一夜漬けの日々 4

 

 「夜」の凄さとやらを無表情ながら、並々ならぬ熱意で語るトヒテ。

 対し、付き合わされる里璃は、トヒテ以上に固い顔をしていた。

 それもそのはず、現実逃避のために紅茶を飲み過ぎたため、一度トイレに立ったのだが、戻ってもトヒテは止めることなく、続きを延々語っているのである。

 唯一の救いといえば、里璃のためだけに用意され、屋敷の至る所に設置されたというトイレ空間、良識的なサイズだったことだろう。

 ちなみに今回使用したのは、ライブラリー内にある個室タイプ。

 全部が全部、自分のためと思えば恥ずかしいことこの上ないが、このトイレ、手入れ不要の万能な一品だという。

 まさに魔法のトイレである。

 とはいえ、「夜」に男と認識されているせいか、男性用の便器が備え付けられているのは落ち着かない。

 ついでに言うと、里璃だけのため、という文句の割に、公衆にありがちな形式を取っているのは謎だった。

 それでも、別に聞きたくない「夜」の絶技から、自身の意識を逸らすには恰好の話題。

 たとえ、不可抗力で拾ってしまった話があったとしても。

『――とても珍しいことですのよ?』

「へえ……」

 中身の伴わない返事を繰り返して何度目か。

 ここに来て、遠い目をする里理に気づいたのか、トヒテが続く言葉もなく口を閉ざした。

『……里璃様? 失礼とは存じますが、ワタクシの話を聞き流していらっしゃいませんか?』

 次いで届いたのは、不審の言。

 声も表情も無機質なままのトヒテだが、些か剥れた雰囲気が漂ってきた。

 不味いと感じた里璃、慌てて手と首を大袈裟に振る。

「そ、そんなことないよ?」

『そうでしたか……申し訳ございません。出過ぎた真似を致しました』

 深々と下げられるツインテールの黒髪。

 嘘をついてしまった分、多少の罪悪感が里璃に宿った。

 かといって今更、聞いていなかったと素直に言えない。

 言ったら最後、また最初から「夜」のあらゆる凄さを語られそうな気配がしたもので。

 けれど、今し方の話くらいは、知っておいた方が良いかもしれないと思い直した。

「あ、でも、珍しいのが何って言うのは、実はあんまり聞いてなかった」

 照れ隠しの誤魔化し笑いを浮かべれば、頭を上げたトヒテは瞳をぱちくり瞬かせ。

『……了承致しました。そうですわね、ワタクシとしたことが、里璃様の御理解に御任せきりで、矢継ぎ早に言葉を重ね過ぎました。この御屋敷には御前とワタクシしか語れる者がいないので、つい饒舌になってしまったようです。浮かれ過ぎてしまいましたわ』

「…………」

 無表情に毛が生えた程度の物憂げな溜息。

 目にした里璃は「どの辺が?」と聞きたくなる口をぐっと引き締め。

『では、里璃様。やはりここは最初から』

「いや、何が珍しいか、ってところからで良いよ」

 何やら意気込むトヒテに対し、里璃はすかさず片手を垂直に上げて止めた。

 一瞬、無表情の背後で不満げな気配が漂ったものの、トヒテの首が小さく頷く。

『……了承致しました。珍しいというのは、御前が御自分の臥所に御自身以外の方を招き入れ、寝姿を御見せした点にあります』

「…………え?」

 抑揚のない機械的な声音に、里璃の目が遅れて見開かれた。

 これに小首を傾げたトヒテは、しばらく里璃と見詰め合い。

『……珍しいというのは』

「あ、いや、ちゃんと聞いてたから。え、っていうのは、そうじゃなくて……」

 同じ言葉を繰り返そうとしたトヒテへ手の平を向ける。

 もう一方の手は、自身の額に当て。

「……招きって、恵は?」

 「夜」の妙な動きに抵抗できた、一番の要因を問う。

 トヒテはこれに合点がいったと頷いた。

『恵様、というのは里璃様の御友人のことですね? あの方が過ごされたのは閨の方ですわ』

「閨……て、臥所の言い方変えただけじゃないの?」

『ヒトの世では知りませぬが、こちらではそれぞれ役割がございますの。閨は情の場、臥所は眠りの場を意味しております。御前ほどの方であっても、共寝をされて寝首を掻かれない保障はございませんから。余程相手と親密でない限り、一人で眠られるのがこちらの常識ですわ』

