妖精の章 十

  

 焜炉近くにあるビルトインタイプのオーブンを開け、取り出した角皿には、程好く焼けたシンプルなクッキーが並べられている。
 ほっとしたのも束の間、薄桃の服に白いエプロン姿の泉は、これを手早く台に上げ。
「駄目ですってば!」
 ミトンを外す暇なく、角皿から外した取っ手で、伸ばされた白い手を容赦なく叩き落とした。
 思いの外勢いづいた手は、ごすっという音を立てて、台の上をバウンドする。
 いつもは黒い爪の色が血で染まったような深紅だったから、というわけではないが、途端に泉の顔が青くなった。
 叩いたばかりのワーズの手を慌てて取る。
 その際、身体全部を押し付け、彼をクッキーから遠ざけるのも忘れない。
 咄嗟の暴力行為に対して、謝罪や心配はあるが、気を緩めてはいけないのだ。
 相手の意地汚さは折り紙付なのだから。
「すみません、つい……大丈夫ですか、ワーズさん」
 言いつつ、ぐいっと身体を押す泉。
 結わえられた褐色の髪が牽制するように黒い衣服を叩いた。
 手を取られたワーズは、押された身体も厭わず、へらり顔をクッキーに向けながら。
「んー、駄目かも。ボク、丈夫だけど痛みに敏感だからさ。あのクッキー、全部くれたら痛みも吹っ飛びそう」
「本当にすみません。でも、それは絶対駄目です! 何度目の正直だと思っているんですか!」
 言葉と共に泉は足に力を入れ、クッキーへ近寄ろうとするワーズを懸命に押さえつけた。
 と、泉の肩に両手が置かれた。
 何事かと顔を上げたなら、物珍しい真剣な眼差しがそこに在り。
「泉嬢……絶対駄目だ、て諦めたら、そこで全てが終わっちゃうんだよ?」
 諭すような物言い。
 一瞬呑まれかければ、隙をついた黒い帯締めの服が、クッキーを目指して動いた。
「なに、ぽいこと言ってるんですか! た、竹平さん!! この人、押さえるの手伝って下さい!」
 ワーズと比べ、背丈にしても力にしても分の悪い泉は、惚けた時間も合わせ、じりじり後退する身体で叫ぶ。
 これを受け、店番がてらぼんやりしていた竹平は、面倒臭そうに立ち上がる。
「はあ…………往生際が悪いぜ、ワーズ。一緒に行くって約束したくせに」
 ぼやきながらも、黒衣の脇下から濃紺の袖を通した竹平は、腕を折り曲げてワーズを羽交い絞めにした。
 見た目に反し、それなりに腕力のある竹平は、自分より上背のある男をずるずる引き摺っていく。
 この間にも、ワーズはじたばたもがき。
「とても素敵なシン殿、何も言わずに離して」
「はいはい、泉が良いって言ったらな」
「泉嬢、エプロン姿、可愛いよ、似合ってるよ」
「はいはい、ありがとうございます」
 割と必死な血色の笑みに、ぞんざいな受け答えをする二人。
 色の違いや造りの男女差はあれど、ワーズ手製であるため、似た形式の衣服を着る泉と竹平は、似通った疲労を浮べて溜息をついた。

 挨拶回りの手土産にクッキーを焼く。
 発案者は勿論、泉である。
 けれど、クッキーが完成したのは何故か発案から数えて、一週間目のことだった。
 この一週間、実に様々なドラマがあった。
 題して、クッキー争奪戦。
 そのままのネーミングセンスはさておき。
 泉対ワーズの攻防戦。
 最終的に、飾りっ気のない丸型クッキーとなってしまったところから、泉の惨敗っぷりが想像できよう。

