一夜漬けの日々 11 まるで話に聞く走馬灯のようだと里璃は思った。
それは、ラブロマンスの一件で破綻しかけた友情が、再びよりを戻して後の事。 発端は「試写会、見に行かない?」という、仲間内では“リスナー投稿の鬼”の異名を持つ、風上祥子(かざかみしょうこ)の誘いだった。 なんでも、投稿の外れ抽選で、偶然にもペアが二枚当たったそうで。 ラジオで外れ抽選なんてあるのかと里璃が驚けば、もっと驚く事に、この抽選はそれぞれ別の番組で為されたものらしい。 この誘いに受けて立ったのは里璃と、復縁したばかりの薫。 もう一人は別に誘うという祥子の下、三人は当日に待ち合わせをする。 試写会=タダの方程式につられ、肝心の映画の内容には目もくれずに。 そして迎えた当日の昼。 よりにもよって、見知らぬ男をこの場に呼んでいた祥子。 問い詰めれば、大学生の彼とのデートをカモフラージュするため、里璃たちを誘ったのだと、実にあっさりと白状した。 けれど、里璃と薫は怒りもせず、仕方ないと納得。 特に里璃は、殊更深い理解を示したものだ。 鬱陶しさは里璃の兄に負ける、と前置く祥子にも、双子のシスコン兄がいるのだから。 ……そんな双子にも勝てる、自分の兄のシスコンぶりは、他方にすっ飛ばしておくとして。 ただ、一つだけ気になる点があるとすれば、待ち合わせの場所で祥子と共にいた里璃に対する、彼氏の険悪な態度。 しかも、薫がやってくるなり、軟化させたのを鑑みるに。
「絶対アレ、里璃のこと、男だと思ってるよね」 「……止めて。わざわざ言わないで」 わざわざカップルの傍に座る野暮な気もなく離れて座れば、パンフレットやアンケート用紙の入ったファイルを口元に当て、くつくつ薫が笑い出した。 「祥子が誤解だって言わなきゃ、ダブルデートだ、とかさ」 「……何の嫌がらせですか、薫サン」 じろりと睨んだ里璃に、薫は謝るどころか、似た視線でじろりとこちらを睨みつけてくる。 怯まず受け止めたなら、透明なファイルから見える試写会のパンフをこちらへ向け。 「よい事、里璃君? お願いだから笑わないでね。もしも笑ったら……このアンケート用紙に引っ掛けてあるペンで、貴方を刺し殺すから。本気よ、私」 「あー……はいはい」 言っていることはどこまでも冗談だが、目はどこまでも本気(マジ)だった。 つい出そうになる溜息を呑み込んだ里璃は、自分の手元にあるパンフへ目を落とした。 書かれているタイトルは、どこかで見た表紙と同じ文字・同じ形式。 そう、この映画の原作は、いつぞや薫が目の前で読めと強要し、里璃が目の前で爆笑してみせた、あの、曰くつきのラブストーリー。 経緯を知らない祥子の前では、にこにこ沈黙を保っていた薫だが、二人っきりになれば遠慮がない。 半ば辟易した思いで隣の殺気を受け止める里璃は、だったら何故、試写会の内容を聞いたり、調べたりしなかったんだろうと思った。 実は里璃、これが何の試写会であるか、事前に凡その検討を付けていた。 とはいえ、素直にそんな事を薫へ告げたなら、どうして来たのかと文句を言われるのは必至。 なので、里璃は薫の恨みがましい視線を受けつつ、大人しく上映を待ち。
元より里璃は、大笑いするために、この映画を見に来たわけではなかった。
試写を終えるなりメールだけで解散を宣言した、門限まで本格デートと洒落込む祥子を詰りつつ、近くのファミレスに入った二人。 薫がテキパキ注文を取る向かいで、里璃はアイスコーヒーだけを頼み。 「…………………………あのさ、一つ、聞いてもいい?」 「……ん」 小さく頷けば、頬杖をついた薫が眉間に皺を寄せて問う。 「里璃さ、大笑いしたはずよね、あの話。それなのに………………どうして、いつまでも泣いているの?」 「だ、だって……可哀相だよっ、ハッピーエンドだったとしてもさっ」 ハンカチで目元を押さえた里璃は鼻を啜り、自分が泣くに至る映画の感想を、途切れ途切れ述べていく。 これを嫌な顔一つせず、真面目に聞いてくれる薫だが、眉間の皺は刻まれたまま。 