常夜ノ刻 11

 

 「工」曰く、里璃の包帯の理由に気づいたのは、尋常ならざる食欲のせいだという。

 全てにおいて魔力を礎とするこちら側では、食物に関しても例外はない。

 回復量は微々たるモノだが、食べ物でも魔力を供給する事が出来る。

 このため、空腹は魔力を求める事とも通じており、ゆえに「工」は、どう見ても大食漢には見えない里璃の喰いっぷりに器官の瑕を察したらしい。

 ちなみに「工」がこれに気づかず、里璃に言われるまま更に菓子を出し続けていたなら――

 

 

 

「うっ……な、何か、気持ち悪い……ぐっ」

「ったりめぇだろうが。魔力自体は足らずとも、固形物をたらふく喰ったんだ。胃の中はぎゅうぎゅう詰め。一歩間違えりゃ、バケツが必要になっていたところだぜ?」

 「工」から食欲と魔力の関係を教えられ、魔力供給を早くするよう進められた里璃。

 早速胸ポケットからシガレットケースを出し、一本吸い始めたまでは良かったのだが、煙を肺に入れようとすると、どうしてもその煙たさと過剰な甘さから、咳ばかりが出てきてしまう。

「う、うううううぅ……ぐ、げぇっ」

 シガレットを指に挟んだ状態で苦悶の声を上げたなら、「工」が呆れた溜息を吐き出した。

「しっかし、まあ、良かったじゃねぇか。身体の状態を正しく認識できるようになったんだから。シガレット様様って奴だろ?」

「ぐう……そ、それはどうですけど」

 顔を顰めつつ、涙目でちらりと「工」を見やった里璃は、平然としたその表情に恨めしい気持ちを抱いた。

 「夜」が作り上げたこのシガレット、どうやら特定の者にしか効力がないらしい。

 試しに里璃が「匂い、キツくないですか?」と聞いたなら、匂いなんかあるのか? と問うような視線を投げかけられてしまった。

「うーむ。これは仮定だが、領主様の魔力を感知できる者でなけりゃ、その匂いも煙たさも分からんのかも知れんな」

「よ――じゃなかった、主の魔力って? けほっ」

「あ? お前さん、そんな事も……って、知るはずもねぇか。知識はそこそこあっても、いまいち応用なってねぇし、領主様どころかこちら側に関しても、知って間もない感じだしな」

「うっ……そ、そんなに分かりやすいですか、私」

 どうにかこうにか一本吸い終わり、次に手を伸ばす手前で両頬に手を当てる。

 意気消沈するその姿を横目に、向かいの席へ戻った「工」は、里璃にしてみれば少し低く、彼自身にしてもやや高いテーブルの上に肘をついた。

 家主の「工」が使うにしては使い勝手の悪い家具たちは、二階で「夜」と睦み合っている彼の娘に合わせているようだった。

 うっかり、ちらりと見た娘の姿を思い出し、ついでに現在の二階の様子に思いを馳せてしまった里璃は、「工」が喋るより先に姿勢を正すとシガレットを一本取り出して咥えた。

 そのまま吸えばパチッと小さく爆ぜる微かな音に合わせ、仄かに色づく先端。

 更に吸い込めば増す火の赤を追い、喉を突く煙と胸を焼く甘さが身体全体に広がっていく。

 思わず口を塞いで咳き込んだなら、燻る紫煙しか知覚できない「工」が「大変だな」と呟き小さく頷いた。

「分かりやすいというか……ヒトは滅多にこちら側には来ないんだよ。来たとしても大抵が魔女。お前さんのように擦れていない奴は稀だ。だから容易に想像出来ちまう。どれくらいの知識があって、どれくらいこちら側に慣れているか、ってな」

「はあ、そうなんですか……げ、けほっ」

「で、だ。領主様の魔力について誰でも知っているのが、さっきお前さんが訊いた話さ。結晶を見て分かる通り、魔力にはそれぞれ属性というものがある。ここまではいいな?」

「は、はい」

「しかし、領主様がお作りに為られる結晶は、属性というモノを持たない。それは領主様の魔力に関しても同じ事だ」

「え……と? で、でも、この指輪の色は?」

 一時咽るのを忘れ、指輪を見やる里璃。

 通常、赤は炎や熱を表し、色が深ければ血や錆にまで至る属性を担っている。

 属性が無いというのならば無色透明だろうに、「工」はそんな里璃の言いたい事を知った素振りで頭を振った。

「違うのさ、何もかも。持たないってのは、無いって事じゃない。言い換えれば、領主様の魔力は全ての属性に通ずる。その指輪にしても、ラトナラジュを模しているだけであって、中身は全ての属性に影響を及ぼせる。いわば弱点と呼べるモノが魔力にはないんだよ」