 事の発端は、泉が掲げた挨拶回りの相手にあった。

「……そんなに嫌なんですか、ラオさんのところに行くの」
 冷めたクッキーをラッピングしつつ、呆れた風体の泉が問うたのは、ソファに寝転がるワーズ。
 決して自分の意思で寝転がっているわけではないへらり顔は、返事の代わりに後ろ手に縛られた腕を左右に艶かしく動かす。
 どうやら脱出を図るつもりらしい。
 両足同様、俗に言う「クソ結び」をしているため、そう簡単には外れないのだが、往生際の悪さは、泉の問いへ是と答えたに等しかった。
 ちなみに、この拘束を行ったのは、泉と竹平である。
 彼らが元居た場所の常識では、犯罪と認識されるだろう行為に、若干の後ろめたさはあるものの、こうでもしなければ彼を止められなかった。
 クッキー一つに大袈裟な気もするが、毎度毎度、ワーズは姑息な手段でクッキーを奪い、このため、泉は寝ずの番を強いられてきたのだ。
 最初は食い意地の張ったワーズのしたことと、差して気にしなかった。
 それが数度に渡って続いたことにより、もしかしてと泉は気づく。
 いつかの日、ワーズはラオ・ヤンシーを何よりも毛嫌いしている、と聞いた覚えがあった。
 泉にとっても、彼の老木は現在、複雑な位置にいる存在。
 かといって、挨拶回りから除外するわけにもいくまい。
 害された記憶は今思い出しても気持ち悪いが、助けられた覚えも確かにあるのだから。
 では、クッキーを諦めれば良い――
 とはいかない。
 何せ奪われたクッキーは、今更諦め切れるような数ではなくなっていたのだ。
 ほとんど、意地と意地とのぶつかり合いであった。
 お陰で、恋腐魚により多少なりとも引き摺った、ワーズへの熱を昇華出来たのは、思わぬ副産物と言えよう。
 逆に寝不足と単調作業からくるストレスで、一瞬、殺意が過ぎってしまうのは……致し方ないと流しつつ。
「ワーズさん……やっぱり他の人に頼んでみますね。付いてきて貰うのに、無理矢理は良くありませんし」
 表面はあくまで申し訳なさそうに、内ではこれ以上の争奪戦は御免だと、ラッピングの手を素早く動かしながら泉は言った。
 ラッピングといっても、レース柄の小さな袋を色とりどりのリボンで縛るだけの、簡易な代物。
 早くやる必要は全くないのだが、散々妨害されてきた手前、身体が勝手に急いた動きを要求する。
 最後の一つをきゅっと結んだところで、泉は精神的にかいた額の汗を拭った。
 ついでに、これでようやく寝られるはず、と見出した希望に吐息を一つ。
 さあ、後はこれらを手提げ鞄に入れて。
 誰に頼もうか、考えた矢先。
「はあ……」
 物凄く陰鬱な溜息がソファから為された。
 驚いて見やれば、結局、拘束の解けなかったワーズが泉へ苦笑を浮べている。
「? ワーズさん?」
「……行くよ」
「へ?…………ええと、付いてきて下さるんですか?」
「うん、勿論。ラオのトコは嫌だけど、泉嬢が他、頼むって言ったら、クァンとかシイとかランとかでしょ? 話にならない連中ばかりじゃない――よっと」
 掛け声でソファに腰掛ける体勢となったワーズは、首をぐりぐり回し、息を零し。
 話にならないとはどういう意味か分からず、泉は困惑を浮べて首を傾げた。
「話にならないって、どういう意味ですか?」
「んー? だってさ、考えても見てよ。クァンだったら、泉嬢、なし崩しでパブ勤め決定でしょ?」
「うっ」
 言われてみれば、確かに。
 芥屋の斜め下に位置するパブ経営者のクァン・シウ。
