出会いの夜 2
目を開けているはずなのに、見つめる先にあるのは闇そのもの。 動揺して身じろごうにも、何故か身体が動かない。 まるで金縛りにあってしまったかのような不自由に、やっぱりあの箱は、怪奇現象の前触れだったんだと、今更ながらに震えが襲ってきた。 ど、どうしよう…… 里理は困惑に支配され、両手で布を握り締め。 ……あれ? 布? 手中の感触から動きを止めれば、さわさわ背中に何かが触れた。 「ようこそ我が従者よ。永の時、待ちわびたぞ」 次いで届く、耳に馴染みつつ、底冷えする、艶ある心地良い男の声。 益々現状が把握できない里璃は、とりあえず、ぺたぺたと両手を動かし触り。 「……だ、抱き締められてるんですか?」 しっかりした胸板を手触りの良い布越しに確認したなら、声の主の動きがぴたりと止まった。 「……ふむ。言われてみればそうだな。嬉しさの余り抱き締めてしまったが……初対面の男同士がすることではない」 と言いつつ、声の主は里璃を解放せず。 しかも、抱き締めたなら幾ら何でも分かるだろう、当然あるべき感触を綺麗に無視した男発言は、とても切なかった。 内心で、程好く傷ついた里璃、涙を呑んで訴えた。 「……えっと…………そ、そう仰るんでしたら、とっとと離して貰いたいんですけど?」 中途半端な敬語を使ってしまうのは、自分がどういう状況に置かれているか分からない中、相手を刺激するのは好ましくないと思ってのこと。 すると相手は、しばらく黙り、やがて口を開いた。 「そうしたいのは山々だが……久々の人肌ゆえ、離れ難い。しばしの間、許せ、我が従者よ。それに、私は男に興味がない。お前の身の安全は保障しよう」 「……それはどうも」 保障された、ピンポイントで危険と表された部分を思い、性別の訂正を諦める里璃。 大人しくなった彼女をどう思ったのか、声の主は苦しくはない程度に拘束を強めて、溜息を一つ零した。 「可笑しなことだ。どうしたというのだろう、私は。元来、男なぞ触れるモノではないのだが……お前の温もりは酷く安らぐ」 「はあ……」 生返事の裏に、気恥ずかしさを里璃は抱いていた。 抱きつかれる感覚と語る声は、見知らぬ相手であるはずなのに、全てを任せたいほど安定している。 全てを委ねて――寝入りたいと思うほどに。 兄を追っ払った、もとい、見送った時刻は夕方にも満たない。 まだまだ眠る時間には程遠く。 が、声の主がもたらす温度は寝るのに最適だった。 次第にうとうとしてくる瞼を、不可解な状況の自覚でもって押し留める。 襲い掛かる睡魔との連戦に辛くも勝利し続け、ようやく、声の主が里璃を解放した。 しかし、名残の眠気でよろけるように後ろへ下がっては、膝がかくんと力なく曲がる。 そのまま地に伏そうとすると、右腕が捉えられ、腰が引き寄せられた。 踊るような奇妙な格好を取らされ、里璃の目が相手の顔をはっきりと映した。 白磁の仮面と目の部分に嵌め込まれた黒い双眸。 「え……こ、コスプレですか?」 出会い頭に口をついて出た質問。 刺激云々の配慮をすっぱり忘れたのも仕方あるまい。 なにせ相手の格好ときたら、白仮面ばかりか、すらりとした長身に纏う服すら、テレビの夜会やらで、身分どうたら言う人間が着用する代物。 平素でこんな姿の輩、根っから庶民な里璃の周りにはいなかった。 ……一瞬、兄の顔が浮かんだが、アレは規格外だと胸内で除外しておく。 そんな里璃への答えは、傾いだ仮面、口元に穴はなくとも籠もらない声音で紡がれる。 「違う…………もしや、エルから何も聞いておらぬのか?」 不思議そうな驚きを受け、大叔母の名も相まって、里璃は「はあ」と曖昧な肯定をした。
