一夜漬けの日々 6

 

 席に戻り相対した時、二人の間に流れる空気は一変した。

 ヒト為らざる存在とヒトの流れを汲む魔女。

 表には微笑を、裏には各々の思惑を浮べて。

 語りはどこまでも穏やかに。

 新たなる契約は静かに進む。

 本人不在のまま――

 

 

「さて、と。ではまず、こちらの条件からで良いかしら?」

 心なし、ウキウキした声でエルが問う。

 重ねた齢の分だけ消耗の激しい身体は、本来の就寝時間にも関わらず生き生きとしていた。

 これから魔女の本分が発揮されるためだろうが、明日になれば疲れきって動けなくなると「夜」は見越していた。

 自分の与り知らぬところで、彼女がどう疲れても知ったことではない。

 けれどこうして、目の前にあって、何より己との会話が疲れの原因となりそうな現状はいただけない。

 思い至った「夜」は、返事の前に、エルへ向かって小さく手を払う。

 合わせ、ささやかな風が彼女を取り巻けば、きょとんとした表情が青い目に浮かんだ。

「夜行?」

「気にするな。続けろ」

 ぞんざいな応じを、先程と変わらぬ手の振りで示す。

 またもエルを取り巻く風だが、今度は何の力も込めなかった。

 魔女とはいえ「夜」より力の劣るエルでは、この風の違いも、何をされたのかも分かるまい。

 明日、目覚めてさえ、不調がないだけで代わり映えのしない身体に、不審がることもないだろう。

 「夜」が告げた通り、彼がしたことはエルが気にする必要のない、それだけの事なのだから。

「そう……?」

 不思議そうに眉を寄せるエルは、ぱちくり首を傾げつつ、話を先に進める。

「まあ、条件といっても、貴方に言われた通り、借金を肩代わりして貰う事くらいだけれど……あー、でも一つだけ問題が」

「何だ?」

 片眉を上げる要領で、歯切れの悪さを問う。

 するとエルは気まずそうに視線を動かし、テーブルへと己が手を翳した。

『ゼウバライの血に連なりし末端の流れより、其へ命ず。我が身を縛る数多の鎖、縁浅けきも深き約の虜、名を認め書と為せ。連なる全ての果を此れへ』

 発せられた言霊に呼応し、エルの身体に滲む青い光。

 翳した手の平に光が集約したなら、それは形を変え、テーブルの上に羊皮紙を出現させた。

 一枚――ではなく、どっさりと。

「…………」

 エルの借金については、「夜」の方でも大体は把握していたつもりであった。

 自業自得と思い、別段、エルを助ける気もなかった「夜」。

 そんな彼が何故、彼女の借金の度合いを知り得たかといえば、エルのずぼらな契約が、こちら側で有名になっていたためである。

 曰く、いいカモだ、と。

 なんでも、己が一族の身を本人の了承なく、勝手に抵当としていたらしい。

 今現在、「夜」が行おうとしている契約もその類であるため、言える口はないものの、それにしたって、羊皮紙のこの量は可笑しかった。

 夜目の利く「夜」がざっと見た羊皮紙の内容は、一枚だけでも随分と名が挙がっている。

 ゼウバライの系統樹の、細やかな枝の先まで拾ったところで、これだけの量にはならないだろう。

 訝しむ「夜」を余所に、羊皮紙をごそごそ漁るエル。

 てっきり、羊皮紙全部を寄越すと思っていたのだが、エル言うところの問題は、その中にあるようだ。

 絶えず動く手をじっと見つめる。

 内に、「夜」は量の多さの原因を知った。

 どうやらエルは自分の一族どころか、友人その他諸々、己に関わった者全てを契約内容に盛り込んでいた様子。

 しかもその範囲はヒトに留まらず、こちら側に籍を置く者まで。

 なんともなしに思い出したのは、エル経由で知り合った、こちら側の女たち。

