幼い頃、母が死んだあの日。

 記憶に在る光景は、黒い衣装を着た大勢の大人と白く晴れる空。

 モノクロの世界に音は無く、けれども誰かが頭の隅っこで言う。

 あの人が貴方のお父さんよ、と。

 のろのろと顔を上げれば、確かにそこには男の人がいて。

 でも、顔を確認する前に大きな手が降ってきた。

 強制的に与えられた闇の中、その手に自分の両手を重ねたなら、静かな低音が柔らかく響く。

「泣け」

 突き放すような命令口調なのに、それはどこまでも優しくて。

 気づけば声を上げて泣いていた。

 もういないと分かっていて、それでも母を呼べば、温かな腕に迎えられる。

 肩口を涙と鼻水でぐちゃぐちゃにしても、その人は何も言わずにずっと抱えていてくれた。

 声も嗄れて泣き疲れ、寝入ってしまっても、ずっと。

 

 

花嫁の父

 

 

 

 篠崎里璃、高校三年生。

 色素の薄い髪にすらりとした長身、冷然とした美貌。

 男勝りの腕っ節は折り紙つきで、女という性別を描く曲線は、制服を着ていても人の眼を良く惹いた。

 そしてそんな彼女の父親への評価といえば。

「いいよねぇ、里璃ん家はお父さん格好良くてさぁ」

「うんうん。切れ長の目に甘い声」

「そうそう、可愛いっていうか、茶目っ気たっぷりだし」

「優しそうなのに体格がっちりしてるもんねぇ」

「分かる分かる! 強引そうだもんね。俺様タイプ?」

「すっごく冷たそうでさ」

「暑苦しそうだけど、なんか程好い感じで」

「ちょっと頼りないところとか、母性本能を擽られるというか」

「…………」

 てんでバラバラ好き勝手に統一しない感想を述べる友人たちに対し、引き攣り笑いを浮かべながら頷く里璃。

 ヒートアップしていく彼女らから視線を窓へと逸らしては、ファミレスの空く時間帯で良かったと、アイスティーのストローに口を付けた。

 恐ろしいことに死角で展開されている辻褄の合わないこの感想、言っている本人たちは全く可笑しいとは思っていない。

 けれども噂の父を持つ里璃だけはこれを理解しており、このため会話には参加せず、聞き役に徹していた。

 この会話の流れは、現在自分の父と交戦中の友人の一人が、愚痴りつつも他人の父を羨みはじめたのが切っ掛けである。

 最初は他の友人たちの父がターゲットになっていたのだが、里璃に回ってくるなり全員が一致団結して彼女の父を褒めちぎっていた。

 どうも彼女たちにとって里璃の父は、理想の父を投影した姿に見える……らしい。

 しかも前述の会話の通り、各々バラバラに。

 何にせよ、里璃自身の見え方とはだいぶ違うのでヘタな事は述べられない。

 父の容姿を里璃が口に出せば、変な顔をされた挙句、謙遜するなと笑われ、終いにはファザコン呼ばわりされてしまうのがオチ。

 格好良い父親を独り占めしたい、そんな風に思われて。

 せめて一致団結出来る彼女たちのように、里璃の感想も可笑しいと思われなければ良いのだが、そうは問屋がおろさないようで。

 相変わらずの不公平感に黄昏た里璃は、終わりの見えない死角の会話を耳にしつつ、氷だけとなったアイスティーをテーブルの上に置き。

「あ……」

 丁度、窓の外でこちらに気づき、手を振る知り合いを見つけたなら、逃げの口実とばかりに友人たちへ愛想笑い。

 話を中断した友人たちは、席を立った里璃の姿を目で追い、外で知り合いと落ち合うのを目撃しては、それぞれが窓越しに意味ありげな微笑を別れの餞別として寄越した。

 きっとこれから彼女たちは、里璃の恋を勝手に捏造し、次いで自分たちの恋に想いを馳せて楽しくやる事だろう。

「良かった、のか?」

「うん。良過ぎるくらい」

 とはいえ、里璃の到着を待って歩き出した彼は恋人でも何でもない。

 外跳ねの淡い金髪、少し垂れたライトブラウンの目元には泣きボクロ、終始にこやかな顔は里璃より高い位置にあり、並んで歩けば確かに恋人に見えるかもしれないが。

 里璃にとっては、父と二人で暮らすには広い家で家事全般をこなしてくれる家政婦の一人息子、出会った時期を考えれば幼馴染だが齢を考慮すると兄のような存在。

「本当助かったよ、奏さん。あいつら、また父さんの話始めてさ」

「ああ。大人気だもんな、里璃ちゃんの・パ・パ。俺は目の敵にされてるから、すっげぇ苦手だけど」

 げっそりとした表情を浮かべる望月奏に対し、里璃は毎度の彼らのやり取りを思い出して苦笑いする。

 娘の里理から見ても過保護な父は、彼女に近づく異性という異性を片っ端から排除していた。

 老若関係なく、里璃に寄せる関心が恋心か友情かも考慮せず。

 排除方法は、無言の圧力や嫁姑問題のネタにでもなりそうな細々とした嫌がらせ、婉曲表現を用いても相手にばっちり伝わる嫌味等々、数限りないほどに。

 それも、当の本人は無自覚のままで、である。

 お陰で里璃には恋人どころか男友達も出来た試しがなかった。

 未亡人の家政婦の息子という立場上、関わる事の多い奏を除いては。

 ゆえに奏は、父の集中砲火を会う度に浴びせられつつも、母の雇い主だからと我慢に我慢を重ね。

 ならば自分と関わらなければ良いだろう、と里璃は過去、打ちひしがれる奏へ言ってみたのだが、返って来たのは微笑と無遠慮に頭を撫でる手、「選択肢は広く持たなきゃ」という言葉だった。

