草木が眠る丑三つ時――――が、どこまで通用するかは分からない。 しかし、彼女はその言葉を知っており、なお且つ、理解していたため、確かに今は、草木が眠る丑三つ時なのだと溜息をついた。
つまりは深夜。
本来なら草木に漏れず、夜行性ではない彼女が深い眠りを貪る時刻。 そんな時間に起きてしまったのだから、青い瞳がしょぼしょぼして仕方ない。 原因は、夜になれば誰も近づかぬ、深けき森に住まう彼女の家の戸から響く、軽いノック音にある。 こんな夜遅く…………取立てかしら? 思い当たる節は数多あり、遅いかもしれないと思いつつ、彼女は手にした燭台の炎をふっと消した。 必要であれば、山奥にだって電線を引っ張ってこられる昨今、彼女が電気に依らないのは、偏に相性が悪いせいだった。 別段、機械音痴という訳ではない。 スイッチ一つで何かを破壊するような、非現実的な不器用さを誇った憶えもない。 本当に、ただ単に、電気、というモノと相性が悪いだけ。 けれど、その“だけ”のために、昔、危うく暮らしていた土地を焦土と化す処だった憶えはある。 兎にも角にも、そんな遠い昔に思いを馳せている余裕のない彼女は、皺を刻んで久しい白い喉をゴクリと鳴らした。 『ゼウバライの血に連なりし末端の流れより、其へ命ず――』 小さく唇を動かして、世間では非現実的な、彼女にとっては当たり前の能力――魔法の発動を促す。 彼女の一族が血筋に残した魔力という不可思議な力は、特定の言霊により、様々な形へ具現化させることが可能であった。 そうして今、彼女が紡いだのは、力が行使される前段階の言霊。 途端、発動を待つような二つの蛍火が現れ、彼女の周りで斜めに円を描き、交互に上下を繰り返す。 白の目立つ金色のふんわりした長い髪に隠された彼女の頭の中で、多種多様なイメージが膨らんでゆく。 ノック音の主がどの様な者であれ、即座に対応できるように。
人ならば、腕力を強化させておく。 こんな時間に尋ねてくるなぞ、碌な者ではないだろう。 遊ぶ金欲しさで老婆の元を訪れた卑しい野党、あるいは逃げてきた犯罪者。 想像だけでも反吐が出る。 獣であれば、問題はない。 彼らは人里離れたこの場所に暮らす、彼女の古き友。 警戒さえ解けば、人より信頼に足る者たちだ。 それ以外の場合は――――。
備えといて難だが、あんまり考えたくなかった。 こんな時間に取り立てにくる連中のことなぞ。 逃げる算段も過ぎらないではないが、訳在ってここから出ることは出来ない。 隠れることも容易いが、万が一、死亡扱いにでもされたなら…… とりあえず、親戚中から恨みを買いそうだ。 散々酔わされた後の借用とはいえ、契約は契約。 その筋でなければ入手困難な品を用意されては、こちらも要求を呑まざるを得ない。
――――が。
親戚を運良く避けて本当に死ねたとしても……先祖に虐められそう。 発動を待つ蛍火があるため、迂闊に喋れない呟きを胸の内で吐き出す。 きっとそれは、地獄の責め苦に違いない。 しかもとっくに死んでいるから、ショック死もできない。 ある程度、齢を重ねた人間は、死を受け入れるか拒むか、人生の総決算のような余生を送るが、彼女は違う。 他のように、死を拒むように見えてその実、死の先に怯えているのだ。 ちらりと隅に上る提案は、返り討ち。 けれど、それだけはいただけない。 何せ、彼女が同様の手口で交わした契約は、無数に昇るのだから。 一つ反故すれば、速やかにその事実は広まり、彼女の了承も得ぬまま、要求された品々は回収されてしまうだろう。 まさに八方塞り。 何故こんな目に……自業自得と言われたなら、それまでだが。 しかも用意された品々は、誘惑に耐え切れず、全てが使用済み。 救いは元から残されてはいない。 戻らない過去を思い、切羽詰った現在を嘆き、差し迫った未来から鬱に入る。 溜息が、自然と漏れるのも仕様のないこと。 「はあ…………しまっ」 だがそれは、練り上げた魔力の分散を意味する。 