出会いの夜 7

 

 学校からの帰り道、偶然が重なり、遅くまで残らざるを得なかった、夏の夜。

 閑静な住宅街の乏しい電灯を頼りに、家路を急ぐ最中。

 唐突に奪われた光、生温かい闇の中、右腕を節くれ立った手に掴まれ。

 しゃがれた老婆の声で「見つけた」――と。

 身体に注がれる言葉。

 恐怖に竦み、涙で滲んだ視界。

 けれど気がつけば何もなく、あるのはただ、不安定に点滅する灯り。

 我に返り、一目散に逃げ帰ったのは言うまでもなし。

 

 

 

 

 

 あれが大叔母の契約がもたらしたことならば、あの時の不可解な現象も説明がつく。

 知らず擦ったのは、あれが夢ではない証拠とでもいうように、しばらく残った細い手跡の箇所。

 激しい動悸に大きくなる呼吸。

 思い出しただけで、恐怖に苛まれる身体が厭わしい。

 勝手に震える身を落ち着かせようと、額を抑えていた手で逆の腕を掴む。

 しかし、支えを失い安定性を欠いた姿勢では、かえって自分の意識が鮮明になるばかり。

 凍えるような怯えが落ち着こうとする思いを凌駕し。

「……リリ?」

「あっ……」

 深い低音に名を呼ばれたなら、急速に不安が治まった。

 声が零れれば、弛緩し傾ぐ身体。

 テーブルへつんのめる視界に、硬さと衝撃、痛みを思い、里理の目だけがぎゅっと瞑られた。

 だが、額の先にあったのは、テーブルではなく。

「……「夜」?」

 荒く息をついて顔を上げれば、肩を支える「夜」の白い仮面が眼前にあった。

「あ、の……テーブルは?」

 椅子へ戻るよう誘導されつつ、瞬時に消えたテーブルの所在を尋ねた。

 「夜」は里理の身体を椅子に預けると、彼女の額にかかった前髪を見苦しくない程度に払う。

「消した。テーブルを迂回したのでは、倒れるお前を支えられんだろう? 必要であれば、また出現させることも可能だが」

「……魔法?」

「ああ、そうだ。そして――」

 す……と「夜」の手が伸びる。

 反射で大きく震えても、身体が椅子に押し付けられるだけで、逃げ場がない。

 ひたり、白い右手が触れたのは、あの夏の夜、何者かに掴まれた右腕。

「ひっ」

 しゃっくりに似た悲鳴が出たなら、「夜」の手が強く握られた。

 走る激痛に身体が仰け反った――のも束の間。

「これもまた、魔法……御印(みしるし)か、舐めた真似を」

 忌々しいと怒気混じりに吐かれた声音に、痛みが霞んだ。

 「夜」の空いた腕が里理の両肩を椅子に押し付け、慄く黒茶の瞳に黒い双眸が映り。

「済まぬ。気づくのが遅れたな。今、解いてやる」

 ぐっと掴まれた腕が引っ張られた。

「っ!? ぃたっ!? やっ、だ! 痛い痛い痛い痛いぃーっっ!!」

 千切れる感覚。

 もがいても強く押される肩は動かず、右腕はあまりの痛みに痺れる熱しかもたらさず。

 足での抵抗を試みようとしても、いつの間にか膝を割り、間に納まった身体へ出来ることなど何もない。

 もとより、左足は椅子の肘掛に腿を押し付ける形で固定されており、椅子へと上った「夜」の左足は里理の右腿に膝を乗せていて、自由が全く利かない。

 唯一左手だけが里理の意思を汲み、右腕を引く「夜」の腕に爪を立てた。

 布越しに腕の肉を抉る嫌な弾力が届いても、自身の痛みに意識を奪われている里理は気づくことなく。

「……仕舞いだ」

「やっ――――あぅ!?」

 ぶちり、繊維が千切れる音が右腕から鳴った。

 と、同時に、里理の左手の爪が食い込んでいるにも関わらず、大きく振られた「夜」の右腕。

 皮を裂く手触りに慄く間も与えられず、里理の眼が大きく見開かれた。

 叫びに掠れ、荒い息に喘ぐ声が紡がれる。

「な…………に……?」

 唐突に引いた痛みすら判別できない里理は、「夜」の手が握るモノを一心に見つめた。

 彼のモノではない、太い綱状に編まれた、黒く長い――――髪。

 ところどころ、綱から覗く先端には、生々しい肉片が付着していた。

 まるで、無理矢理頭皮から引き千切った髪の毛を思わせるソレに、里理は喉を鳴らして悲鳴を呑み込み。

「御印だ。……所有印ともいうが」

「……しょ、ゆう?」

 ようやく激痛が去ったことを知った里理だが、残滓の痺れは未だ感じられ、問う言葉にも衰弱が表れていた。

 ぐったりと椅子に背を預け、息苦しい喉元の紐を解き、一番上のボタンを外す。

 喘ぐように荒い息が続いたなら、視界の端で、巨大な炎が立ち上った。

「!? ほ……のお?」

 反応出来ない身体に変わり、黒茶の瞳が大きく見開かれる。

「御印を燃やしただけだ。もう二度と、お前に付かぬように……しかし」

 そっと、両頬を包む、大きな手の平の感触。

 熱くも冷たくもないそれは、里理の顔を少しばかり上に向かせた。

 額に陶器の硬さが触れれば、里理の眼前に黒く嵌め込まれた「夜」の瞳があり。

