妖精の章 十一

  

「――とまあ、冗談はさておき」
 ワーズのその言葉により、一人騒いでいた泉はぴたっと動きを止めた。
 恨みがましい視線を白い面に向けたなら、騒ぐことになった元凶は、店で頭を垂れる緋鳥を冷めた目で見ており。
 底冷えのする混沌の眼に当てられ、泉の羞恥も瞬時に凍り付いていった。
 ワーズが足を投げ出すように座れば、支える彼女の身体もこれに習って座る。
 掛けられる言葉のない動作へ、居心地の悪さが募り始める。
 先程とは違い、恐々伺うようにワーズを見やったなら、泉の視線に気づいた笑い顔が片眉を上げておどける仕草。
 泉の唇をほっとした吐息が揺らす。
 と共に緊張が解れれば、緋鳥へ拘束されたままの両足を向けて、ワーズが言う。
「緋鳥、コレを切れ」
「へ…………あ、は……はっ、た、只今!」
 惚けて顔を上げた緋鳥は、転じ、慌ててワーズの足下に駆け寄る。
 汚れるのも厭わず地に膝を付け、示された箇所へ、人狼に似た己の爪を入れた。
 他種と交わる毎に、その性質を取り入れる合成獣(キメラ)。
 合成獣の緋鳥の爪は、種として身に入る人狼と同じ鋭さで、鋏では凹ませるだけだった極太の縄を容易く引き裂いた。
「コレも」
 解放を喜ぶわけでもなく、緋鳥に背を向けるワーズ。
 助けに回った泉は正面から抱く格好を取る。
 黒い肩越しに緋鳥の爪が滑る様を見たなら、支えていた身体がすっと離れていった。
 そうしてこちらに向けられる黒い背。
 ……礼を言われることを期待した覚えはないけれど。
 素っ気ない態度に惨めな気分を味わう泉。
 視線を落とした先で息が吐き出される。
 背後の様子を察しようともしない黒い背は、縛られても尚、携えていた銃口を自分の頭に捩じり込みつつ。
「で? 何の用だ、緋鳥。まさか、シン殿を狙いに来たわけじゃないよねぇ? 喰うなよ、とボクは言っていたんだからさ?」
「ぅぐっ…………も、勿論でございまするれば」
 怪しい言葉遣いが、挙動不審な声音に乗って届いてきた。
 間髪入れず、小声で「嘘だ」と叫ぶ竹平。
 人間では届かぬ位置にいるはずの緋鳥が「ひっ」と震えた。
 これを聞こえてしまったと察し、竹平が似た悲鳴を上げる。
 そんな板挟みの声たちに、けれどワーズはさして気にした様子もなく、コツコツと銃でこめかみを叩き。
 同じく挟まれた泉、落ち着かない雰囲気に視線を彷徨わせた。
 止まったのは食卓の上、ラッピングされた袋の一団。
「あ、そうだ」
 空気を変えるべく、わざとらしく手を打ち、いそいそと袋の下へ。
 一つ抓んでは、ワーズの横を通り過ぎ、膝を付いたままの緋鳥に差し出した。
「あの、緋鳥さん? これ、クッキーなんですけど、良かったらどうぞ」
「お……おおっ」
 おずおず告げたなら、泉に逃げ道を見出した緋鳥、両手を恭しく伸べてきた。
 剣山のような人狼の爪には、若干引き攣りつつ、手の平の上に両手でそっとクッキーを置く。
 手を離す、間際。
「……ええと、ひ、緋鳥さん?」
 愛想笑いで小首を傾げれば、クッキーごと泉の手を包み込んだ緋鳥が、手の甲へ頬擦りする。
「これはこれは、忝のうございまする。良し悪しなぞ……美味なる綾音様の御身から作られし御品、食さぬは合成獣の名折れでありましょうぞ」
「そ、そんな大層な代物じゃないですけど」
 離して欲しいと言外に含めて言えば、離す代わりに首が振られた。
「いえいえ。御謙遜される事はありますまい。斯様に美味そうな、御身の御手なれば……」
「ひゃっ!?」
 唐突に、カプリと甘噛される手。
 爪に囲まれているせいで、回収するわけにもいかず、妖しく蠢く唇の感触に背筋をぞくりとさせた。
 と、今までワーズの頭に在った銃が、緋鳥の帽子へ埋められる。
