一夜漬けの日々 7
気まずい静寂がライブラリーを包んで数秒後。
はっとした里璃は、静寂の要因である告白をすっぱり忘れた風体で立ち上がると、両手を両側に揃えて思いっきり頭を下げた。 「お、おはようございます、「夜」――ぃだっ!!?」 途端、勢いづいた額が硬い机に打たれ、やや大袈裟に里璃の身体が仰け反ってしまった。 じりじり痺れる痛みを擦りさすり、呻きを歯の隙間から零せば、ようやく「夜」の首が頷いた。 「ああ…………大事ないか、リリよ」 「だ、大丈夫です」 些か呆気に取られた低い声を知り、軽く頭を振りつつ答える。 痛みは次第に退いていったが、これに比例して、本人がいると思わず言ってしまった言葉の羞恥が甦ってしまい、擦る手を避けられない。 すると「夜」から呆れともつかない吐息が為され、そちらを見やれば、トヒテへ何かしら指示する姿がある。 「アレを」 『はい。畏まりました』 まるで熟年夫婦を思わせる、他者には通用しないやり取り。 里璃が首を傾げたなら、こちらへ嵌め込まれた黒い目が寄せられた。 知らず背筋が伸びると、「夜」の顎が、里璃の座っていた椅子をくいっと示した。 「座れ。トヒテより経緯は聞いておる。我が従者として、こちらの知識は必須。存分に学ぶが良い。私もしばし、ここでお前の理解が及ぶ様を見届けよう」 「あ、はい」 見届けるという言葉に合わせ、「夜」の指示を受けたトヒテが二人、椅子を持って現れた。 ともすれば、里璃が座るよう促された椅子の方が造りとしてしっかりしている、主が座るに相応しくないその椅子。 年代を感じさせる木造に、構わず腰を下ろした「夜」は、肘掛にもたれる格好で里璃の方を見やる。 その間、「夜」の来室と共に避けられていたホワイトボードが、彼の視界の邪魔にならない、かといって遠くもない絶妙な距離で、同じく里璃に向けられた。 次いで、赤縁眼鏡のトヒテがホワイトボードの前に来たなら、「夜」が来る前とほとんど変わらない光景が出来上がった。 惚けた里璃は、彼らの視線が待つ風体で自身を見つめている事に気づき、慌てて席に戻りかけ。 ふと、思った。 机と椅子にそれぞれ手を置いたまま、「夜」へと目を向ける。 「……あの、「夜」?」 「何だ?」 「あの……この服、どうなっているんですか? トヒテが元の姿がどうのって」 改めて「夜」へと向き直った里璃は、スーツの袖を内で伸ばして自分の身体を眺める。 相も変わらずぺったんこに見える胸は良いとしても、その他、服以外に変わった様子はない。 眉を寄せた里璃、答えを求めて顔を挙げたなら、目元に手を当て頭を振る「夜」に出くわした。 父や兄が酒を呑み過ぎた際にするのと同じ動きに、ますます眉の幅を狭めれば、艶かしく熱い低音が届く。 「はぁ…………どうもまだ、完全に目が覚めたとは言えぬようだ」 「?」 「夜」の言いたい事が理解出来ず、何度も瞬き。 と、ホワイトボードを持ってきたトヒテの一人が、静かに里璃の傍へ近づき、そっと耳打ちをした。 『里璃様、先程の動作は危ういかと』 「へ?」 『つまり、御前が仰っているのは、里璃様が可愛らしく見えてしまった、ということなのです。元より里璃様の御容姿は整っていらっしゃいますから、性別通りの動きを為されては、余計、御前の目を惹いてしまわれます。御気を付けて下さいませ』 「う、うん……?」 何気ない動きへの忠告に対し、頭にハテナを乗っけて頷く里璃。 自分の身体を眺める仕草が、彼らの目に可愛らしく映った事よりも、絶世の美少女から容姿が整っていると告げられる方が、不思議で仕方なかった。 ……そういえば、「夜」に審美眼なんて在るのかな? 「夜」が造ったトヒテの容姿とかは凄いと思うけど、実際に誘われたのは恵だし。 首を傾げる里理に、友人を貶していると言う意識は一切ない。 次いで、そんな彼女が思う事と言えば、トヒテに関する疑問だった。 浮世離れした絶世の美貌だが、こうして目の前にある分には、中身はどうあれ、ヒトと同じようにしか見えない。 なればこそトヒテには、この容姿の元となる、生身の存在がいる、もしくは、いたのではなかろうか? 思いつきの仮定に囚われ、しばらくトヒテを見つめる里璃。 けれど答えは訪れるはずもなく、代わりに別方向から、別の答えが耳朶を震わせた。 「元の姿とはそのままの意だ。お前は我が従者となった。