出会いの夜 8
――ごめんなさい、ごめんなさい。 泣きじゃくりながら、何度も何度も謝った。 ――さとちゃんがわるかったの。「 」ちゃんはダメだっていったのに。 泣きじゃくりながら、傷ついた身体を何度も何度も揺すった。 自分のせいで、見知らぬ男に傷つけられた身体を。
それは秋の昼下がり。 幼き頃を過ごした、自宅近くにある大きな公園で。 ぬかるみに汚れた落ち葉を取り上げ、彼らは一様に嗤う。 ほら、おまえのかみとおなじいろだ、と。 泣きもしないで無視を決め込めば、つまらないと彼らは別の遊びに向かった。 でも、色素の薄い髪をからかわれた傷は、胸に突き刺さったまま。 そんな時、その男は優しく声をかけてきた。 笑顔まで自然に出るようになったなら、可愛いと言われて、喜んで。 可愛いから、良いところに連れてって上げる――そう、言われて。 でも、周りの大人から言われていた。 知らない人に付いていってはいけないと。 けれど、男は言った。 もう、知らない人じゃないでしょ、僕はさとちゃんがさとちゃんって知ってるよ、と。 言われてみれば、そうかもしれないと思ってしまった。 それでも迷って、丁度来た「彼」を指して。 「 」ちゃんに聞いてからでも良い? 男に、尋ねた。 少し困ったように笑った男は、じゃあ向こうで待っていると言って、公園の駐車場に向かい。 全部話したら、「彼」は駄目だと言った。 髪の毛を悪く言わない「彼」のことを信頼していたから、じゃあ、行けないと伝えてくると言ったなら、馬鹿と言われた。 突拍子のない、短絡的な罵り言葉に、最初は何を言われたのか分からなかった。 だけど、段々理解が追いついて。 さとちゃんのことバカっていう「 」ちゃんなんかだいっきらい! 静止の声も聞かず、男の下へと向かった。 ただし、断るために。 やっぱりいけない――そう伝えたなら、男は残念そうに、そっか、と呟き。 罪悪感を抱いたが、戻ろうと踵を返したその時。 ふわり、翻ったスカートが同じ方向に辿り着く直前。 いきなり、背後から腕が伸びた。 口を塞がれ、両手ごと身体を抱かれ。 倒れた先には、落ち葉に埋もれた柔らかな地面。 痛くはなかったけれど、押し潰す重さが苦しい。 訳も分からず、目だけで背後を追ったなら、そこには優しい笑みを浮かべていた男がいた。 笑って、いた。 酷く澱んだ、歪んだ笑みを浮かべて。 可愛いと、言われた。 一人で公園に来た楽しそうな姿も。 同じ年頃の子を見つけて怯える姿も。 からかわれて泣くのを我慢する姿も。 一人になって泣いた姿も。 声を掛けて強がる姿も。 自分の言葉で一々素直に反応する姿も。 誘われて困る姿も。 すまなそうに断る姿も――
翻ったスカートのふわりと揺れる、まるで誘うような腰つきも。
可愛いから、ずっと見ていた。 だから。 ずっと、可愛がってあげる。 そう、言われて、怖くて、歯が打ち鳴らされたなら、口を塞いでいた手がなくなって。 だけど、声が出ない。 震えることしか出来ない。 今頃になって、「彼」から馬鹿と言われた意味が分かった。 駄目だという「彼」に従わなかった自分は、本当に馬鹿だと思った。 それなのに、だいっきらいと言ってしまった。 だいっきらいと言ってしまったから、こうなったんだろうか。 男は言う。 声を上げないなんて、君は本当に可愛くて良い子だ。 違う。 思い、首を振った。 自分は悪い子だ。 自分は可愛くない子だ。 駄目だと言われたのに、男の下に行って、だいっきらいと言ったのに、望んでる。 誰かが――「彼」が。 気づいて。 助けてくれることを――。 ぴしっと軽い音が響いたのは、そんな時。 男の額に掠り傷を見た。 顰めた顔、押さえた額が持ち上がった先には、「彼」が居て。 ――さとから離れろ。 助けてくれたんだと。 だいっきらいと言ってしまったのに、助けに来てくれたんだと。 思って、涙が浮かんだ。 矢先。
ゴム鞠のように跳ねた身体。
自分の為したことで我に返った男は、それでもなお、連れて行こうとして。 捕まる直前、駐車場に車が一台入って来た。 男は逃げ出し―― でも。 そんなこと、知ったことではない。 どうでも良いことだった。 だって「彼」が、蹴られた未熟な身体が、幹にぶつかって、座った格好のまま、ぐったりしていて。 泥だらけになった身体で傍に駆け寄っては、人を呼ぶことも思いつかず。 ただずっと、彼に謝り続けて、身体を揺すり続け。
