「綺麗でしょう?」
愛おしそうに軽やかに撫でるのは、大鷹の屍骸。
羽根に己の血をつけたそれを目を細めて、本当に愛おしそうに……
その光景にただただ惹きつけられてしまった。
愛でられし翼
天駆けるのは何?
問われて応えいずるのは、純白の翼を持つ者。
穢れを知らずとも、穢れを浄化する唯一の存在。
俗世が名付けた名はなく、存在だけが知らしめられる。
手を伸ばせば吸い込まれるほど透明な空に、羽根一杯に風を受けながら、惑うことなく飛ぶその姿。
人の少女に似た背には真っ白な一対の羽根。
――仮に翼と呼ぼう。
風と戯れるように、風そのもののように、空に白い軌跡を残していく。
ふいに折れ、地上へと下降していく。
決して無理な速度は出さず、しかしくるくると旋回し、向かう先は森の湖。
ふわり、降り立つように湖面に立つ。
「綺麗だね」
紡ぐ声は愛らしいもので、向けたのは物言わぬ湖。
返答などあるはずもないが、翼は楽しそうな笑みを浮かべ、湖に手を潜らせる。
そのまま湖面に絵を描くが如く、低空で飛び回る。
円を書いては笑い、くるり回っては目を回し、波紋の起こりに驚き。
あどけない顔で穢れを知らぬ笑みで、翼は陽の下、輝く湖面に舞い続ける。
空が暁に染まるまで。
* * *
翼がその人影に気づいたのは、朱い空にまさに飛びたたんとしていた時。
遊びに夢中になっていて気づかなかったのか、はたまた今現われたのか。
それほど唐突に、人影は翼の意識に滑り込んだ。
興味がない――なんてことはなかったのだけれど。
決まりは決まり。
翼は自分が地上の者と共にあってはいけないのを知っている。
後ろ髪を引かれはしたが、一度宙で身を沈め、一気に飛び立つ。
しかし、やはりというか気になり、一瞬、ほんの刹那、その姿を見た。
白い兎を撫ぜる、夜から抜け出たような女の姿を。
仲間の下へ帰って後も、翼は女を思い浮かべては奇妙な感覚を味わっていた。
焦燥に似た、居ても立ってもいられない感覚。
初めて外に出た時の興奮に満ちたのに似ている。
明日、もう一度行けば分かるのかもしれない。
共にあってはいけないけれど、見るだけなら大丈夫だ。
そう言い聞かせて。
少し雲のちらつく空を降り、同じように湖面の上に立つ翼が最初にしたことといえば、隠れられそうな木を探すこと。
まだあの女は姿を現していない。
昨日の今日で絶対来るとも思えないのに、翼は気にもせず、丁度良い大木の枝を見つけた。
今か今かと女を待ち続け、待ち続け、待ち続け――
ふっと意識が途絶えかけたのは夕刻で、朱い空の下、また同じ場所に女が居た。
座る女の膝元に、今日は小鹿が頭を預けている。
女は兎と変わらぬ優しさで小鹿を撫ぜる。
可愛い我が子をあやす優しげな瞳。
ふらふらつられて出て行きそうになるのを留め、朱い空が紺に侵食されつつあるのを見て慌てて空へ戻る。
あまりに慌てたものだから、女と一瞬、目が合ったような気がして。
また明日も来ようと思い至る。
その日は雲が薄く空を覆ってい、湖面は輝きを忘れて鈍い流れを映していた。
驚いたのは降り立った時にはすでに女がそこにいたこと。
「綺麗でしょう?」
こちらに発せられた優しい声音に翼はごくり、息を呑む。
唐突の出来事に、決まりを忘れてつい、
「うん」
返事をしてしまった。
それでも女は目線を膝元に向け続ける。
女の膝には大鷹が身を寄せていた。
乾いた血に穢された羽根を誇らしげに見せつけながら、その目は堅く閉じたまま。
「とても綺麗に空を泳ぐ子だったの。でも、あの人が、ね」
お前が望むなら、そう言って撃ってしまったの。
近づいて見れば、大鷹の心臓あたりにぽっかり抉れた跡。
死して尚気高くありながら、痛そうなそれに翼はぽとり涙を落とした。
「可哀想……」
「ええ……でも、とても綺麗でしょう?」
同意を求める女の瞳は疲れきった色。
ぽろぽろ涙を落としながら、翼はこの女のために何か出来ないものかと考える。
この女の疲れに濁った穢れをどうすれば拭えるのだろうか、と。
ざわりざわり、近づく度に揺れる心が翼に囁きかける。
言葉など、交わす必要を感じず。
断末魔の悲鳴に似た地に響く音。
穿たれた肩の傷は大鷹のように抉れ。
熱を帯びて意識を白濁させていく。
倒れる直前に口元を押さえた女の姿が目に入り、翼はにこり微笑む。
女は町外れに居を構える猟師の妻であった。
半ば強引に娶った女に、猟師は異様な執着をみせる。
男どころか女さえ自分の妻に近づくことを許さないほどに。
そうして人との接触を絶たれた女は、庭を飛ぶ小鳥に話しかけるようになった。
次は愛らしい白い毛並みの美しい兎。
次は親とはぐれた警戒心の薄い小鹿。
不思議と猟師は女が森に入ることを止めようとはしなかった。
――あの鷹の羽根はなんて雄々しく自由なのかしら。
ある日ふと見上げた空に、地に影を落とす鷹の姿が映った。
言葉にしたつもりはなかった。
ただ眩しそうにその姿を眺めただけ。
その日の夕暮れ。
――これが望みか?
投げ捨てられたその姿に女は震えた。
朦朧とした頭に温かさを感じて重い目蓋を開く。
女が見えた。
翼は残念に思う。
女の後ろで燃え盛る炎のせいで、はっきりとは女の顔が見えないのだ。
「なぜ……?」
翼に尋ねる声音は酷く優しいのに、涙で滲み掠れている。
顔や羽根を労わり撫でる手に、熱と痛みが少し和らいだのを感じながら、
「……って、あの……人はぁっあなた……っの、穢れ……だから」
泣かないで、そう伸ばそうとした手は穢れの朱。
すぐに伸ばすのを止め、穢れをまじまじと見つめる。
「ふふふ……ダメ……だなぁ。穢れがっ、うつっちゃった」
自分に付いてしまったのは流石に浄化できないなぁ。
それが己のか、それともあの猟師のものかは判別できない。
ああ目蓋が重い。
目を閉じると女が息を呑むのが伝わる。
良かったと翼は安堵した。
泣くことも責めることもせず、愛しい綺麗と呟く女はとても、嫌いだった。
でもこうして枷を外されて泣く女のことは、たぶんきっと――
撫でられる羽根の感触を味わいながら、遠のく意識の底で翼は満足そうに微笑む。
ううん、絶対――――大好きだ。
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