出会いの夜 5

 

 馨しい香りの正体は、カレーだった。

 豪奢なシャンデリアの下、無駄に大きな長方形のテーブルの上に並ぶ、ありとあらゆる種類が集められたカレー。

 具なしの海の家式カレーから、本格的な食器に盛り付けられたカレーまで。

 何の因果か、カレーの下には、ルーが跳べば落とすのが面倒そうな、純白のテーブルクロス。

 そんなカレーの国を演出したと思しき存在は、呆気に取られるばかりの里理へ、自身が着席した前の席を示す。

「リリよ。どうした、座るが良い」

「……サトリですってば。…………し、失礼します」

 カレーと等間隔に並べられた、これまた必要ないと思われる無人の椅子を横目に進み、里理は「夜」の向かいに腰掛けた。

 その際、椅子を引こうとする動きの先を行く動きで、アメジストの瞳を持つトヒテが椅子を引いていた。

 先程から従者と呼ばれ続けているが、扱いは「夜」の客か何かのようだ。

 不審に思う眼は「夜」を真正面から見つめ、口内は鼻腔を擽る匂いの刺激に潤い。

 す……と、相変わらず隙のない優雅な身のこなしで、「夜」は大衆食堂に在りそうなカレーを指した。

「好きな物を好きなだけ食せ。空腹は理解を遅らせるだけだ」

「……はぁ」

 一応、返事をし、ベストポジションに備えられたスプーンを手に取る。

 が、数多あるカレー。

 一体どれを食べたものか分からず、迷い箸ならぬ、迷いスプーンが宙を何度か掬い。

「……どうした? カレーを食したいのではなかったのか?」

「え……と?」

 どこら辺でそういう話になったのか分からず、首を捻れば。

「ふむ? トヒテから、今日の夕食はカレーと決めている旨を聞いたのだが……」

「あー……」

 思い当たったのは、レトロな洋風の造りに圧倒され、慣れ親しんだご飯を思い浮べたこと。

 小さくぼやいたつもりだった。

 それをはっきり聞かれていたと知っては、恥ずかしさを紛らわすように、何も触れていないスプーンで口元を隠した。

「いや……その、今日は、カレーライスだったんです。私が材料煮て市販のルー入れて。仕上げに兄が……とまあ、そんな感じで。決めたというより、決まってたというか」

 言いつつ、段々と腹が立ってきた。

 思い出したのは、頭の湧いた兄が口走った、「俺と里理の共同作業で、可愛い(美味しい)子(カレー)が生まれたぞ!」という、取り付く島のない台詞。

 早い話、里理の作ったレシピ通りのルーを下地に、断りもなく兄が色んなモノを投入しただけなのだが。

 チョコレートに蜂蜜、マヨネーズにソース、ケチャップにチーズ等々、冷蔵庫にある物をいい加減に入れて掻き混ぜ、自分の前に里理へ味見を強要した兄。

 断ったはずなのに、隙を狙って口に突っ込まれたそれは――

 と、物思いに耽る里理の前に、コトリとカレーライスが置かれた。

 何の変哲もない、店にあるようなものでもない、一般家庭で作られたソレ。

 食べろという意味だろうか?

 カレーを視界に入れつつ、上目遣いで「夜」を見たなら、手でどうぞと勧められた。

 そのくせ、肝心の「夜」の前にあるのは、ワイングラスに注がれた赤い液体だけ。

 ワインレッドの深い赤と違う液体は、テレビや雑誌で見た、スッポンの生き血のようにどろりとしたモノであるため、飲みたいとは決して思わないが。

「い、いただきます」

 あまり注視しては、ワイングラスの中身を勧められそうな気がした里理。

 口元からスプーンを離し、カレーへ沈めようとし。

 先程から、じーっと、こちらの手元を、雰囲気だけ興味深く見つめている「夜」に気づいた。

 妙な汗の幻覚が、頬から首にかけて流れていく錯覚に陥る。

 ……ど、毒でも入ってるの?

 生じる疑惑は、注視に耐え切れず沈んだスプーンを、カレーの中で小刻みに泳がせた。

 手が、食べるのを拒んでいた。

 いつまで経ってもカレーを口に入れない里理に対し、溜息に似た声が「夜」から為される。

「……毒なぞ入っておらん」

「!」

「心配せずとも、名に誓ったであろう? お前の眼の届く内では誰も傷つけはせぬと。誰、という中には、お前も入っている」

 図星を衝かれて固まる里理。

 対し、「夜」は気だるげにワイングラスの中身を回す。

 里理が食べるのを待つというより、手にした液体を飲み干す以外の方法で処理すべく、考えを巡らせている風体。

 そんなに不味い代物なのだろうか、いや、そうまでして処理しなければならないのだろうか?

 スプーンはカレーに沈めたまま、今度は「夜」自体を見つめる。

 すると、白い仮面の黒く嵌め込まれた双眸の上、丁度、眉間の辺りが微かな影を作った。

 顔を顰めているらしい。

 アレって仮面……だよね?