「リリよ……お前…………本当に、男、なのか?」

「…………はあ?」

 妙に掠れた声が掛けられ、里理の表情が、今更何を言っているんだ、と顰められた。

 正直、男だという認識は、「夜」なりの冗談だと思っていた里理。

 もしくは、男と間違われるような服装に対する、一種の嫌味なのかと。

 「夜」が作ったというトヒテの服装を見ていると、女はこういうモノを着るべきだ、と暗に示されている気がした。

 まあ、彼女のシック且つ妖艶な装いは、真似をしろと言われて出来る代物ではないが。

 着替えの最中、「夜」には裸を見られた憶えはなくとも、身体の線はどう見ても女だったはず。

 更に正気を疑う視線を加えたなら、目の錯覚か、「夜」の黒い瞳が潤んだように見えた。

 掠れ目?

 数度瞬かせつつ、徐々に落ち着いた呼吸に息を吐き出し。

「見た通り、ですけど?」

 思いっきり眉間に皺を寄せ、噛み付くように言ってやった。

 すると離れる、「夜」の白い仮面と白い手。

「ああ……そう、だな。女のはずがない……いや、だが、それにしても」

「?」

 爪先から髪の毛先まで、「夜」の視線が這ったように感じられ、里理の眉が益々寄った。

 何をしたいのかさっぱり分からず、とりあえず、寒くなってきた襟元のボタンと紐を直そうと手を当てる。

 そこで気づいたのは、御印とやらが引っぺがされた右腕が、上手く上がらない事実。

 ボタンは何とか掛けられたものの、片手で紐を結び直すのは難しい。

 放ってしまおうかと思った矢先、すっ……と差し出された、大叔母からの手紙。

 右手に持っていたのを、先程の激痛で落としてしまったらしい。

「あ、ありがとう、トヒテ」

 くたりと動く顔を向けると、トヒテは少しだけ傾いだ。

 ちらり、何かを考える素振りの「夜」を目で示し。

『ワタクシが御直し致しますわ。里理様は今の内にエル様からの御手紙を御読み下さいませ。御前が御悩みから開放される前に』

「う、うん……ねえ、トヒテ?」

『はい』

 宣言通り、襟元の紐を直しに掛かるトヒテへ声を掛けたなら、手を休めることなく、フローライトの瞳だけが里理に応じた。

 あれ? このトヒテ、さっき別れたはずじゃ……?

 瞳の色だけが違う、同じ顔のトヒテを不思議に思う傍ら、里理は気になったことを問う。

「その言い方だと……この手紙に魔法が掛けられた理由、知ってるんじゃないの?」

『……推測だけでしたら』

「なら」

 「夜」に教えてあげれば良い――言いかけた里理へ、トヒテは微かに首を振った。

『それはなりません。あくまで推測の域を出ないものですし……何より、ワタクシの読みが的中してしまっては、里璃様の御身が危ぶまれます』

「え……そ、それって」

『ですから、どうぞ、ワタクシめに問われるよりも先に、御手紙を御読み下さいませ』

 無機質な声と無表情は変わらないのに、トヒテから並々ならぬ緊張が伝わってきた。

 すっかり術中に嵌ってしまった里理は、契約云々から読む気を失くしていた、大叔母の手紙の続きを片手で開いた。

 

 

 こう書いても、今更だと思われるかもしれませんが……私は後悔しました。

 勝手に身内を引き合いに出したことを。

 ですが、たとえ全て酒の席でのこととはいえど、契約は契約。

 

 

 酒という字を見て、里理は大叔母に呆れた。

 里理と初めて会った時も、酒を呑んでは失敗した経験が大叔母にはあったのだ。

 気味の悪い思いと痛い思いをしたばかりだが、表出したのは怒りよりも頭痛。

 悪い魔女の正体は、弱いくせに酒好きの学習能力のない人だったらしい。

 契約の内容を思い出せば、非常に凶悪な、傍迷惑な話である。

 溜息を一つ、里理は更に続きへと目を通す。

 

 

 交わしてしまった後では何を言っても無駄でした。

 代わりに差し出せるものも、私にはありません。

 そんな時、「夜」が私の元を尋ねてきたのです。

 昔からの知人ということもあり、話が弾んだ際、彼は私が飾っておいた一枚の写真に目を奪われました。

 そこに写っていたのは、もうお分かりでしょうが、リリ、貴女でした。

 安らぎの眠りと恐怖を植えつける闇の如き「夜」が、貴女の写真を見つめ、震える声音で貴女のことを問う姿は、私にある名案を授けました。

 貴女を従者にしたいと望む「夜」へ、契約の代償を肩代わりするならば、と。

 要は貴女を「夜」に売ったという話なのです。

 

 

「…………」

 この大叔母は……

 いけしゃあしゃあと書かれた内容に、里理の頬が引き攣った。

 青筋を浮かべながら、続く文字を追う。

 

 

 こう言うのも難ですが、貴女にとって、決して悪い話ではないと思うの。

 この手紙を書いた今時分、貴女は十二の頃合だと思うけれど、あと二年経ったら、貴女はあの悪名高き「塊」の下へ――

 いえ、私が元凶なのは、重々承知なのよ?