 彼女は未だに、泉を自分の店で歌わせることを諦めていないらしい。
 恋腐魚の効果を受けていた最中でも、懲りずに何度勧誘されたことか。
 そんな彼女に付いて来て貰っては、お礼と称して一曲歌うことを要求されそうだ。
 何気なく口ずさんだ唄を褒められるのは、恥ずかしくとも嫌な気分ではない。
 しかし、劇場仕立ての店内、大勢の前で一人で歌えというのは、些か無理が過ぎよう。
 容易に想像できた展開へ、顔がさっと青褪めた。
「で、シイの場合はさ、日中は大丈夫かもしれないけど、子どもなんだよ、アレ。力だって死人(シビト)の中で、そんなにあるわけじゃないから……泉嬢、前に教えたよね? 奇人街は一夜で色んな種類の犯罪ってのが揃うって」
「うっ」
 呻いた泉が思い出したのは、幽鬼(クイフン)という化け物に襲われた時の事。
 他者の生き血を糧とする死人の件の子どもは、幽鬼から泉を助けるために身を呈し、危うく殺されてしまうところだった。
 その幽鬼より力の面で劣る住人は、けれど、獲物へ一直線に向かう幽鬼とは段違いに頭が回る。
 徒党を組まれて罠にでも嵌められたなら、逃れる術はない。
 一人だからこそこんな街で生きていける状況下、泉というお荷物抱えるのは、シイにとって自殺行為に等しいだろう。
 浅はかな自分を呪いたくなった。
「ランは、さ…………夜って日中の比じゃないんだよね、お誘い。それに、たぶん、アレらは泉嬢も狙ってると思うよ。二人だけで並んで歩いたら、カモネギ、って状態だろうねぇ」
「へ?」
 シイへの配慮のなさを悔いる耳に届く不穏。
 冴えない男、ラン・ホングス。
 あれで一応、自身の種である人狼の中で最強を冠する彼は、やたらめったら同族の女にモテる。
 夜になると凶悪な容姿に変わるものの、中身は冴えないままなので、結局、女たちに纏わり付かれた挙句、お持ち帰りされてしまう。
 ――までは、本人には悪いが、イイとして。
「ど、どうして、私まで狙われるんですか?」
 カモネギ――鴨が葱を背負って来る、という諺の意味は分かる。
 分からないのは、自分がランとセットになってお得になる点。
 ランを誘う相手は専ら女であり、総じて彼女らは男を求め、彼に纏わりつくのである。
 それなのに、同性の、ともすれば邪魔になりそうな小娘、狙われ安くなる謂れは見当たらない。
 けれどワーズはソファに倒れるギリギリまで身体を傾け。
「んーと、ねー……泉嬢に言っても無駄かもしれないけど」
「……なんですか?」
 聞かされる前から無意味と断ぜられ、少しばかりむかっ腹の立った泉。
 若干頬を膨らませたなら、上体を起してワーズは言う。
「早い話が、シウォン目当てなんだよ」
「シウォンさん?」
 思いも寄らない人名に、泉の眉が寄せられた。
 自分が狙われている話だったのが、いつの間にやら違う人物にすり替わっている。
 これを泉は、ワーズの冗談と理解した。
 最近よく聞く、からかいの類だと。
「……もういいです。兎に角、付いてきて下さるんですよね?」
 思わせぶりな言葉を責める気もせず、溜息混じりに確認。
 するとワーズも似たような雰囲気で首を左右へと振り。
「やれやれ。あの子も報われないねぇ……うん、勿論、付いていくさ」
 頷いたワーズ、思いっきり口をひん曲げ。
「たとえ、あのクソおいぼれのラオ・ヤンシーのトコでもさ」
「……相当嫌いなんですね」
 泉がぼそりと呟けば、にたりとワーズは笑みを取り戻した。
 嗤いもしない、模っただけの空虚な笑みではあったが。

