一夜漬けの日々 9

 

 タンッと軽い調子で机を叩くカップ。

 息を零し、気持ちを切り替えた里璃は、改めてカップ皿へと空になったカップを置き、机に肘をついて、両手の指を絡ませた。

「んで? 話を戻したいんだけど、私の仕事って何なの?」

 何事もなかった、では済まされない話だったが、過ぎた事と処理しなければ話が進まない。

 それに、幾らトヒテたちを責めたところで、燻る苛立ちと残る気持ち悪さは拭えず、里璃自身、別の話題を欲していた。

 「夜」の話から推測するに、ヒトの世での生とやらが尽きるまで、里璃が望まない限りは、必ず家に行かされるのだろう。

 兄への対処法はその時にでも考えれば良い。

 仕事に行きがけの様子は気になるが、あのノートを鑑みれば、多少は信頼してやってもいいかもしれない。

 なけなしの兄としての意識を。

 ひっくるめ、考えを横に保留した里璃は、組んだ指の先にいるトヒテを上目遣いに見た。

 逡巡する間が空いて後、赤縁眼鏡の奥が瞬きを何度も繰り返す。

 先程から繰り返されている動作だが、どうやらこの瞬きは、コンピュータでいうところのロードに相当するらしい。

 程なくトヒテの瞼が完全に閉じれば、目と共に口が開かれた。

『ワタクシが一つだけ認識する従者の御仕事……それは、見つける事』

「見つける……? って、何を?」

『御前の御相手を』

「え……と?」

 指を解き、今度は里璃が己の記憶を探る。

 御相手が何を指す単語かは分かるが、「夜」が去って後のトヒテの言葉を鑑みるに、彼の主は現在、その御相手の下へ向かっているはずではなかろうか?

 第一、昨日の恵の反応がある。

 わざわざ里璃が見つけたりせずとも、相手が理想とする容姿になれる「夜」の事、自分で誘えば簡単なのではないか。

 と、ここまで考えた里璃、ふと気になってトヒテに尋ねた。

「そういえば、「夜」の私に対する耐性って?」

『はあ……それは、その』

 途端、無表情のトヒテから戸惑う気配がやってきた。

 小首を傾げて応じた里理へ、おずおずといった声が問い掛ける。

『御気分を害されませんか?』

「は? なんで」

『僭越ではございますが、今までの御様子から、里璃様が御嫌いな話になると思われるのですが』

「…………」

 何を今更――そう告げたい口をぐっと引き締める。

 紅茶の飲み終わりを待つ姿勢といい、今といい、トヒテは里璃の行動を受けてから、モノを考え、応じた動作をしているらしい。

 学習能力、と表せば良いのだろうか。

 ならばいっそのこと、最初からそういう類の気遣いをインプットしてくれれば、とは思うものの、里璃の生まれ育った環境とは違うのだから、良いも悪いもありはしまい。

 否、もっと言えば、里璃の考える善悪が、こちらでは真逆に捉えられる可能性さえあるのだ。

 そんな中では、里璃を慮る行動を取るトヒテこそが、異質なのかもしれない。

 彼女なりに最善を尽しているのだと理解が及べば、里璃は吐息混じりに首を振った。

「害さない……とは約束出来ないけど、教えて貰わないと分からないことだらけだもん。何より、尋ねたのは私だからさ。……御免」

『里璃様?』

 机に両手を置き、小さく頭を下げれば驚く音色。

 顔を上げた里璃はフローライトを真っ直ぐ捉えて行った。

「うん……御免ね、トヒテ。尋ねたのは私で、トヒテは教えてくれただけなのに、勝手に怒ったりなんだり。トヒテの方こそ、嫌だったりしないかな?」

『そんな……ワタクシ如き形代に、勿体無き御言葉にございます。嫌などと、その様な愚かな思いはございません。ワタクシの至上の悦びは、与えられた御役目を遂行する事』

 胸に手を当て目を閉じるトヒテ。

 長い睫毛を震わせては、吐息を零すように唇を震わせる。

 ゆっくりと開いたフローライトの瞳が、ライブラリーの明かりを取り入れ、鮮やかに輝いた。

『ワタクシは、形代にございます。正直なところ、御役目を遂行して後の、里璃様の御気持ちを図ることは出来ません。只その時の御反応を考慮し、次回に生かす事しか出来ないのです。ですから、里璃様が御謝りに為られる事はございません。元より、御反応を情報として処理するだけの身、なのですから』

