常夜ノ刻 6

 

「……リリ?」

 表情を険しく変えた里璃に併せ、「夜」も白い仮面を不快から困惑に変える。

 しかして里璃はこれを見ず、逆に「夜」の方へずずいっと腰を屈めて近づいた。

 普通ならば仰け反るところだろうに、座ったままの「夜」は怯みもせず至近の従者の顔と向かい合う。

「どうした?」

 常と変わらぬ短い問い掛けに、里璃の柳眉が僅かに上がった。

「どうしたって……ではお聞きしますが「夜」」

「何だ?」

「どうして「夜」は私に……私に…………」

「ぬ?」

「み、御印を下さらないのですか!?」

 思い切って言った後で、負けじと赤くなる頬。

 所有印という俗称を思えば何とも恥ずかしい訴えだが、「塊」に押し付けられた過去がある以上、「夜」の従者となった里璃には重要事項だった。

 ――今の今まで、思い至らなかったのが不思議なくらい。

 対し、訴えを受けた「夜」は数拍遅れて。

「……言われてみれば、そうだな」

「い、言われてみればって……」

 呑気な口調に意気込んだ気を削がれ、里璃の顔が脱力したモノになる。

 そのままよろけるように離れかけたなら、押し留める動きで両腕が掴まれた。

「仕方なかろう。元来御印とは、主従の関係を思い知らせるため施す、言わば拘束具のような代物。けれどお前はこれを必要とせぬほど、私を主と認めているであろう?」

「そうなんですか? 私はてっきり……」

 だとするなら、先程の台詞は「夜」に縛られたいと申し出たに等しい。

 アブノーマルな緊縛趣味など持ち合わせていない里璃は、妖しさ爆発の自分の発言にうろたえ目を泳がせた。

 「夜」の方はといえば、里璃の動揺を心得た風情でやれやれと首を振る。

「ふむ。トヒテが与えられる知識にも、やはり欠陥はあるという事か。とはいえ、お前の思いは重々承知した」

「よ、「夜」ー」

 苦笑混じりのからかう声音に情けなく名を呼んだなら、肩を竦めた主は従者の腕を離した。

「御印を必要とするのは、そういう不安定な主従関係だ。信頼があるならば従者の居所はそんなモノを使わずとも分かるからな」

「はい」

「だがこれは、従者にも言える事だぞ? 従者の方でも主の居場所を把握する事は可能だ。主が故意に隠れたのでなければ、な」

「え……っと、それってつまり」

 従者になって幾日か経つが、「夜」の言うような感覚を持った覚えはなかった。

 もしかして私、「夜」にあんまり信用されてない!?