ただ散開するだけならまだしも、制御を失った余波は、戸の向こう側にまで知られてしまう。 火を消し、口を押さえたところでもう遅い。 これで相手が人間か獣なら――少ない望みに縋りつこうとした矢先。 外へ開くはずの戸が、烈風によって内側へ開いた。 「!」 うねる動きに目をぎゅっと瞑る。 痩せた身体が吹き飛ばされそうだ。 それでも相手を見定めねば。 思い、腕で風を防いでは先を見。 前方、小さな木屑の影が映った。 幾ら小さかろうとも、この風。 当たれば忌避すべき死は確実。 だが、避けられる時間はない。 衝撃を待つしかない己を知り、彼女はありったけの謝罪を親戚中に繰り返して告げ。 「エル」 急に風が止み、名を呼ばれたなら、弾かれたように腕を下ろして顔を上げた。 間近に迫った木屑の代わりに、そこに現れたのは、よく知る影。 「貴方は…………」 茫然と呟けば、その影の姿が変わる。 現れたのは、まだエルが少女だった頃、心ときめかせた男。 伸ばされた細くも滑らかな指が、あれから年月を経た両頬に触れた。 慈しむそれへ、皺を刻んだ手を重ねる。 これを合図に持ち上げられた顔。 近づく藍の瞳にほだされ、青い眼が閉ざされる。 触れる香りはどこまでも柔らか。 この手の感触は久しぶりであった彼女、それで充分だったのだが。 するりと背に回される腕。 不穏にぎょっとすれば、小突くように深く入り込む熱がある。 慌てて胸を押したなら、短い間であっても、透明な名残が糸を引いた。 逃げるように数歩後退し、まだ彼女を迎え入れる腕と、淋しそうな顔を知っては、心がぐらりと揺らいでしまった。 「……何故、逃げる?」 「……相変わらずね。悪いけど、私はもう若くないの。貴方の誘いに乗ったら死んでしまうわ」 久方ぶり過ぎて、相手の性癖を忘れるところだった。 普通の人間であれば、老いた彼女相手、決して危険を感じない命以外の部分に危機感を覚える。 拒絶の言葉は、自意識過剰と笑われる方がマシなくらい、シャレにならない事実だった。 身を守るように自らを抱く彼女の仕草を受け、男は釈然としない面持ちながら、諦めたらしく、軽く首を傾げて項垂れた。 瞬間、その姿が元に戻る。 ぴんと張った背筋、深海の闇を思わせる外套、威圧感はさほど感じない長身。 外套と同色の袖口から覗く、青白くも細くしなやかな指先。 長い髪は光の輝きを塗り潰したような黒で、襟首の辺りを暗く沈んだ藍の細い紐でひと括りにしている。 シルエットだけで、男性的な魅力が伝わりそうな容姿。 しかし、その顔は酷く異質であった。 無機質な白磁の仮面と目の位置にはめ込まれた黒い双眸。 鼻梁は通っているものの、真正面から見ると陰影に乏しい。 くぐもった濁りのない声が発せられても、語るための口は仮面に存在せず。 限りなく人に近い姿でありながら、最も人とは相容れない者―― それがこの者の本性であり、彼女が後悔する契約を取り交わした相手も、彼側に位置していた。 とはいえ、彼から借りた物はないので、彼女の緊張は容易く解れる。 未だしょぼくれたままの姿へ苦笑しつつ。 「ようこそ。貴方の望むよう過ごすことは出来ないけれど、久しぶりだもの。少しくらい、お話しましょう? とりあえず、壊した戸、直してからね?」 「……ああ、すまない」 ここで自分がどういう登場をしたのか思い出した彼は、片手を上げ指を鳴らす。 合図を受け、自動的に修復される戸と共に、強靭な結界が張られたことに気付いた。 青い目を見張る彼女へ、彼は恐怖と紙一重のような艶めく低い声で言った。 「せめてもの侘びだ。綻びが酷かった。アレに見つかってはいけないのだろう?」 「あ……ありがとう……っ」 知らず、緊張していた彼女の涙腺が緩む。 これを年のせいと誤魔化し鼻を啜れば、敵でも味方でもない彼女の古い知人は、手折れそうな身体を優しく抱き締めた。 |
2008/12/9 かなぶん
修正 2008/12/20
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