その目が薄く開いた時、眩暈を引き起こす安堵に襲われた。 もう一度謝るつもりで口を開いたなら、制し、「彼」は言った。 ――大っ嫌い? 首を振る。 だいすきだと、告げて。 笑おうとする「彼」は、痛みに顔を歪め。 ――じゃあ、手当て、して? どうすれば良いのか分からないと言ったなら、切れた口の端から悪戯っぽく舌先を覗かせ。 ――簡単だ。 「彼」の言葉に、こくり、疑いもせず頷き。 唇を寄せ、ちろりと舐めた。 血の味を知ったなら、内側もと誘われ――
急に開けた視界が捉えたのは、薄暗い向こうにある、赤い布に覆われた天井。 ゆっくり身を起こし、立てた膝に肘をつき、その手で頭を押さえた。 「……夢?…………違う、あれは――」 現実に起こったこと。 そして、今の今まで忘れていた、あまりにも幼い過去の出来事。 なればこそ、「彼」とはあの後どうなってしまったのか、そもそも「彼」とは誰だったのか、思い出せず。 ショックが強かったせいかもしれない。 幼い自分には受け止めきれない、今の自分にとっても喜ばしいことは何もない、犯罪に巻き込まれる一歩手前の状態。 それにより傷つき、ともすれば死んでしまうかもしれなかった、「彼」の姿。 唯一分かっているのは、「彼」は死ななかった、ということだけ。 憶えていないくせに、何故、断言できるのかは知れないが、生きている確信はあり。 他に分かることといえば、たぶん、「彼」は里璃の初恋の相手で―― 「…………ちょ……待て」 誰でもない自分にそう言い、頭の位置にあった手で口元を押さえた。 何やら口の中に、あの時呑み込んだ血の味が残っている気がした。 「ま、ませているというか……」 必死だった気がする。 手当て、と示された行為を続ければ、「彼」は治ると信じ込んでいた。 幼い、自分。 対し――――「彼」は? かなり前の記憶だというのに、鮮明に思い起こされた感触。 真っ赤になった里璃は、「彼」の辿り方を浮べて、ごっくんと喉を鳴らした。 「彼」の詳細は分からないが、男に蹴り飛ばされるような身長を思えば、違和感があった。 里璃より、幾らか年上だったけれど、まだ中学生には満たないはずの「彼」 なのに。 「な、何かの間違い…………いや、でも……あんなの……他に覚えが」 巧かった、とでも表せば良いのだろうか。 未熟な幼い身で交わしたにも関わらず、鉄混じりの柔らかさは、蕩かすほど甘かった。 ついでに思い出したのは、彼氏相手に同様の場面に出くわしても、こんなモンかと冷めていた自分。 ……「彼」とのコトがあったから、二股以上掛けられていても、どうとも思わなかったのかもしれない。 とりあえず、児童に負けてしまった元カレを偲んでおく。 迷わず成仏してくれと、死んでもいない相手へ、片手を縦に翳して祈った。 ふと、そこで気づく、重たい右手。 握ろうとしても、動きが妙にぎこちない。 持ち上げるのが億劫で、左手で手首を掴み、立てた膝の上に置く。 体温や脈はあるため、血が止まっている訳ではない様子。 瞬き数度、首を傾げ。 『…………里璃様』 「!」 感情のない重苦しい少女の声に、はっとしてベッド横を見た。 そこにいたのは、燭台を手にしたビスクドール然の美少女。 イイ感じにつけられた陰影と、貫かれた無表情が、ホラーテイストを醸し出していて、すこぶる気味が悪かった。 悲鳴を上げなかった自分は称讃に値するだろう。 しばらく、蛙を丸まる呑み込んだような青い顔で、美少女と見つめ合った里璃。 炎の匙加減で瞳のフローライトが輝いたなら。 「あ…………ト、ヒテ?」 『…………はい』 思い出す、彼女の正体。 次いで、見渡した室内は、先程、湯浴みが強行された部屋であり、着ている服も、古めかしいワイシャツとズボン。 寝て覚めても、やはり夢ではなかった、「夜」の屋敷にいるのだと知った。 吐きかけた息は呑み込み。 傍に誰かが立っている状態で、そのままベッドにいるのは良くないと判断した里璃は、広いダブルベッドを這い、毛足の長い絨毯に揃えられた靴へ足を下ろした。 すると、フローライトのトヒテが、燭台をサイドテーブルに置き、靴を履かせる素振り。 「いや、自分でやるから」 慌てて足を引っ込める里璃。 けれどトヒテは構わずコレを掴むと、少々強引に靴の中へ足を入れた。 『申し訳ございません。言葉遊びをしている時間がありませんので』 「……何か、あった?」 切羽詰った雰囲気が感情の欠落した声に含まれているのを察し、里璃は眉を寄せた。 