 最近、姿を見ないと思っていた相手の名を羊皮紙に読み取り、「夜」は呆れた溜息を仮面の内側でついた。

 抵当がヒトの場合、こちら側とは別の領域ゆえ、契約の実行まで若干の猶予がある。

 が、同じ領域の彼女らは、たぶん、契約が成立したと同時に、代償として支払われてしまったのだろう。

 これがエルより勝る魔力の持ち主ならば、契約は破棄されようが、しっぺ返しを恐れる彼女の事、酔っ払っていようとも、そんな相手を抵当に入れはしまい。

 否、己と同等以上では、本人不在の契約すら成り立ちはしないだろう。

 したところで、無効。

 且つ、抵当に入れようとしていた事だけ、相手側に感知されてしまう。

 そうなれば、エルに残るモノは、自身すら在らず。

「あ、在った在った。これよこれ」

 呆れる「夜」の思いなど知らない、目的の羊皮紙を見つけたエルは、すかさずそれをテーブルに滑らせ、彼へと差し出した。

 内心を少しも漏らさず受け取った「夜」、羊皮紙の内容へと視線を落とす。

「リリ……じゃなかった、サトリ、サトリ・シノザキって子の名前があるでしょう? それが私の遠い親戚、貴方の従者の名前よ」

 本人の意思を無視し、さらりと断定して告げられた“従者”発言に、仮面の内で苦笑を零した「夜」は、ふと気になってエルを見た。

「……リリ?」

 読み取った“里璃”という文字の形は兎も角、サトリという響きは男でも通用しそうだが、エルが最初に漏らした音は随分と可愛らしい代物。

 またも、やはり女ではないのかと疑念が生じれば、エルはしまったとばかりに口を押さえて笑った。

「あら、聞こえちゃった? 私がその子を呼ぶときに使った名前なの。サトリって、発音しにくくて。あの子の国では、別の読み方をするとリリと読めるから。でもねぇ、本人よりリリのお兄さんがそっちの呼び方気に入っちゃって……で、さっきの写真、倒れている子がいたでしょ? その子がお兄さん。丁度、写真を撮る時に“リリちゃん”って、ちょっかいかけて来て、リリがバットで殴って気絶させちゃったのよねぇ」

 しみじみ語るエルに対し、「夜」はリリ=女の式を取り下げた。

 バットで兄を殴ったから、というより、リリという可愛い響きの愛称を嫌う理由が、女にはないだろうと思ったがために。

 女と侮られたくないという理由も考えなかった訳ではないが、プラスチックバット程度で兄をノックダウン出来る里璃に、性別への劣等感は見当たらなかった。

 と、ここまで思い巡らせた「夜」は、里璃を完全に男と解した事もあって、若干の頭痛を自分に感じてしまった。

 そこまで長い時間注視した憶えのない、写真の中の里璃の――男の姿を事細かに浮べられる事は、「夜」にとって恥以外の何者でもないのだ。

 積極的に嫌う姿勢はないが、正直、男など居ても居なくてもどちらでも良い存在。

 気に留めるのも愚かしいと常日頃から思っているため、里璃への関心は青天の霹靂に等しい屈辱を「夜」にもたらしてきた。

 ちょっぴり打ちひしがれつつ、「そうか」と気のない返事をした「夜」は、羊皮紙へ視線を落とし、里璃の名を見つけ。

「………………………………………………………………………………………………エル」

 たっぷり沈黙を置いた後で、重々しく魔女の名を呼んだ。

 こうなる事を予測していたであろう人物は、一気に下降した「夜」の底冷えする気配にも動じず、にっこり笑って言った。

「えへ。ね? 問題でしょ?」

「よりにもよって「塊」とは…………一つでも十分厄介な問題だな」

 吐き捨てるように告げれば、途端にしゅんと気落ちしたエルが小さく謝罪。

 次いで懇願する。

 

 

 

 

 