全てを語り終え、アイスコーヒーが里璃の前にやってくると、深い、それはそれは深ぁーい溜息が薫から吐き出された。 「うんうん。分かるよ? 里璃が感動したところ、正直言って、私も泣きそうになったからさ」 ブラックのままアイスコーヒーを飲む里璃に対し、優雅にケーキセットを頼んだ薫は、トッピングされた苺をフォークで刺すと、行儀悪くそれでこちらを指してきた。 「だ・け・ど! それなのにあんた、どうして小説じゃ、あんなに大笑いしたのよ! 映画なんて尺の関係上、辻褄合わせで原作より物足りないくらいなのに!」 言って、映画の不平不満をぶちまけていく。 薫の熱い語りを聞いた里璃は、やはり嫌な顔をせず、それどころかあのシーンには、そういう裏があったのかとまたしてもハンカチを濡らす。 この様子に、薫の頬がひくりと引き攣った。 「里璃って、活字嫌いじゃないはずでしょ? 貸し出した別の小説は、普通に感想言ってたくらいだし。なのに……もしかして、飛ばし読みでもしてたの?」 相澤薫という少女は、本を読む際、最後にあとがきへ辿り着く、順序正しい読み方を好んでいた。 彼女に言わせれば、構成上でもないのに、結末を先に知ろうとする飛ばし読みは邪道らしい。 ゆえに、段々と吊り上っていく眦を知り、里璃は涙を強引に止めると、慌てて首を振った。 「や、違うから。ちゃんと読んだよ? でもさ、何ていうか……たぶん私、想像力が貧困なんだよ。たとえばさ、メインの男の人、元・アメフト選手で体格がいい、みたいな表現だったけど、私の知っているアメフト選手って、中に防具みたいなの着込んでいるでしょ? だからどれだけ想像しても、ずんぐりむっくりな体型になっちゃうんだ。それに女の人も、アーモンド形の眼って言われてもさ、色んな形があるわけじゃない? 幾らその後に美人、とか付け加えられても、目の形が気になって気になって」 「……要するに、人物像が上手く描けない?」 「うん。……あと、喋り方? バリトンって表現される声がどんなものか分からないのに、歯の浮きそうな口説き文句ばかり並べててさ。それで目が真剣って……どう頑張っても三文芝居にしか思えないじゃない」 「ぐっ……随分な酷評をしてくれるじゃないの。大体、そういうのは自分の好みで想像するモノでしょうが」 「だから、想像力が貧困だって言ってるんだって。薫こそ、ちょっと想像してみてよ。ずんぐりむっくりな体型の人が、アーモンドの目をした女の人を熱心に口説いている場面」 「…………なるほどね。そりゃ、シュールなコメディにしか感じられないわけだ」 比較的簡単に納得をしてくれた薫を前に、里璃はほっと一息つき。 「でも、映画だったら想像力も必要ないから、私だって薫と同じように楽しむことが出来るんだ」 腫れぼったくなってしまった目で微笑む。 常日頃、男と間違われる里璃とて列記とした女である。 恋愛モノを楽しみたい心は薫と同じように持っており、なればこそ、この話をちゃんと見たかったのだ。 それが映画の内容を知りつつも、里璃が試写会に来た理由。 すると、里璃の告白に虚を衝かれたような目をした薫は、次の瞬間、底意地悪くにやりと笑った。 「同じ、ねぇ? 悪いけど、私は里璃君ほど泣いていないわよ?」 「ええっ!? 薫って意外と冷血漢! どうして? すっごく泣けたよ?」 「……初見で大爆笑した奴の言う台詞じゃないから」 里璃の非難もどこ吹く風。 涼しい顔でケーキを頬張る薫に里璃は二の句も告げず、押し黙り―― その後、もう一度読めと渡された映画の原作本だが、結局里璃は笑ってしまい、呆れた薫は二度とを本を貸さない代わりに、映画へ誘ってくれるようになった。 けれどそれも、薫に彼氏が出来るまでの話……