これに対し、トヒテはばっと顔を上げた。 『里璃様……憶えて、らっしゃらない……のですか?』 「え…………」 言われて探るのは、そういえば、何故自分はベッドに寝かされているのだろうということ。 しばし、沈黙。 のち。 「…………………………あー……だから、あの夢……」 唇を押さえて、羞恥に頬を染めた里璃。 返される血の匂いと肌の味、舌触りに、心臓が妙な具合に逸った。 あれじゃ、痴女もいいところじゃないか…… 『思い出されましたか?』 「う……うん。…………も、もしかして、「夜」、怒ってるの?」 だから、時間がないのだろうか。 これから物凄い怒りに見舞われる自分を思ったなら、気が重くなった。 相手の魔法とやらを垣間見れば、尚の事。 しかし、トヒテは首を傾げて言う。 『怒って……らっしゃるのとは、また違うと思われますが。どちらかとお尋ねされましたなら、煽られた、とでも申しましょうか。ここしばらくは、従者を迎えられるにあたり、控えられていましたので』 「?」 要領の得ない話に、里璃も同じ角度で首を傾げた。 靴を履かされると次は立つよう指示され、ベストと上着、紐が身に付けられていく。 合間でトヒテは淡々とした声音で言った。 『里璃様、先に伝えておきますが、貴女様はすでに御前の従者となられておいでです』 「え?」 『御前の血を呑まれてしまったでしょう?』 「……うん」 『従者と引き換えに、エル様の借金を肩代わりする御話は、当人の了承を得て始めて成り立つものでした。それまでは期限付きの仮契約だったのです。だからこそ、ワタクシは里璃様にお受けすべきだと申し上げました。あの時点では、拒否することも可能だったからです』 「……でも、血を呑んじゃったら?」 『了承とは、新たな契約。主従とは双方の信頼で成り立つものです。従うべき主、望み足る従者。本来間に在るべきは、物や条件に寄らぬ心……まあ、里璃様に関しましては、肩代わりという枷がありましたから、本来のソレとはまた別かもしれませんが』 「…………」 『ともあれ、そうした契約に必要なのは双方の意思です。なればこそ、主従の契約に必要なのは主となる者の血。主が自らの意思で傷を負い、従者が自らの意思で主の御身より血を飲み下す。これこそが契約』 「自らの意思……」 『御前は自らが傷つくのも厭わず、里璃様から御印を除かれました。そして、里璃様は御前の傷を舐め取られました。御前を癒されたいという御気持ちがひしひしと伝わるほど、丹念に』 「う…………」 そういえば、あの場にはこのトヒテも居たのだと思い出した里璃。 何度思い出しても、自分を阿呆と罵りたくなる情景に、服の皺を伸ばすトヒテを視界に入れつつ、片手で顔を覆い。 この羞恥を払うべく、誘導されて腰掛けた椅子の背後、髪を整え出すトヒテへ尋ねた。 「あの、じゃあどうして、時間がないってことになるの? 大叔母さんの手紙にも期日って書いてあったし、私が従者になる前なら焦るのも分かるけど」 『…………』 ぴくり、髪を梳くトヒテの手が止まった。 不審に思い、振り返ろうと試みるものの、また再開される動きに叶わず。 『……問題は、御前が里璃様を気に入ってらっしゃる、という点なのです。せめてもの救いは、御前が里璃様を殿方と思っていらっしゃること。御前は……葛藤していらっしゃいました。御前の血に含まれる膨大量の魔力により、気を失われた里璃様を抱き留められながら』 「葛藤…………って、一体何を?」 紐が結ばれた感触に、ゆっくり振り向けば、トヒテが項垂れた。 まるで、口にするのも憚れる事だとでも言うように。 顔を上げては、代わりに言う。 『さあ、里璃様。御前の下へ急ぎましょう。……御前が、早まった結論に至ってしまう前に。従者の契約は為されてしまったのですから。気づかれては後が御辛い』 「?」 トヒテの話は今もって理解不能だが、促されては行かない訳にもいくまい。 ここの家主――成り行きで里璃の主とやらになった「夜」へ、目覚めたことを報告するのは、当然のことだ。 非常識な状況下とはいえ、他人の家で気絶し、介抱までされたのだから。 扉を開けたトヒテに促され、部屋を一歩、出て。 けれど瞬間、在ったのは、古ぼけた廊下でもまして真っ白な廊下でもなく。
柔らかく抱きとめる――――闇。 |
UP 2009/4/9 かなぶん
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