「トヒテ……」

 光の加減により、一瞬だけ、寂しそうに笑んで見えたトヒテ。

 それでも呑まれてしまった里璃は、申し訳なく思い、目を伏せ。

『さて。御了承も頂けましたところで話を戻しますと――御前は事ある毎、里璃様の行動に魅力を感じてしまい、結果、煽られた分を御解消為されるべく、他の女性の処へ御運び、御過ごしに為られるのです。常より増した頻度と密度の濃さで』

「……え?」

 思ってもみなかった告白にたじろげば、視線を上げた先のトヒテが、フローライトに妖しい光を携えた。

『つまり、里璃様に対する耐性を御持ちでない今の御前は、表現は悪うございますが、餓えた獣と為られてしまわれるのです』

「え……そ、それって…………?」

 トヒテの言いたいことは理解しているが、すんなり受け入れられる内容ではない。

 何せ、里璃を男と勘違いしている「夜」は、話で聞く限り、男を邪魔者か、それ以下だと認識している。

 だというのに、トヒテの言い分を呑み込めば、「夜」の中で、里璃は女と思われているということになり。

 ……バレたら、危険、なんじゃなかったっけ?

 反芻する、これまでのやり取り。

 合わない符合に眉根だけが寄り続け。

 これへ首を傾げたトヒテは、瞳を数度瞬かせ、おもむろに口を開いた。

『……先程も申しました通り、御前はあまりモノを御望みには為られません。有機にせよ、無機にせよ。御望みに為られたなら、ヒトの世の普く全てを掌中に収められましょうが……斯様なモノ、御前は決して御望みには為られないでしょう。今までもそうで在られたように、これからも』

 滔々と語るトヒテの声は、どこまでも平坦に淀みなく続き。

『興味を御示しに為さる事さえ稀なれば――御分かり頂けませんか、里璃様』

 突然名を呼ばれ、里璃が気持ち身構えたなら、鏡を思わせる瞳が静かに告げた。

『御前にとって里璃様は、たとえ真実、殿方で在られたとしても特別な御方なのです。その様な御方の動向いかんに、御前の御心が左右されても致し方ない、とは思われませぬか?』

「って、言われても……」

 言葉だけ聞くと悪い気はしないが、その結果で「夜」が女に通じる点は分からない。

 いつまで経っても至らない里璃の理解を知ってか、しばし沈黙の後、トヒテが小さく首を振った。

『まあ、今、申しました事は全て、御前御一人の問題。やはり、里璃様を殿方と思われている以上、御前も今のままで良しとはされないはずですわ。となると、この話は無用でしょう。……元を正せばワタクシのいらぬ一言のせい。申し訳ございません、里璃様。御気にされるような言い回しを致しました』

「ううん……私こそ、聞き流せなくて」

『それは至極当然の事かと存じます。ワタクシが不躾にも、里璃様の御名を口にしてしまったのですから』

 謝り返せば、その分増して頭を下げるトヒテ。

 収拾がつかなくなると思った里璃は、ぎこちない笑みを作り、元の話題を提示した。

「えっと、それで、見つけるって話は――」

『あ、はい』

 無表情ながら、気を取り直した風体のトヒテを見、なんともなしにほっとした里璃は、耐性云々の話の前に思っていた疑問をぶつけた。

「……あのさ、「夜」って、相手の好みの男性になれるんでしょ? なら、従者の手伝いなんていらないんじゃないの?」

 ストレートに尋ねると、トヒテの頭が小さく傾いだ。

 次いで小さく会釈し、待機し続けていたホワイトボードの前まで移動。

 その間、ホワイトボードに控えていた二人のトヒテが、慌ただしく書かれていた文字を消し、新たな文字を書き出した。

 全て書き終えたなら、赤縁眼鏡のトヒテがひらりとスカートを翻し、先程まで手元になかった教鞭でホワイトボードを叩く。

『さて、里璃様。何度も申しておりましたが、御前は滅多に何かを望まれる事はありません。ですが、女性の下へは頻繁に御運びに為られる……ここに、矛盾があるとは思われませんか?』

