一夜漬けの日々 3

  

 ぐってりした面持ちの里璃は、両手を滑らかな机に投げ出した。

 茶よりも赤に近い暗色の机の上を這う袖は、昨日、着せられた黒いスーツ。

 従者のために誂えられたというこの服は、何故、最初に疑問に思わなかったのか、里璃の体型にフィットしていた。

 自身のサイズを吹聴する趣味はないため、今更ながらに首を傾げれば、それこそ「夜」の御業、と教わった。

 どの時点で計ったかは知れないが、正直、胸を張って言えることではない。

 その教えを披露した相手も、現に胸を張ることなく、淡々と機械的な声音で注げたくらいにして。

 そもそも、胸囲を測られたなら、女とバレるはずだろうに。

 もしかして……厚い胸板だと思われている?

『里璃様。紅茶を御持ち致しました』

「……ありがとう」

 音も立てず机に置かれたティーカップを見た里璃、思考を中断し億劫そうに身を起しては、疲労感たっぷりに、フローライトの瞳を持つ少女へ微笑みかけた。

 これを返すことなく『身に過ぎたる光栄にございます』と会釈した無表情少女は、机を挟んだ向かいに立ち、じーっと里璃を見つめた。

 ストレートの甘い香りと温い舌触りで、渇いた喉を潤した里璃は、そんな少女へ今一度、礼を口にした。

「ありがとう、トヒテ。その……助けて、くれて」

 言いつつ、段々視線が下がってきてしまうのは、気のせいではあるまい。

 

 

 

 

 

 寝惚けた「夜」に押し倒される、もとい、押し潰される、絶体絶命のピンチの中、訪れた声の主はトヒテであった。

 すぐさま助けを乞う里理に対し、『御寵愛を賜りし形代とはいえ、御前の御部屋へ許可なく立ち入ることは出来ません』と素気無い台詞を吐いた彼女。

 けれど攻防しながら落胆する里璃へ、とある案を授けてくれた。

 すなわち。

 

「いいんですか、「夜」! 私は“男”ですよ!!?」

 

「ぬ」

 必死で叫んだ “男”発言に、素晴らしい反応を示した「夜」は、開眼と同時にベッドの端まで飛び退いた。

 そうして里璃の姿を嵌め込まれた黒い双眸に映しては、眉の辺りに影を作り。

「リリ……何故、私の臥所にお前がいる?」

「サトリです……召還しといて、それはどうかと」

 先程までの攻防どころか、召還した事実すら本当に憶えていない様子を受け、里璃は軽い頭痛を覚えた。

 それは「夜」も同じだったらしく、首を傾げては、低く呻いてベッドに倒れてしまった。

 苦悶を浮べる様にぎょっとし、里璃が這い寄ったなら、手の平をこちらに向け、無言で制止を告げられた。

 大人しく従うと、仰向けになった「夜」は額に手の甲を押し当てて呟いた。

「……つまり、私はお前をここに召還したのか」

 続いて、悩ましげな溜息が吐かれた。

 聞いている方が滅入るような、陰鬱なソレ。

 勝手に召還したのは「夜」のはずだが、知らず知らず正座した里璃は、謝らなければならない境地に陥った。

 あと一押しで、頭を下げる直前、「夜」の手が里理へと伸ばされる。

 怒られる……!