「…………………………魔力、には?」

 歯に物を挟んだかのような言い草。

 引っ掛かりを覚えてなぞったなら、ついていた肘を下ろして「工」は言う。

 空色の瞳の真正面に、里璃の黒茶の瞳を捕らえながら。

「そう魔力には弱点がない。だが、使い手如何で強弱が決まってしまう指輪のように、領主様にもとうとう、弱みとでも言うべき者が出来ちまった……みたいだからな」

「弱みって……」

「名前、許されたんだろ? 充分弱みに為り得るじゃねぇか」

「…………」

 暗に示される、「夜」の弱み足り得る己。

 トヒテにも言われた憶えはあるが、「工」の言葉はそれ以上に重く圧し掛かってきた。

 感じる具合の悪さは里璃の眉根を寄せさせ、シガレットの煙を多量に肺へと送っていく。

 けれども冷えた内側に煙たさや甘さを理解できるはずもない。

 「工」の言葉は穏やかでいて、茶化すようでもあって、けれどその実、里璃を非難しているのだ。

 外では呼ぶなと言われていた「夜」の名を口にした事よりも、名を許された事自体を。

 分不相応、などという話ではない。

 「夜」の弱みに為り得る――そんな存在が「夜」に出来てしまった事が、「工」には何よりも許せないのだろう。

 「工」はもしかすると憎まれ口を叩きつつも、自身が住まう区域の主を誇っていたのかもしれない。

 誰にも依らない孤高の存在を。

 揺るがない「夜」を。

 例え自分の娘を自分の居る家で貪り喰らう相手であっても、「工」は間違いなく、「夜」に対して敬いの念を持っていた。

 知らぬ内、吸い終えていたシガレットを捨てれば、地に落ちた瞬間にそれはパンッと軽い音を立てて消えていった。

 あたかも、それが里璃の未来だとでもいうように。

 弱み……確かに名前を呼ぶ事は許されている。だけど本当に?

 消えたシガレットを追い、彷徨う瞳が揺れる。

 もし仮に、里璃がこの先本当に消えたとしても、シガレットが消えた世界が存在し続けるように、「夜」も何一つ変わらないのでは?

 否、それは変わって欲しくないという願望に近い。

 「工」がそうであるように、里璃もまた、己が主に弱みがあるなどとは考えたくないのだ。

 それが自分だというなら、尚の事。

「…………………………はあ」

 何とも陰鬱な溜息を零し、里璃の手が慣れたようにシガレットをもう一本取り出した。

 程なく細い煙が立ち昇れば、「工」が頬を掻いて困った顔を浮かべた。

「……ちぃとばっかし、脅しが過ぎちまったか?」

「いえ。お陰で少し、自分の立ち位置が確認出来ました。なんていうか……危なっかしいですね」

 客観的に自分をそう評価する。

 言葉も行動も何一つ、「夜」の従者として為っているモノはなかった。

 知識ばかりを追い求め、格好だけ取り繕っても、いざという時に使えなければ意味がない。

 「工」との会話で思い知らされた。

 ――自分がいかに恐ろしい存在なのか。

「怖い……ですよね。こんなのが従者じゃ」

「さて? それはお前さん次第だな。成長は見込めるんじゃねぇか? 俺の脅しのせいで一時的なものなのかもしれんが、シガレット、この短時間で咽ずに呑めてきただろ?」

「あ、言われてみれば」

 甘ったるさは相変わらずだが、肺にまで届く煙は押し返す吐息により、喉を通って外へと流れていた。

 これにより首元の包帯が妖しげな刻印を鮮やかに浮かび上がらせ輝いたなら、酷く満ち足りた気分に包まれる。

 煙を喉に通して呑む――

 「夜」から告げられた正しい供給方法の効果を身を持って知り、併せて、自分はやはりまだ知らない事が多いのだと感じ取った。

 そんな里璃をどう思ったのか、苦笑のていで髭を擦った「工」は、彼女の眼が自分に向けられるのを見てウインク一つ。

「だから、一々てめぇの行動に驚くなってぇの。あとな、誰が何と言おうと、ソイツが俺だろうとも、領主様のお付はお前さんだけなんだ。こんなの、なんて自分を卑下するような言葉を口にすんな。胸を張れ、堂々と! 男らしくな!」