付いて来いと言われた里璃。 流されるまま一歩進んでは、靴下越しのザラリと響く、ひんやりした感触に動きを止めた。 「……こ、ここは?」 ようやく自分が今いる場所を見る余裕の出来た里璃は、ぎこちない動きで左右を見渡した。 先程まであったはずの白い壁やカウンター、時計はなく、石室のような壁が狭い室内にある。 上を向いても石。 下を向いても石――だが、こちらには奇妙な溝が掘り込まれていた。 追えばくるりと一回り、円が描かれていると知り、他にも複雑怪奇な紋様が描かれた中央に、自分が立っていると気付く。 黒く歪んだ溝の色は兎も角として、例えるなら何か……そう、悪魔でも呼び起こす儀式をした跡のような…… 実際、そんな跡なぞ見た憶えはないが。 「どうした?……ああ、靴か」 「え……いや、それもそうなんですけど」 後に続かない里璃を振り返った白仮面は、彼女の混乱を余所に、その理由を勝手に想定。 白い手を翻しては、手品のように白いスリッパを虚空から取り出す。 深海の闇を思わせる色合いの袖は、ほっそりとしていて、とても何かを仕込んでいるとは思えなかった。 声にならない感嘆の声を上げ、素直に拍手しかければ、無駄のない動きで歩み寄る白仮面。 降り立つようにしゃがんでは、里璃の足元へスリッパを置き、立ち上がっては片手を差し出した。 一連の身のこなしの優雅さに、気障ったらしさは微塵もない。 これで相手があの兄だったら、出された手を思いっきりぶっ叩くところ。 「手を。悪いが、今はこれで我慢して貰おう」 「あ、はい、どうも……」 本当に申し訳なさそうな響きが、無表情を貫く仮面から流れ、現状の不可解さを一時忘れて里璃は手を取る。 支えを受けながら、スリッパを履こうとして――引っ込めてしまった。 「……どうした? 何か、気に障ることでも?」 手を取ったまま、白仮面が気遣う口調で首を傾げる。 特に不満はなかった里璃、首を振って答えては、自分の足元を見下ろした。 「いや……スリッパは良いんですけど、すっごく」 靴下越しでも分かる、毛足の長い上質な肌触りのスリッパ。 金額に換算する下世話な思考は持ち合わせていないが、これを気軽に履ける足はなかった。 なにせ、里璃の足は石を踏んでいるのだ。 泥っぽさはないにせよ、本来外にある代物、払いもせず屋内の物に足を入れるのは躊躇いがあった。 と、ここで奇怪なことに気付く。 先程から普通に色々見ているが、光源と為り得るような物が何もない。 手を取られたままの格好で、もう一度、辺りへ視線を巡らせても、灯りどころか窓もなく。 何だか……不気味。 ありえない状況はずっと続いているというのに、新たにもたらされた視覚の異常は、目の前の白仮面より恐ろしく思えた。 不安からつい、手をきゅっと握る。 するとこれをどう捉えたのか、白仮面が膝を立てて礼の形を取り、もう一方の手を里璃の手に重ねた。 「不満があるならば善処しよう。我が従者よ、遠慮はいらぬぞ?」 従者と里璃へ向けて言いつつ、白仮面の行動は当に示すところの従者であり。 ほだされた里璃は、自然と涙腺が緩むのを止められない。 「か、帰りたい……ここ、どこですか? 家に帰してください……」 流石に泣き出しはしなかったものの、起こる震えは止められず。 白仮面から嘆息が為された。 「そう、か……そうだったな。お前はエルから何も聞かされていないのであったな? ここがどういう場所であるのかも……こちらの不手際だ、済まぬ。だが、だからといって帰せる話でもない……兎に角、ここはヒトの身では冷えよう。話はここから出て――」 知らず知らず、里璃の首が振られた。 まるで、ここから一歩でも動けば、二度と家には戻れない、そんな錯覚に陥って。 この様子を受け、白仮面は里璃の手を離した。 急に失った見知らぬ相手の体温に、里璃は動揺してしまい、取り残された己の身を抱き締める。 怖さから蹲りかけた矢先。 「わっ!?」 いきなり抱え上げられた。 次いで身体がすとんと落ち、背と膝裏に自分の体重が掛かった。 左側には心地良い体温を感じ、びっくりしていたなら、下から伸びる白い手。 頬を撫でられて少し下を向けば、白仮面の黒い目にかち合う。 「わ、わわわわわっ!?」 そこでようやく、自分の身体が幼子のように片手で、容易く抱き上げられたのを知った。 知ったは良いが驚いたため、重心が必要以上にぐらつく。 土台の白仮面はぴんと張った背筋を揺るがすことなく、抱え直すように里璃の身体を跳ねさせた。 「あまり動くな。私から落としはしないが、お前から落ちる分には止められんぞ、リリよ」 「! な、なんでその呼び方っ、うわっ!?」 「……だから動くなというに。それも含め、話すのは場所を移してからだ。しばらくの間、大人しくしていろ。身体もだいぶ冷えている……まずは湯浴みが先か」 ゆ、湯浴みって? 言葉自体は何を指すか判別できるが、発想の仕組みが分からない。 とはいえ、抱えられた先で、暴れて落ちるのも間抜けな話。 陥った錯覚もあっさり跳ね除けられた今、里璃に出来ることといえば、白仮面が通ろうとする扉の枠に、頭をぶつけないよう気を付けることだけ。