 ……見透かされているんだよな、この人にはいつも。

 何を指しての選択肢なのか、説明を受けずとも身に染みて理解している里璃は、小さく息を吐き出し。

「でも御免ね」

「ん? 何が?」

「あいつら。絶対奏さんの事、恋人だって勘違いしているからさ」

「それはそれは。身に余る光栄」

「うっわ、その言い方腹立つなー」

 大袈裟なほど馬鹿丁寧に応じる奏を横に、里璃がくすくす笑ったなら、優雅な動きで眼前に差し出される手の平。

 これには苦笑しつつも手を重ね、絡めた指に引かれて身体が勝手に奏へ寄り添った。

 自分のモノではない体温に接した里璃は、身を委ねるように目を細めて奏の肩に頭を摺り寄せる。

 傍から見れば完全に恋人同士。

 けれども真実は違うと二人だけは知っている。

 勘違いされても、冷やかされても、自分たちだけ知っているならそれで良かった。

 他には誰も、知らなくて良い事だから。

 私が、本当は、何を想っているのか、なんて。

 他の誰にも知られたくない。

 奏さん以外は、誰も知らなくていい。

 例えそれが想い人であったとしても――

「……あのさぁ」

「ん」

 ふいに訪れる声掛けに短く答えれば、絡んだ指に少しだけ力が入った。

「本当にどうしようもなくなったら……いつでも嫁いで来いよ。一生独身ってのも悪かないが、しんどくなったら、さ」

「ん。ありがと」

 前途有望な若者に言うべき事でもないけど、と恥じるように俯く奏の手を、短い礼と共に軽く握り返した。

「何て言うか。御互い面倒な相手が好きだよなぁ。しかもどっちも女々しいと来たもんだ」

「女々しいって……私は列記とした女だけど」

「うん、まあ、そりゃそうだけど。じゃなきゃ俺だって好きにならんだろ、お前の事」

「……うん」

 傾いだ奏の頭が肩にある里璃の頭をコツンと小突く。

 出会いからそう経たない内に、奏は里璃の父の猛攻を掻い潜って彼女へ告げていた。

 里璃の事が好きなのだと。

 里璃の答えはその時から決まっていたが、奏は今でも時折、思い出したように告白し続けている。

 里璃が誰を想っているのか知った後でも、懲りずに。

 だからといって相手が悪いだとか、諦めろだとか、至極正しくて、それでいて利己的な言葉を口にする事はなかった。

 それどころか軽い見た目に反して一途な奏は、里璃が自分の想いを蔑んだ時、軽く頬を抓んで励ましてくれさえした。

 叶えられない想いが辛いからと自らの想いを否定して、それで傷つくなんて馬鹿だ、と。

 仕方がないと泣き叫べば、好きでもいい、好きだと想ってきた事を否定する必要はないんだと、繰り返し繰り返し、里璃が落ち着くまで言ってくれた。

 子どもをあやすように抱き締めながら。

 ――この現場を目撃した父が、地味に怒り狂うまで。

「ま、一番女々しいというか、阿呆なのはアイツだと思う奏君だがね」

「? 何の話?」

 自分で流したシリアスな空気を嫌い、しみじみ妙なことを呟く奏。

 彼の肩から離れた里璃が見上げても、皮肉げに笑む口元は変わらず歪んだまま。

「なぁんて言ってたら、噂の君登場ってか」

「え――って、ぉわっ!?」

 前方を顎で示されそちらを見やった里璃は、直前に離された奏の手を追うように、直後横を通った黒い風に驚き、すぐさま隣を見上げた。

 そこには既に奏の顔はなく、変わりに奏より高い位置にあったのは。

「と、父さん……?」

