一夜漬けの日々 2

 恵と別れてから、ぶらぶらその辺で時間を潰した里理。

 妙な寝方をしたせいか、はたまた昼に起きたせいか、ぼーっとした頭で景色を流し見。

 いつの間にやら薄っすら橙に染まる空を認め、追われるように帰路へつく。

 と、兄が丁度出勤するところに出くわした。

 里理の姿を見ると、常はじゃれつく鬱陶しい兄。

 しかし、今日は何故か硬直し。

「じゃ、じゃあ里理。お兄ちゃん、行くから」

 上擦った声でそそくさと出て行った。

 いつもよりまともな兄の様子に、里理は首を捻り。

 

 

 

 

 

 一人きり、夕食を終えた里理はソファに座り、クッションを抱え、ほぅ……と一息ついた。

「やっぱり、夢……だったのかな?」

 なんともなしに天井を見上げたが、特に代わり映えしない白がそこにあるだけ。

 見慣れた日常の風景を半日満喫したせいか、段々、「夜」に関わる全てが、幻のように思えてくる。

 恵の事にしても、「夜」の話がなければ、ありふれた一コマ。

 思い、目を閉じる。

 見える闇は、「夜」に出迎えられた時の、彼の礼服の色に部屋の灯りを滲ませた代物。

 なればこそ、あの時里璃が見た色は、今と同じく目を閉じ、現れたものではないのか。

 「夜」の事自体、やはり夢だったのではないか――

 そう思わせるのに十分の眼前の闇は、薄く開いた瞼向こう、光の亀裂であっさり消え失せた。

 まるで、夢を根こそぎ奪い取る、朝の光を見た気分で、眩む目を数度瞬かせ。

 正面に首を戻した里理は、受身も取らず、そのままソファに寝転がった。

 拍子で零れる、不満げな声を聞き、黒茶の眼が一瞬真ん丸くなる。

 私……もしかして、期待、していたのかな?

 きゅっと切なく鳴いた胸の思いは、落胆を表していた。

 苦しい、と胸を掻く代わりに、クッションを締め上げた。

 張りつめた柔らかさに顔を摺り寄せては、夕食前の自分の行動を思い出す。

 

 

 兄を見送って後、ソファでゴロゴロ過ごしていた里理だが、怠惰な様とは裏腹に、心はソワソワしっぱなしだった。

 何をしても落ち着かず、テレビをつけても雑誌を手にしても、内容が頭に入ってこない。

 そうこうしている内に鳴る腹の音。

 最初の一回は無視し、きゅうっと締まる胃も知らなかったこととし、連続で鳴り響いたところで、ようやく面倒臭そうに立ち上がった。

 テーブルの上には、恵と話していたせいでもあるまいに、絶妙な焼け具合の魚がある。

 行く前に兄が焼いたと思しきソレ。

 兄が料理当番の時はいつも、在っても即行で捨てる、奴曰く「愛の手紙」が置いてあるのだが、今日に限ってはないらしい。

 けれど不思議に思う心なぞ里理にはなかった。

 あるのはただ、言い知れぬ不愉快な気分と不安。

 お陰で、味の補償だけはして良い、兄の料理を大して味わえずに箸を起き。

 

 

 今にして思えば、あの時の行動は、「夜」のところへ召還された時刻と条件を、可能な限り昨日と同じにしておきたかったのだろう。

 否、こうしてソファの上にいて、クッションを抱いている今とて、変わらぬ気持ちの表れかもしれない。

 理由は、よく分からないが。

 たぶん、里理は。

「「夜」……に、会いたい、のかな?」

 クッションへ愚痴るように呟いた。

 すると、すとんと腑に落ちる感覚が後に続き、やはりそうなのかと里理は目を閉じた。

 白い仮面の変質者。

 シルエットや所作がどれだけ優れていようとも、「夜」を表すに打ってつけの表現だと思う里理。

 そんな相手に会いたい、と願う自分は、「夜」抜きに可笑しいのではないか。

 思えば、クッションが一層、締め上げられた。

 可笑しくてもいい。

 恵のような濃ゆい想いはなくても。

 「夜」は言ったのだから。

 ふと、会いたいのはそのせいかとも思った。

 言われたせいで、待ち望んでいると。

 だから、こんなにも心細くて。

「……「夜」の、嘘つき。私が本当に戻るところは、貴方のところだって言ったのに」

 吐き出した言葉は、クッションに埋められ、くぐもった響きを為す。

 ぎゅうっと顔を押し付けては、身体を丸め。

「「夜」……私はどうすれば良いのですか?」

「さて。どうしたものか」

「!?」

 唐突に聞こえて来た低く甘い声に、里理の身体がぴしっと固まった。

 