 反射で瞑られた目。

 だが、「夜」の手が届く前に、里璃の横を何かがするりと過ぎっていった。

 ぎょっとして目を開けたなら、「夜」を叩いた枕が彼の頭に納まり、里璃が締め上げていたクッションが、「夜」の腕に抱かれていた。

 とても無防備に見える格好。

 里璃はどう動いたものか迷い、横向きに寝転んだ姿勢でこちらを見つめる黒い瞳と、視線を交わした。

 無言の時間が短くも流れ。

 はっとした里璃は叫ぶ。

「「夜」!」

 合わせ、閉じかけた――と思しき「夜」の眼が開かれた。

「…………おお」

「おお、じゃありませんよ……。寝る前に指示を下さい。貴方の部屋を悪く言うつもりはありませんが、この部屋黒くて、どこをどう歩けばいいのか分からないんです」

 途方に暮れた声で訴えかける。

 すると、無機質な瞳に浮かぶ、冷えた色。

 ぎくりと身じろげば、呆れ返ったような吐息が漏れた。

「貴方……か。従者が主を同等の扱いで呼ぶとはな」

「……呼び捨ては良いのに?」

 侮蔑混じりの口調に対し、横で口を尖らせる。

 里璃自身は小さく呟いたつもりでも、「夜」の耳にはしっかり届いたらしい。

 わざとらしい咳払いが為されては、里璃の身体が萎縮し震えた。

「……まあ、良い。後々に分かる事だ。しかし、そうだな……リリよ」

「サトリです」

 畏怖と並行して名の訂正を促してみる。

 リリという響き自体は可愛らしいと思う。

 が、ひとたび自分という人間に当て嵌めてしまうと、それはそれは酷い違和感を覚えるのだ。

 似合わないという思いが、意固地な訂正を相手に求めてしまう。

 そういえば昔、ユリ、なんていうあだ名がつけられた頃があった。

 あれは確か、中学二年かそこらで、まだ彼氏とやらもいなかった時のこと。

 里璃の読み方を変えて、リリ。

 コレを伸ばせばlilyで、日本語に訳してユリ。

 白いユリに纏わる話には清純などの意味が含まれるため、男然の格好が主でも齢相応の少女だった里璃は、その名に照れ臭さを感じたものである。

 どんな格好をしようとも、自分はやはり女なのだと思い。

 けれど、ユリの話が経緯はどうあれ兄に知られた時、少女の儚い夢は脆くも崩れ去った。

 ――百合って……女の子同士の恋愛の比喩じゃなかったっけ?