駆け巡った過去の先に、シックな色合いの赤い布の天井を見る。 「……女の友情って世知辛い」 何気なくぽつりと呟いた里璃は、溜息一つ、さてここはどこだろうと仰向けの身体を横に倒し。 「女の友情? 何の話だ、リリよ」 「っ、よ、「夜」!?」 座る「夜」の姿を横倒しの視界に入れた途端、里璃は慌てて起き上がった。 が。 「あうっ」 突然の動作についていけなかった身体が、眩暈を起こして里璃を元の場所に引き摺り込む。 いつの間に解けていたのか、纏められていない色素の薄い髪が、後を追って周囲に散らばった。 主人を前にしてみせる無様な姿に、微かな憤りを感じる。 情けない自分を叱咤し、眩暈の中でも起き上がろうとすれば、その身を抱くように黒い腕が里璃の動きを阻んだ。 「無理をするな。我が従者になったとはいえ、お前の身はヒトの時間を終えるまで、彼らに近しい。我が力も碌に与えていない状態では、尚の事」 「「夜」……」 ぐっと沈む身体。 里璃を寝かしつけるため、身を乗り出した「夜」の片膝が、ベッドに沈んでいるのだと知れば、今頃になって、この場所への理解が為された。 昨日、里理に宛がわれた部屋の、天蓋つきのベッドの上だと。 ゆっくりと身体が下ろされ、頭と肩の後ろから腕が離れたなら、またもベッドの上でかち合う、嵌め込まれた黒い瞳に、里璃の顔が緊張で赤くなった。 けれど「夜」は里璃の頬に掛かった髪を払うなり、元の位置へと戻って座る。 何か言わねばとまごつく口。 しばらく後、ようやく里璃から出た言葉は。 「す、すみません。お手を煩わせてしまって」 「構わん…………と、言いたいところだが」 「へ?」 寝転がったままでいることに、少なからず罪悪感を抱いていた里璃は、区切られた「夜」の言葉にどくりと嫌な心音を感じた。 これを見届けたように頷いた「夜」は、疲労を感じさせる雰囲気で溜息をついた。 「トヒテが、な」 「トヒテ……? そういえば、彼女はどこに?」 段々、把握出来てきた状況に、視線だけを動かし、メイド姿の美少女を探す。 連続爆笑の果て、気を失ってしまったと思しき自分なら、看病は昨日のように彼女がしているはずだろう。 だというのに、この部屋にいるのは、「夜」と里璃だけ。 「トヒテの身に、何か……あったんですか?」 青褪める里璃の頭に、トヒテを襲い「夜」から排除された男の図はない。 ただ、トヒテの身だけを案じる姿がそこにはあり。 「ふむ。まあ、大事はない」 「夜」はそう言い置き。 「ただ、お前がひきつけを起したと、酷く混乱していてな。騒がしかったので、一時、動力の供給を封じたのだ」 「……え? そ、それって、大丈夫なんですか?」 確か「夜」にとって、トヒテは大事な娘だったはず。 なのに素っ気なく、トヒテの命ともいうべき動力を断ったと告げられ、僅かに里璃の頭が上がった。 これへ手で制止を示した「夜」は、緩慢な動作で首を縦に振る。 「平気だとも。問題があるとすれば、小一時間ほど、トヒテの動きが止まってしまう事ぐらいだ。……それよりもリリ。お前の方こそ身体に不調はないか? トヒテは形代ゆえ、動力源さえ破損していなければ身体を交換して済む話だが、生身のお前はそうもゆくまい」 魔力の結晶が嵌め込まれるシーンを見ているため、身体の交換という言葉は、すんなりと里璃の頭に入った。 「はい……いえ、大丈夫です」 トヒテの無事を知らされ、安堵した里璃は、次いで枕に頭を沈めつつ「夜」を見やる。 「あの、「夜」? トヒテが動かないなら、もしかして、私を運んで下さったのは……」 「無論、私だ。トヒテから私がどこへ何をしに行ったか、知らされただろうが――」 確認する声音に、おずおず頷く里璃。 「夜」は短い息を吐くと、肘掛に肘をついて頬杖をついた。 「とはいえ、昨日の今日。私とて、乗り気でない時くらいある」 この言葉を受け、内心で首が傾いだ。 トヒテは「夜」の退室を、里理に煽られたため、と言っていたのだが。 まさか……見栄? もう一つトヒテに言われた事を思い出し、はっとする。 女のところへ赴いたは良いが、断られてしまったのではなかろうか? だとすれば、なんだか切ない。 従者の前で体裁を取り繕う主人を思い、里璃はちょっぴり涙ぐむ。 