 でもね、貴女が「夜」の従者になれば、結果として貴女は「塊」なんかの下に行かなくて済むし、他の契約の代償も払う必要がなくなるの。

 だって「夜」は、本当に優れた存在なのですから。

 けれど、ただ一つ、問題があります。

 それは、彼が貴女を“男の従者”として認識している点です。

 だからこそ、私は貴女へ渡すこの手紙に、「夜」でも開けられぬ封じの魔法を施したのです。

 良いですか、リリ。

 悪条件の中では救いと言える、「夜」の従者となることを、貴女は拒めないでしょう。

 ですから、これだけは貴女のためにも守って欲しいのです。

 愚かな大叔母からの、最期の頼みとして。

 

 本当は貴女が女だということを、「夜」には絶対、告げないでください。

 

 理由は……貴女のお国柄、どの段階まで知り得ているのか分からないため、伏せさせて貰いますが、きっとすぐ分かってしまうでしょう。

 ただ一つ、言えることがあるとするならば。

 恥ずかしながら、私は「夜」を“知っている”――ということだけです。

 エル・H・ゼウバライ――――

 

 

 だから男って言われ続けるのは分かったけど……女ってバレちゃ駄目って、どういう意味?

 大体、「夜」を知っていること自体恥ずかしいなら、こうして彼の傍にいる私はどうなるの?

 含みのある文へ首を傾げつつ、里理が大叔母の名まで読み終えた、当にその時。

 里理の手の中にあった手紙が、いきなり燃え上がった。

「うわっ!?」

「! リリっ!?」

 熱くはないが、炎の映像に仰け反る里理。

 何かの悩みを放り投げ、慌てて里理の傍に駆け寄った「夜」は、手紙を失った彼女の左手を優しく包み込んだ。

「火傷は……していないな」

 里理の手の無事に「夜」が安堵の息を吐き出した。

「あ――――っ!」

 対し、里璃はあることに気づき、言葉を呑んだ。

 そんな彼女の様子に気づかなかった「夜」は、里璃から手を離すと、影も形も失せるまで手紙を燃やした虚空を見やった。

「ふむ、どうやら、全て読んで後、燃え尽きるように魔法が仕込まれていたようだ。……して、リリよ。手紙にはなんと――――――リリ?」

 どこまでも深く包み込むような低音が、期待に弾む声を上げる。

 けれど、名の訂正もしない里理は、まだ重い右手で「夜」の右手を弱々しく握り締めた。

 途端、「夜」の気配が重々しくなった。

「……従者に関して、エルはお前に何も教えなかったようだな。主の手に許しもなく気安く触れるとは」

 払いはしないが、侮蔑する響き。

 トヒテからは、機械的な中身であるにも関わらず、ひゅっと息を呑む音が聞こえた。

 けれど、里理は構わず。

「手……怪我?…………私の、せい……?」

 ぬるりと糸を引く錆の色。

 ヒトよりも少しばかり黒ずんだ、ヒトに似た血の雫。

 黒茶の瞳が大きく見開かれて揺れる。

「さっきの……あの髪…………だから?」

「…………リリ?」

 流石に様子がおかしいと感じた「夜」は、掴まれたままの右手は里理に預け、彼女の顎に手を当て、自分の方を向かせた。

 瞳に写る、白い仮面。

 しかし、里理の眼は在らぬ場所を見つめている。

 「夜」は里理の不穏な様子を、腕の傷を受けた罪悪感が原因と察し、仮面の内で諭すように語り掛けた。

「……確かに、アレはお前に付けられた御印だ。だが、お前が悪い訳ではない。この怪我とて、私の不備。……仮だったとはいえ、エルの肩代わりを私がしたというのに、お前を連れ去ろうとした「塊」の愚かな所業のせいだ。お前が悔やむことでは――」

「手当て……しなきゃ…………そう、だ。そう、手当て……」

 「夜」の説得を聞きはしても受け入れず、里璃は虚ろな眼差しで意を決した。

 

 ぴちゃり、響く音。

 

「っ!?」

『御前! 里璃様!?』

 声もなく驚く「夜」と無機質ながら慄きを含んで叫ぶトヒテたち。

 里璃はこれらを耳にしながらも。

 目の前で流れる血。

 その傷口を。

 辿り――――

 

 

 嚥下する。

 

 


UP 2009/4/2 かなぶん

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