「そう……」

 淡々と語るトヒテだが、その内容は実に血生臭い。

 臨場感のなさが逆に真実味を増して、里璃の頭に圧し掛かってきた。

 重く傾いだ額を押さえつつ、はっと気付いた里璃はトヒテを見た。

「あの、トヒテ? つまり恵は臥所で過ごしたわけじゃ?」

『はい、ございませんわ』

「そっか…………ど、どうしよう」

 遅れてやってきた事実に対し、両手で頭を抱えて項垂れる。

 脳裏に過ぎるのは、恵が過ごしたと思ったからこそ流されずに済んだ「夜」の所業。

 また同じ場面に出くわして、それが臥所だったなら、果たして自分は「夜」を拒めるのだろうか。

 捕らぬ狸の皮算用でもあるまいに、そんな考えに浸っては、里璃の顔が勝手に赤らみ出した。

 そこへ、首を傾げたトヒテが告げる。

『里璃様……御心配には及ばないと存じます』

「へ?」

『何やら、また同じ状況に遭遇してしまったら、と御考えのようでしたので。申し上げました通り、御前が臥所へ他の者を招くのは珍しき事。しかも今回は殿方と思われている里璃様が御相手ですから、二度目はないかと』

「……どういう?」

『確かに御前は寝惚けておいででしたが、臥所に里璃様を招いた事実は憶えていらっしゃるはずです。そしてそれは、これ以上ないくらい、御前に屈辱を味合わせてしまうでしょう。何せ、好む女性すら入れない臥所に、常では空気程度の認識しかしない殿方を招いてしまったのですから』

 あくまで変わらないトヒテの声。

 けれど背負う雰囲気は重みを増していく。

 つられて里璃の喉が生唾を呑み込めば、気の抜ける吐息がトヒテの唇を震わせた。

『まあ、御相手が里璃様であったことは、不幸中の幸いかもしれません。これが他の殿方であれば、御前はワタクシを呼ぶ隙も与えず、存在自体を抹消されたでしょう。もしかすると御自身の存在すら、許されなかったかも知れません』

 決して、可愛らしく頬に手を当てて語る話ではない。

 空気程度の認識っていうより、なかったことにしたい対象のような……

 男女で種類の差こそあれ、どちらにせよ、「夜」に関わると大変な目にあってしまうようだ。

 このまま主従の関係を続けて大丈夫なんだろうか。

 思うと同時に、里璃は元凶である大叔母を浮べた。

 一族を代償に、ヒト為らざる相手から色んなモノを手に入れていた魔女。

 里璃が「夜」の従者になることと引き換えに、彼から全ての代償を立て替えて貰った彼女は、託した手紙の中で語る。

 「夜」の従者になることは里理にとって好条件、と。

 でなければ、あの大叔母をして悪名高いと言わしめる「塊」なる存在の下へ、里璃は売られる手筈となっていたのだから、と。

 今や故人の大叔母に、言いたいことは山ほどあれど、生きている里璃が優先すべき事項は別にあった。

「ねえ、トヒテ。もう「夜」の臥所に召還される心配がないのは分かったけどさ、ってことは、「夜」が自分で起きない限り、この屋敷って事実上、主不在なんでしょ? 大丈夫なの、セキュリティーとか」

 昨日のやり取りで、「夜」が類稀なる力の持ち主とは聞いたものの、トヒテは見た目の繊細さ通り、非常に壊れやすいイメージがあった。

 事実、屋敷の至る所に配置されている、たくさんのトヒテは、内一体を過去に壊されているという。

 今もって「塊」に狙われているらしい里璃にとって、落ち着かないことこの上ない状況。

 固定した視界の中で辺りを探りつつ、御印とやらが施されていた右腕を擦った。

 里璃のこの様子を受け、トヒテがこくりと一つ頷く。

『御心配には及びませんわ、里璃様。御印の有無に関わらず、ここは御前の御屋敷ですもの。あの「塊」様とて、正式な手続きを取らずに訪れることは出来ません。どうぞ、御安心下さいませ』

