常夜ノ刻 7
刻印とは、持続性のある魔法を示す言葉である。 由来は対象へ紋様を刻むところにあり、維持するには常に一定量の魔力を必要としている。 なので普通、刻印を使う時は風化せぬよう、刻む紋様に魔力を自発的に取り込む式を織り交ぜる。
しかし、魔力を留めるために施された里璃の刻印へ、魔力吸収の式など使えるはずもなく。
椅子に里璃を座らせたまま「夜」がトヒテを呼べば、今度は指示なしで彼女は小さな箱を持って現れた。 トヒテはそれを「夜」に渡して一礼、またしても部屋から忽然と姿を消す。 このやり取りをぼんやり見ていた里璃だったが、「夜」経由で箱が目の前に来たなら数度瞬き首を傾げた。 取れ、と示す青白い手から箱を受け取りつつ。 「……煙草?」 「うむ。シガレットだ。そして無論、ヒトの世のモノとは違う」 開けてみればずらりと並ぶ細長い棒の吸い口。 けれど「夜」の言う通り、届く香りは苦味を帯びたものではなく妙に甘ったるかった。 嫌な匂いというほどでもないが、箱――シガレットケーズから一本取り出して嗅いだなら、その不可思議さに自然と里璃の眉が寄った。 「何だか、甘い匂いがしますね」 「ああ。良い香りであろう?」 「…………」 そこはそれ、人好き好きというヤツである。 賢明にも黙っておくことにした里理に対し、艶かしい声を上げた「夜」は饒舌に続ける。 「これはお前の刻印を持続させるために必要となる魔力そのものだ。供給方法は形状通り、シガレットとして吸え。ヒトの世で言うような害は無きゆえ、一日に……そうだな、最低一箱が目安か」 「ヘ、ヘビーだ」 「全部吸い切った後は、一度ケースを閉じて開ければ元通りになる。何か質問は?」 「え、えっと」 「よろしい」 尋ねたくせに機会を払い除けた「夜」は、閉口する里璃をちらりと見やり、どことなくそわそわした素振りでシガレットケースを指差した。 「時にリリよ。そのシガレット、一本だけで良い、私にくれぬか?」 「サトリですけど……はあ、どうぞ」 「おお、すまんな」 言うなり、ひょいっと攫われていくシガレットが一本。 浮き足立った様子の「夜」は、これをそのまま仮面へ向ける。 そういや、どうやってあの仮面で吸うつもり――さ、刺した!? 浮かんだ疑問に里璃が首を傾げる暇もなく、仮面の口元に刺さるシガレット。 かといって、仮面自体にヒビは入っておらず、刺したというよりは吸い口が仮面を透過したに近いだろうか。 とはいえ、何とも不思議な喫煙像。 つい、じっくり眺めてしまった里璃は、シガレットの先端から突然火花が散ったのを受け、大袈裟に身体を飛び上がらせた。 「うわっ、な、何っ?」 「む? 火が付いただけであろうに。……ああ、そうか。ヒトの世の此れは別の媒体から火を移すのであったな」 シガレットを指に取り、仮面の口元から小さく煙を吐いた「夜」は、もう一度咥え直すとそのままの状態で喋り出した。 ぴこぴこ、シガレットの先端をちょっぴり弾ませながら。 「咥えて、吸う。それだけだ。それで火が付く。ヒトの世と違うところはこの他、灰が存在しない、吐いた煙も利用できる魔力となる、吸い口ギリギリまで吸うと破裂する、くらいか」 「ちょっ!? さ、最後! 最後の部分は聞き捨てならないんですけども!?」 「何を言う。私の言葉は全て頭に入れろ。聞き捨てするなど許さんぞ」 「そ、そういう意味じゃなくて!」 不機嫌に寄った白い仮面の眉間を受け、首と手を振った里璃は椅子を押して立ち上がった。 「は、破裂って、口、血塗れになってしまうじゃないですか!」 