「そうして別の用を済ませておれば、お前の様子が可笑しいと感じてな。戻ってみれば……どうした、リリ? 辛そうな顔をしておるぞ?」 「い、いえ! ちょっと、目にゴミが」 馬鹿正直に答えるわけにもいくまい。 「夜」が隠そうとしているなら、見栄を張らないで欲しい、などと言えないのだ。 主人の矜持に傷をつけるような真似は、決して。 その代わり、従者としての勤めを必ずや果たそう。 ひっそり、主人の見栄張りを応援しよう。 里璃はそう、心に誓い。 そんな彼女の思いを知る由もない「夜」は、何を思ったのか、一つ頷き。 「そうだな。ここで休むより、あちらで休む方がお前には楽やもしれん。トヒテもしばらく動かぬ事であるし…………何より男と二人きりなぞ」 最後は低く、底冷えする呻き混じりに小さく呟かれ、里璃の身体が震えた。 続く言葉は濁されたが、聞いて楽しいモノでない事は確実。 少々強張りを見せる顔で沈黙すれば、一人で話を完結させた「夜」が、そっと里璃へ手を伸ばした。 不穏な声と相まってついビクつけれど、「夜」は気にせず、さらりと里璃の額を撫でた。 「リリ。我が従者。今日はゆるりと休むが良い。明日、また会おうぞ」 一転した柔らかな音色に、自然と目を閉じれば、ふわりとした浮遊感が訪れ――。
静かに瞼を開け、瞬きを繰り返す。 先程まで、柔らかなベッドに在った身体が、触り慣れた家のソファに寝転がっていると知り、ぼんやりした面持ちで里璃は上半身を起した。 背もたれに鈍い頭を預け、ちらりと見やった時計は、昨日の帰宅より若干早い時間。 しばらく、じっとしてみたが、昨日のような現象は起こらず、やはりあれこそが従者になった副作用と知る。 「……お風呂、入らなきゃ」 昨日は「夜」の屋敷で御湯を貰ったが、今日は違う。 口にした動作を求め、里璃はソファから離れた。
自室にアクセサリーを置き、脱衣所へ。 着替えを籠へ放り、ブラウスのボタンを緩慢な動きで外す。 露わになる豊かなラインを尻目にジーパンを脱ぎ、下着を取っ払う。 洗面所に映る変わらない裸体には目もくれず、続け様に手を伸ばしたところではたと気づいた。 髪……解けていたのに…………これが変身ってことなのかな? 触れたのは、従者姿の時とは違う種類の、髪を結わえた紐。 不思議な感覚にぽけっとしながら、髪を解いては、紐を腕に巻きつけて浴室へ入り。 蛇口を捻って噴出す熱いシャワーに、しばしその身を浸した。 肌に絡みつく髪を洗い、結い上げては顔を洗い、身体を洗い…… 浴室を出る直前、結った髪を解けば、水滴がぱたぱたと足下に散った。 これを踏みしめ、少しばかり火照った身体を脱衣所の室温に晒す。 水気を拭いて息を零したなら、徐々に覚醒していく意識。 流石に二度目ともなれば、疑う余地はないものの。 「……けど他に、これといって、変なところはないよなぁ…………」 拭く傍らで自分の身体を眺めた里璃は、タオルで髪を纏め上げ、洗面台の鏡にも背を映す。 当然というべきか、特に変調のない背中に自然と首が傾いだ。 「従者とか、不老長寿とか……これじゃあ言われてもピンと来なくて当たり前――っくしゅっ」 冬ほどでなくとも、春先の寒さに当たり、喚起されるくしゃみ。 鼻をかみつつ、パジャマを急いで着た里璃は、くずつく鼻を啜り、ドライヤーで色素の薄い長い髪を乾かしていく。 程なく、温かい風と時間帯に誘われ、欠伸が一つ。 少しばかり湿り気が残る髪を緩く紐で纏め、肩にタオルを掛けては、居間へと戻り。 「おあっ」 「うおぅっ!?」 居間と脱衣所を遮る扉を開けた途端、ばったり、兄と出くわした。 小脇に着替えを抱えているため、風呂に入るつもりだったのだろう。 あと少し、出るのが遅れていたら…… 裸体を晒す事態も、勿論、歓迎するモノではないが、鏡の前でポーズを取っているところを見られたなら、しばらく立ち直れそうになかった。 危ない危ないと安堵する声は胸に置き。 「帰ってたんだ」 「あ、ああ。ついさっき……里璃こそ、寝ていなかった……のか?」 