久紫side 追記

 その日の夜、案内されたのは、小春の父・信貴の書斎兼寝室であった。

「お布団は只今。本はご自由にお読み下さいませ」

「……アア」

 感嘆とも取れる声が久紫から漏れる。

 幸乃家の当主であるにも関わらず、小春の寝室より手狭な印象を受けるのは、両側の壁に設置された本棚のせいだろう。

 つと指を伸べ、本の並びを追った。

 背表紙に書かれた文字は、和洋折衷入り乱れ、信貴が相手取る客に国という垣根がないことが知れる。

 中には久紫が知らない言葉もあり、見ているだけで面白い。

 ふにゃりと相好を崩しつつ、読み上げていく久紫。

 

 彼は今、完璧に酔っ払っていた。

 

「凄いな……小春は全部読んだノか?」

 内一冊を手に取り、ぱらぱら捲っては、奥に机と座椅子が設置された中央へ布団を敷く小春を見やった。

 白い敷布を綺麗に伸ばした小春は、笑いながら「多少は」と答えた。

 「そうか」と頷いた久紫、本へ視線を戻し。

「小春?」

 脇を通り抜けようとする少女を端で捉え、腕だけを伸ばして進行を阻んだ。

「く、久紫さんっ!?」

 予想外の展開だったらしい。

 身を捩ることはなかったが、顔を真っ赤に染めた小春は、困り顔で久紫を見上げてきた。

「小春……」

 この様子に気分を良くした久紫、本は本棚へ置き、腕ごと小春の身体を引き寄せる。

 髪の短い頭へ額を寄せては、くすくす笑った。

「久紫さん?」

 背中から抱き締められる格好の小春が、自分の名を戸惑いながら呼ぶ声がくすぐったくて。

 腕を回したまま、座るよう促せば、素直な小春は腰を下ろし。

「きゃっ」

 そのまま布団に倒れたなら、一緒になって倒れ込んだ。

 面白くて笑っていたら、流石の小春も怒ったらしく、腕を払っては身を起こし。

「久紫さんっ!」

 赤い顔、座ったままで文句を言う。

 けれど久紫はそれすら嬉しくて笑い続け、手を伸ばしては、届く位置にある小春の頬へ触れた。

 さつきに張られた頬の腫れは引いたようだ。

 ほっとしつつ撫ぜれば、その分小春の赤みが増し、文句も比例して小さくなり。

「忘れていたナ……お帰り、小春」

「た、只今帰島致しました」

 小春が馬鹿丁寧にお辞儀をする。

「ふ…………可愛いな、小春ハ」

「……久紫さん、酔ってらっしゃいます?」

「うん……可愛くて、トテモ――――面白い」

「…………久紫さん?」

 気に入らない評価だったのか、半眼に迎えられた。

 また沸き起こる笑いを寝ながら楽しむ久紫。

 今日一日で、小春の色んな面を見た気がした。

 目覚めてからずっと、夢のような時間が続いている。

 ……いや、腑に落ちない点も多々あったか。

 思い起こすのは、小春の頬を冷やすため、幸乃の家に戻って後。

 

 

 赴けば、絹江の一声で宴の準備が始められた。

 といっても、久紫と小春は主賓らしく、大人しく座るよう促される。

 その際、小春の姉・涼夏と会ったものの、久紫の記憶にある彼女とは少し、雰囲気が違っていた。

 頬を冷やす布を持ってくるため、去っていく背に、つい、似てないと口に出し。

 内心、慌てたが、小春が聞き咎めなかったのだから、よしとしよう。

 詰め寄られても、どこがどう似ていないと指摘できるほど、久紫は彼女を知らない。

 目まぐるしく動く周りに、小春と共に困惑を示せば、伸介が「前祝い」だと言った。

 どうやら周囲は、久紫、それから小春、双方の想いを当の昔に察知していたそうな。

 自分の想いが伝わっていたのは知っていたが、小春も告白通り本当に「ずっと」前から想っていてくれたとは知らなかった。

 照れ隠しに交わされた視線を逸らし、戻せば恨みがましい小春の、朱の差した表情に迎えられた。

 何か、物凄い勘違いをされた気に陥る。

 困惑して頬を掻いたなら、茶化す伸介の言により、ようやく気付く、腕の温もり。

 今の今まで、小春の肩を抱いていたと知り、自分の浅ましさに嫌気が差した。

 馬鹿笑いする伸介を窘める小春の眼が、優しいと思ったならまた憤りが湧く。

 想い合えても、己に余裕がないと憂えば、戻ってきた涼夏が言う。

 ――小春さんは人を見る目が厳しいから。利益ばかり考えて他を思い遣れない人は、ばっさり切り捨てる無情な子なのよ?