「ふむ? リリよ。お前は吸い口ギリギリまで吸う方か?」 「違います! そもそも煙草なんて吸ったことありませんし、第一、私が言いたいのはそういう事ではなくて」 「やれ。その前に捨てれば問題あるまいに。いや、違うな」 里璃が一歩踏み出すと、「夜」はおもむろに彼女の手を取った。 思わず動きを固めた里理へふっと煙を吹きかけた「夜」は、首に吸い込まれていく煙を知って驚く姿を黒い目に映しつつ、取った手の指を彼の指に絡ませた。 「余裕を持って捨てよ。我が従者の指に火傷の痕など付けてくれるな」 「え、えっと……で、でも、ポイ捨ては流石に」 破裂するなど危険――と訴えたかった言葉は、火傷を心配する穏やかな声に打ち消され、残った勢いだけが思いついた非難を上げる。 対し、里璃の手を離した「夜」は、尻すぼみの言葉の返答を焦らすかのように喫煙を続け。 充分堪能したていで口元からシガレットを取っては、これを無造作に足下へ放った。 「あ」 カーペットに燃え移ってしまう。 そう里璃が思ったのも束の間、「夜」の黒い靴がシガレットを踏み躙る。 と、先端に着火した時の火花が、あの時よりも大きく靴の裏から上がった。 「!」 またしても飛び跳ねた里璃。 火花が納まり「夜」の靴が退いたなら、陰も形もないシガレットに目を丸くして顔を上げた。 「見ての通り、踏めば消える。言うたであろう、リリよ。このシガレットは魔力そのもの。魔力供給以外には使えん。その目的を失っては存在し続ける事もままならん。踏まずに放置したところで、吸い口まで火が回れば破裂し跡形もなく消滅するのだ」 「跡形も、なく……」 ぽつりと呟いたのは何のためか。 それでも里璃は奇妙な物悲しさを感じてしまった。 シガレットに対してなのか、別のモノに対してなのか、判別はつかねども。 「リリ。シガレットケースは胸ポケットに常備しておけ」 「……はい。サトリ、ですけど」 放置していた名の訂正を行いながら、言われた通り胸ポケットへシガレットケースを仕舞う。 ポケットに入れたなら当然ケース分の質感を感じるはずだが、以前と変わらない黒い従者服に、里璃は黒茶の目をぱちくりさせた。 原理は計り知れないものの、どうやらポケットに入れた物は物理的な存在感を無くすらしい。 動く分には楽だが、これでは忘れ物が多くなりそうた。 試しにポケットへ手を突っ込んだなら、シガレットケースは狭い空間を占領していた。 質感はないのに容量は見たまんまなんだ。便利なのか不便なのか、よく分からないなぁ。 可笑しな感覚に首を傾げた里璃は上着を元に戻すと胸を払い。 「?」 視線を「夜」に戻すなり、ささっと逸らされた黒い瞳を知っては、更に首を傾けて眉根を寄せた。 「どうかしましたか、「夜」?」 「いや。気にするな。……シガレットの香りのせいか?」 「シガレットの香り?」 疲れてきた首を逆へと傾ければ、戻った「夜」が小さく頭を振った。 「ああ。あの香りは、あらゆる女の甘さを具現化させたものでな」 「……あー、何だか聞いただけでお腹一杯です」 「だろうな。女を知らぬお前には刺激が強過ぎたか」 一人で勝手に納得する「夜」を余所に、聞かなきゃ良かったと陰でげっそりする里璃。 ついでに先程の「夜」の不審な行動の理由を察しては、心の中で呻いた。 「夜」……胸元漁るだけで惑うのに、どうして未だに私のことを男だと思っているんだろう? まあバレて困る身の上、助かってはいるが。 意地でも自分を女として見たくない様子の「夜」を改めて知り、里璃は何とも遣る瀬無い溜息をついた。