ひと目で疲れていると分かる兄の、やつれたライトブラウンの視線が、仰け反った格好のまま、里璃の身体を上下した。 次いで、あからさまに逸らされた目に対し、一瞬眉を顰めた里璃は、トヒテの言葉を思い出して固まった。 “御ニィ様は里璃様に欲情したはずなのです!” 他の言葉で良かったものを、最後に言われた露骨な表現が浮かび、里璃の喉が静かに鳴った。 従者の副作用とやらは、昨日で終わりを迎えている。 けれど。 「あっ。あー……そういや、聞きたいことがあるんだけど」 「え、あ、うん。なんだ?」 不自然な空気と格好を継続し、前置けばぎこちなく頷く兄。 やはり、副作用による一連の行動は、彼の中で後を引いているらしい。 関節的な原因だったとしても、魔法云々を語るつもりのない里璃は謝る事なぞ出来ず。 軽く唇を噛んで意を決しては、愛想笑おうとする頬を内で噛み、不可解だと眉を顰めた。 「昼に起きた時、なんでお前の部屋にいたんだ?」 「へ……? お、憶えていないのか?」 「何を?」 「な、何をって……お前…………」 若干脱力を見せる兄に対し、もう一押しだと里璃は腹に力を込めた。 正直に告げられない以上、この妙な空気を取っ払うには、何も憶えていないよう振舞うしかない。 たぶん、この、極度の兄バカは、里璃が「夜」に関する事全てを話しても、素直に受け入れてくれるだろう。 だが、決して納得はしまい。 幾ら里璃を男と勘違いしているとはいえ、「夜」が色好みと知れば、契約を無視して従者を止めるよう働きかけるはずだ。 こちらの知識がなくとも、兄だったらきっと、何とかしてしまう予感があった。 すると問題は、「塊」が里璃を狙いやすくなる事ではなく、契約を無視された「夜」。 完璧、男である兄に、里璃の主が手加減する場面なぞ、どう頑張っても描けなかった。 兄のシスコンぶりには、日頃ドン引きしていても、そこは肉親、案じる心は里璃にだってある。 なので、ここは誤魔化すしか在らず。 「いや、それが昨日、ソファで寝てたみたいでさ。んで、何か落ちた気がして、ソファみたいなのにしがみついた憶えはあるんだけど……寝惚けててよく憶えていないんだよ」 「そ、ソファ……ソファに間違えられた? でも、奏お兄ちゃんって……」 「げっ。んな寝言、言ってたのか?……何の夢見てたんだろ?」 「ね、寝言……? しかも夢まで憶えてない?」 何やら貧相な声で途方に暮れる兄へ、里璃は申し訳なさ半分、気持ち悪さ半分を抱く。 かといって、彼の言葉は全て拾わず、しきりに首を捻ってみせた。 「本当、何でだ? 寝惚けたまま自分の部屋に行くならまだしも、どうしてわざわざ、この私が、お前の部屋なんかで寝てなきゃならないのかなぁ?」 これだけふれば、あとは勝手に兄が理由をつけるだろうが、最後の口調がキツめなのには訳があった。 間違っても「それは里璃が部屋を間違えたんだよ〜」という話の流れに持っていかせないためである。 従者の副作用に当てられてしまった兄は可哀相だが、一歩間違えば、里璃の方が悲惨な結末を迎えていたのだ。 冗談でも、里璃自身が望んだように語られては堪らない。 視線にもありったけの悪意を込めて兄を睨めば、虚を衝かれたような顔となった彼は、一転、ふっと笑いかけてきた。 見透かされた気分に陥るソレを受け、里璃が内心たじろぐと、兄はいつのもの調子まで笑みを深めておどけて言う。 「そりゃ勿論、父さん母さんもいないし、これ見よがしにリリちゃんを美味しく頂いちゃおうかと」 「っ!」 予想だにしなかった返答を受け、里璃の身体が総毛立った。 昼間見たノートに、あれだけ自己暗示をしておいて、気安く口にする下世話な発想に泣けてきた。 ああ、見直したのに、折角、褒めてやったのに――目の前ではないけれど。 「っの、変態糞野郎!」 「ふぐ」 予備動作のない蹴りが、兄の腹に決まる。 見た目貧弱なくせに、しっかりついた腹筋の硬さを足裏に感じ、酷く哀しい思いを抱けば、肩に掛けていたタオルで呻く顔面を思いっきり叩いた。 