「……緋鳥。ボクのモノに何をしているんだい?」
 抑揚のない声音。
 受けた緋鳥、ゆっくりと唇を離し。
 泉がほっと胸を撫で下ろせば。
「ぅひゃんっ!?」
 緋鳥の舌がねとりと泉の手の甲を舐め上げ、くちゅっと音を立てて皮膚を柔らかく吸った。
「緋鳥」
 窘める呆れ声に合わせ、銃口が緋鳥の頭に捻り込まれる。
 ようやく爪を開く緋鳥。
 泉はクッキーだけを手の平に残し、自分の下に両手を回収、一連の動作で高鳴った胸に焦りつつ、ワーズの背後に隠れた。
 最中、銃を向けられているにも関わらず、くつくつ揺れる緋鳥。
「うくくくく……綾音様は可愛らしいお方ですなぁ。店主様の薫りを身に纏われているというに、初々しく在らせられる」
「っ! ひ、緋鳥さん!? 何か、物凄い誤解をしていませんか!?」
 含みのある言い様へ、素っ頓狂な声が泉の喉を通った。
 直後。
 軽い音が響く。
 ぎょっとした泉がワーズの陰から顔を覗かせると、そこに緋鳥の姿はなく、代わりに小さな穴が地面に穿たれていた。
「やれ。店主様は相も変わらず手厳しい」
 小さな穴から後方、店先まで移動した緋鳥が、泉より小柄な身に似つかわしくない、飄々とした動作で肩を竦めた。
「少しばかり味見をしたまでというに。お心の狭さは天下一品でございますな、義父上様」
「は…………へっ!? ええっ! ち、ちち!?」
 自分へ掛かった勘違いよりも、とんでもない告白を受け、黒い背中を凝視する泉。
 呆気に取られるばかりの彼女へ訂正もなく、ワーズは忌々しいと息を吐き出した。
「お前に義父と呼ばれる筋合いはないぞ、緋鳥。……用がないなら、さっさと消えろ」
 上がる肩の先には銀の銃。
 座ったまま狙い定めた節に、弾道上の緋鳥は口元へ手を当てて笑う。
「これはこれは……ふむ、用なれば済みましたな。我が身の無事を店主様に披露致したく、参上仕った次第。なれば、手土産も頂戴しましたゆえ、本日はこれにて」
 優雅な一礼。
 くるりと向けた緋鳥の背より、展開される羽。
 追って響くは銃声。
 しかし、掠めた空、舞う羽根にすら弾は当たらず。
「……ええと、こういう場合、なんて言うんだったっけ?」
 義父発言の混乱から醒めぬ泉は、とうに飛び去った緋鳥にかける言葉を探し、意味なく手元の指を折々。
 と、その手首が引っ張られた。
「あ、わ、ワーズさん?」
「おいで、泉嬢。手、洗わなくちゃ」
 痛くはないが有無を言わさず引き摺る白い手をよろけつつも泉は追い。
 水道の下まで引っ張り出されたなら、腹に縁が埋まり軽く呻いた。
 反発で後ろに下がろうとする身体は、覆い被さる黒い腕に止められた。
「わ、ワーズ、さん?」
「ったく……どいつもこいつも」
 抱きすくめる格好に戸惑う泉が愚痴る声を仰ぐ。
 流れ始めた水、冷たさが泉の手を濡らし始めたなら、口をへの字に曲げた混沌の視線が、細く一点に注がれた。
 途端。
「ぃっ! いいいいいっ、痛い、いだだだだだだ! 痛いです、ワーズさん!?」
 格好やら何やらで赤らみかけた泉は、緋鳥が口付けた箇所を親指の腹で容赦なく擦られ、涙を浮かべる羽目となる。
 痛みにかまける頭から、程なく、義父の記憶はするりと抜け落ち――

 火傷をしたわけでもないのに、ふぅふぅ冷たく痺れる手へ息を吹きかける泉。
 涙目で離れた黒い背を睨みつけたなら、店側にしゃがんだワーズが、ソファに座る竹平を振り返った。
「そだ。シン殿も行くかい?」
「……いや、いい」
 泉が水責めを受けている間、ソファの陰から移動した彼は、手と共に頭を若干振った。
 どうやら泉の絶叫をまともに聞いたせいらしい。
 時折、小さく「み、耳が死ぬ」と呟いては、くらりと目を動かす竹平に、泉は何も言えず、そっと視線を逸らした。