 当時、すでに制服のスカート姿でも女子から告白された経験があった里璃。

 あだ名を付けた相手に他意はなくとも、ダメージは深かった。

 次の日から、名の訂正に里璃が駆けずり回ったのは、言う間でもなく。

「せめて主と呼べ。良いな、リリ」

「はい。……サトリですけど」

 いくら訂正を試みても、「夜」には呼び方を改めてくれるつもりはないらしい。

 大体、呼べという姿勢が、今にも眠りに落ちそうな寝転がったモノ、しかも抱きクッション付では、主の威厳も望めないと思う。

 文句寄りの意見を口に溜めつつ、今一度、「夜」の言葉を待つ。

 注意深く、またしても相手が眠ってしまわぬよう、観察しながら。

 ふいに上げられる「夜」の手。

「トヒテ、許可する。入れ」

『失礼致します』

 気だるげな声に合わせ、扉の開く音。

 そちらを向いたなら、きつめの黒い巻き髪をツインテールにした絶世の美少女が、作り物めいた美貌をぴくりとも動かさず近づいてくる。

 実際、「夜」に作られたというトヒテは、シックなメイド服を揺らして立ち止まり、深々と頭を下げた。

 徹した無表情と無機質な声音を除き、ヒトそのものとしか思えない彼女のつむじを目にした里璃は、この中身が絡繰りであることに違和感を覚えた。

 たぶん、何度見ても慣れないに違いない――否、慣れたくない。

 たとえ、ヒト為らざる主の従者という位置づけになろうとも、積み重ねてきた感覚を忘れたくはなかった。

 そんな里璃の心情を察したわけもなかろうが、背にした「夜」はトヒテへ告げる。

「見ての通り、リリだ。連れて行け。私はもう少し寝る」

『了承致しました。では里璃様。御手をどうぞ』

「え、あ、うん」

 もう少し寝るという「夜」を振り返った里璃は、手を差し出す風の動きを感じ、トヒテに向き直った。

 ほっそりしたたおやかな手を取り、ベッドから降りる直前でもう一度「夜」を見る。

 忙しない里璃の動きにトヒテは何も言わず、その足が黒い床につくかつかないかという時に。

『里璃様、御待ち下さいませ』

 トヒテが素早く里璃の名を呼んだ。

 驚いて動きを止めたなら、フローライトの瞳が里璃を上下に見つめる。

 次いで、小さく首を傾げたトヒテは、「夜」へと声を掛けた。

『……御前。御休みになられる前に、里璃様の御姿を元に御戻し下さいませ』

「…………………………んぁ……ああ、忘れていた」

「…………」

 どうやら、寝ると言った矢先に寝入りかけていたらしい。

 間の抜けた声を上げた「夜」の不恰好さを思うと、後ろを振り向くに振り向けない。

 じゅるっと涎を啜るような音が聞こえた気もするが、きっと気のせいだろう。

 本当は、元の姿とは何の事か問いたいのに、無防備な「夜」を思うと全てにおいて、やる気を削がれていく。

 彼が安眠を貪るなら、ここは尤も安全な場所だと言われているようで。

 けれど、従者に為り立てで、「夜」たちのことをほとんど知らない里璃に、落ち着いていられる暇はない。

 ともすれば解れてしまう肩の力を、自分の意思で留める。

 と、これを応援するように、背中が小さく押された。

 弾みでベッドから降りていた里璃の足が床についた。

 見た目、判別のつかない黒い床の材質を色々予想していた足裏。

 しかし、捉えた感触は、そのどれでもなかった。

「……? 靴?」

 トヒテに手を取られるがまま立ち上がった里璃は、先程までなかった足を包む物を床の上に認め、目を丸くする。

 合わせ、自身の服装が、昨日着せられた黒いスーツに変わっているのを知った。

「え? え? え?…………な、なんで?」

 腕を上げてみたり、裾を引っ張ってみたり、背中を見たり。

 まるで、手品のタネを探すに似た里璃の必死な様子に、トヒテがこくりと頷いた。

『では御前、御休みなさいませ。失礼致します』

「ん」

 恭しく礼をしたトヒテは、中途半端な「夜」の返答を受け、里璃の手を静かに引いた。

 未だ混乱するばかりの里璃は、遅くも早くもない引率の手引きに大人しく続き――

 

 

 

 

 