しっかし、この胸焼けを起こすような甘さが、ねぇ……? 応接室を出た「夜」に続いた里璃は、早速の喫煙を促された。 歩き煙草なんて、と口の中で愚痴る里理だったが主の命には逆らえない。 言われた通りにケースから一本取り出し、香る匂いに柳眉を顰める。 それから咥えて吸えば、「夜」が吸っていた時と同じように小さな火花が上がり、同じように煙と香りが辺りに漂い始め―― 「ぐぇっ! ふっ、ぐふっ!」 盛大に咽た。 「け、けむっ、あまっ!」 シガレットを持った手を壁につき、身を屈めては逆の手で辺りを仰ぐ。 喚起される涙と唾液とを、それぞれの出所に留め置いたなら、先を歩いていた「夜」が呆れた風体で息を吐いた。 「リリよ。一つ吸っただけで咽るとは何事か」 「だ、だってぇっ――――ぅえっ」 「やれ。こればかりは慣れるしかあるまい」 「な、慣れろってこれを!?」 「でなければ従者は勤まらん」 どきっぱり言い捨てる「夜」。 蝋燭の炎が妖しく揺らめく、真紅の絨毯が続く洋造りの廊下の中央で、黒い礼服に身を包んだ主は、これに合わない従者を冷然と見つめた。 ただそれだけの事だというのに、里璃の喉は咽る行為を詰まらせ押し留める。 ごくり、煙ごと丸呑みする音が里璃の内に響いた。 やけに身に入る緊張感。 次は何を言われるのかを待つ里理に対し、ゆっくりと動いた「夜」は。 「まあ、勤まらんだけで従者の肩書きは最早お前の一部。努々、私から逃げられるとは思うなよ?」 一転、からかう口振りでそう言うと、再び里璃に背を向け先を行く。 「っ、に、逃げるだなんてそんなっ! な、慣れます、慣れますから!」 慌てて後を追った里璃は、手にしたシガレットを見て逡巡。 これを咥えて思いっきり吸っては、やはり咽つつ。 「要は慣れるまで、げほっ、こうして煙を出せば良いのでしょっ、うげっ……。け、けむっ、煙さえ刻印に届けば、供給はきちんとされるはずですし!」 「ああ。従者としては不恰好だが、当分はそれで良いだろう。しかし、確実に供給するには呑まねば為らぬ事を忘れるでない。何せ刻印は喉を保護するためのもの。最も効果的な方法は、其処へ直接魔力を注ぐ事ゆえ」 「わ、分かりましたっ、ぐっ」 まるで遅効性の毒でじわじわ弄り殺される過程のようだと里璃は思った。 勿論、そんな毒を煽った憶えはない。 そう思いつつも喫煙の手と口は休めず。 主としてのプライドが「夜」にあるように、俄仕込みの従者である里理にもプライドというものがあった。 自らが望んだものではなくとも生涯の職、それも自発的に敬えるような主がいるのだ。 逃げる、などとは冗談でも言われたくない。 だからといって、決意が苦しみを軽減する、そんな上手い話はどこにもない。 「夜」の後に続きながらも、幾度となく吸っては咽るを繰り返し、ようやく足が止まったのはあの、こちら側の馬が居た厩舎。 地下を思わせる石造りの薄暗い空間に、何とか一本吸い切った里璃はぞくりと肌を振るわせる。 ――前に、耳を塞いだ。 直後、錆びついた扉が「夜」の手によって、塞いでも届く酷い音を立てながら開かれる。 「うおおおお……み、耳が、死ぬっ」 「安心せい。その耳が死ぬ時はお前も一緒だ」 不穏な台詞を吐いた「夜」、どういう反応を返せば良いのか分からない里璃を尻目に、招くでもなくさっさと中へ入っていった。 澱みない足取りにつられて入った里璃は、今一度対峙する馬にごくっと喉を鳴らした。 