一夜漬けの日々 8
出口のない考えに没頭する、表立っては茫然とした面持ちの里璃。 これを解放したのは、トヒテが差し出した温い茶の香りと言葉であった。 『御前は少し、里璃様に耐性を付けなければ為らないようですわね』 「……耐性?」 『どうぞ』と示され、茶を一口含んだ里璃は、口内を潤す香りを味わいながら、トヒテを見やった。 吊り目がちの赤縁眼鏡は、フローライトの視線を里理に絡め、口の中が空になった頃合を見計らい。 『はい。実はワタクシ、里璃様の知識供給を行おうとされる御前に、恐れ多くも進言致しまして』 「知識供給……って、本当は「夜」が私に教えようと?」 『はい。御前は御自身で里璃様に、こちらの知識を御教えしたかった御様子でしたが、ワタクシが止めたのです。女性への御運びを御前が御止めになっては、後々、里璃様に弊害があると』 「……弊害って?」 問いつつ、もう一口茶を含む里璃。 トヒテは今回も、飲み込むのを待ってから頷いた。 『弊害とは、御相手御一人に掛ける時間の事にございます。御前は本来、もう少し御早い御起床をされるのですが、昨夜は里璃様の御友人を、手厚く御もてなしされていましたから』 「……ああ、だからか」 呆れ顔で頷いた里璃だが、それは決して、昨日に比べて召還された時間が遅かったからではない。 トヒテが里璃の飲み具合を計っていた理由を察したためだ。 どうやら、臥所での助けを勘違いしていた言と、茶を噴出した里璃の因果関係を、いつの間にかトヒテは理解してくれたようだ。 とはいえ、タイミングを見計らうのみで、憚らない辺りが彼女らしい。 ひっくるめ、次にどんな言葉が瑞々しい唇から紡がれるのだろうと、やや白い目を向ける里璃を余所に、トヒテはゆったりと頷いた。 『ですから、御前が御運びを御止めになっては、最初の御仕事を終えて後、里璃様が御待ちになられる時間が長くなってしまわれると』 「……あの、トヒテ?」 『はい? 如何されましたか、里璃様?』 おずおず手を挙げ話を止めた里理に対し、無表情が少しだけ傾いた。 「従者になってから聞くのもなんだけど……私の仕事って?」 トヒテの話の中で、里璃は今更ながら、自分の仕事内容すら知らない事に気づく。 職に就いてから、期間を知り内容を知ろうとする手際の悪さに、なんとなく気まずい思いを抱けば、きょとんとした雰囲気を織り交ぜ、トヒテが何度も頷いた。 『言われてみれば、そうですわね。従者が何を為さるのか……そう言えばワタクシも、あまり知らないのですが』 「そう、なの?」 『はい。先程も申しました通り、御前の従者と為られたのは、里璃様が初めてですので、ワタクシもよく存じておりません。ただ、確かと思しき御仕事は、一つだけ認識しております』 ここで一呼吸区切ったトヒテは、またゆっくりと首を傾げた。 『そういえば里璃様、リョウシンとアニとは、どのようなモノを言うのでしょうか?』 「へ? いきなり話変わるの?……そもそも、どのようなって――」 教わる立場から教える立場への移り変わりに戸惑い、里璃は顔を顰めて首を傾げた。 次いで、こちら側のことを里璃が何も知らないように、トヒテにも知らない事があるのかもしれないと思い直す。 それにしたって、「夜」の娘というくらいなのだから、両親の意味ぐらいは分かるだろう、とも不審がりつつ。 「えーっと、両親は父親と母親の二人の親、生み育ててくれたヒトの事で、兄は私より先に、同じ両親から生まれた男のヒトの事、かな?」 日々、当たり前に使っている言葉を、分かりやすく説明すると、思いの外回りくどく感じる。 これで伝われば良いと思い、トヒテの瞳を探れば、眼鏡奥のフローライトが瞬いた。 『御父様と御母様……現す文字は御両親…………アニは殿方版の御姉様……御アニ様?』 「いや、そこはお兄様じゃないの?