワシには出来ぬ、お前の腕を、貸してはくれまいか。

 と。

 初めての師から為された依頼。

 場所や奇行を考慮しようとも、断る謂れはない。

 否、なればこそ久紫は魅せられた。

 現し世と後の世の狭間に潜む、狂おしいまでの情念に。

 完全に呑まれ、首肯し――

 けれど、もしもその時、喜久衛門の目の奥に、不審な陰を見つけていたなら……

 

 久紫は、どうしたであろうか。

 

 

 

 

 

 

 嘘だろう、という思いで「幸乃の娘!」と幾度も呼び、ぴくりとも動かない青白い顔を見ては焦燥から「小春!」と叫ぶ。

 戻ってすぐ、人形のおかしな動きに気取られるなか、抱き締めた形の腕をその手に取られ、石像のように動かなくなった小春の肩に、人形の首が倒れこんできた。

 しなだれかかっただけかも知れないが、そのまま昏倒した小春を下敷きに、薄っすら笑う顔がおぞましい。

 すぐに引き剥がし、頬を軽く張ったが、小春の意識が戻らない。

 ぞっとして、唇を噛み締める。

 ――また奪う気か、アンタは!?

 けれど、憤りの対象である幻聴の嘲笑は為りを顰め、久紫の出方を窺う静寂が漂う。

 尚も懸命に声を掛け、体を揺すっては、さらさらと小春の短い黒髪が流れるだけ。

 混乱以外の何も出来ずにうろたえる久紫の肩を、ぽんっと叩く者がいた。

「シンスケ……小春が……動かナイ……」

「ああ。いや、大丈夫だ! とりあえずコイツの家に連れてけば問題な――」

「家だナ!!?」

 言うが早いか久紫は難なく小春の体を抱き上げ、戸口に向かって走り出す。

 蒼白な顔色のまま出ては、はっと気付いて伸介を振り返った。

「シンスケ、小春の家はドコだ!?」

「ああもう! お前、すっげぇ馬鹿! 付いて来い!」

 言うなり伸介も後に続き、前を行く。

 傍目の自分たちの姿など久紫は放り捨て、ただただ小春が助かる術に縋る。

 

 

 

 

 

 幸乃家に着いて早々、鬼の形相に迎えられたが、構うことなく助けを請うた。

 すると鬼はころりと表情を変え、小春の母を名乗る。

 

 手首の脈を取り、やや早めと知っても止まった訳ではない心音に、ほっと一息ついてその手を握りしめる。

「……小春」

 額へ包んだ手の甲を当てれば、安堵の息が零れてきた。

 その背に、

「えーと、人形師様?」

 呼ばれて振り返れば、柔和な面差しの美しい女が、言い辛そうに困った表情を浮かべた。

「流石に、ね? 女人の部屋にいつまでも殿方がいらっしゃるのは……出来れば避けて頂きたいのですけれど」

「ア……すまナイ」

 手をそっと布団の中に戻し、女の指示通り襖を閉め、一度だけ、その白い面を撫でる。

 再び訪れる安堵を吐き出し、指を離して後、はっと気付いて女へ頭を深々と下げた。

「お初にお目にカカリます。俺は、宮内喜久衛門の弟子で、宮内久紫と申しマス。ご息女にハ常日頃よりご厚意を賜りナガら、挨拶遅れマシタこと、お詫びノしようモ――」

「ふふふ。そう難くならず。この家の者は人形師様の無礼には慣れております故……といえば、貴方まで悪者扱いになってしまいますね。あら、どうしましょう?」

 頬に手を添え首を傾けた白い着物の女は、茶目っ気たっぷりに両手の平を打った。

 一瞬震えてしまった久紫だが、女は気にした様子もなく頷く。

「まあ、私としたことが、こちらこそ自己紹介がまだでしたわね。申し訳ございません。私の名は幸乃絹江。でも、そうね。貴方になら――養母、と呼ばれても構わないわ」

「エ……?」

 意味を図りかねて眉を寄せると、絹江の方も似た顔つきで、

「ご不満?」

「イエ、いや、アノ……は、ハハには余り良い思い出がナイもので……」

「あら、どうして?」

 好奇心旺盛な瞳を受けて喉がひくりと鳴った。

 久紫の知る幸乃家の者は詮索を好まない。

 少なくとも、信貴や小春は決して言いよどむ久紫に無理強いはしなかった。

 ――この人は、本当に幸乃家の人間なのだろうか?