 ……男じゃないんですけど。

「はい」

 間に一拍、否定のための言葉を無意識に置きながら、顔を綻ばせて頷いた。

 ついでに成り行きでお茶をご馳走になった相手が、「工」で良かったとも思いつつ。

 その成り行きに、幾らか逸らしたい気はあれども。

 思わず脳裏に甦りかけた「夜」と「工」の娘の姿に、ひくりと顔を強張らせた里璃。

 消し去るように吸い終わったシガレットを床にぽとりと落とし、弾け跳ぶ火花に緊張を解す。

 これを見計らったわけでもなかろうが、エールの力強さから一転、沈痛な面持ちとなった「工」が呟いた。

「そう。お前さんだけなんだ、あの方の傍にいられるのは。お前さんが傍にいるなら、あの方も少しは救われる。たとえ弱みであっても」

「救われる……?」

 一瞬、「工」とは似ても似つかない、黒髪の絶世の美少女たちが重なった。

 彼女たちは言う。

 『御前を御見捨てにならないで下さい』と。

 言葉は違えど感じ取る意の酷似に里璃が目を瞬かせたなら、今まで以上に重苦しい息が「工」の口から吐き出された。

「その内、分かることだがな。…………時に俺の娘、どう思う」

「は……え? どうって、はいぃ!?」

 話の方向がおかしくなった事に目を剥けば、臙脂の髭から億劫な息が零れていく。

「気立ての良い娘、であるとは思うんだがなぁ……」

「は、はあ。まあ……」

 完全に切り替えられない頭ながら、里璃の脳裏に浮かぶその姿。

 「繕」(せん)と「夜」に呼ばれた「工」の娘の容姿は、とことん父親に似ていなかった。

 背丈は里璃の肩くらいで「工」より頭二つ分高く、緩く結わえられた長い髪色は所々に緑の房が混じった金。

 少しタレ気味の大きな瞳は若草色で、尖った耳を持つ顔立ちは愛くるしく、守ってあげたい衝動に駆られてしまうほど魅力的であった。

 そのくせ、肩を出す仕様の服が描く線は艶美な丸みを帯びており、彼女が紛れもなく成人した女である事を如実に示している。

 庇護欲を誘いながら嗜虐心を擽る、そんな「繕」の姿に「夜」を近づけてしまった里璃は、有無もなく彼女の顎を捕らえて唇を貪る主まで浮かべると、はたと気づいて眉根を寄せた。

「そういえば了承もなかったけど……良かったのかな?」

「ああ。構わねぇのさ。「繕」自身が望んだ事だしな」

 単なるひとり言に被さる声。

 驚いて「工」を見やった里璃は、「夜」が女を求める理由を「工」も知っているのだろうかと思ったのだが、続く彼の言葉は全く違うものであった。

「お前さんも知っての通り、領主様は他のお方と違って無理強いはさせん。必ず相手の了承を得てからお誘い為さる。だから、「繕」へのあの態度も領主様が好んでされている訳ではない。強引に誘ってくださるならば、と「繕」がお誘いに条件をつけたんだ」

 どうやら「工」は「夜」の事情を知らないらしい。

 とはいえ、それとは別の知りたくもない情報を耳にして、里璃の頬が微かに強張った。

 何と言ったものか分からず、左右に目が泳ぐ。

「え……と。み、見た目と違って随分、その、言いにくいんですけど」

「過激な娘、だろ? しかも、だ。あのお方が姿をお変えになる時さえ、自分の前だけでと注文をつけたらしい。何なんだろうな、アイツは。普段は何かにつけてか弱さを前面に押し出した態度を取るくせに、変なところで肝が座っとる」

「は、はあ……」

 言われてみれば「繕」の唇を奪った「夜」の姿は、あの仮面のままだった。

 白磁の無機質な輝きを持ちながら滑らかに肌を撫でる、しっとりとした唇の感触。

「!」

 ふいに思い出された質感を触れられた箇所に甦らせたなら、ごっくんと空気を丸呑みした喉が鳴った。

 次いで小さく咳をつき、赤くなりそうな頬をそれとなく撫でつけ。

 矢先。

「やっぱり、母親に似たんだろうなぁ。あの女も領主様のお誘いを受けていたから」

「……は?」

「血は争えん、という奴か」

 し、しみじみ語る事ですか、それ?

 本人には聞けない言葉を心の中で口にしつつ、今し方、「工」が何を言ったのかをなぞってみる。

 え、えーっと? 「繕」さんは「工」さんの娘で、「繕」さんのお母さんってことは「工」さんの奥さんで、争えない血って事はつまり義理でも何でもないって事で……そ、そんでもって、「夜」はどっちとも関係している――って、マジですか!?