物言わぬ白仮面は、石室に出てから続く、石造りの螺旋階段を昇り続けていた。 抱きかかえられたままの里璃はといえば。 め、目が回る…… 話す気力もなく、ぐったりと額を白仮面の黒い頭に寄せていた。 一定のリズムを刻む歩く振動は、揺り籠然としていて、気持ち良いくらいなのに。 今度はきちんと、松明の炎が先を等間隔で照らしていたが、それが逆に不安定な陰影を呼び起してしまい。 き、気持ち悪い…… 車や船や飛行機、あらゆる乗り物に乗っても酔わない里璃、今初めてその苦しみを味わっていた。 「気分が優れぬか?」 歩みは決して緩めず、白仮面が里璃の方を向いて問う。 運ばれている身としては、前を見て歩いて欲しいものだが、そんな注意すら出来る余裕もなく、ただ頷いてみせる。 「ふむ」 すると白仮面から考える様子。 瞬間。 「うわっ!?」 またもいきなり視界が変わった。 体重の掛かる部位、感じる体温の場所は変わらないのに、何故か見上げる位置に白い仮面。 肩に頭を預けては、現在の格好を知って赤面した。 それでも白仮面の動きは何ひとつ変わらない。 「目を瞑っておれ。まだそちらの方が楽だろう。しかし……この通路は改築せねばならんな。使用頻度は低いが、我が従者の負担となるのは好ましくない」 ひとり言にしては響く声量。 自分へ向けられている節を感じた里璃は、幾らかマシになった頭で口を開いた。 「あ、あの……」 「どうした?」 返事はあっても、白仮面の顔は前を向いたまま。 さっきこちらを向いたのは、里璃の顔色を見るためだったのだろうか? それは兎も角として。 話は後ですると聞かされてきたが、ずっと気になる単語があった。 それだけは、先に訊いておきたい。 「……我が従者、って、どういう意味ですか?」 「そのままの意味だ」 答えになってない。 いまいち、親切なのか、いい加減なのか分からない相手へ、もう一度、問いかけようとし。 「さて」 「わっ」 またまた何の合図もなしに、身体が担ぎ上げられた。 けれど三回目ともなれば、ぐらつくこともない。 白仮面の支え方は、終始安定していたのだから。 言い変えれば、この単時間で相手への信頼を随分築いた、という話になる。 人見知りの激しい方ではないが、初対面の人間は、必要以上に警戒するきらいがあったにも関わらず。 小さく扉の開く音が聞こえ、視線をそちらへ移した里璃は、咄嗟に目を細め、手で日除けを作る。 闇からぽっかり抜け出たような白を先に見て。 扉をくぐる白仮面に合わせ、頭を低くした里璃は、急に狭まる瞳孔から目を瞑った。 しばらくじっとし。 ゆっくり、目を開いた。 扉を背にした眼前は白い壁。 右左と確認すれば、造りは長い廊下。 シャンデリアや彫刻の類もあり、華やいではいるものの、いかんせん、大抵のモノが白いのはいただけない。 象る陰影しかない白い廊下では、雪でなくとも雪眼になってしまいそうだ。 「……なんだか、目がチカチカする」 数度瞬き、感想を一人ごつ里璃へ、白仮面は興味深そうな声を上げた。 「ふむ? ここも改築すべきか。……トヒテ」 『はい、御前。ここに』 何者かを呼ぶ白仮面に合わせ、やや機械的な少女の声が届く。 しかも至近。 「わっ!?」 声のした方を見た里璃は、そこに今までいなかった姿を認め、軽く仰け反った。 |
UP 2009/2/13 かなぶん
修正 2009/2/27
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