例えば――
「世界を救ってください」
 と懇願されたとします。
 貴方なら、どうしますか?

 

拒否します。

 

『――は?』
 天上の調べというものがあれば、この者が発する声が近いだろうか。
 優しく包み込む、慈愛に溢れた声音の持ち主は、自分の耳を疑うように、金色の睫毛に濡れた紫の瞳を見開く。
 薄絹の衣を纏う肢体は、少女の清純さと女の艶を併せ持ち、白いヴェールから覗く金の糸は月の光に似て淡い。
 程よく膨らんだ唇や柔らかそうな薄紅の頬、憂いを秘めた表情も相まって、喉を鳴らさずにはおけない麗しい相貌。

 

 据え膳喰わぬは男の恥……

 

 一瞬、そんな言葉が過ぎったが、同時に面倒だと溜息を吐き出す。
「だから、無理だって。ちょっと考えりゃ、分かるだろう? 俺はまだ高校生だぜ? んな面倒なこと引き受ける義理はねぇよ」
 短い茶髪をがりがり掻いて自室のベッドに座りながら、西岡慶介は胡乱気な表情で突然の闖入者を見やる。
 着崩した学生服にアクセサリーの類を身に付けた顔立ちは、軟派な奴だと初対面で決め付けられるもの。
 しかも部類としては中々イケる方だから、女生徒ばかりか年上からもお声がかかる。
 旧友からは「羨ましい奴」と蔑まれるが、慶介としてはかなり迷惑な話だ。
 そのせいで何度、恋人との縁が断たれそうになったことか。
 もし、潤んだ瞳で尚も見つめる、巫女を名乗る絶世の女が部屋にいるとバレれば一発でフラれそうだ。
 冗談じゃない。アイツと付き合うのに、俺がどれだけ苦労したと思ってんだ?
「アンタの世界より、俺は俺の世界が大事なんだよ。分かったらとっとと帰ってくれ」
 項垂れながら、しっしっと巫女のいる辺りに手を払う。

 

 連続徹夜続きで勉強していた、名門大学の受験は今日、終わった。
 加え、既にOB扱いの剣道部の面倒事もどうにか納まり、長いこと自由がきかず拗ねていた恋人の機嫌もようやく直った。
 自室につき、未練がましい夕陽をカーテンでもって閉ざした後、
『お願いです、私たちの世界を救ってください』
 涙に濡れた表情で前触れもなく現れた巫女に、慶介は驚きもせず、ただただ疲れた溜息を吐いた。
 心配事の全てが一応の解決をみて、寝ようとした矢先の出現。
 かまえ、という方が無理だった。

