出会いの夜 11

 

 滑らかな「夜」の指が顎を離れると同時に、里璃は住み慣れた自分の家に戻っていた。

 居間の中央、丁度、金色の箱に触れた位置で、立ったまま。

 白いエントランスから、瞬きもなく行われた、生活臭漂う居間への移動は、しばし里璃を放心状態に追いやり。

 秒針の進む音がそんな彼女の耳に届けば、ぎこちなく腕が持ち上がる。

 衣擦れの感触で、着用する衣服が元に戻っていると知ってもなお、里理の手が触れたのは、先程まで「夜」が触れていた顎の下。

「っ」

 途端、ぞわりと這い上がる、悪寒に似た感覚。

 あるいは――悦楽。

 耐え切れず、首元を押さえたまま、膝から崩れ落ちた。

「けっ……くほっ…………はぁっ」

 膝立ちの姿勢すら満足に保てない里理は、床に倒れて咳に酔う。

 溢れる唾液が口の端から逃れても、拭う手はなく、唇だけが耐え切れずに震えた。

 何かを望むように舌が下唇の内に這い、頬の火照りを受けて身体が悶える。

 な、に…………これ………………?

「ああうぅ……んくっ…………あ、は……やぅんっ」

 あられもない喘ぎが勝手に喉を衝く。

 堪えるように、カーペットへ爪を立てたなら、肌を滑る衣服の感触が気持ち悪いと思った。

 一方で床を掻きながら、もう一方でチョーカーを剥ぎ取り、ジャンパーを腕まで下ろして、ブラウスの襟元を緩める。

 痒みのような熱を全身に感じ、毒を煽ったと思しき動きで、床を這いずり回った。

 

 納まるまで要した時間はいかばかりか。

 

「ふ……はあ、はあ、はあ、はあ、はあっ…………」

 乱れた呼吸は、見慣れた天井の蛍光灯へ、何度も何度も向けられた。

 熱に侵され潤う黒茶の瞳が、痴態に似た時間すら、等間隔で刻んでいた壁の時計を見やる。

 時刻は深夜も深夜。

 もう少しで兄が帰って来るであろう時間帯だ。

 軽く握った両手首の、拘束具に似たベルトが目の高さにある、寝転んだ状態。

 納まりの悪い呼気とほつれて散らばる長い髪。

 ぐったりしたていで、泣く直前の眼。

「んっ…………危険、だ……ぁくっ」

 傍から想像できた自分の姿を、あの兄に見せるのは拙い。

 億劫な動きで腕を伸ばし、上半身を持ち上げる。

「はぅ、ふっ……」

 一息つけば、ジャンパーが更に腕を滑り落ちた。

 その動きに合わせ、ざわりと這うものが身体を大きく震わせた。

「あっ…………も、う……さっきから、なに、これ?」

 鼻がかった切ない声を勝手に上げる口で、里理は過剰に反応を示す身体へ眉を寄せた。

 次いで、煩わしいと感じ始めた口元の唾液を袖で拭う。

 これに対しても、些細な衣擦れが奇妙な感覚を里理へ与えた。

 訳の分からない反応から、逃げるように里理はソファを目指して身体を傾け。

「ぁんっ……ふ、ふえ? ど、どうして…………力が、入らない……?」

 まるで別の生き物のように足が動かない。

 腰に力を入れようとしても、その上が微かに震えるだけ。

 倒れかけた上半身を支える腕とて、カーペットに爪を立てねば、すぐに折れようとする始末。

「ぐっ…………せ、せめて、ソファに移動を」

 虚ろな眼差しで顔を上げたなら、視界の横をはらりと髪が舞った。

 狭まると払う仕草さえ出来ず、里理は頑として動かない足を引き摺りつつ、ソファへ向かい――

 

 

 

 

 