 少し前に、「夜」の従者に対する思いを侮っていた、と謝罪した事を忘れ愕然とする里璃。

 これすら把握している様子の主は、困ったように顔を傾がせると苦笑のていで真っ白い眉間に影を寄せた。

「これこれ、勘違いするでない。私は今まで一度たりとも、己が身を隠した覚えはなきゆえ。元より、疚しさなどないからな」

「それは……まあ、確かに」

 「夜」のオープン過ぎる女性関係を知っている里璃は、妙な敗北を感じて目を逸らした。

 俗に言う“人の女”に手を出しても自慢話と掏り替える、下半身がだらしないだけの輩とは格が違い過ぎる「夜」。

 「夜」と実際に過ごした女は、うっかり紹介してしまった友人・恵と大叔母しか知らない里璃だが、この二人ともが「夜」の在り方に対して非難も独占も主張しないのだ。

 「夜」なら仕方がない、そんな納得が自ずと生まれてくるらしい。

 罷り通る不可思議な現象に一時遠い目をした里璃は頭を軽く振ると、両腕を掴んだままの「夜」に向き直る。

「で、では? ではどうして私は」

「我が居所を感じ取れぬのか、か?」

「はい」

 神妙に頷けば「夜」の片眉付近がひょいっと上がった。

「なに、簡単な話だ。従者にはなったがお前には魔力がない。それだけの事よ」

「ああ、なるほど」

 本当に簡単な話だったと顔を明るくさせる里璃。

 けれど軽く言ってみせた「夜」の方は、重々しく唸ってしまう。

「お前は……得心するだけか?」

「へ?」

 能天気に惚ける里理へ、「夜」は若干沈痛な気配を仮面に滲ませた。

「よいか。こちら側にあっては、魔力こそが物を言うのだぞ? だというのに魔力のない身、どうして呑気に構えていられよう」

「あ……」

 遅れた合点に里璃の口が大きく開いたなら、何とも言えない溜息が仮面向こうからやってきた。

「こちら側がヒトの世と違える事、もう少し考慮せよ」

「は、はい。すみません……」

 恥ずかしさのあまり頬を染めて俯けば、やんわりと「夜」は言う。

「まあ良い。ともあれ、魔力がないというのなら、与えるしかなかろうて」

「与える? 魔力ってそういう事も出来るんですか?」

 魔力に関して里璃が持っている大まかな知識は、生まれながらに携えているモノ、枯渇すると弱体化してしまうモノ、である。

 人体に当て嵌めたイメージとして、魔力=血液と考えていた里璃は、ガソリンを入れる要領で車のタンクに鮮血を注ぐ図を描き、ちょっぴり具合を悪くした。

 何にせよ、ヒトの血液で車が動かないように、魔力のない者に魔力を与えたところで意味はないはず。

 しかし「夜」は里璃の言葉に首肯する。

「ああ。お前が懸念している通り、魔力を持たぬ者に魔力を与えても無意味ではあるが――時にリリよ。お前は何者ぞ?」

「サトリです。って、そうじゃなくて……「夜」の従者?」

「左様。我が血を与えた、な」

「ぁ……そう言えば」

 思い返されるのは、知らぬ内結んだ契約の儀。

 こちら側に存在する者の身体には魔力があり、それは里璃がイメージしたまま、「夜」の血液にも含まれていた。

 自分のせいで傷ついたとその血を舐めて飲み下した里璃は、類稀なる「夜」の魔力に当てられて意識を飛ばし――身体をヒトからこちら側寄りに変質させる。

 主と生を共にする従者へと。

「……えっと、「夜」?」

「何だ?」

「じ、辞退は出来ませんか?」

「何の話だ?」

「ま、魔力を与えるお話デス」

「…………正気か?」

 思いっきり疑る視線に引き攣った笑みを携えて逸らされる目。

「いや、だってこれ以上魔力与えられたら、何だか物凄い事になりそうで」

 ヒトの世の血液には、それぞれ合う型がある。

 それはきっと、魔力に置き換えても同じはずだ。

 魔力のない従者に魔力を与えるのは、膨大な魔力を持つ主。

 生き死には別として、絶対、無事では済まないだろう。

 だが当の主は少し馬鹿にした調子で鼻を鳴らした。

「ふん。あるわけなかろうが。そもそもがリリよ。私の魔力を受け入れられる者なぞ、お前以外にはおらんのだぞ?」

「……えっ!? そ、それってどういう?」

 寝耳に水の言葉を聞いて逸れた顔が戻される。

 迎える白い仮面はどこまでも素っ気なく。

「先に言うたであろう? お前は我が血を受けた、我が従者だと。我が血に縁りて身体を変質させたお前は、誰よりも我が魔力に馴染むのだ。魔力の許容量とて他の者共とは一線を隔する。……まあ、使いこなせるかどうかは分からんが」