*  *  *

 ワーズの拘束は、施したはずの二人にさえ解けない頑丈さとなっていた。
 鋏を使っても切れない極太の縄は、芥屋の店内に置かれていたもので、ワーズ曰く、生きた食材を捕らえるモノらしい。
 未だかつて、こんな縄が必要になるような食材を見たことのない泉と竹平は、一歩、精肉箱から遠ざかり。
 二人の様子を受けたワーズ、くつくつ笑っては首を振った。
「大丈夫大丈夫。その箱には死んだ奴しかないから」
「……ヤな言い方すんな。そりゃ、その通りかもしれねぇけど」
 眉を顰め口を尖らせる竹平は、箱を警戒したままワーズを睨みつける。
 対する泉、この縄を必要とする食材の在り処なぞ聞きたくないので、すかさず言った。
「でも、どうしましょうか。このままじゃワーズさん、手も足も使えませんし」
「ご飯、食べられないのは辛いなぁ」
「……不自由、それだけですか?」
 ソファに座った格好で、しみじみぼやく黒一色の言に呆れる。
 この人はどこまで食欲で出来ているんだろう、と思い悩み。
 そんな泉の横で、竹平が他方へ吐き出した。
「けっ。それならそれで、泉に喰わせて貰えば問題ねぇだろ?」
 皮肉っぽい提案への不満は、まずワーズから起こり。
「えー。泉嬢の手を煩わせちゃ可哀そ」
「ああ、なるほど。良い案かもしれませんね」
 ぽむっと泉の手が叩かれては、なんとも言えない表情が男二人に浮かんだ。
 遅れて、泉はそれぞれの引き攣った顔を見。
「え……ええと、も、勿論、冗談ですよ?」
 まさか本気にはしないだろうと思っていたため、断りの声が若干上擦ってしまった。
 けれど返ってされる言葉はなく。
「え……えーと。ど、どうしたんですか、ワーズさんに竹平さん?」
 頬を掻き掻き尋ねたなら、視線がするりと横に逸らされた。
「泉嬢……すっかり奇人街色に染まっちゃって」
「えっ!?」
「泉…………達者でな」
「ええ!? じょ、冗談だって言ってるじゃないですか!?」
「いや、いい。無理すんなって。そうだよな、ワーズに良い様にされてきたんだし、仕返しくらいしたいよな」
「いや、全然良くないですって!」
「泉嬢がそう言うなら、ボクは構わないけど」
「構ってください!――じゃなくて、違いますよ? 今のは私が構って欲しいとか、そういうんじゃなくて!」
 妙に呼吸の合った、憐憫溢れる言葉たち。
 泉はうろうろと視線を彷徨わせ、ワーズと竹平を行ったり来たり。
 その度、遠退いていく顔たちに、パニック寸前まで追い込まれ。
「もうっ、冗談だって言って――て、あれ?」
 頭を抱えて叫びかけては、店側、視界の隅に近寄る影を認めた。
 こげ茶の瞳が丸くなったなら、追った竹平が「げぇっ!?」と声を上げ、そそくさと泉の陰に隠れた。
 情けない事この上ない行動だが、仕方ないと泉は思う。
 何せ相手は。
「これはこれは、皆様お揃いで。お久しゅうございまする」
「緋鳥さん……」
 人魚の一件の最中、竹平を足手纏いと決めつけ、殺そうとした少女・緋鳥。
 知らず、泉の腕が竹平を庇うように動いたなら、目深帽を被った顔がくいっと上げられた。
 次いで首を傾がせ、鼻を鳴らし。
「ややっ? これはこれは……あの時の、人間?…………………………凪海の、赤い髪の少年とは、もしや……」
 笑顔を引き攣らせた緋鳥は、来たばかりの足でじりじりと後退していく。
 警戒は怠らず、そんな緋鳥に眉根を寄せる泉。
 と、ソファに座るワーズが、皮肉げな笑みを緋鳥へ向けた。
「緋鳥」
「は、はっ!!」
 静かなトーンで呼ばれたにも関わらず、緋鳥はその場で片膝をつき礼の形を取る。
 一方が縛られた状態では威厳もへったくれもないのだが、緋鳥にとって問題は別にあるらしい。
 かたかた小刻みに震える様子が、離れても手に取るように分かった。
 益々、泉の眉が寄ったなら、ワーズがすくと立ち上がった。
 ――が、やはり両足を拘束されたままではバランスが取りにくいらしく、すぐさまぐらりと傾いでしまう。
「わわっ! ワーズさん!」
 背後に庇った竹平を放り、泉が慌ててワーズを支える。
 けれど、身長・体重共に、自分よりある相手。
「ぐ……お、重ぃ…………た――」
 助力を乞おうと呼びかけた名の主は、ソファの陰にささっと隠れてしまった。
 幾ら緋鳥が怖いからといって、その素早さはあんまりじゃないか。
 ワーズを縛ろうという提案の大本は彼で、実行の時は共犯だったのに。
 内心で、裏切り者と罵りかけた泉、溜息で黒い思いを払拭し、無駄にうねうね動く男に声を掛けた。
「わ、ワーズさん。変な動きしないで下さい」
「ん……んー、じゃあ泉嬢、手、離していいよ? ボク一人で行けるからさ」
 へらり笑う顔に気圧されて、支える手が緩めば、緋鳥の方へ跳んでいく足。
 だが、一・二回跳ねた程度で、普段からふらふらした動きを歩行に取り入れる身体は、大きく斜めに傾いてしまう。
「よっ、ほっ、へっ? はわっ、わわわわわっ」
「ワーズさん!?」
 蓑虫男の不恰好な歩行を受け、再度ワーズの身体に泉の支えが設けられた。
「…………泉嬢」
 これに対し、何故か不満げな声が、湾曲したワーズから発せられた。
 泉は些か呆れた目でワーズを見上げる。
「私のせいですから、手伝わせて下さい。第一、倒れた方が大変ですよね?」
「……はぁ」
 説得するように言えば、観念した仰々しい溜息がワーズから為される。
 支える手に増した重みを受け、任せてくれたのだとほっしたのも束の間。
「……これが逆だったら、どんなに嬉しい事か」
「なっ! へ、変なこと言わないで下さい!」
 ぼそっと斜め頭上で吐かれた言葉に、泉の顔が一気に赤くなった。
 ついでに思い出されるのは、クッキー争奪戦で冷めたはずの熱の日々。
 折角さよなら出来た感覚は、容易く引き戻されてしまい。
「縛られて何も出来ない泉嬢……恋腐魚なんかより、そっちの方が良かったかな? 存分にお世話出来るだろうし」
「!!? そ、それは立派な犯罪で……」
 言ってて虚しくなった。
 今現在、ワーズをその“立派な犯罪”の被害者に仕立てあげたのは、紛れもなく泉自身。
「あー、でも、それじゃあ手足に擦り傷がついちゃうか。うーん、今度、スエ博士に擦り傷の付かない拘束具持ってないか、聞いてみようかな?」
 かといって、のほほんと告げられた案を受け入れる気なぞ、あるわけもなく。
「本気!? お願いですから、妙な計画立てないで下さい」
 周りの状況をすっかり忘れた泉は、赤と青を交互に宿して懇願する。

 

 


UP 2009/4/17 かなぶん

修正 2012/8/9

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