 小さく、扉の開く音がした。

「ただいま……」

 それよりも小さく、兄の声がして。

 ソファに突っ伏す形で腕と頭を預けていた里理は、ぼんやりとした眼を背にした玄関へと向ける。

 ちらりと視界に入った時計の針の見易さに、電気を小さくしていなかったと、他人事のように思いながら。

 やがて、ネクタイを緩め、外跳ねの髪を掻き乱す男が視線の先に現れた。

 こちらに気づくと、茶化す常では見せない訝しむ表情を浮べて。

「……里理?」

 名を呼ばれ、半分ソファに埋もれていた声が返事をした。

「……奏(かなで)お兄ちゃん」

「………………………………………………………………………………………………は?」

 疲労からやさぐれた雰囲気だった、里理の兄・奏の垂れ眼が、真ん丸く見開かれた。

 無理もない、と言った里理自身が思う。

 何せ、今、里理が行ったのは、十年以上前の呼称。

 それ以降は、馬鹿兄やらお前やら、年功序列の威厳もへったくれもない代物ばかりだったのだ。

 けれど里理はもう一度呼ぶ。

 普段の彼女では、決して、特に奏に対しては絶対に、発さない甘い声で。

「奏お兄ちゃん」

「……さと…………お前」

 一歩よろけた奏は、茫然とした面持ちのまま、里理の傍まで向かい。

 震える手で、そっと彼女の頬に指を這わせた。

 いつもなら確実に腕を払い、無防備な腹を蹴りつけるところだが、撫でられる感触に目を細める里理は柔らかく微笑むだけ。

 と。

「……にゃにふんにょ、きゃにゃれほにぃひゃん?」

 いきなり頬を抓まれてしまった。

 鈍い痛みだけが里理の頬に伝わり、止めて欲しいと奏の手を押さえた。

 途端、離された頬が震え、退けた奏の代わりに、里理の手が痛みを擦る。

「……痛い」

「さと…………お前、本物か?」

 謝りもしない奏を失敬な、と滲んだ瞳で睨みつける。

 本物とはどういう意味だろう。

 里理の偽物がいるとでもいうのだろうか。

 確かに偽者と疑われても、仕方のないことをしている自覚はあるが、抓られる謂れはない。

 真面目な顔で里理の頬を抓んだ奏は、そんな彼女も目に入れず、混乱した様子で頭を掻いては首を振る。

「いかん。呑み過ぎたか? それとも……いや、アイツにはもう、何のメリットもないはずだ」

 眉間を押さえ、口元を押さえ、降下する手とは対照的に、奏はぶちぶちと何やら口にし、悩んでいる様子。

 意識外に追いやられた里理は、睨むのを止めて奏の様子をじーっと観察した。

 常時、ふざけた顔しか見ていないため、兄もこんな表情が出来るのかと、半ば失礼な感心を抱く。

「…………里理?」

 これに気づいた奏、機嫌を伺い探る声音で里璃を呼んだ。

 疑り深い視線は、複雑怪奇な感情を織り交ぜていたが、中でも鮮烈に写ったのは、鋭利な殺意。

 怒気を通り越した、絶対零度の静けさに、里理は恐れを抱きながらもソファを押し。

 ふら……と傾いだ身体を無理矢理、奏へと倒した。

「おわっ!?」

 ぎょっとし、避けようとする奏の胴へ、素早く腕を回す。

 よろけ、尻餅をついた奏は、わたわた辺りを見渡すが、兄妹二人しかいない空間に何を見つけようというのか。

 兄のあからさまな動揺を不審がりながらも、里理は身体を押し付けて、奏の背へ回した手で彼の肩を掴んだ。

 そのまま一気に顔を近づけたなら。

「ひぃっ!!? さ、さと!? 俺たち、健全な兄妹だろ! は、早まっちゃいかんぞ!? 第一、格好からして、お前!」

「はあ?……何言ってるの、奏お兄ちゃん」

 里理は心底呆れた表情を奏へ向けては、ここまでの重労働で乱れた息を、格好に関してとやかく言われたくない、趣味の悪い胸に零した。

 途端、奏の身体が大きく跳ねる。

 耳を押し当てたなら、やたらと早く鼓動が伝わってきた。

 微かに、煙草の苦さと甘ったるい香水の匂いが鼻腔を衝く。

 変な反応と変な匂いに形の良い眉を顰めれば、頭上から届く言葉があった。

「さと、お前……い、意外に――――大きかったんだな……」

 途方に暮れた響きへ、顔を再度奏へ向ける。

 と、横を向く引き攣り笑いの顔。

 ヘタな誤魔化しに似たソレは、薄く頬を染めていた。

「?」

 不気味に思う心はあれど、里理の目的は他にある。