 と。

 正直、耳の痛い話であり、当て嵌めれば、自分にはその資格がないと思った。

 碌でもない想像に惹かれ、殻に籠もったが最後、親しい者の声すら聞かず、逆に近づく者を傷つけて。

 それでも。

「久紫さん」

 彼女がそう呼んで、微笑んでくれるなら、まだ傍に居て良いのだと考え。

 しかし、伝えなければいけないことがある。

 今日に至るまで、傷つけてしまった人のことを。

 特に、彼女を密かに慕い続ける、あの娘へした仕打ちを――

 開きかけた口。

 が。

 勢い良く開けられた襖と、追ってきた娘本人の叫びにより、語りは中断されてしまった。

 

 

 帰り、彼の娘・さつきは久紫へ耳打ちする。

 腕のことは内緒にしろ、と。

 けれど久紫は思うのだ。

 隠せば、彼女を後々裏切る可能性が高いと……

 だから、卑怯ながら酒の勢いも借りて、言ってしまおう。

 最悪、この心地良さが終わってしまってもいい。

 何かをあやふやなままにしておく方が危険だと、今回の一件で身に染みて思い知ったから。

「小春」

「はい?」

 寝転がり続けていた笑いを止めれば、小春が居住まいを正した。

 父親譲りの目利き云々という話は、聞いていたが、久紫の前では終ぞ発揮された様子のないソレ。

 今、目の当たりにした気分で、身を起こし、同じように姿勢を正しては、酒臭い息を一つ吐き。

「サツキの腕だが…………アレは」

「はい、心得ております」

「俺が――――は? 心エ?」

 意外な言葉が小春から為され、目を丸くしたなら、仕返しのように彼女が久紫を笑う。

「さつき様からお聞きしました。それと、もしこの後、久紫さんが何も仰らなかった場合は、貴女を失うのが怖いから。仰ったなら、貴女に後悔をさせたくないから、と」

「そう、か……あの娘、ドコまでも………………苦手ダ」

 自分より齢若い小春より一つ下という、さつき。

 頭が上がらないどころか、一生怯えてしまいそうな不安に襲われた。

 するとこれを消すように、す……と小春の手が久紫の手に重ねられた。

「小春?」

 驚いて見たなら、申し訳なさそうな微笑が浮かんでいた。

 引かれた右手は彼女の両手に包まれ、甲を優しく撫でられる。

「辛かった、でしょうね」

 視線が自然、手に落ち。

「…………そうだナ……サツキには悪い事をしたと」

「いえ、久紫さんのことですよ?」

「?」

 不思議な物言い。

 理解できず顔を上げれば、柔らかな笑みに迎えられた。

「わたくし、父譲りの目利きと称されながら、自身の恋愛事にはとんと疎くて。そのせいで、久紫さんの想いを汲むのは酷く難しいのですが」

「…………」

 さらりと、とんでもないことを言う小春。

 無自覚なのが恐ろしい。

 それはつまり、小春の想いが間違いなく久紫へ向けられているという話で。

 酔いとは違う赤さに、彼女が気付かなければ良いと、火照る身体を感じつつ思い。

 持ち上げられた手が彼女の胸元へ翳されては、動揺が走る。

「けれど一つだけ、気付いたことがあります。――久紫さん、本当は誰かを傷つけたり、誰かが傷ついたりするの、お嫌い、でしょう?」

「っ…………な、何を……?」

 別の動揺から、手を取り戻す久紫。

 温かだった芯が冷えて、急に喉が渇き始める。

 小春がおかしなことを言うから。

 暴力はいつも、選択肢の一つとしてある事柄だ。

 これによって傷つく者のいることも重々承知しており――なのに、嫌うとは?