「ちっ。逃げ足の早い奴め」

 染み入る艶やかな低音の主は、姿のない奏へ憎々しげにそう吐き捨てがてら、先程までその彼が掴んでいた娘の手をぎゅっと握り締めた。

 

 

 

 『おかえりなさいませ、旦那様、お嬢様』と迎えた妙齢の絶世の美女に対し、父が告げた言葉は「君の息子を娘に近づけるな」であった。

 件の娘を大股で引き摺り、抱え込むようにして洗面所に立った父は、自分の手ごと彼女の手をゴシゴシと洗う。

 二つ分のタオルを手にして追ってきた美女、もといこの家の家政婦は、無表情の首を傾げ、鏡越しに苛立つ主人へ声を掛けた。

『近づけるなと申し付けられましても、あの子はワタクシの手を離れて久しい身の上。ご無礼へのお許しを親として乞う事しか出来ません』

「……そうか。ならばせめて、君の息子のスケジュールを教えてくれ。分かる範囲で構わん」

 手を洗い終え、家政婦から受け取ったタオルの一方を、解放した里璃に渡した父は、自身も水気を拭き取りつつ問うた。

 これに対し、自分の息子がどんな目にあって来たかを知っているはずの家政婦は、澱みなく嘘偽りのない、知る限りの情報を事細かに父へ伝えた。

 親だから分かる行動パターン、その予測まで十分過ぎるほどに。

「…………」

 こういう時、里璃に出来る事は何もなかった。

 後に奏を襲うであろう災難を知りながら、家政婦の情報提供を止めないのは薄情かもしれないが、口を出したら出した分だけ、増して奏への風当たりが強くなってしまうのだ。

 その域たるや、触らぬ神に祟りなし、といった具合である。

 なればこそ、普段からつうかあの仲である主従を横目に、里璃は二階にある自室を目指してひっそり移動。

 途中、呼び止める声もなく、それでも注意を払って扉の開け閉めを終えた里璃は、鞄を机に放り投げると、紺のブレザーを脱いで椅子の背もたれに掛け。

「面倒な相手、か……確かにそうだけど。父さんは、どうなんだろう?」

 薄青のリボンをしゅるりと取っ払い、襟元のボタンを一つ二つ緩めながら先程の二人を脳裏に描く。

 片一方は黒髪をアップにしたフローライトの眼を持つ、落ち着いた雰囲気の見目麗しい家政婦。

 片一方は艶やかな黒髪に男性的な魅力溢るる肉体と――何故か里璃には白い仮面にしか見えない顔を持つ父。

 シルエットや雰囲気だけならばそれなりに見られたものを、黒い瞳が嵌め込まれた白仮面は完全に浮いていた。

 とはいえ、父の顔がそんな風に見えてしまうのは里璃だけであるため、やはり二人は似合いのカップルと言えるのかもしれない。

 事実、二人の仲はいつ、互いに再婚し合っても問題ないほど良好であった。

 ――が、しかし。

 ここに一人、そんな二人を祝福出来ない娘がいた。

 それも、ファザコンなどという生易しい話ではない理由で。

「まあでも、私だけじゃないよね? 奏さんだって、そうなったら今にも増して大変そうだし」

 問題をすり替え、自分を楽しませるつもりで、殊更明るく一人ごつ里璃。

 描いた二人を消し去るように頭を振り、スカートのチャックへ手を伸ばす。

 するとそこへ訪れるノック音。

 着替えの手を止めて相手の第一声を待ったなら、扉越しでもまろやかに響く甘い低音が里璃を呼んだ。

「里璃、着替えが済んだならば私の部屋へ来い」

「……はい」

 有無を言わさぬ命令口調に少しだけ呆れた里璃は、それでも去る足音を耳に着替えの手を早めていく。

 