 現在、里璃が紅茶に安らぎを見出しているのは、八角形の部屋の、出入り口から一番遠い、一番しっかりした造りの机がある場所。

 壁一面を本棚に覆われた天井は遠く、その割に注ぐ灯りは部屋の隅々まで行き届いている。

 階層仕立ての部屋は、ある一定の高さごとに区切られており、梯子のような棒がそれぞれのフロアを繋いでいた。

 里璃のいる一階と思しき空間から上にいくに従って、上のフロアにある本を取り出すための通路分、拡張がなされているらしい。

 トヒテ曰く、ここは見たまんま、ライブラリー(図書館)だそうで。

 それにしても、膨大な量の蔵書である。

 全て読めと言われても、凡そ、人の一生程度では時間が足りないに違いない。

 紅茶を飲み終え、ほぅと吐息を一つ。

 陰鬱そうな表情が里璃の顔に浮かんだ。

「それにしても……「夜」は本当に、私を男だと思っているんだね」

 生まれてこの方、大雑把に換算して十八年。

 男に間違えられる場面は多々あれど、あれだけ密接したにも関わらず、男と認識されるのは少し――どころか、とても、凹む。

 男らしく生きてきた憶えはないので、不当な扱いだとさえ思う。

 けれど。

『上々、ですわ、里璃様。落ち込まないで下さいまし。もし御前に知られてしまったなら』

「……分かってる。危険、なんでしょう?」

 言いつつ、無意識に胸の上を押さえた。

 鮮明に思い出せる感触にぞくりと背筋が粟立った。

 共に零れた吐息が含むのは、熱に犯された甘さ。

 確かに危険だと怯える反面、全て曝け出してしまいたい衝動に駆られる。

 知らず潤む黒茶の瞳。

『それにしても、御無事で何よりでしたわ』

「……え?」

 空になったカップへ新しく紅茶を注ぎながら、トヒテは機械的な溜息をついた。

 伏せられたフローライトの艶やかな瞳を臨めば、視線をカップに固定した柔らかな唇が続けた。

『いえ、御無事は何よりですが、不思議、とでも申しましょうか。……里璃様はやはり、御前の従者に為るべくして生られた御方なのかもしれませんね』

「? どういう?」

 小首を傾げて疑問符を投げかけると、姿勢を正したトヒテが真っ直ぐ里璃を見つめた。

『里璃様は、御前の従者であらせられます』

「う、うん……」

『従者という位置づけは、前提として従うべき御方がいらっしゃいます』

「うん……」

『とするならば、御前の従者であられる里璃様は、御前の意思に従われるのが必定。加え、御前と里璃様が交わされた血の契約には、御前の眷属と為られる事項が含まれております。ゆえに、長であり祖であられる御前の影響力は、御前の意識の有無に関わらず、里璃様に強制的に働いてしまうのです』

「……うん」

『つまり早い話が、御前に押し倒されて迫られたなら、行き着くトコまでイっちゃうのです、通常は』

「う、ん……?」

 いきなり砕けた話し方を用いたトヒテは、グッと拳を握って力説する。

 気圧される形となり、少しだけ引いた里璃は、まだ温い紅茶を手に取り口を付け。

『ですから、助けを呼ぶ里璃様の御声を御聞きした当初、失礼ながらワタクシ、疑ってしまいましたの。てっきり、女性(にょしょう)と知られて後、そういうプレイを御前と御楽しみ中なのかと』

「ぐぶっ!?」

 辛うじて零しはしなかったが、奇怪な告白に噎せ返った。

 カップを置き咳を繰り返したなら、自分の発言のせいだとは毛ほども思っていない様子のトヒテが背を擦る。

『里璃様、差し出がましい事とは存じますが、ゆっくり御飲みになられた方が宜しいのでは』

「けほっ……そ、そうだね…………」

 口では殊勝に頷きつつ、胸内ではどんな勘違いだよ!? と叫ぶ。

 しかも、日常会話の気軽さすら感じさせる物言いに、「夜」は了承だけ得たなら、相手の都合には合わせない、そーいうコトを好むのかと考え。

 里璃のそんな思いを汲み取ったように、トヒテが訂正を一つ入れてきた。

『もしや、里璃様……御前の御趣味が、そちら系統に限られると思われてしまいましたか? それでしたら、ワタクシの言葉不足でございますね。申し訳ございません。加えさせていただきますと、御前の得意分野は多方面に及びます。御相手の方々にしましても、好みの体位等ございますれば』

「…………」

 里璃の中の、艶めかしくも清楚なトヒテのイメージが、音を立てて崩れていった。

 残ったのは、中身が機械だろうとも、従者より地位が低かろうとも、色を好む「夜」の娘という事実のみ。

 止める口を持たない里璃を良い事に、トヒテの語りは続く。

『勿論、最終的に主導権を握るのは御前でございます。しかし、そこまで持ち込む手管は、それはもう、見事なモノでして。気の弱い殿方を苛め抜くのを好まれる御相手の時は、最初はその通りに従われ、最終的には右も左も分からぬ程の――』

 トヒテとの温度差を埋めるように、里璃は紅茶へ再び口を付けた。

 白熱する語りを聞いてる素振りで聞き流し、遠い目で思う。

 

 ああ、紅茶が美味しい。

 

 


2009/5/29 かなぶん

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