 ベッドの上でまどろみに足を引っ掛けながら、耽る過去から帰り、「夜」はぽつりと零した。

「従者の契約ついでに、「塊」からリリを守って欲しい、か……今にして思えば、無用な懇願であったな」

 里璃の性別問題に一応の決着を付け、別の話題へと頭を切り替える。

 「塊」。

 「夜」と力を等しくする存在。

 エルに言われずとも、ようやく得た従者をアレにくれてやる義理はない。

 かといって、こちらから攻める程の思いもないが。

「……起きるか」

 口にし、抱えたままのクッションを背後に回した。

 結果を見れば、里理から奪ってしまったクッション。

 けれど「夜」に返そうという思いはなかった。

 男の持ち物だった事実は、非常に酌ではあるものの、使い心地が良いのだから仕方ない。

 従者のモノは主人のモノ。

 主人のモノは主人のモノ。

 どこかのガキ大将の謳い文句染みているが、不変の真理である。

 従者本人すら主人のモノなのだから、所有の権限を主張したところで不毛であろう。

 もしも里理から返却を求められたなら――

「……似た作りの別物を与えれば良い」

 呟いた言葉は、不変の真理を説いたところで、里璃の不興を買う未来を想像して。

 毅然とした態度で、それこそエルの言っていた傲慢さを示せれば良いのだが、従者から非難を向けられる絵は、「夜」に一抹の不安を抱かせていた。

 「夜」の従者であっても、主人の要求を撥ね付けられる里璃には、望めば別の道も用意されている。

 肩代わりした契約の、元々の相手である「塊」。

 そこへ、里璃自身の意思で向かうことも可能なのだ。

 しかし、「夜」の不安は、「塊」の下へ里璃が向かう事、それ自体ではなかった。

 そちらにあるのは不安ではなく、「夜」の自尊心に少しだけ傷がつく程度の話。

 不安の根源は、「塊」によって、里璃が被るであろう害を思って、であった。

 己の手を離れたモノに対する執着は、こちら側の中でも特に薄い「夜」だが、里璃は例外らしい。

 必ずそういう未来に至る訳でもないだろうに、仮定しただけでも、不憫に思えて仕方がなかった。

 「塊」本人は言わずもがな、あの存在に関わる事象は凡そ、ヒトの世に慣れた若者が触れて良い代物ではないゆえに。

 かといって、「夜」ならば良い、という話でもない。

 何せこちらは、男を物とすら認めず、女に関しても、在ればそっち方面へ話を持っていく存在。

 事実、昨日は詳しい説明もないまま、里璃に紹介させた女を、丹念に念入りに、幾度となく、己の知人としてもてなしたのだ。

 合間でヒトの世へ送った、里璃の様子を浮べても、「夜」に後悔はないが、決して良い気分ではなかっただろうと察することは出来た。

 男女間の友情は成立が難しいゆえに、里璃と間宮恵もきっと、一時くらいはそーいう関係だったのではないか、と「夜」は邪推している。

 ……本人が聞けば、本気で嫌がりそうな話ではある。

 が、そんな己であっても「塊」に比べれば、まだマシ、くらいの認識はされて良いはずだ……と「夜」は思いたかった。

 なればこそ、里璃の不興は避けたい。

 悔しいかな、エルの言う通り、「夜」はそれくらい里璃を気に入っていた。

 男と知って、分かっているはずなのに。

「はあ……」

 陰鬱な溜息を零した「夜」は、億劫そうに寝台から己の身体を引っぺがしに掛かる。

 頭から腰に掛けてを起こしては、立てた膝に額をくっつけた。

 このままの姿勢でも十分眠れそうな頭を緩く振り、持ち上げてはベッドの端を目指す。

 ずりずり、重い身体を引き摺りつつ、絡みつく黒いブランケットを引き離す。

 そうして縁に腰掛けては、鈍い動きで手を挙げ、ナイトキャップのポンポンを掴んで下に引いた。

 途端、「夜」の姿は一変する。

 黒い光を思わせる髪は、ナイトキャップに包まれていたとは想像だに出来ない、整えられた流れを背中に落とし、首の後ろで藍色の細い紐で括られた形を取る。

 均整の取れた身を包むのも、先程までの白い寝間着とは真逆をゆく、漆黒の礼服。

 ただし、一箇所、襟元だけは物足りない白となっており。

「…………」

 くてりとした動きで、ナイトキャップを掴んだ手が振るわれた。

 純白のそれは色を変えずに形状をスカーフへと変え、しゅるり、巻きつけては涼しかった襟元に膨らみをつけた。

 酷く、不恰好に。

 だが「夜」は、スカーフの出来栄えなど気にも留めず立ち上がり、トヒテにしがみついていた里璃を嘲笑う足取りで、自室から廊下へと出て行く。

 目的の場所があるなら、自室とそこを繋いだ方が早い。

 昨日、里璃の居た部屋とエントランス・ホールを繋いだように。

 けれどあれは、例外と言って良い行動だった。

 無茶な繋ぎ方は、屋敷の結界に綻びを生んでしまう。

 ならば何故、例外が起こったのかと言えば、突拍子のない里璃の動きに「夜」がうっかり煽られてしまったせいである。

 自制を欠けば、綻びどころか結界自体が消滅してしまう――それゆえに。

 ともあれ、廊下を進む「夜」の足は、淀みなくライブラリーに向けられていた。

 従者の大体の位置を掴むことは、主人である「夜」にとって、目を瞑っても容易いことであり。

 

『……御前。僭越ながら、御運びの際は御目を開けて下さいまし』

 