 

 

 あやすように撫でられる頭。

 クッションに顔を埋めたままの里理は、真正面にいると思しき相手を確認することも出来ず、ただただ固まっていた。

 対し、相手は単調な動きを繰り返しては、深みのある声で言う。

「リリよ。あちらで私の名を呼ぶから、何事かあったのかと思ったぞ。それが手順を省き還してみれば、嘘つきなどと」

「うっ」

 どうやら召還されたのは、目の前にいるとは知らない「夜」へ愚痴っていた辺りらしい。

 何やら気まずい思いを抱き、更にクッションへ顔を埋める。

 暗闇の中、召還するならするで、合図が欲しいと思った。

 主人である「夜」の立場上、従者の都合など知ったことではないのかもしれないが。

 けれど、はたと気づく、可笑しな状況。

 ソファに寝転がったはずなのに、変わらない感触が里璃の左にあった。

 否、ソファよりも格段に良い寝心地である。

 普通に考えると、昨日と同じように召還されたなら、石室の床が身体に接するだろうに。

 ……ヒトではない「夜」相手に、こちらの普通が通用するかどうかは別として。

 そういえば「夜」は手順を省いたと言っていた。

 だから昨日とは違うのか。

 思い、ようやく顔を上げた里璃。

「っ」

 途端、息が詰まった。

 さやさやと頭に触れる手の主は、そんな里璃を訝しむ事なく、彼女の髪を撫でつけ。

 黒く嵌め込まれた瞳を里璃の記憶にある形より半分狭め、ほとんど真正面の同じ位置で、彼女を見つめていた。

 置かれている場面を、客観的に整理するまで数秒。

 丸々と空気を呑み込んだ里璃は、寝転がった自分に向き合う「夜」へ問うた。

「よ、「夜」? こ、ここって……」

「ああ。見て分かる通り、私の臥所だ」

 容赦ない空想の衝撃が里璃の頭を打った。

 止まぬ混乱の波に茫然としていたなら、頭を撫でていた腕が里璃の上に落ちた。

 恐る恐る辿ると、白いシーツに埋もれる、白いシルク地を纏う腕があり。

 その根元を追えば、幅広襟の首元。

 上に視線をずらしたなら、白仮面の顔と肉感のある顎の境が見えた。

 仮面が張り付いているというより、そこから皮膚が変化したような曖昧さ。

 うっかり想像してしまったのは、仮面を取った「夜」の顔。

 色好みだという彼は相手の女が望む男になれるが、里璃が想像したのは、皮を剥がされ肉を削がれた痛々しいモノだった。

 身震い一つ、首を振って想像を払った里璃は、改めて置かれた自分の立場を思い、嫌な汗をだらだら背中に流した。

 深く考えるまでもなく、「夜」のベッドの上で、彼と添い寝をしているような状態。

 服装のせいなのか、里璃のことを男と勘違いしている「夜」。

 なればこそ、いかに色好みの「夜」といえど、里璃へ伸ばされる、文字通りの魔の手はない。

 が、手順を省いた召還先が臥所、というのはいただけない。

 もしかして、女とバレてしまった?