「んじゃ、シン殿はお留守番で。あれ? 泉嬢、行かないのかい?」
「い、行きます! 言い出したのは私なんですから!」
 のんびりした声が届き、半ば喧嘩腰で応じる泉。
「準備はいいかい?」と今の今まで人を拘束していた事実を忘れ去った言に、寝不足の頭も相まって、苛立ちやすい気がささくれ立ち。
「……ええと、もしかして物置から?」
 立ち上がったワーズの腕に黒い靴と白い靴を見たなら、少しばかり顔が引き攣った。
 肯定を示すべく、へらり笑う血色の口。
 広大な奇人街を移動するための方法とはいえ、浮かんだのは、二階の泉の部屋の反対側にある、常では沈黙を保ったままの扉向こう。
 暗色ベースの気味の悪い空間は、同じ用途で使う“道”と同じ色彩ながらアレとは違い、透明な通路の枠がない。
 加え、多種多様な物を引き込む性質があるとやらで、重力を無視して点在する品々が浮かんでおり、不可解な光景は呼び起こした記憶だけでも、到底慣れそうになかった。
 しかし、時間やその他諸々、嫌がるワーズに無理に頼んだ引け目も手伝い、不平不満はぐっと呑み込み。
 食卓のクッキーを手提げ鞄に詰めた泉は、階段を登る背を慌てて追っていく。

*  *  *

 奇人街に一つしかないという海、凪海(なぎうみ)。
 前に利用した時は、そこを目指した物置の入り口。
 場所が違うならと期待した泉は、しかし、結局、白い靴を履いて落ちるしかない、扉を開けてすぐの空間に足を止めた。
 促すのは、あの時と同様、先に下へ降り立ったワーズ。
「下りておいで、泉嬢」
 ひらひら手と銃を振るへらりとした姿さえ、以前と同じく。
 唯一違う点があるとすれば。
「…………えいっ」
 泉が自分の意思で下に落ちたことだろうか。
 前は猫に突き落とされた混乱で一杯一杯だった耳に、小さく届く音。
 落ちながら興味を引かれて追うと、上方、泉が落ちてきたと思しき芥屋の扉が遠く、閉まる姿があった。
 自動……なのかしら?
 てっきり猫が閉めたとばかり思っていたため、予想だにしない扉の動きにそんな感想が起こった。
 ぱたん……と完全に閉じた軽い音まで届けば、泉はワーズの方へ顔を向け。
「ふわっ!!?」
 ワーズを見上げるいつもの高さまで来たのに、地に足が着かず、すっぽ抜けていく身体。
 思いも寄らぬ落下の続きに、青褪める暇さえなく。
「おっ」
 さして慌てた様子のない声が、自身の膝の位置で泉の両腕を捉えた。
 ずるり、勢いに滑った手は泉の手首で止まり。
「…………!!」
 遅れてやってきた、声にならない悲鳴が泉の喉を衝く。
 着地できなかった訳も分からず、涙目でワーズを見上げたなら、赤い口に咥えられた銃があった。
「ん」
 軽い掛け声で、泉の身体が引き上げられる。
 ついた弾みを戻すように、上げられた手が下がれば、透過したはずの空間に、足が地面の感触を見出した。
 これを知ってか、放された手首。
 だが。
「――ぃやっ!」
 思わぬ浮遊感から、すっかり怯えてしまった泉は、ワーズの胴にしがみついた。
 自身で体重を支え切れないままの勢いで。
 予測していなかった動きにより、黒い衣がバランスを崩し、後ろへ尻餅をつく。
「ぁだっ――――ととっ!!」
 反射で開いた赤い口。
 宙に舞う銃へ、ワーズは慌てた顔を見せた。
 押し倒す形よりも、そんな彼に驚いた泉は、丁度、自分の背後へ落ちようとする銃を知っては手を伸ばし。
「触らないでっ、泉嬢!」
「!」
 銀の重みが手の平に伝わった瞬間、思いっきりワーズの方へ、身体が引かれていった。
 と同時に、受け取った重みが掻っ攫われ、その銃口がワーズの頭に押し付けられる。
「……わ、ワーズさん?」
 抱きかかえられるようにして、黒い肩へ頬をつける泉。
 俯くワーズの顔はよく見えないが。