 分かりにくい、微々たる変化に、知らず小首を傾げた。

 と、里理の眼がこちらを向いていると、今頃になって気付いた様子の「夜」が、気まずそうに溜息を吐き出した。

 切ない響きにどきりと跳ねた心臓。

 思わず、どうしたのかと問おうとし。

 突如、白い仮面にぱくりと線が入り、そこから牙と赤い口内が薄く覗いた。

「!」

 今の今まで、ただの仮面と思っていたモノが、本物の顔だったと知り、思わず里璃は口を大きく開けて驚いた。

 そんな彼女は蚊帳の外に、意を決したらしい「夜」は、液体をぐびっと煽る。

 液体を注がれた白い仮面は牙と口内を隠し、不味いモノを飲んだ割にテーブルへ戻されたグラスは音一つ立てず。

「…………トヒテ」

『畏まりました』

 名を呼ばれただけのトヒテが、要領を得たとばかりに、すぐさま、グラスを下げ、コップを配置。

 水と思しき液体が注がれたなら、今度は躊躇なく口にする。

 浅い息が「夜」から零れた。

「…………相も変わらず、不味い」

 辛そうに肘掛に肘を置き、頭を支える「夜」。

 はらり、漆黒の髪が動きを追って、一筋、顔に掛かった。

 ふと、「夜」の黒い目が里理を見やった。

「リリよ。斯様に口を開けていては、埃を食す羽目になるぞ」

 これには間髪入れず、傍に控えたトヒテが抗議する。

『畏れながら御前。ワタクシの眼の黒い内は埃なぞ、この食堂には――』

「お前の瞳はオレンジではなかったか、トヒテ」

 指一つでトヒテを招いた「夜」は、彼女のほっそりした顎へその指を滑らせ、己の方を向くよう誘導する。

『御前、そこはそれ、言葉のアヤとして流すのが大人と存じます』

 応じるトヒテは、無表情を貫いた顔のまま、腰を屈めて「夜」の顔に影を落とした。

 妙にドキドキする光景だった。

 注意された口は閉じたものの、絶世の美少女・トヒテが、洗練された紳士然の「夜」に従う姿は、里理の喉を鳴らす。

 何だろう……この、極々自然な――――エロさは。

 別段、目の前で情愛が交わされているわけでも何でもないのに、直視に耐えられない。

 レンタルしたDVDの予期せぬイケナイ場面に驚いたのも束の間、両親や兄が背後にいるのに気づいた時のような……

 そんな独特の気まずさがあった。

「…………」

 静かに、視線をずらす。

 展開される現実から逃避するように、毒かもと勘繰ったカレーを掬う。

 わーおいしそー、と心の中でわざとらしく叫び。

 一口、入れた。

「! こ、この味は…………」

「気に入って頂けたかな?」

 驚きを隠せない里理へ、「夜」の声が静かに届いた。

 先程目を逸らした事実も忘れ、視線をそちらに向けたなら、定位置に戻ったトヒテをバックに、「夜」が頬杖を付く姿がある。

「な……どうして、これ?」

「それを食したかったのではないか? 紛う事なき、お前の家の味という代物を」

「…………」

 言葉を失くして、もう一度、里理はカレーを口に入れた。

 味は、腹が立つほどの絶品である。

 何故腹が立つのかといえば、この味には覚えがあったからだ。

 不意打ちで味見させられた、兄の特性味付け市販ルーと同じ味が。

「……か、カレー泥棒?」

 そんな馬鹿なと思いつつ、「夜」を上目遣いに見たなら、一瞬停止、後。

「ふむ? なかなか面白いことを言う。しかし、そのような趣味に興じる時間なぞ、私にはない。第一、ヒトの食すモノは食べられぬゆえ」

「食べ、られない?」

「ああ。飲料に関しては問題ないのだが」

 頷かれ、思わず里理はテーブル上のカレーを見やった。

 「夜」がこれを食べないなら、この一団はどういう結末を迎えるのか。

 ふと、視界の端にトヒテの姿が映る。

「……もしかして、トヒテが残ったのを食べる、とか?」

 想像してみたが、残り物のカレーを頬張る美少女の姿は、どれだけ首を捻っても出てこず。

「いや。トヒテは何も食せぬ」

「…………え?」

 呟いたひとり言を拾われ、里理の眼が丸くなった。

 返答を期待しない疑問に答えがもたらされたことより、その答え自体に驚いて。

 すると「夜」の方まで若干身じろいだ。

「……トヒテから聞いておらぬのか? ヒトではないと」

「いえ、それは聞きましたけれど……」

「では、中身は見たか?」

「へ? 中身?」

 何を言っているのか分からない顔をしたなら、納得した風体で「夜」が頷いた。

「ふむ……トヒテ」

『はい』

 返事は里理の背後、控えていたアメジストの眼を持つトヒテから。

 静かに里理の隣まで進み出たトヒテへ、「夜」は短く命を下した。

「脱げ」

 ぎょっとする内容に対し、当のトヒテは。

『畏まり――』

「はあっ!? ちょ、ちょっと待って!?」

『ました』

 里理の動揺を余所に、首の後ろへと手を回した。

 しゅるり、紐の解かれる音が続く。

「ま、待って!? ど、どうしてトヒテが脱がなきゃ」

『里理様。申し訳ございませんが、御前の御命令は最優先事項。いかに貴方様が制止を叫ばれようとも、御聞きするわけには参りません――という断りを、このような姿勢で入れること、御許し下さいませ』