 「夜」と知り合う事になった元凶の大叔母からも、彼の娘というトヒテからも、バレてはいけないと言われていたのに。

 大叔母の借金のカタとして従者となった里璃。

 もしも女とバレてしまったなら、どういう運命が待ち構えているか。

 友人・間宮恵が「夜」とどこぞへ消えてしまってから、ようやく気づいた、「夜」の傍で女であることの危険性。

 鑑みれば、答えはどこまでも禄でもない代物である。

 同意を得ず強引に迫ったりはしないと、トヒテは言っていたが、同じ口でこうも言っていた。

 気づかれたら後が御辛い――と。

 それはつまり、同意を得るまで執拗に口説かれ、ついうっかりでも頷こうものなら、取り返しの付かない事態に陥ることを示唆していた。

 従者という立場では、決して主人から逃れられぬゆえに。

 何が怖いと言えば、その未来を想像して浮かんだ、恵の恍惚とした表情。

 あれが自身に降り掛かるとどうなるのか、考えただけで悪寒とは違う痺れが身体を這っていく。

 ぞくりとときめく肌に喉が小さく鳴った。

 悪い冗談だと里璃は思う。

 もしそうなったとして……

 心身ともに正常で居続けられる自信はない。

 確実に、今の自分は失われてしまうだろう。

 「夜」とどうこうなるよりも、そっちの方が怖かった。

 あの恵をして虜にしてしまう「夜」の手管、里璃が平然と受けられるわけがない。

 ――とまで至り。

 なんで私、こんな想像働かせてんだろう。

 幾ら女の望む姿になれようとも、相手は見た目、白い仮面の変人なのに。

 しかも里璃は「夜」が姿を変えても、格好良いとは思えても、「夜」としか認識出来ないのだ。

 そんな「夜」に迫られて、何故、靡くと思ってしまったのか。

 不毛な問いは放り捨て、里璃は改めて「夜」と目を合わせた。

 臥所で召還された意を問うべく。

 だがしかし。

「………………「夜」?」

 寝転んだままの状態で相手の名を呼ぶと、返ってきたのは、すぅ……という呼吸音。

 まさか……寝ている?