 良心的なただの思い込みだ、言うより早く。

「もしかして、久紫さんは気付いてらっしゃらないのですか?」

「何……ヲ?」

 怖れて退けば、小春が困ったように笑った。

「だって、そういうお話が出てくる度、凄く険しい顔を為さっていますよ?……本当にそういう事柄を好く人を、わたくし非常に残念ながら、お一人だけ、知っていますから」

「…………シマ、のことカ?」

 春野宮志摩――久紫と小春の仲を、散々引っ掻き回した挙句、さつきを通じ、不愉快な手紙を寄越した男。

 思い起こしても腹の立つ内容が脳裏に浮かべば、じーっとこちらを見つめている小春に気付く。

 意識を向けたなら、ふっと微笑まれて。

「どうですか、久紫さん。違うでしょう? それとも同じだと言い張りますか? 志摩様と」

「…………小春」

 苛立ちと戸惑いと。

 ない交ぜになった感情を持て余し、両手を伸ばせば大人しく久紫に抱き締められる、華奢な身体。

 酔いが移ったような、赤らむ小春の頬を撫で、久紫は溜息を一つ零した。

 

 

 

 彼の春野宮、その手紙の内容たるや――――外道の一言に尽きる。

 

 一枚目、通した便箋、あの男にしては殊勝な語り口。

 小春を騙した見合いの席で膿を排出し、滞りなく処分が済んだと書かれていた。

 ――までは、良かったのだが。

 小春、伸介、涼夏。

 同じく志摩からの手紙を渡された、三人にはない厚さで綴られた、二枚目以降。

“Congratulations!”

 横字で書かれた、その一文に続き。

“やあ、宮内殿。とりあえず、可愛い小春は君に預けておくよ。私は今、彼女の姉に懸想している最中なのでね。しかし、気を抜いてはいけないよ? それでも私が小春を好いていることに、代わりはないのだから。上手く立ち回れば、姉妹両方頂くことも出来ると、私は考えているんだ。涼夏様にいたぶられながら、小春を苛め抜くなんて、考えるだけでも楽しいだろう?”

 ……何故、同意を得ようとする?

 不愉快極まりない思いを抱きつつ、三枚目を捲り。

“さて。しかしながら涼夏様は堅くとも、小春には君がいる。私の思惑が外れた場合、貴方は我が義弟君となる訳だ。そこで、だ。恋女房を巡る宿敵として、もしくは義兄として、君には色々、教えておくべき事がある。関係は常に公平が望ましいからね。まず――――”

 絶句した。

 そこに書かれていたのは、今まで志摩が行ってきた、小春に対する数々の嫌がらせと、彼女の反応。

 志摩の主観で書かれているため、割愛すべき箇所は幾つかあれど……

 思い起こすのは、勘違いで終わった重なる二人の姿。

 小春の、志摩を嫌う様子。

 最後の一文に、

“けれど、安心してくれたまえ。小春はまだ清いままだよ”

 などと書かれたところで――

 

 

「…………同じ、ダ」

「久紫さん……」

 回想から戻り告げれば、責める声が小春から為された。

 苦笑しつつ、口付けを額へ施し。

「ホラ、同じだろう? 俺とて、奴と同じ男だ。アンタにこういうコトをしたくなる。……それに、俺にとって傷ナゾ、幼少の頃より日常茶飯事。嫌うなど――」

「それは選択肢がなかったからでしょう? 傷を傷と感じられる時点で、久紫さんはやはり志摩様とは違います。――それに!」

「っ!?」

 否定するなり、膝立ちになった小春は、有無を言わさず久紫の頭を腕に抱き締めた。

 頬ずられる感触に、身体が火を吹くように熱くなった。

 幼子を宥める扱いへ戸惑ったなら、髪が優しく撫でられた。

「あまり、わたくしを怒らせないで下さいませ? 久紫さんに言い忘れていましたけど……わたくしがあの時立ち去ったのは、久紫さんの目が姉様に似ていたから……別の者の影を重ねる、あの目に似ていたから…………勘違い、でしたけど」

「小春……」

 思い出すのは過去を語りし日。

 震える身体、眠りに紡がれた言葉。

 「違えないで」と。

 あれは涼夏のことだったと知り、精神を病んでいたのなら外見の変化は乏しいと察し。

「嫌なのです。誰かが誰かに何者かの姿を重ねるのは。かく言うわたくしも、貴方と姉様を重ねて……。今回の件で思い知りました。それがどれほど愚かしいことか。どんなに似ていると思っても、考えることまで同じとは限らないのに」