「え…………お、男の生理現象とか、そういうのじゃないの?」

 たっぷり時間を置かれた後の質問に際し、里璃の脳裏にぱっと浮かぶ情景があった。

 

 

 それは、交際していた少年と初めてキスをした中学の時。

 

 場所は誰もいない放課後の教室。

 雰囲気に呑まれる形で、キス自体は素っ気なくとも、気持ち的には十分甘酸っぱい状況下。

 終えて羞恥を取り戻した里璃へ、何を思ったのか、彼はその先を強行しようとしたのである。

 鼻息も荒く、目も際どい光を放ちながら、「もう、我慢できないっ」とどこかで聞いた気がしないでもないフレーズを吐いて。

 机の上に押し倒され、雰囲気丸投げのこの行為で一気に冷めた里璃は、男女の体格差もなんのその、頭突きで相手を怯ませては、引き寄せた足裏を相手の腹に埋め、吹っ飛んだところで壁にもたれた肩をもう一発蹴りつけた。

 腹と肩を押さえて呻く相手の片方の内腿を踵で捻り、更なる悲鳴を耳にしつつ、触れ合った唇を荒々しく拭う。

 この時、ちょっぴり眦に涙が浮かんでいたのは、里璃だけの秘密だ。

 散々なファーストキス――とこの時は思っていた――体験に、里璃が次なる行動へ移る直前、痛みに喘ぎながら彼は言ったものである。

 ――だって、ようやくここまで来たのに、キス一回で終わりなんてナシだろっ! 男の生理現象なんだよっ! 納まりつかねぇじゃねぇか! せめて、いっば!!?

 言い切る前に、近くにあった椅子を、彼の顔面横すれすれに叩きつけたのは、里璃の愛情である。

 もし、全部聞いてしまったなら……今思い起こしてみても、純情をぶち壊された自分が、何をするかさっぱり分からなかった。

 ちなみに、椅子の衝撃で凹んでしまった可哀相な壁と、余波で半壊してしまった椅子は、当時、クラスに数人いた不良のせいとして片付けられ、彼らも自分たちの所業と言って憚らなかった。

 他人の褌で相撲を取るという訳ではないだろうが、これで彼らに箔が付いたらしい。

 尤も、真実を知っている――どころか破壊した張本人の里璃は、犯人として挙げられた彼らが一瞬だけ、戸惑いの表情を見せていた事を知っている。

 願わくば、自分の仕業だと里璃が訂正を入れる前に、声高に肯定した彼らのその後が、あまり酷くない事を……

 と、当時、事なかれ主義に徹した里璃は思い。

 ともあれ、そんな経緯があったものだから、てっきり彼氏とはこれっきりと思っていた里璃。

 次の日、何事もなかったかのように彼氏から彼女扱いを受けては、特に文句もなく、二股が発覚するまで付き合っていた。

 その理由は偏に、ケータイを用いた電話とメールによる、彼氏のしつこい謝罪を哀れんだため。

 二股発覚時にも似たような事をされたが、問題は二人だけに留まらないので、哀れむ事なく着信を拒否したのは良い思い出だ。

 

 