 一応、黒く嵌め込まれた瞳は、白磁の仮面の中で細い線を二つ描いていた。

 人間でいうなら、半開きの状態であろうか。

 惚けた顔の埴輪が脳裏に浮かぶ。

 ゆっくり身を起こした里璃は、本当に寝ているのかどうか確かめるべく、「夜」の前でひらひらと手を振ってみた。

「…………」

 反応はない。

 規則正しい静かな音が、パジャマと思しき白い衣の胸を上下させるだけ。

 寝転がった状態では分からなかった、前髪以外をすっぽり覆う、パジャマと同じ生地のナイトキャップが、「夜」の寝姿を一層ひょうきんなモノにしている。

「え…………ど、どうすればいいんだろう?」

 全く予期していなかった展開を受け、里璃の目がおろおろ辺りを見渡した。

 が、何も見えない周囲を知っては、ぱちくりと目を瞬かせた。

「えぇー……」

 次いで絶句する里璃。

 ベッドに両膝を向けたまま、不自然な捻り方をした身体は、痛みを忘れたように固まってしまった。

 瞼の上げ下げを何度繰り返そうとも、真っ黒な空間が広がっているために。

 シーツはこんなにも白い。

 そこで眠る「夜」の相貌も、パジャマも白。

 黒い光を思わせる髪すら、白いナイトキャップに覆われていて。

 だというのに。

 里璃が下に敷く、「夜」の腹部から下を覆う、薄手のブランケットは光沢のある黒。

 流石に格好が苦しいと、ようやく仰向けた里璃の目に映るのは、黒い天蓋。

 床も天井も壁に至るまでもが全て黒。

 この部屋唯一の光源と思しき白色の鈍い輝きは、花弁を下に向けた蕾の形を、黒いサイドテーブルの上に乗せていた。

 他にも調度品はないかと視線を巡らせても、目を細めて注視してみても、鈍い光源だけでは判別出来ず。

「黒い……」

 眠る「夜」の横で、ベッドにへたり座った里璃は、途方に暮れた声でぽつりと漏らした。

 茫然自失のていでいること、数秒、もしくは数分。

 それすら理解できない、白少々、黒大半の空間を前にし、ようやく我に返った里璃。

 手始めに何をするかと思えば。

「よ、「夜」! 起きて下さい! 寝てないで、どうにかしてください!」

 規則正しい寝息を立てる「夜」の肩を揺すった。

 寝室というくらいなのだから、廊下に出る扉があるだろうに、光を反射しない黒い床へ足を下ろす度胸が、里理にはなかった。

 見た目、どう見ても奈落の底に続くとしか思えない床。

 ヒトではない「夜」の屋敷なれば、そういう可能性もある気がして。

 激しくはないが必死な訴えを受け、「夜」の頭が少しだけ持ち上がった。

 黒い瞳も先程より開かれた様子を受け、里璃はぱっと顔を輝かし。

「…………ぅにゅ?」

「にゅ……って、何ですか、その変な響きは」

 言葉になっていない応答に脱力する。

 がっくり項垂れた里璃をどう思ったのか、寝惚け眼と思しき「夜」の腕が伸びた。

 白い手が、里璃の肩に触れた。

 途端。

「え――――わっ!?」

 思いっきり引かれた身体。

 軽い衝撃に小さく呻くと、くすぐったい感触を鼻の頭に感じた。

 何だろうと薄目を開けた里璃は、つるりとした白を下方に見て、「ひっ」と短い悲鳴を漏らす。

 「夜」の顔が丁度、首下に埋まっていた――いや、それよりも。

「「夜」! 寝惚けてないで、離してください!」

 引き寄せられた反動か、「夜」の上に覆い被さる形となってしまった自分が恐ろしい。

 従者としての自覚はまだ薄いものの、主の上にいる心境は、かなり落ち着かなかった。

 しかし「夜」、果てしなく眠りが深いようで、どれだけもがいても里璃に回した腕を離そうとしない。

 ベッドに両手をついて腕を伸ばしても、引っ付き虫の「夜」は身体が浮こうがお構いなし。

「うぐぐぐぐぐぐぅぅ…………あぅ」

 重石をぶら下げた、腕立て伏せモドキが長続きするわけもなく、力尽きた里璃は「夜」の上に突っ伏した。

 無駄に消費した体力から、荒い息をつくこと数回。

 今度は「夜」の頬へ触れようとし。

 はたと思い出した。

 先程は混乱のあまり、容易く肩を揺すったりなんだりしてしまったけれど。

 昨日「夜」は、許しなく主に触れてはいけない、と里理に告げていたのだ。

 どうしようと迷う心が里理に生じた。

 かといって、このまま「夜」が起きるまで、こうしているのは心臓に悪い。

 加え、昨日はさして気に留めなかった密着状態に、女と知られた場合の危険性を知っては、否応なく緊張が増すばかり。

 だらだら、嫌な汗が背筋を通っていく。

 と。

「ひゃぅっ!?」

 首下に感じる、濡れた感触。

 唐突に出現したそれは、まだ寝ている「夜」の頭が動く度、里璃の首を移動する。

「よ、「夜」!?」

 もしや……舐められている!?

 しかも寝惚けたままの状態で。

 意識がなくとも、染み付いた習性なのか、舐める他にも蠢く感触は、驚く里璃の唇を別の音色で震わせ始め。

 こんな状態に陥っては、「夜」の忠告も考えてはいられない。

「ゃっ、よ、「夜」ぅ……お、起きて……ひゃっ……起きて、くださいぃ」

 懇願しつつ、「夜」に触れる里璃。

 だが、その触れ方はあまりに可笑しかった。

 離れるため、「夜」を起そうとしているというのに、頬を赤らめ潤む瞳を切なく閉じた顔は、腕と同じく「夜」の頭を抱いている。

 それでも功を奏したというべきか、縮められた首への執拗な攻めは免れた。

 ――代わりに、ブラウスのボタンが外され、露出した肌から口付けられていく音が、里璃の内に響いた。

「っ! 「夜」! わ、私、里璃ですっ……ふぁうっ……お、お願い……起きてくださ、ぃや……」

 このまま進んでは危険だと、頭では理解している。

 けれど、必死な口調とは裏腹に、緩やかな侵蝕を受ける肌が上気していくのが分かった。

 流されてはいけないと思えば思うほど、勝手に打ち震える身体に困惑する。

 女とバレてしまう現実が間近に迫る中、惑う反面で、構わないと零れる吐息は熱く荒く。

「ぁ……「夜」…………んっ」

 相手は眠りに入っているというのに、一人で盛り上がる熱が煩わしい。

 段々と、里璃の中に芽生える、「夜」を起さなければという意識。

 しかしそれは、止めて貰うのではなく。

 寧ろちゃんと、目覚めた「夜」から――

 そこまで暴走しかけた思考が、ある存在を掠めさせた。

 間宮恵。

 里璃の友人にして、「夜」にすっかり魅入られてしまったヒト。

 今の里璃のように、ベッドを共にして。

 ……同じ、ベッドで?

