常夜ノ刻 5
「夜」の事を誤魔化そうとした里理に、友人の間宮恵が言いかけた言葉がある。 “はあ? なに言ってるの、里理。昨日家になんか……第一、あんたは――” ――あんたは夜に外出んの、無理だったでしょ? たぶん、里璃が“憶えてない?”と問わなければ、続いていたのはそんな言葉だ。 「夜」と恵を引き合わせた時間帯を逆算したなら、苦し紛れの嘘の中で里璃が彼女の家を訊ねたのは日が暮れた頃になるから。 だから恵は、そう言いかけた。
里璃が夜を、指し示す暗闇を、異様なまでに恐れると知っていたから――……
それは四年前、中学の夏休み前日の事。 「式が終わったら、どこか行かない?」 そう言ったのは恵で、賛同したのは里璃を含めて計四人。 どこか、と言っても外泊や遠出のような大層な代物ではない。 娯楽施設の多い場所へ行きその場の雰囲気で行動を決める、そんないい加減で他愛ない話だった。 各々帰宅後、私服に着替えて集合し昼食を摂っては、何をしようかこれにするかと思いつくままに遊びまくり。 気づけば夕方。 せっかちな外灯がぽつぽつ明かりを纏えば、ぽつり、里璃は皆へと呟き告げる。 「あ……もう帰らなきゃ」 朱色に染まる空を黒茶の瞳に収め急にそう思った。 帰らなければ、いけない――と。 無論、楽しみに水を差す台詞を里璃以外の者が簡単に許すはずもない。 真っ先に不満の声を上げたのは、歩き飲みしていたジュースのストローを噛み潰していた恵。 反動で中が揺れても潰されたストローからジュースは零れず。 「えぇー、もお? ちょっとリリちゃん、付き合い悪いわよぉ?」 「……誰がリリだ」 「いひゃい、いひゃいっ……! ん、もうっ、人のほっぺた抓んないで!」 “リリ”呼ばわりに条件反射で恵の頬を抓った里璃は、思ったより伸びた事に内心で感動しつつ、抗議の声にはじろりと睨みつける。 「私がそう呼ばれるの嫌いって知ってるくせに。抓られなくなかったら言わないの!」 「へえへえ。分かりましたよ。ったく、冗談も通じねぇのかよ。心の狭い女はこれだからやあねぇ――っだ!? ちょっと薫!? 不意打ち卑怯!」 口を尖らせた恵の頭を強襲したのはもう一人の友人・相澤薫の軽めのチョップ。 「メグ子さん、言葉遣い乱れているわよ。そんなんじゃ先輩好みのイイ女にはなれないんじゃなくて?」 「うぐっ……誰がメグ子だ、メガネ。あんただってすぐ暴力で訴えるとこ直さないと、先輩の前でボロが出やすくなるわよ」 「あらあらまあまあ、短絡的思考のお人がよく仰るわ。眼鏡を掛けている人間のあだ名がメガネ、だなんて。小学生の低学年レベルじゃありませんこと?」 「このっ、あ、あんただって何よその、変な喋り方は! そんなんで――」 「あら。これはメグ子さん限定の、嫌がらせ口調に決まっているじゃありませんの。なるべく綺麗な言葉遣いをした方が、あなたの欠点が浮き彫りになるでしょう? それにしても、この程度の喋り方で先輩がなびくわけがないのにその反応。口の悪さにはちゃんと自覚をお持ちだったんですのね?」 「ぐ、ぐぐぐぐぐぐぐぐぐぅ……さ、里璃ぃ〜、あんたの親友は鬼だよ!」 「はいはい。ってことはお前も鬼で良いんだな?」 「ひぃっ!? こ、ここにも鬼がいやがった!?」
