ランドマンは夜空の中を歩いていた。
星の一つでも見えて良いほど晴天だというのに、いっそ清々しいほど真っ黒な夜空だ。
理由は簡単。彼の下で煌く人間たちの灯火が、あんまりにも明るいから。
「やぁれやれ。あんだけ照らしたって闇は消えやしないのに、ご苦労なことで」
皮肉より関心が先立つ。そんなランドマンの背に、冷ややかな一笑。
振り向けば彼より少しばかり背の足りない、相棒の姿。
「どうでも良い。我らが行いを彼奴らに気づかれねば良い話じゃ。ゆくぞ、ランドマン」
高い声に首を振りつつ、
「いやはや、萎れちゃってやぁねぇ。これだから年は取りたく……おんやぁ?」
「誰が年じゃ。主とて我と変わら……なんじゃ?」
先に行こうとした相棒は振り返るが、ランドマンは下方を凝視したまま。
「これはこれは……クルー、ほらほらあれ――」
煌く街中の一角。明かりの灯らないビルの屋上、その端。
「志願者だよ、あれ」
楽しそうな声音は、クルーと呼ばれた相棒が顔を顰めたのに気づかない。
水先案内人
その人間は随分と若い女だった。
屋上の柵前には馬鹿丁寧に並べられた靴。上には白い遺書。
それを乗り越えて今にも飛び降りようとする眼には、何の感情も浮かんでいない。
絶望も迷いもなく、ふらっと宙に足を踏み出す。
「おおっ!?」
悪趣味だぞ、と言われたが、こんな機会滅多にないと近づいたランドマンは、つい大きな声を上げてしまった。
とはいえこの人間にはまだ、聞こえるはずがない――はずなのだが。
投身自殺を図ろうとしていた手が、柵を掴んで一気に体を引き戻した。
肩透かしを喰らった気分で人間を見つめていると、キョロキョロ数回辺りを見渡した彼女は、驚くべきことにこちらに視線を移したではないか。
「…………何?」
「…………や、普通ここは誰って尋ねるところ……って、お嬢さん、俺、見えてるのかなぁ?」
大袈裟に横にくの字で傾いだ。
「うん。ばっちり」
「うへぇ……しかも声まで届いてやがる?」
再度頷かれ、ランドマンは宙で頭を抱えた。
けれど、己の姿を直視しながら驚きもしない人間。
ランドマンは人間ではない。証拠に姿は人骨そのもの。纏うのはファッション性の欠片もないフード付きのローブである。
黒というには少し灰がかった、そのフードを外し、試しに頭蓋骨を引っこ抜いて見せた。
無反応。
片方の手にすっぽり嵌めて、眼窩から指をにょきにょき出して見せる。
やはり無反応。
「なんか言ってくれないと俺、一人で馬鹿みたいじゃん」
片手に嵌ったまま、ぱかぱか顎が動く。
「…………だから、何って聞いたじゃない」
「だから、普通、誰って聞くのが筋じゃない?」
「人だったらそれでも良いけど、あなた、人?」
正常な眼で聞かれ、ランドマンは大仰な溜息をついた。
「どこをどう見ても人じゃないわな。まあ、俗に言う死神さんってヤツだ」
「ふ〜ん。で、その死神さんが、何してるの、ここで?」
こっちの台詞じゃないのか? 困惑しながら、ランドマンは思った通りを口にした。
「自殺しそうなのがいて、ちょいと拝見……とか思ってさ」
「普通は止めに入るものじゃないの? 仕事増やすな、命を粗末にするな、とか」
今さっき飛び降りようとしていたのが、至極真っ当な意見。
返答に詰まった。
「まあなんていうか、永く仕事してても自殺現場って中々見れないからさ。いっちょどんなもんかと……」
「悪趣味ね」
クルーと同じことを冷めた口調で言われ、更にぐっと詰まる。
「お、俺にとっちゃ、死のうとする奴の方がよっぽど悪趣味だぞ? 大体、回収が面倒なんだからな。悪人と自殺者ってのは」
いきなり愚痴染みたことを吐かれて、人間は興味深そうな色を目に宿した。
柵を背に、足を屋上の外に投げ出して続きを促す。
仕方なしに人間の目線と平行あたりの宙で胡坐を掻いて座る。頭蓋骨も元に戻し、またフードを被る。
「ねえ、悪人と自殺者が面倒って、どういう意味?」
好奇心を覗かせる人間に、ランドマンは考える。どこまで話して良いものか。けれど結局出た結論は――
ま、なるようになれ、だ。
* * *
悪人ってぇのは、自分が悪人だって知ってるからな。俺らにとっ捕まったら、どこ行きになるか検討はつくだろうさ。だから逃げんだよ。
んで自殺者ってのは、どこまでも自分しか見ないから、俺らが捕まえてもするりとかわしちまうんだ。無自覚だから余計掴まえづらい。
「だのに査定に響くんだぜ? こいつら見たら掴まえるまで、減俸だよ? 減俸。正直やってられないね」
「死神さんって給料あるのね。でもじゃあ、なんで面倒なのを見学なんかしたの?」
尤もな質問に、ランドマンは懐から小さな鎌を取り出す。
空想の稲を刈り取るジェスチャーをしながら、
「そりゃあ、終わったら逃がさずとっとと回収するためさ」
「…………大きな鎌じゃないの? そんな……ダサっ」
吹かれた。ケタケタ笑う高い声に、ランドマンは途方に暮れる。
あまりに笑うものだから逆に質問してやろう。
「で、お前さんは何で死のうとした訳よ?」
いじけた風体を演出しつつ、溜息をつく。
が、帰って来たのは予想だにしない言葉。
「死にたくなかったから」
「はあ?」
「正確には死が恐ろしかったの。恐ろしくて恐ろしくて。こんなに恐ろしいんだったら、いっそ死んじゃった方が楽になれるんじゃないかって」
にこやかに笑いかけられ、気が殺がれるのと同時に殴りたい衝動に駆られる。
「あのなぁ〜」
「でも、やっぱ止めるわ。あなた見てたら、怖いとか思えなくなってきちゃったから」
立ち上がって埃を払う人間に、ランドマンは呆気に取られ動けない。
柵に手を掛け、昇ろうとするのも呆然と見ていた。
一陣の風が吹こうと、ランドマンには影響を及ぼさず――
だから、
「え、ちょっと、きゃあっ!?」
突風に煽られて柵から人間が手を離したのも、じっと見てるだけ。
辛うじて人間は屋上の端のでっぱりに手を掛ける。
青い表情で、
「ね、ねえ、あなた、助けてくれない!?」
そんな風に言われて、ようやくのろのろ手を差し伸べるが、ランドマンの手は人間の身体を透過してしまう。
「あ、あーそうか、しまった。聞こえるし見えるから触れるものかと思ったけど……御免、自力で頑張って」
「は、薄情者ぉー!」
一体どっちが薄情なんだか。
次、風吹いたら完全アウトだろうな、と思いつつも、ランドマンはもう人間への興味を失っていた。
死んだのを見たら減俸だが、死ぬ前なら問題ないだろう。
そう思って戻れば、相棒の呆れ帰った顔。
「薄情者め」
言い訳する気も起きず「だったらあんたが助けてやれよ」、なんて言ってもどうせこの相棒は、触れたとしても助けにゃいかないだろう。
今度会ったらちゃんと拾ってやるからな、給料のために。
心の中で人間にエールを送る。
後日、夜空を歩くランドマンに向かって、罵詈雑言を浴びせる人間の姿があったとか。
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