 最後はちょっぴり視線を外した「夜」。

 多少なりとも不安を煽られないでもないが、黙考して後。

「えっと、つまり私はすでに、「夜」から魔力を与えられても問題のない身体、という訳ですか?」

「だからそう言っておろうに」

「や、それはそうなんですけど」

 確認を煩わしそうに払われ、居心地の悪い気分を味わう里璃。

 気を取り直しては眉を寄せて問う。

「でも、「夜」が与えるって事は、自分では補えないって事なんですか?」

「ぬ? そうだな……出来ぬわけではないが、今の状態では無理であろう。魔力を補うには魔力を精製する器官がなければならん。……なればこそ跪け、リリよ」

「サトリです。……はい」

 掴まれていた両腕を下へ軽く引かれ、言われるがまま座る「夜」の前で両膝をつく。

 これはこれで、妙な背徳感を抱かせる位置に戸惑ったなら、椅子から身を乗り出した「夜」の手が首に回り――

「ぐぇっ」

「おっといかん。絞め過ぎたか?」

 突然首を襲った拘束に鳴いた里璃は、緩められても違和感を覚える其処を擦った。

 指でなぞったなら、一巡する布地に眉を寄せた。

「チョーカー……? っいて!?」

 間を置かず、布地の下を走った静電気の痛みには顔を顰める。

 そんな里璃の様子に頷いた「夜」は再び椅子にゆったり身を沈めると、首元をしきりに気にする従者を眺めながら、肘掛に置いた右腕で頭を支えた。

「いかにも。ただし、只のチョーカーではない。お前が御印に望んだ、従者の証だ。そしてそれにはお前の身体を満たすだけの魔力と、これを補うための器官が――」

「えいっ」

「なっ!!?」

 

 この時、里璃は「夜」の話を全く聞いていなかった。

 ただただ、付けられたチョーカーが邪魔だったので、無造作に引き千切っただけだった。

 だがこの行動は、終始気だるげだった「夜」の動きを活発にさせたばかりか、声の調子までもがらりと変えさせてしまう。

 

「よ、「夜」?」

 驚きに合わせて立ち上がった「夜」を前に、何か拙い事をしただろうかと顔を上げるばかりの里璃。

「こ、こんのっっっっっ!」

 何かの激情に駆られて言葉を詰まらせた「夜」は、次の瞬間。

 

「愚か者があああああああああああああっっっ!!」

 

 至近の雷を髣髴とさせる怒号を浴びせた。

「ひっ――――ぃいいっ!!?」

 「夜」のあまりの豹変っぷりに身を縮ませた里璃だったが、物凄い力で腕を一気に引き上げられては、自然に伸びた足がふらつきながらも地を捉える。

 かといって息をつく暇はなく、首を掬い上げるように取られては、牙をずらりと並べた口元が恐ろしい、「夜」の仮面と向かい合わされた。

「よ、「夜」、口が」

「黙れっ、喋るなっ、この痴れ者め! よもや此処に来て主の言葉を無視するとは、恥を知れ!」

「で、ですが」

「黙れと言っておる!!――――トヒテ、此処へ! アレを持て!」

『はい、御前』

 「夜」の叫びに応じて、隣に現れるトヒテ。

 けれど小首を傾げては不思議そうな声で問う。

『ですが、アレと申されてもワタクシ、何の事やら』

「だあ、もうっ! 包帯だ、包帯!! 里璃の奴が従者の証を剥ぎ取りおったのだ!」

『あらまあ。それは大変』

 全くもって大変そうではない驚きを口にしたトヒテは、瞬きの内に消えては戻り、手にした包帯を「夜」へ掲げた。

 見もせず乱暴にこれを取った「夜」は、包帯の先を牙に引っ掛けては伸ばして解し。

「くっ、間に合わんか。ならば仕方あるまい!」

「うひゃっ!? よ、「夜」――」

『里璃様、お静かに』

 トヒテからぴしゃっと冷たく言われても、いきなり首元に顔を埋めた「夜」の行動は里璃の口を塞ぐものではなかった。

「んっ、ぁっ」

 いつの間にか抱きかかえられた格好を意識する暇もなく、地肌を滑る舌の感触に勝手に零れ落ちる声。

 と。

「ぁぐっ」

 続け様に反転したかと思えば「夜」の座っていた椅子に押し倒され、反射で跳ね起きようとした身体は、圧し掛かる「夜」の重さに動きを封じられてしまう。

「やっ、「夜」っ!」

 食み吸われる首の皮膚、その甘美な痺れに慄き、主の肩に爪を立てる里璃だったが、他に意識を向けない「夜」の舌使いは加速するばかり。

「ふっ、ううっ……と、トヒテ」

 最後の望みとばかりに、こちらを見つめるフローライトの瞳へ手を伸ばしても、艶やかなツインテールの黒い巻き髪は一礼して後、影も残さず部屋から掻き消えてしまう。

 椅子に押し付けられ抱きかかえられたまま、首を這い啜る唇の動きしか感じる事を許されない里璃は、眦に涙を浮かべながらも更に喘いだ。

 次第に上気する頬に併せ、立てるだけだった爪が「夜」の肩を抱き、暴れる隙を窺っていた足が彼を受け入れるべく開かれていく。

 騒がしかった室内はやがて、肌を味わう冷たさと堪え切れぬ熱とに彩られ――

 