「小春……」

 少しだけ、見開かれる目。

 抱かれた格好ゆえ、小春からは分からぬだろうが。

 己を代替と位置づけてきた久紫を真っ向から否定し、彼の存在を深いところまで肯定するような言葉。

 想いを汲み取れないと言っておきながら、久紫が欲しい言葉を自然と口にできる彼女。

 なんだか気恥ずかしくなり。

「…………………………酔っ払っていルのか?」

「そういう茶々は好みません!」

 目線を上げれば剥れた顔とかち合った。

 嫌だと言われたばかりだが、ふいに思い出し重ねてしまう、通い合って後の瑞穂の様子。

 半分、伸介に強要された節はあっても、易くなった態度。

 近しいと言うような……

 異人だから――遠いと垣根を作っていたのは己の方だと改めて気付かされる。

 彼女の背に腕を回し、身体を支えつつ。

 信貴の書斎、あらゆる言語を揃えた本棚に囲まれては――

「…………」

 ふいに思い起こされる現在の状況。

 幾ら想いが通じ合ったとはいえ、この状態はかなり危険だ。

 しかも場所は、小春の父親が部屋。

 …………まずい。

 とはいえ、久紫の方から抱きつく小春を放すことは出来ない。

 今更、回してしまった腕を離すのも、不自然過ぎて身動き一つ取れず。

「兎に角! 久紫さんは志摩様とは違います! 現にこうしていても、久紫さん、わたくしを笑わないでしょう?」

「困惑は、目一杯しているのダガ……あ」

 間髪入れずつい本音を語れば、小春が怪訝な顔をし、瞬間、顔を真っ赤に染め上げて硬直した。

 心得て回した腕をゆっくり離せば、ゆるゆる座り、後ろへ卒倒しそうになる身体。

「小春っ!?」

 驚き腕を伸ばして抱き寄せたなら、自身の頬へ手を当てた小春が、目を見開き、信じられないという顔つきをする。

「なんて……はしたない真似を……わ、わたくし…………失礼致します!」

「ぅおっ!?」

 思いっきり衝かれる身体。

 受身も取れず転がると、すぐさま響く、襖を乱暴に閉める音。

 心臓に悪い状況は脱せたが、これはこれでちょっぴり哀しい。

 とはいえ。

「……そんなにモ、シマを嫌っていたのカ、小春」

 らしからぬ行動をすると思ってはいたが。

 やれやれと、首を振りつつ起き上がる。

 と。

 

「!」

 

 ばっちり合った眼。

 閉じた反動で開いてしまった襖の間から。

「……待った甲斐、ありましたかしら?」

 息を呑んだのは一瞬だけ。

 相手と言葉の意を解しては、俯き頭を振った。

「……待ってナド、いない。俺は、忘れようト」

「それでも忘れられなかった……ならば、やはり待っていたのでしょう、貴方は。小春さんも幸せそうですし。私も介入した甲斐があったというものです」

 他人事のように、そう言う女。

 話では、彼女の病を治す名目で、小春たちは本島を目指したはずであったのに。

 あれほど嫌う輩の下へ、自ら赴いた小春の想いを鑑みれば、あまりに身勝手。

「どういうつもりダ!?」

 顔を上げ、涼しい笑みを浮かべるだけの瞳を睨みつけ。

 そのまま駆け寄り――

 開け放つ、襖。

 その先に。

 

「ナ……に?」

 

 在ったのは、シン……と静まった廊下だけ。

 混乱し、しばらく左右に姿を探し。

「なぁにやってんの、人形師様?」

「…………イヤ」

 声を掛けられて振り向いた先には、小春の姉・涼夏の――

 泥酔した姿があり。

 唐突に思い出したのは、初めて合った時。

 交わした会話の中。

 小春の姉は名乗った彼女だが、終ぞ、己を涼夏とは名乗らず。

「……小春に…………姉は……何人いるんダ?」

「そら、私だけ……って、あー……その話、誰から聞きまして?」

 瞬き数度で、酔いの瞳が正常の光を宿した。

 刺すような鋭さを持って。

 惑えば、涼夏はしばらく探る視線を巡らせて言う。

「……ま、詮索は無しにしときます。聞いたのが私で良かったですけど……お気をつけてくださいな。他言無用、禁句ですから、それ」

 有無を言わさぬ声に頷けば、涼夏は酔いを取り戻して笑った。

 ――意味なら、遠くない未来に分かりますよ。

 そう残してふらふら去る背に、久紫が掛ける言葉はなく……

 

 


UP 2008/12/26 かなぶん

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