ゆえに、お前が先程まで身につけていた着衣も、ヒトの世に在るための仮初の姿に過ぎん」 「え…………それってどういう?」 「夜」の答えが何の問い掛けで為されたか、思い出すのに数秒を要して後、里璃は彼へと視線を向けた。 かち合う白い仮面の嵌め込まれた黒目は、里璃のそんな様子を眺めるのみ。 と、近くのトヒテから捕捉がやってくる。 『つまり、変身ヒーロー物を思い浮かべて頂ければ、分かりやすいかと存じます。尤も、里璃様の場合は、変身した状態が真実の御姿で在られるのですが』 「……えっと、それじゃあ私は…………もうヒトじゃ、ない?」 何故トヒテが変身ヒーロー物の話を知っているのかはさておき、彼女の説明で読み取れる事は、それではヒーローではなく敵役の方ではないか? という疑惑。 本当の姿を隠してヒトに紛れ込む、そんな己を茫然とする頭で思い描いたなら、トヒテの動きがぴたりと止まった。 次いで、瞳の色が虚ろとなり、首がキシキシと音を立て真横に傾いていく。 「あ、あれ? トヒテ? 大丈夫?」 不気味なその様子に、けれど里璃は恐れもせず、逆に近寄ってはトヒテの身を案じた。 開かれたままの眼の前で、ひらひらと手を振り、反応がないのを見ては身体に触れようとし。 「案ずることはない」 「よ、「夜」……」 宥める声を受けてそちらを見やれば、歩み寄る主の姿がある。 「トヒテは形代ゆえ、与えられた情報の内でしか語れぬのだ。なればこそ、お前の今の質問に対し己の内で答えが見出せず、止まっただけの事。すぐに直る」 言って、トヒテの後ろで足を止めた「夜」は、躊躇いもなく衣服を留める背中の紐を解くと、露わになった絡繰りへ手を伸ばした。 トヒテ越しにそんな「夜」の姿を見つめる里璃は、祈るような面持ちのまま、不安から逃れるように彼へ尋ねた。 「与えられた情報……あの、形代って何なんですか?」 「形代とは、見たままの存在だ。無機物。あるいは仮初の生を抱く者。役割は多岐に及ぶが、こちらでの地位はさほど高くない。ただし、主として認識した相手を決して裏切らない点において、何にも増して信頼足り得る……」 軽い音がした。 おもむろに「夜」が、何かを翳し見るように手を上げる。 つられて「夜」の手を見る里璃は、そこに小さな珠を認めた。 宝石と見紛うような、晴天の透き通る蒼。 「それは?」 「……トヒテの動力源とでもいうべきか。魔力の結晶だ」 「動力源……」 しばし見惚れたなら、「夜」は静かにそれをトヒテの背へと戻していく。 これを追い、里璃もそちらへ視線を落とせば、静かに名が呼ばれた。 「リリよ」 「サトリです。…………?」 すかさず訂正を入れ、「夜」に視線を戻せば、自分を見つめる黒い瞳に出会った。 鏡面の双眸に映る己の顔が、静けさに困惑を浮べた。 里璃を視界に入れたまま、「夜」は言う。 「何者よりも形代への信頼は厚い。そういった意味では、私はお前を、トヒテほど信頼してはいない」 「…………え?」 『『御前!』』 唐突に告げられた言葉へ目を丸くする里璃に代わり、他のトヒテが非難の声を上げた。 思わず彼女たちの方を見やれば、淀みなく「夜」の声が続く。 「だから憶えておくといい、リリよ。お前も私を信じるな。何が遭っても頼るな。主従の契約を結ぼうとも、私がお前を裏切らない保障はない。それは、私を主と頂くトヒテにも言える事だ」 「「夜」……」 名を口にすれば、里璃を捨て置き、トヒテへ視線を戻す「夜」。 程なく、また軽い音が響いたなら、傾いでいたトヒテの首が戻り、その目に魔力の結晶と同じ、鮮やかな蒼が宿った。 『は、あぁ……』 「……………」 と同時に、艶かしい声音がトヒテの口から零れる。 思わず白い目を向けた里理に気づいてか、肌蹴た着衣に気づいてか、それとも主に背を向けている事に気づいてか。 無表情のまま慌てた様子で飛び退いたトヒテは、ホワイトボードへ素早く身を寄せ、着衣の乱れを直していく。 これを見た里璃、元気な姿に苦笑を浮かべては、トヒテという隔たりをなくして向かい合う形の「夜」に視線を合わせた。 「……あー、「夜」? 私ってそんな風に見えていたんですか?」 頭を掻きつつ、気まずそうに尋ねてみる。 里璃を臥所に招いた際の記憶は、すっぽり抜けている節の「夜」。 きっと、己の名を呼んだ従者の身に何かあったのでは? と思ったのが、招いた理由とは考えもつかないだろう。 「頼るな」とわざわざ言ったくらいだから。 