……アレはそんな上品ぶったモンじゃないけど」 里璃が口を零しつつ訂正を入れると。 『ニィ?』 猫真似のように可愛らしい声を上げ、顔を傾けるトヒテ。 合わせてキツく巻いた黒髪のツインテールが、薄紅がかった白磁の頬と宙にふるりと揺れた。 変わらぬ無表情だというのに、愛くるしい仕草を受け、里璃は危うく噴出しかけた。 赤縁眼鏡がなければ、きっと真っ赤になってしまったに違いない。 それくらい、今のトヒテは可愛かった。 同性相手でこうなのだから、異性相手なら殺人的な可愛らしさだろう。 なんともなしに、女で良かったと思ってしまった。 口元に手を当て、深呼吸を数度。 改めて見やったトヒテは首を傾げたまま、里璃をじっと待つ姿勢。 少し気圧された里璃は、愛想笑いを瞬間的に浮かべると、転じて不思議そうに眉根を寄せた。 「ねえ、トヒテ? 「夜」の娘っていうくらいだから、家族構成の意味くらい分かるよね?」 『はあ……分かるには分かりますが…………ワタクシの知識には、欠如している部分が一つだけあります』 「欠如……って、元から?」 『はい。ワタクシを御造りに為られた際、御前が得てして、御入れに為らない知識なのです。つまりは、殿方に関する――ただし、御父様はワタクシからすると、恐れ多くも御前に相当しますので、そちらは知り得ておりましたが』 「……なるほど」 そこまで徹底して、自分以外の男の存在を認めたくないのか。 呆れよりもぞっとした思いを抱き、半眼がライブラリーの扉へと向けられた。 女とバレたいわけじゃないが、この先、「夜」が本気で自分を男扱いしようものなら、命が幾つあっても足りないだろう。 少しだけ、「夜」の従者になったことに後悔が過ぎる。 とはいえ、全てはまだ仮定の話で、身の危険を感じる事さえ先の話。 そう思えば、不老長寿に関しても、悩むのは後で良いのかもしれないと考える。 ヒトの一生でさえ、平均寿命の四分の一も生きていない里璃にとって、10年先の未来も未知数なのだから。 幾分、楽になった気へもう一度頷いたなら、トヒテが真正面、里璃から見て左側を見つめている事に気付く。 何かあるのだろうか、とそちらを見やった里璃だが、特に目ぼしい物はなし。 改めてトヒテへ視線を移せば、無表情がこちらをじっと見つめており、咄嗟に引き攣った愛想笑いが浮かぶ。 ついでに椅子へ、里璃は身体をへばり付け。 これには何の反応も示さないトヒテ、恐る恐るといった調子の機械的な声音で問うてきた。 『……あの、里璃様? では、御ニィ様は殿方なのですか?』 「え…………」 問われるまでもなく、殿方――男であるだろうに、思わず返事に窮してしまう里璃。 生物学的にも、戸籍上でも、間違いなく男なのだが、確認を取られると素直に頷けない。 否、本気で迷っていた。 里璃の中であの兄は、兄という、性も種も超えたナマモノの認識しかなかったので。 数秒を要し、言われてみれば男だったなぁと感慨深く思い。 「う、うん。男だよ?」 『まあっ!!』 挙動不審に頷いた里璃をどう思ったのか、トヒテは口元に手を当て、わざとらしい悲鳴を上げた。 たぶん、彼女にとっては至極真面目に悲鳴を上げたつもりなのだろう。 表情が変わらないせいで、ふざけているようにしか見えなくとも。 そんなトヒテの仕草を理解していた里璃は、兄が殿方だと何か不味いのだろうかと首を傾げる。 トヒテを見つめたまま眉根まで寄せれば、似合わない赤縁眼鏡の美少女は、顔をずいっと里理に近づけてきた。 ついつい引けば、声だけ震わせトヒテが言った。 『さ、里璃様……よくぞご無事でっ!』 「は?」 話の見えない里璃が、大きなクエスチョンマークを顔面に乗せると、近かったトヒテの相貌があっさりと離れた。 息をつく里璃を余所に、困惑が無表情の気配に滲み始める。 『あ、あら? ワタクシの勘違いでしたか? 失礼致しました。