 在る日の美しくはない出来事を、遠い目で見つめる里璃に対し、トヒテはきょとんとしたように目をぱちくり。

『殿方の……せーりげんしょー?』

「ああ。そういえばトヒテって、男の人に関する情報って少ないんだったっけ」

 現実に視線を戻した里璃は、無表情のまま不思議がるトヒテに納得。

 かといって、説明もし難い内容に呻きを一つ。

 ぴんと閃いたのは、昔、トヒテに襲い掛かったという男の話だった。

 確か、ユウ、という人物が、トヒテに寝取られたの何だのと、文句を言っていたはず。

「あーっと、平たく言うとね。寝取りたくなるっていうか……そんな感じで」

『はあ……なるほど? それはつまり、「夕」様の御付の方が、ワタクシの一つを破壊した時のような、殿方の状態なのですね?』

「げ、厳密に言うと違う気もするけど……大体、そういう意味かな」

 濁したい部分をさらりと本人に言われ、苦い顔が里理に浮かぶ。

 忘れたわけではないが、男に襲われたトヒテは、その御付に壊されているのだ。

 中身が柔らかな肢体どころか、硬い絡繰りなれば、その意は物を壊す事と同じく。

 けれど、ヒトで表すなら死に等しい事柄。

 また軽々しく口にしてしまったと後悔すれば、トヒテが少し首を傾げ、小さく頷いた。

『里璃様? 昨日に引き続き、何やら悔やんでいらっしゃるようですが、ワタクシにしてみれば、一つ壊されたところで問題はありませんわ。ワタクシはそれぞれ、別の個体ではありますが、厳密には一の意思。どうか御気に留めないで下さいませ。そちらの方が、ワタクシにとって恐ろしい事なのですから』

「トヒテ……うん。御免。ありがとう」

 謝罪と礼には、首を傾げたトヒテだが、こくりと頷くと己の胸に手の平を押し当てて言う。

『ワタクシは形代為れば、壊れやすき代物。扱い様によっては、ヒトよりも遥かに脆い造りです。けれど、身体がなくなった程度では壊れたとは申しません。この身に埋め込まれた魔力の結晶が破壊されて、初めて壊れたと表現されるのです。そしてそれこそが、ワタクシの死に等しい』

 語る内容は重く、口調も淡々としたもの。

 しかし里璃は、死を語るトヒテの無表情に、僅かな悦びを見出した。

 「夜」の娘だという、絡繰り仕立てのトヒテ。

 なればこそ、彼と同じく永き時を生きてきただろうに、どこか、終がある事を尊ぶ姿勢があった。

 それは、予期もせず、実感も未だなく、不老長寿を得た里璃と、似た空気を感じさせるもので。

 トヒテって…………やっぱり、中身が絡繰りとは思えないな。

 ともすれば、ヒトのようにさえ見えてくる。

 語り終えたトヒテは、合間に吐息を一つ零し、顔を上げてはゆっくり首を振った。

『殿方のせーりげんしょー、了承致しました。ですが、御前に関しては当て嵌まらない事象』

「違うの?」

 思わず身を起こして問うたなら、目を伏せたトヒテ、抑揚のない機械的な声で肯定した。

『はい。御前は……』

 一旦、言葉を濁し、フローライトの視線が里理に寄せられた。

 黒茶の瞳がこれを受け取れば、形の良い唇が呼気と共に震えた。

『御前は、とある契約に基づき、女性を御求めになられるのです。成立して後も、御自身のために色を好まれて』

「契約……「夜」自身のため……?」

『契約の詳しい内容は、御前しか知り得ていないため、ワタクシに語れる口はなく、仮に知り得ていても、語れる権限はございません。それでも告げられる事があるとするならば、この契約の主こそ、里璃様の前に、御前が真に御望みに為られた最初の御方。そして――』

 赤縁眼鏡の向こうが、す……と細まった。

 フローライトの色彩はあっても、無機質な眼光が里璃の身を竦ませる。

 知らず知らず喉が鳴れば、引き継いだタイミングでトヒテは続けた。

『御前の御相手と為られる女性へ、条件を付けたのも、彼の御方なのです』

「条件……?」

『はい。それこそが、従者の――里璃様の御仕事の理由となります』

 おずおずと里璃が反芻したところへ、赤縁眼鏡のトヒテのみならず、ホワイトボードに控える二人のトヒテも頷いた。

 それでも語りは眼鏡のトヒテの口だけを開け。

『御相手の条件――それは』

「それは……?」

 「夜」――主を縛りつける内容に、従者はきゅっと拳を握り締め。

 

『御相手の意思を尊重する事』

 

「…………へ?」

 思ったよりも普通だった条件に、心なし緊張していた里璃から、間の抜けた息が漏れた。

 

 


2009/7/14 かなぶん

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