 今一度、ずいっと顔を近づけたなら、押し倒される格好となった青褪めた奏に、色素の薄い髪が落ちた。

 撫でるように擽る様も知らず、すっかり硬直した兄へ、里理は身を添わせながら言った。

「あのね、こういうこと、奏お兄ちゃんに頼むの、すっごく癪なんだけど」

「…………よ、良かった、呼び方以外は、ちゃんといつもの里理だな」

 いよいよ本題に入るというのに、別のところで安堵の息を零す奏。

 この態度にムッとした里理は、奏の耳下へと顔を埋めた。

 これで人の話を聞くだろうと見込んで。

「奏お兄ちゃん」

「ぃっ!」

 囁き呼んだなら、再度硬直する奏の身体。

 面白いと喉で笑えば、恐る恐る、背と腰に手が回された。

 ……丁度良いや。

 里理は恐々触れるのではなく、しっかり抱けと示すため、奏の脇の下へと移動させた自身の腕を締めた。

「さと……」

 思惑通り、力を強めた奏を知り、里理はくつくつ喉で笑った。

「あのね、お願いがあるの」

「……何?」

 ゆっくりと頬を摺り寄せる、疲れとは違う弱々しい応じ。

 と共に、身体がぐるりと回った。

 気づけば背中にカーペットの感触があり、こつりと合わされた額の先には、妙に艶めいた兄の顔。

 気持ち悪いくらい優しい眼差しにくすりと笑った里理は、

「ベッドまで、連れて行って?」

 まるで恋人へ囁く口振りで、肩から首へと移動していた腕の力を強めた。

「…………」

 無言で頷く奏。

 客商売で精も根も尽き果てる――いつしか冗談交じりに愚痴った言葉はどこへやら、奏は無理な体勢から里理の身体を持ち上げた。

 そうして向かったのは……

 あれ? どうして私のベッドじゃないんだろう?

 疑問に思う心はあれど、指摘しなかった里理は、自室の隣、奏の部屋のベッドの上に下ろされた。

「ありがとう」

 首から腕を離し、一応、礼は言っておく。

「さと……」

 すると、顔の両側へ手をついた奏の揺らめく、ライトブラウンの瞳が近づき。

「奏お兄ちゃん……」

 これへ、ふ……と珍しく笑んだ里理。

 まあ、今だけは、愛想よくしてやろう。

 尊大な思いは胸に留め、奏の顔を見つめながら。

「おやすみ」

 と告げて、目を閉じた。

 動かない足では寝室に行けない、かといってソファで寝るのは嫌。

 そんな理由で兄を使った里理は、「え?」と肩透かし喰らったような誰かの声も聞かず、深い眠りの中に陥った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 携帯電話の音で、目が覚めた。

 けれどほぼ同時に音は止み。

「ん……んー…………んん? ケータイ、どこ……」

 携帯電話を求め、重たい仰向けの身体をうつ伏せにしたなら、枕に嗅ぎ取る、慣れない匂い。

 何故だろうと眉を寄せ、両腕を伸ばして上体を起す。

 そのまま座り、ふわふわする頭で大きな欠伸を一つ。

「ふああ…………ふっ……あー、そっか。昨日……んー、深夜だから、今日?」

 兄のベッドで寝たことを思い出し、きょろきょろ辺りを見渡す里理。

 てっきり、あの馬鹿兄のことだから、自分を抱き枕にでもして寝たと思いきや、ベッドの凹みは里理の分だけ。

 いまいちはっきりしない寝起きの頭を掻き、ふと気づいたのは乱れたままの服。

「うわぁ……」

 そういや兄が、格好がどうのと言っていたのを思い出した。

 鈍い動きで、ジャンパーを羽織直し、前に落ちる鬱陶しい髪を後ろへ持っていく。

 次いで、起きる前は動かなかった足に力を入れた。

 よし、動く。

 一つ頷き、不安定なベッドの上で立った。

「と、ととっ」

 バランスを取りつつ、ベッドから降りる。

 里理はそのまま、派手な外見の割に、ベッドと机、箪笥しかない薄青で統一された質素な兄の部屋を後にした。

 ぱたりと戸を閉め、振り返り。

「……あれ?」

 ソファで身を縮ませて眠る、兄の姿を目撃した。

 慣れない場所で寝ているせいか、背もたれへ向けられた表情には苦悶が浮かんでいた。

 ベッド、占領しちゃったから?

 という思いが里理に一瞬だけ、後悔を呼んだが。

 考えてみれば、ベッドに連れて行けと言った、妹の部屋に行かない兄が考えなしなのだ。

 一体どういうつもりだったんだろう?