 

 

 

 

 

 

「よ、る……?」

 離される唇の感触に、里璃はそれまで悩ましげに閉じていた瞳を開いた。

 迎える灯りは涙に滲み、その下で黒い影が緩慢に動く。

 もう一度目を閉じては堪っていた涙を零し、爆ぜる炎が耳をついたなら、

「里璃……」

 柔らかく自分の名が呼ばれた。

 震える鼓動に息を詰まらせ、瞼の向こうで炎が翳りを見せれば、開いた瞳の先にはいつもの白い仮面が在り。

「「夜」……っ、何をっ!?」

 見慣れた姿に安堵したのも束の間、しゅるりと首に巻きつく白い包帯。

 危機を感じて気だるい身を起こそうとすれば、その前に右頬を撫でられる。

 鏡のような黒い瞳に映る自分の不安そうな顔が、宥める青白い手に解され吐息が唇を震わせた。

「落ち着け。これはただの処置だ。お前を助ける物であり、決してお前を害する物ではない」

「処置? 助けるって」

「リリよ。今度こそ私の言葉を聞け」

 包帯を巻くための手を戻し、名前の訂正も許さない響きで「夜」は告ぐ。

「先に説明しておけば良かったやも知れんが。あのチョーカーは魔力を補うための器官、つまりは身につけた時点でお前の身体の一部になっていたのだ」

「一部? でも簡単に取れて」

「それはまだ、器官が身体に馴染んでいなかったせいだ。完全に馴染んだなら皮膚に紛れ、必要な時以外は表に出ぬはずであった。しかしお前はこれを外してしまった。分かるか、リリ? これはお前が自分で、自分の身に風穴を開けたも同然の事なのだ」

 訥々と言い聞かせるように静かに語った「夜」は、包帯を巻き終えると里璃の両頬を包み込んだ。

「まだ実感は湧かないだろうが、これによって起こる弊害は計り知れない。なればこそ、私はお前に刻印を施した。時間があればこの包帯に施せたのだが……事は一刻を争う。直に施した刻印は程なく包帯に染むであろう」

「刻印……」

 思わず首を擦ろうと上がる手。

 素早く取って攫った「夜」は、まだ朱に染む里璃の顔をまじまじと見やり、左右に首を振った。

「触るでない。瑕に響くぞ」

「瑕……」

「ああ、瑕だ。それも重度のな。刻印が安定してもあまり触るな。魔力に重きを置かぬヒトの世であれば問題はないが」

 言って「夜」自身は躊躇いなく里璃の首に触れた。

「つっ」

 包帯越しに感じる指の動きを追い、火傷に似たヒリヒリした痛みが続く。

「隙間は……ないようだ。一先ずはこれで安心だろう。しかし所詮は応急処置。完全な解決策が訪れるまでは修復を重ねる必要がある」

「……治らないんですか?」

「いや。治るには治るが、その方法を持っている者が気まぐれでな。何時この区域に訪れるか分からんのだ。しかも探せば探した分だけ逃げる、厄介な性格をしておる」

 希望はある。けれども何時叶うかは分からない。

 それまでの間、どう足掻いても「夜」の手を煩わせる自分を思い、里璃の眼が自然と下がった。

「すみません、「夜」。私が考えもなしに行動したせいで」

「構わぬさ。私は、な。久々に取り乱してしまったが、あれはあれで面白いモノだ」

「お、面白いって……」

 何があっても許せるくらい懐が深いように見えて、意外と好奇心旺盛な「夜」。

 自分の変化さえ楽しむ気概に呆れるやら感心するやらで、里璃はほぅ、と小さく吐息を零した。

 

 


2010/1/14 かなぶん

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