 慣れ親しんだ倫理観をこちら側に当て嵌めるという愚行はしないが、それでも知った事実の衝撃は大きい。

 し、姉妹の次は母娘? よ、「夜」って……

 「夜」の方に血の繋がりがないとはいえ、相手側の濃ゆい関係はいかがなものか。

 ぐわんぐわんと響く、現実を拒否する頭の揺れに目を回しかけた里璃は、閉まっていた扉が開くのを目の端で捉えた。

 届く声は閉じる切っ掛けになった、甘く切ない喘ぎなどではなく。

「帰るぞ、リリ」

「…………………………主」

 噂をしたからではないだろうが、気だるげな主人の呼びかけに若干疲労を滲ませて応じる。

 室内の狭さを強調するように扉の上へ手の平を押し付けた「夜」は、そんな従者の様子に眉の辺りを怪訝に上げたが、何も言わずに背中を見せるとさっさと外へ出て行こうとする。

 家主を完全に無視した行動は、領主様と呼ばれる地位だからか、「工」が男だからか。

 何にせよ、主の言葉を逆らうつもりのない里璃は椅子から立ち上がると、座ったままの「工」へ頭を下げた。

「あの、色々ありがとうございました。お茶もお菓子も美味しかったです、ご馳走様でした」

「こりゃご丁寧に。けど、さっさと領主様の下へ行ってくれんか。俺が引き止めたって思われたらコトだからよ」

「あ、はい」

 それでももう一度頭を下げた里璃は、店先まで行ってしまった背を追いかけて、扉の先、階段を横切ろうとし。

 煌々と照るランプの影になった階段の上で動きを捉えたなら、自然と目がこれを追って斜め上を見やった。

「あ……」

「ど、ども」

 そこにいたのは乱れた姿のまま、壁に身体をもたれさせて降りてこようとする「繕」。

 お世辞にも良いとは言えない肌の色の割に、艶めく瞳の潤みと淫らに彩られた赤い唇が扇情的に映り、軽い会釈だけをした里璃は逃げるようにその場を後にする。

 先に外へ出てしまった「夜」に続いて、来た時同様勝手に開く暖簾を潜りかけたなら、里璃の耳に背後のやり取りが届いてきた。

「たくみ、とうさま……」

「「繕」……お前はまた、何て格好をしてやがる。ちったぁ身なりを整えてから降りて来い。待ってろ。今、湯を沸かしてやるから。全く……少しは領主様に手加減して頂け。毎回そうじゃ、身体が持たねぇぞ?」

「はい」

 ……何か、変な感じだ。

 「夜」の誘いに乗ること自体は仕様がないと受け止めている「工」も、充分変と言えば変だが。

 耳にしただけの親子の会話に、奇妙な違和感を抱いた里璃は、それでも自分が気にすべき存在は別にあると外に出る。

 

 

 その、気にすべき存在――「夜」はと言えば。

 

 

 里璃の指輪を取りに来たは良いが、好都合だと「繕」に誘いを掛けたのは間違いだったか。

 よもや、「工」の奴と親しく話しているとは。

 しかも――

 悶々とする思いに耽る「夜」を知ってか、再び乗り込んだ馬車の中で一定の距離を置いた従者は、それでも時折こちらを伺う視線を送ってくる。

 いじらしい姿には心が絆されてしまいそうになるが、その首元、包帯に浮かび上がる刻印の輝きは、あれほど咽ていたシガレットを上手く吸えるようになった証。

 またしても従者の成長を見逃した上に、それを目の当たりにした相手が男だと思えば、知らず知らず、仮面奥の歯が軋んでいく。

 里璃自身とて男のはずなのに、己以外の何者かが関わる事で変化する様が気に喰わない。

 まるで嫉妬のようだと考えてしまったなら、気分も悪くなっていく一方だった。

 所詮は男、だというのに。

「…………」

「…………」

 砂利を踏んだところで静かに進む馬車の中、騒がしいのは不安に多少なりとも乱れた里璃の呼吸音だけ。

 いい気味だと「夜」は思った。

 「繕」と共に過ごし、里璃を置き去りにした事を棚に上げ、主の機嫌の悪さにうろたえる従者を嘲笑う。

 そう、私は主だ。こやつも呼んでいたではないか。

 「夜」ではなく、主と。

 

 ――気に喰わん。

 

 召還前の高揚はどこへ行ってしまったのか、今は里璃の全てが気に入らなかった。

 具体的に何が許せないのか、つまらない沈黙の中で「夜」は考える。

 