 常時、へらへら笑う口元はそのままに、荒い息が繰り返されるのを見たなら、泉の手が頼りなくワーズの白い頬へ寄せられた。
 ひんやりした肌に触れるなり、ワーズの身体が大きく震え。
「くっ…………ぅ……」
 吐き出される呼気。
 じとり、頬に押し当てた手に湿り気を感じれば、その手が泉の肩を抱く左手に取られた。
「ワーズさん……大丈夫、ですか?」
 滅多にない、具合の悪そうな様子を見て取り、自身の手を掴む彼の手を軽く握る。
 すると同じ強さで握り返され、泉の目が少しだけ見開かれた。
 縋りつくような、けれど、拒むような、相反する力加減。
「ワーズさんて……人に触れられるの、苦手だったんじゃ……」
 ぽつり、泉の口をついた言葉。
 それは、今までワーズと接してきた中で、ぼんやり思っていた事であった。
 人間好きを豪語し、構える事を楽しむ反面、こちらから行動を起せば必ず表れる拒絶。
 ワーズも泉の言いたい事を察した風体で、ちらりと混沌の瞳を彼女に向けて、ぎこちなく笑いかける。
「ん…………ああ、御免」
 思い出したとでもいうように、ワーズの手がゆっくりと泉の手を離した。
 しかし、泉の方はワーズの手を捉えたまま、それどころか逆に、先程より強く彼の手を握り締めた。
「……泉嬢?」
 まだ多少荒い息のワーズが、俯きかけた顔を惚けさせ、下から覗くように泉を見つめる。
 当の泉はワーズの手を握ったまま。
「どうして、謝るんですか?」
 顰めたくなる眉を抑え、平静を装って問うた。
 対し、ワーズは苦笑を浮べてのほほんと言う。
「そりゃそうでしょ、泉嬢。だって、嫌でしょう?」
「何が――」
「ボクが触れるの」
「…………へ?」
 思ってもみなかった言葉に泉の目が丸くなった。
 つられて握力が緩めば、するり、離れようとするワーズの手があり。
 逃すつもりのない泉は、手の感触で我を取り戻し、もっとしっかり彼の手を握っては、黒い肩へ頭を乗せた。
「すみませんけど……こういう格好、散々取ってきたくせに、今更そう言われる理由が」
「ああ。御免御免。今からちゃんと離れるね」
「じゃなくて!」
 よいしょ、と泉を跳ね除け、起き上がろうとする身を知り、ほとんど押し倒す要領で、足に力を入れてワーズの肩に体重を乗せた。
 そのせいで、バランスを崩したワーズの上に覆いかぶさっても構わず。
「なんで私が、ワーズさんに触れられたくらいで、嫌がらなきゃならないかって話です!」
「泉嬢……発言が大胆じゃない?」
「っ、茶々を入れないで下さい!」
 光源も分からぬ空間で、白い面に自分の影が掛かっているのを知った泉、ワーズの言と相まって、頬がかっと熱くなっていく。
 だからといって、もう良いと離れる気は更々なく、とっちめる思いでワーズを見つめた。
 しばし絡む、こげ茶と混沌の視線。
 へらり顔に溜息一つ、折れたのは下敷きになった男の方。
「なんでって言われても、ねぇ……強いて言うなら、経験? 何せボクは、幽鬼も避けて通るくらい、穢れた存在だからさ」
「穢れ……?」
 意味が分からないと泉の首が傾いだ。
 これを受けて、もう一度溜息をついたワーズは、泉を飛ばさぬよう上半身を起こし、頭に向け続けていた銃を離した。
 ワーズを押さえていた手を一拍後れで離したなら、黒い姿がやれやれと立ち上がる。
 埃を払う仕草の後、再度シルクハットの陰に銃口を押しつけ、傾いだ格好で笑った。
「そう。穢れ。んー……泉嬢ってさ、ボクのこと、どう思ってる?」
「へ……あぇっ!? ど、どうって!?」
 突然の質問に際し座ったままの泉は一瞬、間抜けにも大口を開け、意を呑み込んでは挙動不審に辺りを見渡した。
 何を言っているんだろう、この人は!――私は、何と答えるべきなんだろう?