 思い当たった瞬間、がっと沸いてきた羞恥。

 顔を真っ赤に染めた里璃は、呑まれかけた己を恥じて思いっきり身を逸らした。

 今度はしっかり、へばりつく「夜」の顔を両手で押し付け。

「いいいいやあーっ!! そういうのは無理っ!」

 じたばたと暴れ出す。

 まるで、恵とも睦みあうような錯覚に陥った里璃は、半狂乱で咄嗟に掴んだ枕を下から引き抜いた。

 どさっと「夜」の頭と自分の身体が落ちても構わず、従者の在り方もひと時忘れ、ふかふかしたソレで、未だ離れぬ身体をべしべし叩く。

 その際、振動が自分の胸を衝いても呻くことさえ忘れて。

 すると、ようやく離される「夜」の腕。

「よ、「夜」?」

 良かったと喜びたい里璃だったが、我に返っては青くなる顔。

 理由はどうあれ、主をぶっ叩いたことに変わりはないのだ。

 触れただけで、恐ろしいと感じるほど威圧的になった「夜」を思い、知らず腰が引けて、距離を取ろうとする身体。

 未だ眠りの中にあることを祈りつつ。

「きゃあっ!?」

 が、その前に反転する世界。

 眩暈を起す変化に対応する間もなく、里璃の上に影が落ちた。

 開かれた黒い双眸が固まり青褪める彼女の姿を映した。

「よ、「夜」、あの、その、こ、これは……しまっ!」

 叩いたことへの弁明を測る内、鏡のような瞳に肌蹴たブラウスを認め、里璃は慌てて胸元を直す。

 人智を超えた着痩せをする身体とはいえ、ある程度まで素肌を晒して、隠し通せる柔な膨らみを里璃は持っていなかった。

 見た目はぺったんでも、アンダーからトップの差は歴然。

 それでなくとも、どの時点で起きたか分からぬ「夜」。

 もしも、反応、その他諸々で察知され、今の押し倒された状態があるのなら、寝惚けの誤魔化しすら効かない。

 再びの大ピンチ。

 だというのに、珍妙なときめきが胸に燻るのは何故だろう。

 ……深く考えてはいけない気がした。

 兎にも角にも、結果はどうあれ、このベッドでどうのこうのは勘弁して貰いたかった。

 恵が過ごした昨日の今日で、では、洒落にならない気持ち悪さだけが里璃を支配し。

「……据え膳の…………」

 ぽつりと開かぬ仮面の奥で、「夜」が呟いた。

「へ?」

「恥は……男…………喰わぬ……」

「……アナグラム? 据え膳喰わぬは男の恥……?」

「…………かも?」

 目を丸くする里理に対し、「夜」は開いていた目をすぅっと細め、くてりと小首を傾げた。

 ナイトキャップについていた、白いポンポンが白い仮面の横まで垂れる。

 しばし、辺りを包む沈黙。

 のち。

「……「夜」、もしかしてまだ、寝惚けてませんか?」

「ふむ……寝る子は…………眠い……起きても八回倒れ……りゅ」

「りゅって……わっ、また!?」

 自身の言葉を合図に、一気に里璃へと倒れこむ「夜」。

 同じ状態に陥るわけにはいかない里璃、ひょうきんな出で立ちの割に、がっしりした「夜」の胸板を両手で押す。

 けれど、意識を失っている体重を、普段男に見られようとも列記とした女の細腕だけで、突っ返せるはずもなく。

「〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜!! ぉ、重ぃ……だ、誰か」

 白い寝具の上、黒い部屋の中、息も絶え絶えに里璃が救いを他方へ求めたなら。

『何やら先程から騒がしい物音が』

 扉を隔ててだろう、くぐもった機械的な声音が里璃の耳に届いた。

 

 


2009/5/21 かなぶん

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