* * *

「頼むよ、マジで。眠ぃんだ」
 寝不足の頭痛や吐き気を堪えながら、溜息混じりに再度帰れと告げる。
 健康な心身であれば、妙な巫女の出現に驚いたり、発言に迷うこともあるだろうが、そんな気力は一切ない。
 と、部屋の空気が動いた。
 何かしらの方法でも使って、巫女とやらは帰ったのだろう。
 そう思ってやれやれ顔を上げようとした両肩に、ふわりと柔らかく、たおやかな手の平が押し当てられた。
 停止する思考が答えを弾きだす前に、軽く押される。
 柔らかみに溢れるベッドの感触を背に受け、眼前には潤んだ紫に染めた頬。
 鼻腔を擽る甘い香り。
 混乱に達して訪れる頭痛にかまける時間はなく、ゆっくり体に添う、しなやかな温もり。
 肩に置かれていた手はいつの間にか左頬に添えられ、右手に絡む。
 極上の微笑が切なさを伴って、慶介に近づいてきた。
 甘えるような恥らうようなそれに、反して慶介は一気に青褪めて顔を背ける。
 柔らかいものが首筋に押し当てられた。
「ひぃっ!? 待て待て待て待て待て! な、何してんだ、お前は!?」
『きゃっ!?』
 慌てて上に這う身体を押しのけ、起き上がり様に反対側の壁を背に叫んだ。
 急な行動に、具合悪さが重く頭に伸し掛かる。
 ずきずき痛むのを眉を顰めて押さえつけ、甘ったるい匂いに余計増した吐き気を堪えた。
 その要因を作った巫女は、ベッドの上で頬を染めたまま、横座りに拗ねた素振り。
『だって……“寝る”と仰ったじゃありませんか』
「意味が違う! 俺が言ってるのは、普通に、ただ単に、睡眠不足を解消したいから、眠たいって話なんだ!」
 区切り区切り情けない叫びを上げる。
 旧友たちが目撃しようものなら「軟弱者め!」と罵られそうな状況に、慶介はなんだかもう泣きたい気分だ。
「な、なあ、アンタ。頼むからもう、他当たってくれよ。俺は限界なんだよ、寝不足なんだ」
 叫んだ衝撃でぐわんぐわんとたわむ痛みに、更に顔を青褪めれば、何を考えているのか巫女は四つん這いに艶かしく近寄ってくる。
 そうしてぴたり、壁と同化したい慶介に寄添い、膝立ちで両頬に手を添えた。
 誘惑する吐息が慶介の背筋に悪寒をもたらす。
『ふふ。可愛い方。お顔の色が優れませんのね。我慢は体に毒ですわ』
「お前、本当に巫女か!? 止めてくれ! お、俺には明日香がいるんだっ!」
 再度迫る唇に慶介は死にそうな顔で応対する。
 と、巫女が困惑を向けた。
『……アスカ?』
 とりあえず一難は去ったらしい。
 ぐるぐる巡る痛みと吐き気を堪えながら、眉根を寄せる至近距離の美麗な顔に何度も頷いてみせる。
「そ、そう。恋人だ、俺の。だから、早まらないでくれ。てか、もう、ホント帰れ!」
『アスカ……』
 悲鳴に近い裏返った声に、巫女はただ名前を繰り返す。
 手は頬から離れたものの、今度は頭を左肩に預けて、右手を弄ぶ始末。
 繰り返すのは結構だが、さっさと離れて欲しい。
 己の体より華奢な添う人肌と、唾液を呼び起こす甘い香りが、慶介の気分を更に悪化させるのだ。
 もうこなったら、明日香にバレても良い。誰か来てくれ!
 けれど必死の願いは叶わず、巫女の意識がまたこちらに向いた。
『ねえ? もし、そのアスカが私たちの世界にいるとしたら、貴方、どうします?』
「も、勿論助けるに決まって――――げっ!」
 受け答えたは良いが、紫に剣呑な希望の光が宿るのを見つけた。
「いや、待て、それこそ早まるな! なんで明日香がお前らの世界なんかに関わるんだ!?」
 肩を掴んで問い詰めたいところだが、あれだけ離れて欲しかった張り付いた感覚は、あっさり逃げてベッドから降りる。
 口元には不穏な微笑が飾られ、紫に宿るのは妬みに似た歪んだ光。
『仕方ありませんわ。貴方は選ばれた方なのに私を拒絶されるんですもの。こうなっては、貴方に深ぁーく、縁ある方に犠牲になって頂かねば』
「ぎ、犠牲!?」
 頭痛も吐き気も吹き飛ぶ、危険な単語に慶介は身を乗り出した。
 その様子を少し淋しそうに見ながら、唇に指を一本押し当てる巫女。
『はい。実はこの度、魔物に捧げる生贄を私たちの世界から一人、選抜する話が来たんです。しかも穢れを知らない娘が最適なので、私が選ばれてしまったわけなんですが』
「穢れを知らないって……嘘だろう?」
 愕然とする呟きに、巫女は頬を膨らませた。
『……失礼な方ですね。先ほどのは……ちょっとしたお茶目です』
 いや目がマジだったって。
 これは口に出さず、
「で? なんだって明日香が犠牲って話になるんだ、って睨むなよ……」
『……生贄だって、その場しのぎですから、ここは愛の力で魔物を虐殺する方を探そう、私と相性ばっちりの殿方、つまり貴方に頼もう、と。でも、貴方には恋人がすでにいらっしゃる。なので――』
「明日香を生贄に仕立てて、俺を誘き出す……てか?」
『はい、分かってくださいましたか!?』
「…………っざけんな!」
 ベッドから飛び降りて、微笑む巫女の胸倉を掴む。
「人の女に、はた迷惑なもん押し付けんな! 第一、お前らの世界のことだろ? お前らの世界の男使ってどうにかしろよ!」
『それが出来れば苦労しませんわ。大体、私たちの世界の男共ときましたら、どれも馬鹿か根性なしばかりで……』
 ほぅ、と溜息を白々しくつく巫女に、慶介の怒りは納まらず、
「知るか! 俺が行かなきゃ明日香を連れてくだぁ!? 上等じゃねぇか、この野郎! んなに言うなら俺が行ってやらあ!!」
『――! 本当ですかっ!?』
「おお!……あ」
 売り言葉に買い言葉。
 後悔先に立たず。
 応じたが最後、自室の床に描かれる、ゲームか何かで見かけた魔法陣。
 「ちょっとタンマ!」と叫ぶ声も聞こえず、狂喜する巫女は、掴んだ手が緩むのを逃さず、慶介に抱きついた。
『さあ、いざ行かん! “私たち”の世界へ!』
 ニュアンスの違う響きに、抗議する間も与えられず、二人が消える。

 

 後に残されたのは、夕陽の落ちた、極上の闇。

 

 


あとがき
寝不足時の勧誘ほど腹立たしいものはない、かと。

2007/12/23 かなぶん

修正 2014/5/31

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