「トヒテ……ありがとう」

 一瞬だけ、ふっと微笑んだように見えたフローライトの瞳。

 緊張を解す錯覚の笑みに、里璃の肩から力が抜けた。

「……あのさ、昨日はゴタゴタしていて、全然聞けなかったけど、御印ってなんなの? 「夜」は所有印て、なんだかいかがわしい事言ってたけど……それと――ぁれ?」

 続けて「塊」のことを問おうとした矢先、里璃の喉が引き攣った。

 呼吸に支障はない。

 しかし、その名を口にしようとすれば、何かが発言の邪魔をする。

『「塊」様のこと、ですか?』

「う、うん……」

 そんな里璃の意を汲んだトヒテに頷きながら、喉の不調を思い、首を擦りさすり。

『了承致しました……ですがその前に。里璃様には、名の効力から御話した方が宜しいかもしれませんね』

「名の効力?」

 こてり、首を傾げたトヒテは里璃の返答に小さく頷き、たおやかに手を打ち鳴らした。

 途端、ライブラリーと廊下を繋ぐ扉が開き、こちらに背を向けた別のトヒテがそのままの格好で猛ダッシュしてきた。

 あまりの勢いに里璃が仰け反ったなら、机のだいぶ手前で直角に折れる。

 合わせ、ドリフト走行もかくやという音を立て、トヒテが引っ張ってきたホワイトボードが、反対側にもトヒテを一人引き連れて姿を現した。

 ……なんで、ホワイトボード?

 いまいち状況を把握しきれない里璃が、恐る恐る姿勢を正してボードに向き合う。

 と、変わらぬ位置でホワイトボードが来るのを待っていたフローライトのトヒテが、つかつかそちらへ移動。

 くるりと振り返ったなら、その目にはいつの間にやら赤縁の、やたら吊り上った眼鏡が装着されていた。

 昔懐かしい、現実にいたかは分からない、ヒステリックな教育者を思わせるフレームに、里璃は心の中で思った。

 に、似合わねぇ……

 衣装を変えれば、それなりのエキゾチックな仕上がりになりそうだが、現在のメイド姿とツインテールでは、出来損ないの変身美少女か、イタイ系の女王様だろう。

 どっちに転んでも、なまじ顔が良いだけに残念な結果でしかない。

 けれど、無表情ながら満足げなトヒテへ、そんな惨い事を素直に指摘する度胸はなかった。

 何をしたいのかその格好で理解したなら、尚の事、里璃が言うべき言葉は在らず。

 

 

 

 文字通り、どこからか取り出した教鞭で、トヒテがびしっと指したのは、他の二人のトヒテがマジックを滑らせたホワイトボード。

 日本語ではない、それどころか、どの国にも属さないような文字の羅列は、大叔母の手紙に書かれていたものと同じく、すらすら読み取ることが出来た。

 指し示された箇所を見つめた里璃は、声に出してそれを読む。

「名とは一つの力であり、身に過ぎたる名は口に出来ない」

『はい、結構』

 教師役にノリノリらしい眼鏡のトヒテは、教鞭で自身の空いた手をぺちぺち叩きつつ、尊大に頷いてみせた。

『魔力のないヒトやワタクシ共のような無機物は別として、こちらの方々は呼び名に誓約がございます』

「あの、トヒテ?」

『はい、いかがされましたか、里璃様?』

 おずおず手を上げる里璃に対し、話を中断されたトヒテは不機嫌になることもなく、小首を傾げた。

 眼鏡や教鞭を装着したからといって、性格まで変わってしまうわけではないようだ。

 当たり前の事かもしれないが、なんとなくほっとし、少しだけ首を傾げた。

「さっきから気になってたんだけど、こちら、って「夜」側のって意味だよね? 人間の方はヒトって括りだけど、こちらにはそういうの、ないの?」

『そうですわね……あるにはあるのですが、あまり定着しなかったために、今日ではどなたも御使用に為られていません。こちら、では不便でしたか?』

「あ、ううん。それならそれで。今度から、こちらイコール「夜」側って憶えておけば良いんだし」

 話の腰を折ってしまったと詫びたなら、構いませんと首を振ったトヒテ、教鞭を一つ打ち鳴らす。

 仕切り直しとでも言うように、キリッとした雰囲気が漂ってきた。

『御話を戻させて頂きます。呼び名の誓約と申しますのは、先程里璃様に御読み頂いた一文、身に過ぎたる名は口に出来ない、という点でございます。たとえば、里璃様は御前の御名を易く口にされていらっしゃいますが、これは偏に、御前が昨日、そう呼ぶよう許されたからに過ぎません。本来、従者たる里璃様が、主たる御前の御名を語ることは不可能なのです』