 苦手……かもしれない。

 助けを求めてざく切り頭を探し、それがどこにもないのを知った時、

「春野宮の坊ちゃんならお帰り願いました……何か、ご用がお在りになって?」

 ――こ、怖い。

 先程までの雰囲気が暖かだったとは到底思えないほど、底冷えのする微笑を携えた目から、言外に逃がさないと伝わってくる気迫。

 観念した格好で一度だけ襖に目を投じれば、また絹江の雰囲気が変わった。

「ご心配には及びませんわ。あの子、前にも一度似た状態を経験していますけれど、数日も経てば元気になりますから」

「ソウ、か……あ、イヤ、そうデスカ」

「ふふふふふ。貴方のお話しやすいようにお話ください? 家長たる私が申しているのですから、咎める者なぞこの屋敷にはおりませぬ」

「家長? 家長はゆ……信貴殿でハ?」

 小春の母も幸乃の姓であることを思い返しては名を出し、きょとんとした顔つきで眉を寄せると、絹江は袖口に手を当て、慎ましやかに笑う。

 薄っすら笑みに開いた瞳が、睨みつけるのを受け、思わずたじろいでしまった。

 

 

 

 

 

 女という生物は、本当に怖い――小春を除いて。

 ぼやけば、次の日に現れた伸介が、げひゃげひゃ指差し笑う。

 腹立たしく思っても、笑い終えた彼が一点を見つめて首を傾げたのを受け、言いたいことを察した。

「アア。確かニ小春を気絶に追いヤッタ人形だが……アレは……師匠との合作。ソウソウ壊せは……出来ナカった」

「そうか……」

 帰ってすぐ、艶やかに微笑んだまま迎えた人形に対し、久紫は今度こそ本当に壊すつもりで抱え上げ――振り下ろすことなく、その頬に己の頬を寄せた。

 体は兎も角、この顔は師匠の手による物。

 亡き師が思いのたけを全て注いだ、麗しい生き人形なのだ。

 どうして壊すことなど出来ようか。

 

 例えその顔の持ち主が、喜久衛門の死期を早めてしまった原因であったとしても。

 

 傷一つなく、障子窓から漏れる陽の陰りのなか、無情に微笑む人形に溜息一つ。

「……ソレで、小春の容態は?」

「平気平気……と言いたいところだが、今回はちぃとばかり難しいかもしれん」

「ドウいう……意味ダ……?」

「んな情けない面すんなって。容態自体はどうせ大したことねぇんだが……絹江様から聞いただろ? 前に喜久衛門がキツい冗談しでかした話をよ?」

 神妙に頷く内で、喜久衛門の飄々とした狸の微笑が浮かんだ。

 夏の様子から小春が、幽霊の類を毛嫌いしているのは知っていたが、まさか過去に、これを利用して喜久衛門がその度合いを悪戯半分で図る真似をしたとは。

 結果、小春はしばらくこの家に近づけなかったらしい。

「紙きれに幽霊話が書かれてただけだってぇのに、家に近づけないところまで追い込まれちまった。それが今回は話どころか、実寸大でそこにいやがる。これはヘタすりゃ、もう二度とこの家には寄りつかねぇかもな?」

「………………」

 バツの悪そうな伸介から視線を下に移し、濃紺の作務衣の前に置かれた湯呑みを眺める。

 緑に変色した世界で、右目に片眼鏡をした男が、情けない顔をしていた。

 その人間臭さに薄く、笑う。

「……丁度、良いのカモ、知れん」

「は?」

「小春はずっと働き詰めダ。ココらで休まねバ、疲れを溜める一方ではナイか? 俺も覚悟を決める良い機会ダ。負担を掛け過ぎてハ………駄目、ダロウ?」

 自分に言い聞かせるように茶の中の男に語る。

 彼は一つ頷き、視線を逸らした。

 そうして上げた顔の先では、伸介が真っ赤な面を怒り肩の上に乗せている。

「ば…………っかじゃないのか!? お、お前! いいか、よく聞け? このままだと世話役は小春以外の誰かが勤めるんだぞ!? そして、小春はもう、ここには来ないんだ!」

「何を怒ってイル? 知ってル、分かってイル。ダカラ丁度良いんダ。この機を逃せバ、小春が休めル機会はナイかも知れなイ――」

「かーっ!! 全っ然っ、分かってねぇ! もういい、知るか! 少しは思い知れ、この阿呆!」

 一方的に怒鳴られ、久紫は応戦するどころか戸惑うばかり。

 それにすら腹を立てた様子で、伸介は戸口に向かい、くるりと振り向いてはもう一度指差し、

「阿呆!」

 とだけ言って、去ってしまった。

 残された久紫は惚け、つい先程、伸介が出て行ったばかりの戸口を叩く音に我に返る。

 知らず緊張する喉。

 そう。今日から小春ではない者が自分の世話を勤めるのだ。

 小春の手伝いとして、幾人かは来たことがあったが、必ず傍には彼女の姿があった。

 今日からはそれがない。

「……ドウゾ」

 引っくり返らないよう細心の注意を払い、迎えた先。

 

 侮蔑を交えた視線を出会い頭に受け、久紫は早速、小春を思い浮かべては、伸介の「阿呆」の意味をおぼろげに知ることとなる。

 

 


UP 2008/8/4 かなぶん

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