小学生からの友人である薫と中学生からの友人である恵。 里璃から派生した二人の関係はこの当時、同じ先輩を慕うライバルでもあった。 後に軍配は一度も薫に勝てた試しのない恵に上がるものの、それが切欠で彼女は様々な経験を積んでしまったらしい。 仲間内でもお喋りな恵だが、先輩と付き合い、一時疎遠になっていた頃の事だけは多くを語らず、語ったとしても不自然な笑いで誤魔化すばかり。 高校から友人となる違う中学に通っていた風上祥子より、意図せず彼に関する話を聞いたが、その事は今も恵には内緒だった。 話の真相はどうあれ彼女が先輩と付き合って、そして別れたのは事実。 程度は知れずとも傷ついた事さえ真実なら里璃は勿論、争っていた薫にだってとやかく言う資格はないのだ。 ある日、ひょっこり顔を出し、気まずそうに宿題を写させて欲しいと頼んできた、そんな恵を知っているなら尚の事。
無論、宿題は一行たりとも写させず、それこそ鬼の形相で恵にやらせた里璃と薫ではあったが。
ともあれ、そんなじゃれ合いを経てもなお里璃は空を気にしており、これへ怪訝な顔をした卒業後は別の高校に通い、疎遠となる友人の一人が声を掛けた。 「里璃、何か用事でもあったの?」 「いや、ないけど」 「じゃあさ、映画一本ぐらい付き合ってよ。それからなら解放してあげる」 言って里璃の腕を取ったのは、同じ高校に通ったものの友情より恋を取ったもう一人の友人。 恵と薫のじゃれ合い(?)を止めるでもなく見ていた二人は、いつの間にか里璃の両脇を固め、これに気づいた恵と薫はすかさず親指を付き出した。 「「ナイス、拘束」」 「褒めるな褒めるな」 取った腕を絡め、にひひ、と白い歯を見せて笑った友人は、前から見たいと思っていた映画があるんだ〜、と問答無用で里璃の身体を引きずっていく。 比較的長身の里璃と並んでも見劣りしない彼女の力は強く、払うには友情を破壊する勢いの力を揮わなければならない。 「往生際が悪いのはいただけないわよ?」 「うっ」 絡んだ腕とは逆の腕まで移動し覗き込む友人の顔に、思わず逸らされる視線。 見るべき所は夕陽に染まる暖色の地面しかなく。 ――この後、見た映画の内容を里璃はあまり覚えていない。 映画館のガラス張りの出口から夜に彩られた外へ足を踏み出した途端、彼女の意識は暗転してしまったゆえに。
次に目が覚めたのは早朝、見知らぬ白い天井――病室。 一番に出くわした人物は兄で、状況を鑑みればシスコン、取り乱しても良いところを穏やかな瞳で頭を撫でられた。 「み……んなは?」 「大丈夫。皆、家に帰っているよ。目が覚めるまで居たいって言ってくれたけど、流石にね。……あとで連絡を入れておくと良い」 「うん……」 素直に頷けば、やわらかい微笑が意識を失ってからの事をゆっくり語り始めた。 里璃が倒れた時、気が動転してしまった友人たちが最初に頼ったのは、救急車ではなく里璃の兄・奏であった。 丁度休みで家にいた彼は状況を聞くと、涙ぐむ彼女らを宥める傍ら救急車を呼ぶよう指示。 先に里璃が倒れた場所へ現れては呼吸と脈を確認、到着した救急車へ比較的動揺の少ない薫を同乗させ、自分は残りの友人たちを引き連れて移動したという。 里璃の容態が分からぬ以上、混乱する彼女たちは搬送の邪魔にしかならないと判断したそうだ。 それでも薫を同乗させたのは、どこの病院に運ばれていったかを知るため。 自分が他の友人たちを引き連れたのは、自力でも里璃の安否を確かめに行くであろう事を予測し、事故がないよう見守るため。 意識を取り戻した里璃が「私が倒れたせいで」と悔やまないように、とふざけ半分で言われても、この時ばかりは素直に「ありがとう」と告げた。 友人らの立場を自分に置き換えれば冷静な人間、それも頼りになりそうな人間が傍に居てくれるのは心強い。 主観のない評価の中でなら、奏はとても頼りになる人間だった。 ――シスコンでさえなければ、本当に。 こっそり心の中で付け加えた里璃。 しかし、医師の問診を経た彼女の心は、軽口を叩けなくなるほど乱れてしまう。 下された診断は軽い熱中症。 違う、そう叫びたい衝動を抑えたのは奏。 分かっているというように肩を叩かれては、急に言葉が喉につかえてしまう。 そうだ……。違うと叫んでみたところで、では何が原因かと問われて出せる答えなんてないんだ。 せいぜいが、精神的な問題としか言い様がなかった。 帰り道、無意識に擦ったのは右腕。 映画館から一歩外に出た直後、夜の空気に触れた時、里璃はそこに熱を感じていた。 言い知れぬ不安が一挙に押し寄せてくるように寒々とした、けれど焼け付く熱さを。 相反するこの感覚をどう表せば良いのか。 体感した者でなければ分からない不調に唇を噛んだなら、沈んでいた頭を奏が軽く叩いた。 軽い衝撃に里璃は剣呑な目を向けるが、迎えた兄の表情は酷く生真面目に告げる。
「――兄は言いました。倒れる直前のお前の様子を聞いて気づいた事がある。いつからかは分からないが、お前は無意識の内に夜の時間帯や準ずる暗がりを避けている。その理由が昨日のような状態に陥らないためなのではないか、と。私自身、言われて気づきました」 次いで、流石はシスコンよく見ているなぁと妙な感想を抱いた事は言わず、「夜」へ伸びたままの右腕に左手を這わせた。 「そして、医者の診断よりも兄の言葉を信じたのです」 胡散臭いと端っこで思いつつ。 「……して、夜の外出を控えるようになり、乗じ、夜を恐れるようになった、というわけか?」 「はい」 「夜」の問いに静かに頷く。 口を閉ざせば、まどろみにも似た空気が辺りを支配する。 赤々と揺らぐ暖炉の炎が緩やかな明滅を繰り返し、温かな熱が穏やかな雰囲気を作り上げる。 時折、ぱちっ……と爆ぜる音。 中の薪がバランスを崩して動いたなら、掴まれたままの右手が小さく引かれた。 その意味するところを汲み取り、立ち上がっては「夜」に近づく。 と、組むのを止めた長い足に、何の前触れもなく里璃の足が払われてしまう。 「わわっ!?」 こればっかりは予測出来なかった里璃、あっさりバランスを崩して「夜」へと倒れ込みパニックに陥った。 「す、すみません! 今、除けて」 仕掛けたのは「夜」の方なのだから、里理に非はないはずだろうに、そこは主従、慌てて除けようとし。 「よい」 ぴしゃりと短く言われ、里璃の動きがぴたりと止まった。 「夜」の胸に頭と左肩とを押し付ける奇妙な格好で、里璃は彼の腕の中に閉じ込められた。 現状を上手く把握できずに混乱する里理へ、「夜」は身体に染み込むような音色を用いて問うた。 「今は、どうだ?」 「い、今……?」 「お前は暗がりを恐れるのだろう?」 「で、でも、暖炉には火がありますし」 「……では」 ぱちんっと一際大きな音が上がれば、瞬時に消え去る光。 上にある白い仮面すら臨めない、真の暗闇が里璃の視界を覆う。 視力を奪われても「夜」の鼓動は捉えられず、静寂が里璃の耳を震わせる。 恐れるべき暗闇、恐れるべきヒト為らざる存在。 なれど。 里璃は安息の吐息を零す。 どうしてだろう。いつもだったら灯りがあっても怖いのに。 「リリよ」 「サトリです」 「これならどうだ?」 訂正を物ともせず、再度行われる問い。 暗闇しか映さぬ瞳を細めた里璃は、小さく息をついて答える。 「そう、ですね。なぜか凄く……落ち着きます」 「……そうか」 どこか嬉しさの滲む低音が里璃の耳朶を擽る。 