「ああ。だから、呼び捨てになっても良いのか……」

 貴方と「夜」を呼んだ時の事を思い出す。

 後々に分かる事――

 そう告げられた意を知り、ぼんやりと頷けば、トヒテも同じように頷いた。

『はい。ですが、里璃様が他の方に御前を示される時は、必ず主と仰ってくださいませ。力の勝る御方から御名を許されるという事は、それだけ相手に対する思い入れが深い事を示唆しているのです。ともすれば、里璃様御自身が御前の弱みと見なされてしまう程に』

「え…………そ、そんなに?」

 思わぬ告白を受けて戸惑う里璃。

 従者にと望まれた事は知っていたが、その度合いはもう少し軽いモノだと思っていた。

 里璃の様子を無表情に見つめたトヒテは、姿勢を正して胸元へ手を当てた。

『里璃様。これだけは憶えておいて下さいまし。御前は永き時を見届けていらっしゃいますが、真実、何かを欲したのは今回が二度目。従者につきましては、初めて御求めになられたのです。ゆえに――』

 きゅっと結ばれる形の良い唇。

 つられて椅子の上で姿勢を正したなら、眼鏡のトヒテとホワイトボードの両脇に控えた二人のトヒテが、恭しく頭を垂れた。

『『『どうか、御前を御見捨てにならないで下さい』』』

「へ……? み、見捨てるって何で? 従者は私なんだし、私が「夜」に解雇されるなら兎も角」

『『『! そ、そのような事は決してございません! 御願い致します、今後、特に御前の在す前では、絶対に、解雇されるなどと御話にならないで下さいませ!』』』

 無表情のまま、あたふた慌てるトヒテたち。

 机まで瞳の色は違えど、同じ顔に迫られて、里璃は気圧されながら繰り返し頷いた。

 これを見、一様に胸を撫で下ろしたトヒテたちは、また同じように首を傾ける。

『『『とはいえ、ワタクシも言葉足らずでございました。申し訳ございません。見捨てるという表現も正しくありませんでした』』』

 言って、再び頭を下げたトヒテたちは、ホワイトボードに二人が移動、残る眼鏡のトヒテは、度の入っていないレンズ向こうのフローライトを里璃へ向けた。

『……こちらでの名に関して御理解頂けた事ですし、もう御気付きとは思いますが、「塊」様の御力は御前に引けを取られません。そのような御方が、未だ里璃様を欲していらっしゃる……詰まる所、御前の従者と為られても、里璃様にはもう一つ、選択肢が残されているのです。御前の誘いを撥ね退けられた里璃様なればこそ、自らの御意思、もしくは「塊」様の思惑により、あの方の下へ御身を寄せられる選択肢が』

「…………それこそ、ないんじゃない? 」

 生真面目無表情に光る眼鏡の端を見て、少しばかり里璃の声に刺が含まれた。

 静かに落ちた視線の先には、「夜」が引き剥がすまで知らなかった、肉片付きの髪の毛が巻きつけられていた右腕。

 「夜」の言葉や直前に思い出した記憶から、四年前の真夏の怪異時に付けられたと推測出来た。

 よりにもよって、夜の時分に。

 只人の目には映らぬ禍々しきソレは、焼失してもなお、里璃の眼に焼きつき。

 元凶は大叔母だが、そんな彼女の対策を引き受けた「夜」を無視し、何も知らない里璃を狙う陰湿さは、大叔母よりたちが悪い。

 そんな「塊」と、色好みという仕様もない性質はあっても無理強いしない「夜」。

 「夜」の力を撥ね退けられるならば、匹敵する「塊」の力も思惑も撥ね退けてやる。

 波立つざわめきを胸に封じ、右腕を握り締めた里璃は吐き出すように言った。

「絶対、ない。……私は「夜」を選ぶ。他の誰でもない、「夜」の従者でいい。ううん、「夜」の従者がいい。じゃなきゃ嫌だ。他の選択肢なんかいらない。私は私の意思で、私の意思を尊重してくれると言った「夜」を選――」

 トヒテの発言を睨みつけるべく、顔を上げたなら、続く言葉がごっくんと呑み込まれる。

 つい先程までそこにいたはずのトヒテは、素知らぬ風体で、いつの間にか机の横に控えており。

「リリよ。これは何の………………………………………………………………………………騒ぎだ?」

「よ、「夜」……」

 机を挟んだ真正面、来室に気づかなかった里璃が見つめた先には、途方に暮れた「夜」の姿があった。

 

 


2009/6/5 かなぶん

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