「……トヒテか」

 指摘され、本当に白仮面の黒い眼を細めて光を閉ざしていた「夜」は、機械的な己の娘の声に光を呼び戻す。

 等間隔で壁に備え付けられた蝋燭の灯りが、暖色を基調とする廊下をちろちろと照らす中、見目麗しいツインテールの美少女は静かに脇で控えていた。

 無表情に少しばかり、困惑したような気配を漂わせつつ。

『御前? もしや、里璃様の下へ?』

「無論だ。……何か問題が?」

『いえ…………ただ少々、襟元に乱れが。御直ししても?』

 感情を伴わない声音が、言いにくそうに尋ねた。

 言葉での了承の代わりに、若干、首を上げたなら、すかさずトヒテが「夜」の前へと進み、スカーフを綺麗に直していく。

 その間、「夜」の意識はといえば、またしても眠りの縁をゆらゆらとなぞり。

『終わりましたわ』

「うむ……」

 声と共に音もなく下がるトヒテに合わせ、首を元に戻した「夜」はまた歩き出した。

 最中、静かに追従するトヒテへ、視線を向ける事なく問うた。

「リリは?」

『はい。ライブラリーにて、こちらの知識を』

「して?」

『はい。どうやら里璃様は本当に、魔法とは縁遠い方だったようです。御理解は御早いようですが、ワタクシの話を聞かれる度、不思議そうな御顔を為されています』

 「夜」の娘たるトヒテは、感覚の全てを他のトヒテと共有している。

 ゆえに、短い「夜」の問いへ受け答えする合間にも、他のトヒテがいる別の場所の出来事を知覚し、自身が体験しているかのように語っていけるのだ。

 意を汲み、すらすら淀みなく答えるトヒテに対し、「夜」は神妙に一つ頷いた。

「ふむ。ではまず、知識を十分に与えねば。……と、すると、しばらくはまた、空閨が続きそうだな」

 溜息が零れんばかりの言い草。

 受けたトヒテは不思議そうな口調で「夜」へ告げた。

『知識だけでしたら、ワタクシだけで十分なのでは? 従者を得られる前と同じ様に、どうぞ御前は他の方々の下へ、御運びに為られますよう』

 表情無く流れる進言へ、ぴたりと「夜」の足が止まった。

 眉に当たる部分を片方上げては、トヒテをくるりと振り返る。

「聞き捨てならんな。確かに知識だけなれば、お前で十分だろうが……私を排除しようとする口振りは気に入らん」

 これへ、同じく足を止めたトヒテは、小首を傾げて応戦した。

『御前を排除? そのような大それた考えはワタクシにございませんわ。強いて言えば……保険、とでも申しましょうか。昨日の間宮恵様を御相手に為られた折、初めての方への持て成しとしては、些か御時間が長すぎたように思われます。いえ、勿論ワタクシ如き形代が、御前へ意見する暴挙などありはしないのですが。余り溜め込まれますと、従者として申し分なくなった里璃様に、初っ端からエラい御仕事が宛がわれてしまうのでは、と』

「……ああ」

 鉄壁の無表情をつらぬく代わりに、トヒテの言葉遣いが乱れた。

 語気を荒げるような様子に「夜」は思い当たる節を見出し、トヒテから顔を少し背けた。

 誤魔化す手付きで己の髪を撫で、何事もなかったかのように、ライブラリーを再び目指す。

「知識だけならば、お前でも良かろう。だが、しばらくは席を共にするぞ。私自身、リリの理解がどこまで及ぶか、見ておく必要があるからな」

『はい。心得てございます』

 しばらくの間、沈黙が訪れる。

 颯爽と己のコンパスで歩く「夜」に対し、トヒテは同じスピードを保って小走りの様相。

 娘ではあっても給仕。

 夜を共にする女ならば、自然、合わせる歩調も、トヒテを慮る気配を終ぞ見せず。

 ライブラリーへ続く扉が近づけば、その前に待機していたもう一人のトヒテが恭しく頭を垂れた。

 次いで、絶妙のタイミングで扉を開く。

 一連の動きを当然の事とする「夜」は、礼も一瞥もなく、ライブラリーの中へと足を踏み入れた。

 なればこそ、扉が静かに閉まる直前、追従していたトヒテと扉の開閉を務めたトヒテが、互いに目を合わせて、雰囲気だけで笑い合う姿を知る由もなく。

 

 

 そんなこんなで、里璃の吐き出す告白を出会い頭に受けた「夜」は、完全に覚醒した頭で思った。

 一先ず、「塊」の下へ里璃が自ら赴く事はないようだ、と。

 杞憂に終わった心配を、喜んだものかどうか、迷いつつ。

 

 


2009/6/22 かなぶん

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