「夜」の満足げな様子に呼応してか、今度は音もなく暖炉の炎が内側から薪を舐め始めた。 再び明るさを取り戻した室内で腕が離され、里璃は緩慢な動きで「夜」から離れる。 ただし両手を繋がれた状態で。 座る主を見下ろして向き合う形に戸惑えば、仮面に嵌め込まれた黒い瞳が里璃の右腕を映した。 「検討はついておるのか? 何故、夜に際し身体が不調を訴えたのか」 「……はい。「夜」に会って、御印を知ってから」 「うむ」 その返答だけで理解を示す「夜」を横目に、里璃は煩わしそうな視線を自分の右腕に送った。 御印――俗に所有印という何ともいかがわしい名を持つソレは、俗称通りの効果の他に、ヒトの世に在る発信機に近い性質を備えていた。 「夜」と初めて会った時、彼が里璃の右腕から取り除いた御印は、大叔母のせいで里璃が行く羽目になろうとしていた「塊」のモノだという。 それまでこちら側の事を何も知らなかった里璃が思い出し、御印を付けられたと考えるのは十四の夏、夜の下校途中に出くわした怪異。 大叔母が借金の肩代わりを「夜」に頼んだ後の話であり、友人たちとのひと時を台無しにしてしまう前の話である。 尚も自分をどういう訳か狙っている「塊」の存在は里理にとって忌まわしく。 ギリッ……と小さく歯噛みをしたなら、顎先に青白い指がそっと触れた。 はっと我に返って主を視界に収めれば、白い仮面の眉の辺りが怪訝に隆起していた。 「リリ。私の前で他に現を抜かすでない」 「そ、そういう訳では」 「血気盛んなのは年の頃、仕方のない事かも知れんが……不愉快だ」 「うっ。す、すみません」 きっぱり言われて落ちる肩。 「塊」に関しては「夜」も気に喰わぬ面が多々あるのだろう。 肩代わりという契約をしたのに、これを不履行にするような事をされたのだから。 傍ら、ふと里璃は考える。 「夜」が肩代わりをしたために里璃との契約が切れた「塊」。 なればこそ、彼女を探し当てたと思しき声は「見つけた」と言い、「塊」の御印を里理に付けた――までは、良くはないが理解できる。 だが…… 御印を付けて里璃の居場所を把握したくせに、なぜ「塊」は手出ししてこなかったのだろう? 「夜」は里璃が怪異を思い出すまで御印の存在には気づかなかったのだから、彼が「塊」を妨害していたという仮定は成り立たない。 ならば―― 「……リリ」 「はいっ、サトリですが!!」 「夜」の不機嫌極まりない呼び掛けで、考えから意識を戻した里璃。 先程機を逃した名前の訂正をしながらも背中を真っ直ぐ伸ばせば、「夜」の仮面がより一層不快に歪んだ。 滲む雰囲気さえおどろおどろしいモノになっていく。 「そんなにも……「塊」の事が気になるのか?」 「い、いいえっ、滅相もございません!」 確かに考えはしていたが、何とも気味の悪い言い草に里璃は首を思いっきり左右に振った。 「塊」なる存在を目にした覚えはないが、どうせなら一生相対したくない相手。 これを気に掛けているなどと思われては堪らない。 心情を例えるなら、ゴのつく黒い君を、気になるのかと問われているに等しい。 初見、即・滅殺――そんな気概であるというのに。 けれど「夜」の疑う眼差しは、真っ黒い無機質な目であるにも関わらず、里璃の顔に突き刺さっており、片手を取られたままの状態では逃げる事も出来ない。 このため里璃は他に何か、良い話題の逸らし方がないかと頭を巡らせ――
そして次の瞬間、思いっきり顔を顰めた。 |
2010/1/8 かなぶん
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