続け様の攻撃に、兄の着替えがばさりと床に散らばった 「ぅべっ……り、リリちゃん、お兄ちゃん、お仕事終わって疲れてるんだけど。くれるんなら、せめて熱い抱擁を――」 「やかましいっ!」 去り際、情けなく振り向く顔の尻へ、後ろ向きの蹴りを見舞った里璃は、前へよろけてシクシクふざける姿に指を突きつけた。 「何が、お兄ちゃん、だ! そんなに兄でいたけりゃ、冗談でも妙な事を口走るな、この色ボケ!」 「し、しっどぉい……ちょっとしたお茶目だったのに」 「くどい! 鏡で自分の面見て、茶目っ気出してイイ齢かどうか、よぉく考えるんだな、このハゲっ!」 「は、ハゲてないよ、俺!」 「じゃあ、予備軍、有望株!」 「う、ううううう……い、妹が苛めるよぉ」 叩いたタオルへめそめそ愚痴る兄に対し、鼻息も荒く思いつく限りの罵詈雑言を投げかけた里璃は、その勢いで自室へ入り、扉を荒々しく閉めた。
しばし、時を置き。 タオルの中に、ふっと吐き出される息。 「…………やれやれ。深夜のアパートなのに。ま、俺もちょっぴりからかいが過ぎた、かな?」 言いつつ、散乱した自分の着替えを見やった奏は、眼を和ませてうっとりとタオルへ頬ずる。 漂う、シャンプー混じりの髪の香りに、くつくつ笑い声を零し。 「初心で可愛い、僕の愛しい妹チャン? 昨日のアレは確かに驚いたケド、お兄ちゃんはなんでも御見通しなのヨン。ヘタな嘘つかないで、キチンと説明してくれれば良いのに。本当に、里璃は優しい子だよねぇ。だからまだ、許してア・ゲ・ル…………奴の――」 柔らかなタオル生地に埋もれた瞳が、す……と細められた。 ライトブラウンの瞳孔に、少しばかり青い光が滲み。 くぐもった声が告げる。
「「夜」の下に、お前が居る事を…………………………くっ、くくくくくくく」
霧散する言葉に一通り笑った奏は、タオルを肩に引っ掛け、服をせかせか拾い集め。 「なんたって俺は、里璃のお兄ちゃん、だからさ?」 苦笑しつつ気楽に言ってのけては、ちらりと里璃の部屋へ視線を寄せ、後は振り返る事なく脱衣所へ入る。 |
2009/8/5 かなぶん
修正 2009/9/24
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あとがき
そんなわけで、一夜漬けの日々はここまで。
なので、あとがきなんかをおひとつ。
一夜漬けの日々…ぶっちゃけると、以降のお話をスムーズに進めるためのワンクッションでした。
いちいち教わっている形式取るよりも、里璃が全部知った上で説明をちょこちょこ出した方が良いかな、と思いまして。
日々と言いつつ一日だけでしたが、こんな感じで次のお話まで、里璃が学んでいくというお話です。
地味に里璃のお友達が明かされてきましたが、今後、彼女らが「夜」に知人として紹介される事はありません。
ちなみに、小説に関して里璃が何やら語っておりますが、またも笑ってしまった通り、あれが理由ではありません。
実際はただ単に、映画だったら問題ないけど、文章で描かれるラブロマンスは無理、というわけだったりします。
尤もらしく語っているのは、そっちの方が波風立たないと踏んでの事でした。
想像力貧困を自称するくせに、他の小説は問題なく読める点は、奇妙ですからして。
さて。
ここで次回・常夜ノ刻のちょっとした予告なんぞ。
屋敷の外に出ます。
その前に里璃がちょっぴり問題発言と行動を起したり。
「夜」もちょっぴりダメージ喰らいます。
新キャラも程好く出てきたり予定。
ここまで読んでくださった方、お疲れ様です&有難うございました。
一夜のジョーカー 一夜漬けの日々、少しでも楽しんで頂けましたら幸いです。
…あんな終わり方して触れないのも難ですので、一言だけ。
次回、彼の出番はありません。 以上!
2009/8/5 かなぶん
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