御ニィ様も御両親と共に御旅行に』 「いや、兄は家にいるけれど」 『『『何ですってっ!!?』』』 素っ頓狂なハモリ。 続いてざざざざーっ、と机の周りをトヒテに取り囲まれてしまう。 しかし、数が可笑しい。 ホワイトボードの傍に控えていた二人を足しても、本来集うのは三人のはず。 だというのに、どっから湧いてきたのか、総勢二十名ほどのトヒテが、机を挟んだ眼前を埋め尽くしていた。 その全部が全部、無表情なのだから、数の不思議を訝しむ傍ら、思わず里璃が椅子にしがみつくのも致し方なき事。 「な、何か問題でも……?」 ちょっぴり眦に恐怖の名残を光らせつつ問うたなら、息を詰めたように胸を押さえる赤縁眼鏡のトヒテ以外が、ワイワイガヤガヤ騒ぎ始めた。 あーでもない、こーでもないと言い合う中で、眼鏡トヒテが首を振ると、お喋りが一斉に止む。 『問題……大ありですわ。去り際、御前が案じと仰っていましたでしょう?』 「う、うん」 『あれは、御前が里璃様を殿方だと御理解しているため、杞憂に終わった、という御話なのです』 「え……じゃ、じゃあ女だったら?」 『……きっと、御ニィ様が現在いらっしゃる処を御尋ねに為られたと思います。もしくは、御ニィ様に想う方がいらっしゃるかどうか』 雰囲気に脅しを含む、機械的な声。 こちらを見つめるトヒテたちの視線も相まって、里璃の喉が先を促すべく、ごくりと鳴った。 これにより、シスコン兄に未だかつてそんな相手はいなかった、と気安い調子で吐かれる言葉が呑み込まれた。 『里璃様は、御前の血を御呑みに為られました。此れにより、里璃様の御身は先程御前が語られた通りと為られました……此処までは宜しいですね?』 「うん」 重々しい確認に姿勢を正した里璃は、トヒテの無表情に負けない、硬い表情で頷いた。 赤縁眼鏡のトヒテは頷き返すと、ちらり、他のトヒテたちに目を配る。 これを受け、蜘蛛の子を散すように、眼鏡トヒテとホワイトボードにいた二名以外のトヒテが、ライブラリー内を移動していく。 最中、設置された棒を掴むトヒテ。 これに反応した棒は淡く光り、併せてトヒテの足下に、同じ光が円形となって展開された。 途端、昇降機のように円形の光が持ち上がり、トヒテを上のフロアへと運んでいく。 魔法、なのだろうか? 次々とトヒテが上へ移動する、近未来SFの様相を呈した、不可思議な光景。 すっかり目を奪われていた里璃は、小さく為された雑音混じりの咳で、視線を音源と思しき眼鏡のトヒテへ戻した。 『それぞれ持ち場に戻ったところで……良いですか、里璃様。ワタクシがこれから述べる事柄は、少なからぬ衝撃を里璃様の精神に課してしまうかもしれませんが、御心を強く御持ちになって下さいませ』 「う、うん」 前置かれた注意に際し、里璃の身体が多少なりとも強張った。 トヒテは発言の準備をするべく、深呼吸染みた動きを数度繰り返し。 『変異は身体に馴染むまで時間を要します。そしてその間、副作用を生じさせるのです。特に、ヒトの世とこちらと、領域を違える場合ならば尚の事。契約という経過があっても、それは変わりません。しかも御前は類稀なる御力を携えし御方。彼の御方の血がヒトの身に入る事は、それ相応の副作用を発生させます。たとえば、ヒトの世に戻って後、上手く身体が動かせなくなる等』 一気に語られる、前置き。 本筋に入ると構えていた分だけ、拍子抜けした里理から、力がふっと抜けた。 同時に昨夜、「夜」の元から家に着いてからの、あの奇妙な感覚の原因を見出し、吐息が勝手に零れていく。 その合間を逃さず、続けてトヒテは言う。 『中でも危うい副作用は、異性に対する無意識の魅了。尤も、相手の方に里璃様以上に強く想える方がいらっしゃれば、心配には及ばないのですが』 この場合、相手と暗に示されているのは兄だろうか。 嫌な予感がひしひしとする。 異性との浮ついた話のない兄。 