すると、里璃の姿を見て、爬虫類の鼻先を小さく上下に振っていた二頭の馬は目を細めると。 キュッキュッキュッキュッ 「え、鳴くの?」 「当たり前であろう。馬は鳴くモノだ。先程も鳴いておったのに気づかなかったのか?」 「いや……正直、それどころではありませんでしたし」 手荒い歓迎を思い出せば竦む足。 けれど仕切りに高い音で鳴く馬は、里璃を招くように縦長の瞳孔を彼女へ向け、細めた目を開いたり戻したりしている。 お世辞にも可愛らしい容姿とは言えないが、必至な仕草は微笑ましく映ってしまった。 ……はあ。こうして精神的にもこちら側に慣れていくのかなぁ。 吐かれた溜息に混じる苦笑。 見守る風体の「夜」を追い越して、先程自分を拘束した向かって左の馬に近づいた里璃は、近づく爬虫類の顔へ恐る恐る手を伸ばした。 岩と見紛う灰色の皮膚を撫でてやると、馬の鳴き声がぴたっと止まる。 「うわ……見た目より、ずっと硬い」 頬から首を撫でてやれば、大人しくなった馬は気持ち良さそうに目を閉じた。 「リリよ。もう一方の馬も撫でてやるがよい。待ち望んでおるぞ?」 「サトリです。あ、はい」 撫でるのは仕舞いだというように、硬い首を軽く二度叩いては、まだ鳴き続けている馬の方へ近寄る。 同じように撫でてやれば同じように目を閉じる馬。 「ふむ。随分と馴れたようだな」 「ええ、まあ。最初は驚きましたけど」 「お前ではなく馬の話だ」 「……はぃ?」 思わぬ言葉に身体ごと「夜」へ向き直れば、まだ撫でろと催促するように馬の顎が肩に乗る。 ひんやり冷たい硬質な肌を頬に感じつつ、反対側に手を回して叩くように撫でてやったなら、「夜」が感心した様子で腕を組んで頷いた。 「ゼウバライの才覚か。一口に馬と言えど種類によって性質はそれぞれ違う。中でもその馬は飛び抜けて気が荒いのだ。プライドが高いとでも言うべきか、己が認めた者でなければ傍に寄る事すら許さん」 「えっと……そ、それなのに「夜」は先程、私をこの子たちに向かわせたんですか?」 「ああ。馬共が興味を抱いたのでな。常であれば初見の相手、感覚の全てを狂わせる音波を吐くのだが、見ての通りお前に懐いておる」 「え。それってつまり、もしかして私、かなり危険だったんじゃ……」 入った時点で自分を襲うはずだった事象を知り、里璃の顔が強張った。 しかして「夜」は首を振り。 「いいや。懐かずともこやつらにお前を傷つける事は出来ん。……私が赦す訳なかろうて」 ぞっとする程の低い声。 驚くだけの里璃とは違い、馬たちが明らかな怯えを示して震え出した。 里璃の近くに居る馬は彼女の陰に隠れてやり過ごそうとし、もう一頭は尻餅をついて狂ったように身体を左右に激しく振る。 やがて生温かい異臭が里璃の鼻をつけば、プライドが高いと評されながらも藁の上で腰を抜かした馬の下に、ニオイの元と思しき液体が滲み始めた。 「よ、「夜」! お止め下さい! この子たちが怖がっています!」 馬たちの目に「夜」がどう映っているのかは知れないが、こんなに惨い怯え方をしなければならない理由はないはずだ。 里璃は引き留める背後の馬をやんわり遠ざけると、「夜」の腕にそっと触れた。 途端、白い仮面の眉根が寄った。 「……何だ、このニオイは」 「「夜」……幾ら何でもそれはあんまりです」 自分で引き起こした事だというのに、心底不快だと示される声を聞き、里璃はがっくりと肩を落とした。 |
2010/1/25 かなぶん
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