 

 

 

 

 里璃の父の職業は多彩な肩書きに埋め尽くされている。

 しかも仕事の大半は表立って顔の出ないものばかりだったので、家の外で何をしているのか里璃が知る事はほとんどなかった。

 それでも唯一知るモノがあるとすれば。

「えーっと……で、出来たよ、父さん」

「……ふむ、悪くはない」

 家の中で一番広い父の部屋、間仕切りのように四分の一を走る白いカーテンから出てきた里璃は、下向き加減でこちらに背を向けていた父を呼んだ。

 机で何かの図を描いていた父は振り返ると立ち上がり、澱みない足取りでカーテンの前から動こうとしない里璃に近づく。

 気圧されよろめいたなら無造作に腕が引かれ、自然と父の胸に手を置き添えば背中に置かれた指が滑る。

「!」

 抱き留められた格好でさえ恥ずかしい事この上ないのに、慈しむように撫でる指の辿り方は里璃の身体を不必要にビクつかせてしまう。

 けれども当の父は構う事なく、里璃の背丈でも余る背でもって、自身の指を目で追う。

 流れる空気に気まずさを覚えた里璃は、逃げるが如く焦った頭で問うた。

「あ、あの、父さん? 家政婦さんは」

「帰った。……ああ、なるほど。いつも以上に緊張しているのは、そういうことか? 安心するがいい、里璃よ。この家にはもう、私とお前しかいない。無粋な邪魔が入る事もない。正真正銘、二人きりだ」