 少し前屈みになりつつ、なおもごそごそ背後に回した手を動かすトヒテ。

「ええっ!? ちょ、ちょっと「夜」さん……様? と、兎に角、トヒテに脱げなんて!?」

 決意の固い彼女を知り、命令した当人に取り消しを求めれば、今度はきちんとワインらしい色合いのグラスを取った「夜」が言う。

「敬称は不要だ。「夜」で構わぬ」

「いや、問題はそこじゃなくて!!」

『はい、脱げました』

「!!」

 バックにじゃじゃーんと効果音が付きそうな、機械的でありながら楽しそうな声が隣からやって来た。

 箱の中に詰められたマジシャンが、一瞬にして外へ飛び出す、そんな誇らしげな響き。

 正直、見たくはない。

 見たくはないが、中身なる服の中身を里理へ見せるため、脱いだトヒテをそのままにしておくことは出来なかった。

 特に、真正面にいる「夜」の黒い目が、ワイン以外を映せば、確実に隣の彼女を捉えてしまう。

 服を脱いだ、あられもない姿のトヒテを眺める「夜」。

 想像だけで、激しい動悸に襲われそうだった。

 それとも、こんなことは日常茶飯事なのだろうか。

 軽々しく「脱げ」と言うくらいだし。

 ……だからといって、里理の心が休まる話ではないが。

 恐る恐る、赤か青か、染まる色に迷う顔を、隣のトヒテへと向け。

「……………………………………………………………………………………………………機械?」

『いいえ。電力に依らぬ、絡繰りにございます。形代ですから』

 機械的な声でそう言う隣のトヒテ。

 里理は先程までの焦りも忘れ、まじまじと首から下、曝け出されたトヒテの身体を見た。

 数度瞬き。

 変わらないそこには、トヒテの背後も隙間から覗ける、歯車や螺子、鉄板といった、凡そヒトらしからぬ構造があった。

「……寝取る機能はない…………壊されたって……つまり、そういう?」

 遅れてやってきた、着替え時の「夜」とトヒテのやり取りに対する理解。

 覗き込むように問えば、里理が中身を見たためか、脱いだ服を再び着付けつつ。

『はい。ワタクシには女性の機能はございません。体裁が女性として整えられているだけなのです』

「だから、食べ物も?」

『はい。ワタクシの身体は、定期的にメンテナンスを受ければ、半永久的に稼動致しますので、食物摂取は勿論、燃料補給も不要です』

「そうなんだ……」

 としか、言いようがない。

 トヒテが絡繰り仕立てと分かれば、瞳の色以外、同じ姿形をしている理由も分かる。

 が、何をどうすれば彼女らがこうして動き語れるのか、そちらはさっぱり分からなかった。

 専門家でも何でもない里理、ふと気づいて問う。

「メンテナンスを受ける? あれ? それじゃあ、壊されたってどういう……あ、御免」

『? いかがされましたか、里理様? 謝られる理由にワタクシは心当たりがありません』

「いや……だって、トヒテの仲間だったんでしょ? それなのに、私」

 部外者である自分が、容易く「壊された」と口にしたことを悔やむ。

 彼女らに心があるかは別としても、心ない言葉を吐いてしまったと。

 壊れるとは即ち、人で言う死を意味しているのに。

 大叔母のエルが死んだと聞かされた時、彼女との関係が希薄であった両親は、世間話のように語っていたが、里理はショックを受けていた。

 思い出した感触に下唇を噛む。

 と。

『はあ、そういうことでしたら、御前に仰ってくださいまし。ワタクシはワタクシが幾ら壊れようが全く気にしませんが』

「……トヒテ」

 咎める声が「夜」から為された。

 ゆるゆるそちらを見たなら、纏う気配に不快が含まれる。

 けれど淡々とした調子のトヒテは、言葉として命じられない以上、察する気はない様子で続けた。

『ワタクシはヒトで言うところの、娘ですので』

「……誰の?」

『勿論、御前の』

「…………ぜ、全部?」

『はい、全て。トヒテは御前の娘であり、なおかつ、この屋敷に勤める給仕』

「………………」

 「夜」に謝罪した方が良い、というトヒテの言葉は理解出来た。

 今しがた見た中身を考慮したなら、トヒテの製作者たる「夜」の労苦は、大変なモノだろう。

 自身の作品を、息子や娘と表す話は聞いたことがあるので、その辺も、別段可笑しなことではないが。

 あの、ずらりと並んだトヒテを、「夜」一人が作り上げたと思ったなら。

 なんともなしに、感嘆の息が里理から漏れた。

 

 


UP 2009/3/12 かなぶん

修正 2009/3/31

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