だから、「夜」のその言葉は、「夜」を選ぶと言った里理への警告。 けれど。 「この際ですから、はっきり言っておきますけど、私は最初から「夜」の事を信頼していません」 『『『さ、里璃様!?』』』 きっぱり言えば、今度は里理へ向けられる非難の声。 一人加わったことでより大きくなった訴えに、里璃は見向きもせず、同じく自分を見つめる「夜」へ挑戦的な笑みを浮かべてみせた。 「いいえ。今だって、信頼はしていません。人を勝手に従者へ仕立て上げた「夜」の事は」 「……そうか」 深みのある声が重々しく頷く。 ゆっくりと伸ばされる手。 悲鳴を押し殺すように、息を呑む音がトヒテから聞こえても、里璃は動じず、「夜」だけを見つめる。 す……と首を包む手があっても、黒い瞳の中の従者は、強い光を眼に宿したまま。 やがてその手が上へと滑り、頬を撫で、耳の後ろを伝い、頭部に回っても、里璃の表情は変わることなく。 背後から押されたなら、よろけて一歩踏み出した足が、視界を「夜」の黒い胸に埋めた。 温かく包み込む抱擁を受けて後、ようやく里璃の目が静かに閉じられた。 「では、何を信じる?」 暗闇の中、緊張を解すよう撫でられる髪。 絆されてしがみつきたくなる己を律し、顔を上げ、黒茶の瞳に「夜」を映した里璃は告げた。 「私を」 力強く、宣言する。 「私は、私の判断を信じます。だって「夜」が最初に言ったんですよ? 生半な自己はいらないと。だから私は「夜」の従者を選んだんです。たとえこの先、何があろうとも、私は私を信じて、「夜」についてゆきます」 「……ふむ」 最後に、にっと笑ったなら、大きな手が撫でる強さで、里璃の頭をぽんぽんと叩いた。 そうして静かに離れた「夜」は、叩かれた箇所を擦る里璃を、一瞥することなく背を向けた。 「トヒテが答えられなかった問い……答えはどちらとも言えんな。それこそ、お前が信じたい方で良かろう。我が従者になったとはいえ、お前の生は元々ヒトの世のモノ。あちらでソレが尽きぬ限り、お前はまだヒトと言える」 「……尽きぬ限り?」 「そうだ。なればこそ、ヒトの姿である時、お前は重ねた齢の数だけ老いもする。尤も、従者の時は今のままの姿であるから、ヒトとして老いたお前が、どこまでヒトとして暮らそうと思うかは知らんが」 「え……っと?」 掛けていた椅子まで遠退いた背へ、里璃は戸惑いの声を掛けた。 ぴたりと足を止めた「夜」は、ゆっくりと彼女の姿を己の黒い双眸に納める。 先を促す沈黙に、恐る恐るといった調子で、里璃は続けた。 「あの、それって……聞きようによっては私、ヒトとしての一生以上、「夜」の従者を務める事になるような?」 自国の平均寿命が80歳を越える昨今、まだその四分の一も生きていない里理にとっては、途方もない時間の話である。 実感なぞ湧くはずもなく尋ねた問いは、白い仮面の傾きに迎えられた。 心底、不思議だとでも言うように。 「? 何を今更。当たり前であろう? お前は我が従者であり、我が眷属。私が死なぬ限り、お前は務めを果たさねばならん。……まあ、お前自身が途中で死んだ場合は、そこで務めも終わろうが。しかし、私の下にあっては、自ら命を絶つ事は叶わぬぞ? それゆえ、やはりお前の務めは、私の終に等しく――」 「ちょ、ちょちょちょちょちょっと待った、いえ、待って下さい!?」 手の平を向けて主の語りを途中で止め、自身の頭をもう一方の手で押さえた里璃は、忙しなく視線を色んな方向へ飛ばした。 混乱しながらも整理した「夜」の話は、とどのつまり、里璃が不老長寿になった事を示していた。
人類が長年追い求めてきた夢――とかよく言われる、アレ。
それが知らぬ間に己が身に降りかかっていたと聞かされ、冷静でいられる輩はいるだろうか? ……いるかもしれないが、それは決して、里璃ではない。 よろけるように一歩下がったなら、背後に控えていた椅子の縁に膝裏が打たれ、里璃の身体が自然と座る形に倒れ込んだ。 まだくらくらする視界で「夜」を捉えると、何を勘違いしてか、彼の主はこんなことを仰る。 「ふむ。案ずることはないぞ、リリ。従者とはいえ、子孫を残すことは可能だ。ヒトの内に婚姻をしても良い。だが、相手の女に私を紹介するな? 深く言わずとも知れておろうが、我が誘惑に際し、抗える女は稀だ」 「い、いえ、別に、そーいう事を危惧しているわけじゃ」 第一、里璃が子孫を得るなら、相手は男でしかない。 