「…………」

 里璃には恋人がいた試しはないものの、話で見聞きする限りにおいて、非常によく似ていると思われる風体で父が甘く囁いてきた。

 そこにどう、安心を見出せば良いのか理解しかねる里璃は、それでも己が身を抱き取る父に従い、添えた手を軽く握り締めてはそっと息を吐き出す。

 これに気を良くしたのか、結わえられた髪を崩さぬよう頭を撫でた父は、再度里璃の背中に指を滑らせては腰を取り。

「苦しくは、ないか?」

「はい」

 ウエストは問題ないです……別の意味で苦しんでる真っ最中ですが。

 父の端的な問いを正しく受け取って返事をした里璃、胸内では高鳴りっぱなしの鼓動に本音を愚痴る。

 と、身体を離した父に合わせ、密着していた肌に染む空気が熱を瞬時に冷やしていく。

 まるで正気に戻れと言わんばかりの冷たさに、里璃がおずおず顔を上げたなら、今度は両頬を大きな両手に包まれてしまった。

「では――」

「そっちも問題ないです!」

 続けられる問いを想定し、勝手に力んだ言葉が力強く父の声を掻き消した。

 少しばかり里璃の頬が紅潮していたが、父は大して気にもせず「そうか」と小さく頷いた。

 屈んでいた影が退けば、無意識に動いた里璃の手が軽く自身の胸に触れた。

 バストサイズも問題のない、否、問題がないからこそ問題な、オーダーメイドのドレスの手触りが薄いレース地の手袋越しに届く。

 何を隠そうこのドレス、作ったのは目の前の父であり、これこそ里璃が唯一知る職業、裁縫師たる父の仕事であった。

 時折、新しいデザインを思いついた父は、今のように里璃を用いて実際の出来栄えを見る。

 ちなみにサイズに関しては、長年の経験と勘を頼りに、目測で弾き出した数値を使っているという。

 一体何の経験なのか勘なのか気になる事は多々あれど、不可思議なのはいかなる状態においても、里璃にジャストフィットする服が作れるという点であろうか。

 ……あと着せられる服が全部、ウエディングドレスを髣髴とさせる純白っぷりなところ、とか。

 何ともなしに現在身につけている、今回は特にウエディングドレスっぽい仕様のドレスを眺める。

 走るのに適さないたっぷりのスカートに胸を程好く覆う硬めの生地、花があしらわれた肘まである薄い手袋。

 デザインはシンプルだが、ゆえに際立つ清楚さは里璃の喉の奥を小さく嘲りに鳴らした。

 何が清楚か。

 誰よりも不純で、誰よりも愚かな想いを抱いているというのに。

 乗じて落ちる視線。

 すると軽い音を立て、何か白い物が視界を覆い尽した。

 驚いて顔を上げたなら、薄靄のように白い世界の向こうで、父が満足げに頷いた。

「ふむ。まあ良かろう」

「! まさか、これって……本当に、ウエディングドレス?」

 ヴェールの向こうで父が何を今更と、不思議そうに里璃を見つめていた。

 思わぬ事に気が動転し、青褪めた頬、揺らぐ視線がヴェールに隠される事だけを里璃は願った。

 今の今まで、それっぽいとは思っても、着せられてきたのはウエディングドレスだと思わなかった。

 ――思いたくなかった、の間違いか。

 それはいつの日か訪れる、目の前の彼との訣別を表す衣装であったから。

 内に秘め続け、今も尚浅ましく想い続ける人との訣別を意味していたから。

 

 幼い頃、父として引き合わされた目の前の男を、里璃はいつの頃からか異性として意識するようになっていた。

 

 自分の目に写る相貌が白い仮面であっても、芽生えた想いは今も変わらず、里璃の中に息づいている。

 それどころか、仮面として映る事自体が、里璃の想いを明確にしていったと言えよう。

 まだ母が生きていた時、里璃は彼女から自分の父親の写真を見せて貰った事がある。

 普通ならば掠れても可笑しくない古い記憶なのだが、この写真の中の父だけは母の幸せそうな顔と共に、今も鮮やかに思い描けた。

 なればこそ、他の者には理想の父として見える彼の顔が、自分の眼には白い仮面として映り続けている、そんな風に里璃は思うのだ。

 本当の父かどうか知るのを怖れて、自分の眼は真実を捻じ曲げている、と。

 死の直前、母が娘を頼むと送った手紙だけを頼りに、父だと名乗りを上げた人。

 もしも彼が真実里璃の父であったのなら、里璃は自分の想いに恐怖し拒絶するだろう。

 もしも彼が真実赤の他人であったのなら、里璃は断たれた繋がりに己を見失うだろう。

 どちらに転んでも失われる思いの大きさに、真実を見極め切れない里璃はしかし。

「…………」

 突きつけられた現実に沈黙せざるを得ない。

 着せられたウエディングドレス、その意味するところは――結婚。

 こうなるともう、仮定の話すらどうでも良い事であった。

 父だろうと赤の他人だろうと、彼の望みは里璃をこうして送り出す事。

 つまりは他ならぬ彼自身が、誰よりも里璃を自身の娘だと認めているに過ぎず。

 まあ、当たり前なんだけどさ。娘として育てられてきたはず、なんだから。

 それでも時々、話でしか知らない恋人のように接してくる父に、淡い期待と――それなりの気持ち悪さを抱いていたのは確かで。

 けれども全ては杞憂、都合の良い解釈。

 やはり父にとって自分は娘でしかなく、ならば自分にとっても父は父でしかない。

 思えば、情けないくらいの溜息が小さく零れた。

 落胆と安堵を織り交ぜたソレは、涙よりも苦笑を里璃の表情に象らせる。

 これもまた、失恋の一種なのだろうが、受け入れればそれほど苦でもなかった。

 恋を失った痛手はあるものの、代わりに正真正銘の父を手に入れられた。

 ……これはもう、奏さんのところに嫁ぐしかないかなぁ?