 前々から用意し与えてやった指輪には礼の一つも寄越さず、膝を貸してやってもすぐに離れてしまう。

 庭園や夜空を見て感嘆の声を上げるのは構わないが、視界に入らない分、「夜」の存在は希薄になっていた。

 馬に、ひいては誰にもお前を殺させはしないと伝えれば、逆に馬を背に庇ってこちらに牙を剥く。

 何かあるとすぐにトヒテに助けを求める、近くに「夜」がいてもそれは変わらず。

 そして、「夜」と呼ぶ同じ音色で「夜が嫌いだ」と……

 

「はあ……」

 聞かせるつもりもない溜息が小さく零れる。

 痛いほどの沈黙の中では里璃にまで届いているだろうが、窓の外に目を向けたままの「夜」は窓の反射を用いてそちらを見ることもせず。

 何を考えているのだ、私は。

 指し示すところは、やはり嫉妬、そして独占の心。

 女相手でさえ、ここまで強く想った事はないというのに。

 よもや……里璃は例外、などとぬかすのではなかろうな。

 皮肉るように自身へ訊ねたなら、答えの代わりに恥らいながらも服を脱ぐ従者の姿が脳裏を過ぎる。

 オプションで、「「夜」……」と熱っぽく呼ぶ声と潤む瞳もついちゃったりなんかして。

「…………」

 どうやら、本当に例外のようだ。

 意外と筋肉のついた真っ平らな胸板に、手や舌を這わせて喘がせたいなどと、一瞬でも欲情してしまった自分が恨めしい。

 いや待て。里璃の胸はぶよぶよだったはず。ならばここはもう少し――と想像しても仕方がないだろうに。

 考えれば考えるほど起こるアイデンティティーの崩壊に、いまだかつて受けた事のないダメージが「夜」へ襲い掛かってきた。

 それでも勢い余って里璃を、などという事は可能性さえなく、だからこそ「夜」は苦しむ。

 もういっそ、従者の契約を破棄してしまった方が良いのではないか、とまで思った――

 矢先。

「「夜」……大丈夫、ですか?」

「…………」

 沈黙に耐えかねたのか、それとも「夜」の溜息に異変を感じ取ったのか。

 許した名を呼び、その身を案じる従者を横にして。

 主は。

「……まあ、良かろうて」

「はぁ……?」

 ともすれば、自分こそが今ここにいる里璃の姿を見ていなかったと気づいた「夜」。

 青白い手を伸ばしては、些か乱暴な手つきで里璃の頭をぐりぐりと撫でた。

 知らず浮かぶ笑みは、白い仮面のその奥に。

 どちらにせよ、里璃は己に帰結する。

 なればこそ、過程を愉しむもまた一興。

「よ、「夜」?」

 「夜」の気の済むまで撫でられ、残されたくしゃくしゃ頭に眉根を寄せる里璃。

 視線を反対側の窓に向けては、混乱と不満を乗せた顔つきで髪に手櫛を通していく。

 これにクッと喉の笑いを添えた「夜」は、至極満足げに窓の外を見やった。

 そんな自分の様子をちらりと見て、原因不明の機嫌の悪さが原因不明のままで治ったと、ほっと安堵する従者の様子にまた笑みを深めながら。

 

 


2010/5/5 かなぶん

目次 望月、朔もまた夜

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あとがき

以上で常夜ノ刻は終了。
ここからはあとがきなんぞをつらつらと。

当初はもう少し早く、そして長くなるはずだった「夜」の支配下にある区域のお話です。
それが屋敷内部を語りすぎ、見事に遅く短くなってしまったという。折角良い感じのサブタイ思いついたのに、勿体無いなーと思いつつ。
けれどもそこはそれ、やりたい事はやったので良かったと思うことにします。
一夜漬けの時に少なかったかもしれないと後になって思った里璃と「夜」の絡みも、だいぶ増やせましたし。
今回出てきた馬は、短編時に出てきた異形と同じ仕様のつもりです。そこそこ始祖鳥を参考にしてみました。
この調子でこちら側の生物をたくさん出して行きたいと密かに画策している真っ最中です。その前に人物出せと言う話ですが;
新キャラといえば、ドワーフ似の「工」とエルフ似の「繕」の似てない父娘が登場しております。
彼らは(特に「工」は)以降も出てくる予定です。今回出て来なかった「繕」の母もその内。

さて。
ここで次回・望月、朔もまた夜のちょっとした予告を。
初っ端から一風変わったキャラ登場。その名も望月朔夜。
相当なドジッ子野郎です。ただし属性はヤミっぽいかもしれません。
そして里璃の両親がようやく帰還します。
というわけで舞台は篠崎宅が中心になりそうです。

ここまでお読みくださった方、御疲れ様です&有難うございました。
一夜のジョーカー、常夜ノ刻、少しでも楽しんで頂けましたら幸いです。

2010/5/5 かなぶん


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