紹介した時点で色々アウトだろう。 それでなくとも、子を宿せば丸くなる腹部。 考えれば考えるほど、従者の自分に結婚は無理だ。 ――とまで思った里璃、首を振っては子孫云々の話を追い払う。 問題にすべきは、そんなことではないのだ。 大叔母の借金のカタとして「夜」に仕える事を、自分なりに納得して了承したけれど、その期間は全く考慮していなかった。 それが今、ヒトの一生分どころか、前人未到の永劫を期間と聞かされ、一抹の不安が里璃の脳裏を過ぎっていた。 不安は形を変え、里璃のよく知る人々の姿となる。 永劫を生きるということは、彼らとの別れを必ず経験しなければならない。 そこには、俗にある順番的な考えは一切なく、本当に、ただの経過として、独りで受け止めるしか在らず。 ぞくっと粟立つ恐怖に身を強張らせた。 見届けねばならない、親しき者の死。 全て終えて後も、生きなければならない己。
狂うかも、しれない。
有限なればこそ、価値あるモノは世に多く在る。 しかし無限に近ければ――それは停滞に等しく。 停滞は飽和を生じさせ、飽和は怠惰となり、全ての感傷を無に帰す。 事象に対し、波立つ心すら亡くせば、それは同時に己を失くすことに直結する。 取り戻せない、取り戻す気さえ起きない自己は、ちらつかせただけでも恐ろしかった。 今はまだ、近いのか遠いのかさえ分からぬ先の話だが、知らず用意された未来に、里璃はもたれた椅子の肘掛に爪を立てた。 他に、起こる不安を取り除く術を見出せない彼女に、これをもたらした主は実にあっさりと視線を逸らした。 強張る虚ろな視界の中、「夜」の背がホワイトボードを通り過ぎてゆく。 『御前、どちらへ?』 遠く聞こえるトヒテの問いかけ。 後を追う彼女へ、「夜」は足を止めず答える。 「保険だ」 『了承致しました。では、ワタクシは引き続き、里璃様へ知識の供給を』 「ああ」 鷹揚に頷く「夜」が、ライブラリーの扉まで歩むと、絶妙のタイミングで内開きの扉が他のトヒテによって開かれる。 これを見もせず進む「夜」だが、あと一歩で廊下へ出る直前、ぴたりとその足を止めた。 「トヒテ。リリの質問に対して答えられぬ時は、保留しておけ。いちいち停止しては面倒だ」 『畏まりまして』 「知識如何では、此処の書物をリリに与えよ。形代のお前より、リリの方が応用は利くゆえ」 『はい』 「それから――リリよ」 「…………は、い」 淡々としたやり取りを意識外に聞いていた里璃は、やはり遠く聞こえる己の名に、鈍い意識を「夜」へと注いだ。 留めた視界の中、変わらぬ姿の「夜」は、半身をこちらへ向けて告げる。 「住いは一人か?」 「へ?…………いえ、家族と、暮らしていますけど」 「ふむ。……では、家族構成はどうなっている」 「…………………………? あー……っと、両親と兄が一人います……」 実感の湧かない不老長寿から打って変わり、現実的な話を持ち出され、里璃の眉が微かに寄った。 話の意図がさっぱり掴めない里璃を余所に、顎に手を当てた「夜」は続けて問う。 「両親の夫婦仲は安泰か?」 「は?」 何故そんなことを尋ねられなければいけないのか。 ……そもそも、答えなきゃいけない事なんだろうか? ちょっぴり嫌そうな顔をした里璃は、待つ風体の沈黙を「夜」のみならずトヒテからも感じ、座る姿勢を正しては渋々といった調子で答えた。 「まあ……はい、たぶん…………今も海外だってはしゃいで、二人で旅行に出ていますし」 目的が大叔母、「夜」の知人であるエルの死を弔う事だとは、不謹慎にも楽しそうな両親の手前、たとえ主相手でも告げられないが。 不老長寿の憂いはどこへやら、出発直前の和気藹々とした二親を浮べた里璃は、呆れのため息をこっそり零した。 「ふむ。安泰どころか旅行か……ならば、案じは杞憂に過ぎんな」 「案じ?」 答えを得、里理から早々に視線を逸らした「夜」。 その際、もたらされた不可思議な言に首を傾げても、「夜」は他に語る言葉を持ち合わせず、さっさとライブラリーから出て行ってしまう。 取り残された感満載の里璃は、巡らせても無意味な事とは知りつつ、「夜」の問いの意を考えつつ、背もたれに身を預けた。 |
2009/6/29 かなぶん
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