ホストという職業柄、そーいう方向にコトが運んだりもするだろうに、朝帰りした場面に出くわした憶えもなく。 しかも、シスコン。 早い話、里璃以上に想える相手どころか、里璃以外に想える相手がなく、心配は依然として存在し続けるという事で。 考えれば考えるほど、里璃の中の嫌な予感は膨らむばかり。 「魅了……?」 多少上擦った声で聞き返せば、重々しくトヒテが頷いた。 『はい。しかもこれは、血縁の濃淡に左右されません。つまり――』 里璃の意識を集中させるように息を一度切り。 『殿方である御ニィ様は、どうしようもなく、里璃様に惹かれてしまう、と』 「……は?」 予感的中。 だが、理解したくない里璃の目は、点になって現実を拒否する。 これを許してくれないトヒテは、尚も告ぐ。 『言い換えますと、殿方が好ましい女性へ向ける感情と同等の想いを、御ニィ様は里璃様に抱いてしまう』 「……や、あの、と、トヒテ?」 『もっと具体的に言いますと、御ニィ様は里璃様を一人の女性として見てしまうのです』 「ちょ、あの」 『簡潔に言えば、御ニィ様は里璃様が欲しくて欲しくて堪らなくなる』 「っ、ま、待っ」 『この際、はっきり言ってしまいましょう。御ニィ様は里璃様に欲情したはずなのです!』 「な、何度も言うんじゃないっ! 言葉が違うだけでしょ、意味は分かったから!!」 制止も聞かず、好き勝手喋り倒したトヒテへ、机を叩いては立ち上がり、応戦する構えの里璃。 けれど、目に見える憤怒に反し、その顔は若干青褪めていた。 理由は偏に、拒んだ末の理解から唐突に過ぎった、夜中のやり取りのせいである。 帰ってきた兄を向かえた己の、思い返せばかなり妖しい言動に続き、兄の部屋のベッドへ連れて行かれた事。 眠りに落ちる直前、肩透かしを喰らったような「え?」という兄の声まで、耳の奥で再現されたなら。 「〜〜〜〜っ、ど、どうして! どうして最初に、家に着く前に、言ってくれなかったのさ!?」 今頃になって襲い来る、自身の行動に対する羞恥と、未遂で良かったでは済まされない恐怖。 赤か青か、目まぐるしく肌の色を変える里璃とは対象的に、トヒテは変わらぬ顔色・無表情で小首を傾げた。 『はあ……ですが、里璃様の御様子からして、何事もなかったのでは?』 「そうだけどっ! 結果的にはそうだったけれども!!」 フラッシュバックする、起床後に目にした、ソファで眠る兄の姿。 “俺は里璃のお兄ちゃん”と、ただひたすらに書き記された、あのノート。 正気を疑った内容が、まさか、兄のなけなしの正気を保つために認められたモノと知り。 一気に崩れ落ちた里璃は、椅子に尻を引っ掛けつつ、机に自分の額を打ちつけた。 シスコンで変な言動ばっかりだけど……今回は礼を言っておかなきゃ。 面と向かっては絶対言えないけど。 「ありがとう、兄。よくやった、褒めてやる……」 呪いの言葉を吐くように、突っ伏したまま、低く呻く里璃。 心情的に、私は死んでいると思えば、頭上からトヒテの声が被さってきた。 『あの、里璃様? 確かに説明不足は否めませんが、御前もワタクシも、故意に告げなかったわけではありませんわ』 気配に滲む焦燥。 察した里璃はのろのろと顔を上げ、胡乱な瞳で赤縁眼鏡の奥にある、フローライトの相貌を見つめた。 真摯な光をそこに読み取れば、トヒテはぐっと身を乗り出して告げる。 機械的な音色で。 『今の今まで、すっかり失念していただけで』 「……もう、いいよ」 わざわざ力を入れて言うべき事ではないだろう。 遣る瀬無い溜息をついた里璃は、眉間を揉み揉み、言い募ろうとするトヒテを手で制し、きちんと椅子に座り直しては、すっかり冷えてしまった紅茶を一気に煽った。 |
2009/7/8 かなぶん
Copyright(c) 2009-2017 kanabun All Rights Reserved.