 あの時の兄の行動の意味が分からず、首だけ傾げた里理は、ふと時計を見やった。

「あー、お昼……」

 随分、眠っていたらしい。

 とりあえず、あと数時間は寝ていても良い兄を、空いたベッドへ誘導しようと近寄りかけ。

「ん?」

 ソファ前のテーブルの上に、ノートとペンが散乱しているのに気づいた。

 興味を惹かれた里理。

 兄を起す前に覗き。

「……うげ。何やっていたんだ、この人」

 思わず、ソファで寝ている後頭部の正気を疑う。

 ノートにはただひたすら“俺は里理のお兄ちゃん”という文が、余白も残さずびっしり書き込まれていた。

 怖いもの見たさで、ぺらぺら捲った里理は、最後のページまで同じ内容であることを知り、ノートを静かに閉じた。

「…………」

 無言で再び兄を見つめる目には、気味が悪いのと同情が半々含まれる。

 自己暗示、あるいは洗脳染みたノートを、肉親のよしみで見なかったことにした里理は、薄手の毛布に包まった肩を叩いた。

「おい、起きろ……じゃない、寝るんだったら、部屋で寝ろー」

「ん…………あー、里理……のあっ!?」

「とぉっ!?」

 こちらを認めるなり、飛び起きた兄に合わせ、里理も大きく跳び退った。

 意味なく構える二人は、しばし視線を交し合い。

「あ……あー…………まだ、昼?」

 最初に元に戻ったのは兄。

 次いで里理は首を振る。

「あ、ああ。だから、部屋で寝ろって言うつもりで――あっ、ケータイ」

 里理が口を開いたなら、タイミングを見計らったように、携帯電話の音が流れてきた。

 そこで自分が起きた理由を思い出した里理、兄には「部屋で寝ろよ」と捨て台詞を残し、着信メロディが鳴り響く自室へ。

 入ってすぐの机の上にあった、間抜け面のマスコット付きの携帯電話を開き、受話ボタンを押す。

 相手も確かめずにスピーカーへ耳をつけては、のろのろ部屋に戻る兄を見送り。

「は――」

「さ、里理!! あんた、今どこ?」

 ノイズ混じりの大音量。

 起き抜けのキツイそれへ、片眼を歪ませてはスピーカーを離し。

「…………恵?」

「恵? じゃないっ! あんた、あの方は今どこに居んの!!?」

「は……あの方ってどの」

 相手の名を口にした里理は、見る見る顔を青くさせていく。

 何せ、すっかり忘れていたのだ。

 電話の相手である間宮恵――友人を、ではない。

 気づけば一瞬で、家に移動していた自分なればこそ、夢だと知らず知らず解釈し、忘れてしまっていた。

 重かった右腕がいつも通り、自由に動くから尚更に。

 とても都合良く、抜け落ちていた。

 恵が後にも先にも、あの方と評すのは彼だけであろう――

 

 「夜」のことを。

 

 


UP 2009/4/30 かなぶん

目次 一夜漬けの日々

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あとがき

そんなわけで、出会いの夜はここまでです。
中途半端にも思える区切りですが、舞台は夜なので朝…じゃなくて昼でひとまず終了です。
なので、あとがきなんぞを少々。


一夜のジョーカー自体はshortにUPしたのが最初ですが、書き始めは出会いの夜1とほぼ同じ内容でした。
あの頃はshort用のつもりだったので、これじゃあ長くなると気づき、要所だけ取り上げてあんな感じに。
発端は仮面の異形が書きたいという、純粋とは程遠いところから。
ついで里璃、エル、奏の順で出来上がっていきます。
実はshort考えた時から、出てこなかっただけで奏はいました。
そうしてshortUPからだいぶ経ち、longの現在があるわけですが、設定を見直しているため、若干shortと違う箇所があります。
特に里璃の年齢。shortの頃は現役女子高生でしたが、「夜」の活動が名前そのまま夜に限られてしまうため、現役は難しいと思い、卒業式を済ませております。
なのに出会いの夜1で、今年度で高校生卒業と語らせている理由は…次の一夜漬けの日々で判明するはずです。とってもインチキ臭い理由ですが、個人的に、こういうところはきっちり教えろよ、とどこかの誰かに言いたい。
そんなこんなで、次に出来上がったのはトヒテ。ある意味一番自由な役回りです。ヒロイン鷲掴みとか。集中注視とか。そのくせ犯罪級の別嬪さん。

さて。
ここで次回・一夜漬けの日々のちょっとした予告なんぞ。
初の「夜」視点があります。男発言の真相が少しだけ判明します。
里璃は色々なことを詰め込まれます。爆弾発言をして自爆したりもします。
トヒテはどこまでもマイペースです。
奏兄の不穏な動きの理由も分かる予定。

ここまで読んでくださった方、お疲れ様です&有難うございました。
一夜のジョーカー 出会いの夜、少しでも楽しんで頂けましたら幸いです。

…ところで、一夜のジョーカーの一夜、「いちや」か「ひとよ」か、どちらが読み方として多いんでしょうか?
大して決めていないのですが、なんとなく個人的に気になります。

2009/4/30 かなぶん

修正 2009/6/22


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