 恋の幕引きを表すように落とした瞼、暗闇の中でそんな事を想う。

 決して恋愛感情ではなかったが、里璃は奏が好きだった。

 里璃の可笑しな恋を知って、それでも否定せずに寄り添ってくれた彼は、誰よりも信頼のおける相手であり――

「奏、だと?」

「…………………………………………………………………………………………………………げっ」

 いやに低い声が瞼の向こうから響いたなら、開けた視界の先で父の白い仮面が酷く歪んでいるのが見えた。

 どうやら想っていた事をそのまま口に出していたらしい。

 何を言っても藪蛇だと、自分の発言をなかったことにするべく、努めて明るい口調で「さあ着替えよう」と踵を返した里璃。

 だが、後ろから伸びた腕は逃避を許さず、里璃の身体を捕らえると自身の身体に縫いつけ、そのまま顎を掴んでは白い仮面と向き合わせた。

「嫁ぐ? 何の話だ、里璃? 怒らないから言ってご覧?」

「うぐっ」

 聞いた事もない壮絶な猫撫で声を間近で受け、里璃の喉が可笑しな喘ぎで潰れた。

 何故だろう、素直に請け負えば、もう二度と奏に会えない予感がした。

 だからこそ里璃は怒気に竦む身体から、必死になって笑みを取り繕い。

「や、やだな、父さん。冗談だよ冗談。う、ウエディングドレスなんて着たからさ、ちょっぴり感傷的になっちゃったっていうか。あ、アハハハハ……」

「……ほう?」

 説得が功を奏したのか、若干怒りを弱めたらしい父に里璃は愛想笑いを続ける。

 顎から離れた手が、カーテンを引っ掴んでも笑みは崩れず。

 が、引き千切るように開けられた先に、姿身に映った二つの影を視認した里璃は、その笑みを一瞬にして消し去ってしまった。

 対し、改めて背後から里璃を抱き締めた腕の主は、そんな鏡の中の里璃を満足そうに眺めながら、愛しげに頭へと頬を寄せた。

 鏡越し、並ぶ二人の姿は父娘というよりもまるで――

「知っているか、里璃よ。俗説だが、ウエディングドレスを先に着てしまうと婚期が遅れるそうだ。願掛けとは違うが……私もあやかって何年になるか。憶えているか、里璃? お前に私が作った服を着せた日はいつからか、あれから何着、何を着てきたか」

「とう、さん……?」

 そろりと伸びた里璃の手が抱く腕に伸びれば、その前に大きな手が両手を取り、ふっと笑う。

「父、か。そう慕われるのも悪くはないが……いい加減、聞き飽きてきたな。無論、事実そうである可能性は否定出来ぬ。ゆえにこれ以上の事をしようとも思わんが」

「わっ!?」

 軽い動作で突き飛ばされ、姿見近くの大きなクッションに倒れ込む里璃。

 振り返れば白い仮面の黒い鏡面の如き瞳が、里璃の姿を睨みつけるようにして間近に存在しており。

「憶えておくがいい。全てを明らかにせぬ内は、私以外の誰人もお前の傍に在る事は許さん。明かして後、お前が娘でなくとも同じ事だ。いや、娘でなければ尚更に、お前から私以外に触れる事は許さぬ」

「そ、れって……」

 からからに渇いた喉が声を発するより先に、述べられた両手が里璃の両頬を上向かせて捉えた。

 口付けするに似た至近で仰ぎ見た白い仮面は揺らぐ黒茶の瞳に、夜の闇を髣髴とさせる優しくも凍てつく言葉を投げかける。

「誰にも渡さん。誰にも触れさせぬ。葬儀の時、他を寄せ付けず私の腕だけを求めて泣いたのはお前だ。あの時からお前の全ては私のモノなのだよ。他の誰でもない、お前が私を望んだのだから」

 硬質な仮面とは思えぬほどしっとりとした唇が、おぞましい呪いか神聖な誓いのように、里璃の瞼に落ちた。

 抗いもせず受け止めた里璃は離された両頬に合わせて、クッションに身を沈める。

 それでも自分を見つめ続ける娘に満足したのか、今一度笑みを零した父はカーテン向こうへと去りかけ。

「とはいえ私ももう少し、このあやふやな関係を楽しみたい。明らかにするのはその後だ。それまではお前もせいぜい、我が娘でいられる時間を楽しんでおくが良い」

 里璃の父親は自分ではない、そう確信している風体の男は、カーテンの向こう側に姿を消した。

 着席する音を耳にし、ようやくのろのろと上体を起した里璃は、感触の残る瞼を押さえながらぽつり呟く。

「どうしよう。父親じゃなかったらあの人…………………………完全にロリコンじゃん」

 問題とすべきところはそこではないだろうに、ショックが大き過ぎてまともな思考を紡げない里璃は、そんな相手と知ってなお、戻り来る想いにそっと胸を押さえた。

 

 


あとがき
いかがだったでしょうか、里璃と「夜」の父娘モノ。
そこはかとない禁断臭が漂っている気がしないでもないですが。
奏が別人とか言わない。お兄ちゃんはいつでもリリちゃんの味方でっす(奏談
書き上げた後で、どっかの怪人っぽいなぁと思ったのは内緒です。
当初の予定では里璃の切ない胸の内吐露で終わるはずでした。
「夜」の部分に関してはニュアンスだけのはずでした。
それが蓋を開けてみたら、あーら何だか…妖しくやらしい事態に;

こんな出来上がりですが、少しでも楽しんで頂ければ幸いです。

UP 2010/4/20 かなぶん

修正 2010/6/30

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