 必要もないのに赤くなる頬で、動揺を隠さず真剣に悩む。
 と、困惑と呆れが入り混じった吐息が届いた。
 大袈裟にビクッと震え、ギクシャクした動きで顔を上げると、ワーズが吐息そのままの表情で泉を見ていた。
「……あのね、泉嬢? ボクの事…………どういう種に属している者だと思ってる?」
 あ……なんだ、そういう意味だったのね。
 妙な早とちりをした自分を、頬を掻き掻き誤魔化す泉。
 わざわざ言い直したワーズが、そんな己の心を察したことは綺麗さっぱり無視しつつ。
「ええと……え? に、人間じゃないんですか?」
 遅れて訪れる理解へ目を丸くすると、ワーズは笑みの中に込めた困惑を一層強めた。
「一応、って言ってたよね、ボク」
「え……と、じゃ、じゃあ、人間でも良いんですよね?」
「でも……て。構わないけど」
 ワーズの濁す言い方に、泉の眉が貧相なハの字を描いた。
「わ、私、何か間違っちゃいましたか? せ、正解は?」
「いやクイズを出した憶えはないんだが……ねぇ」
 どうしたもんかと迷う素振りを目にし、慌てて立ち上がった泉は、黒い右袖をぎゅっと握る。
 苦笑しつつワーズの首が傾げば、こつんと額に当てられる金属の感触。
 銃を携えた手で、軽く撫でられたことに泉はきょとんとする。
 大丈夫と宥めるような撫で方が伝わってきて。
 手が離れ、その箇所に触れたなら、握った袖の持ち主がふらふら動き出した。
 我に返った泉、置いていかれては堪らないと、袖を掴んだままワーズの後に続いた。
「ま、いいか。……苦手って訳じゃないと思うよ、たぶん」
「へ?」
 追いつき、袖どころか腕を取った耳に、のんびりした声が届く。
 何のことだろうと軽く眉を寄せたのも束の間。
「泉嬢は……人から触れられるの、好き?」
「え……ああ、あの話のこと…………ぇえっ、わ、私!? わ、私は――」
 ワーズの語りの意を解し、逆にされた質問へ、泉の視界が絡ませた腕へと落ちた。
 薄桃の衣を覆う黒衣。
 その視線を知ってか、するり、陰で伸ばされたひんやりとした大きな手。
 手の甲を包まれて軽く握られれば、拳を作る形となり、泉の目が戸惑いに揺れた。
 いつも通りの、突拍子のないワーズの行動だった――せいもあるけれど。
 戸惑いの大半を占める相手は、触れる手を拒もうとも思わない自分。
 それどころか、己から触れたいと思う、不埒な心。
 やましい想いはなくとも。
「私は……」
 心のままに頷きかけた泉は、ふと想像した。

 たとえばこれが、別の相手だったら。

 同性であっても、史歩やクァン、緋鳥であれば緊張を伴う行いだが、シイ相手なら微笑ましいと思うだろう。
 異性であるなら……とりあえず、芥屋の隣に住まう学者スエ・カンゲはない。
 ランだったら酔っ払ったのかと正気を疑うし、司楼ならば用件を問うだろう。
 相手が竹平なら――想像した途端浮かんだのは、泉が竹平の手を掴んで引張り回す場面。
 実際そんなことがあった憶えはないのだが、気弱な一面を知っているせいか、どうしても庇護対象として竹平を捉えてしまうようだ。
 本人には絶対言えない、言ってはいけない、察知されてもいけないことである。
 怒れる美人の顔ほど怖いものはないのだと思えば、もう一人、浮かんだ相手があった。
 総称・洞穴(ほらあな)と呼ばれる、奇人街の地下に幾つかあるという人狼の住処。
 その中でも一番大きい、虎狼公社(ころうこうしゃ)と名のついた洞穴を統べる頂点。
 シウォン・フーリ。
 ……ないから。それ以前の問題だから。
 帯締めの白い衣を纏う美丈夫が脳裏に過ぎった瞬間、泉は首と空いている手を軽く振った。
 今もって、泉の中でのシウォンは、猫目当てで自分を口説いてくる、本当は人間の小娘なんぞに構いたくない、プライドが物ぉ凄く高い人狼、だった。
 仮に触れられることがあっても、泉は自身の持ちうる限りの力を使って拒むだろう。
 何せ、彼の頂点は傲岸不遜な態度とは裏腹に、接し方が俗っぽくもとても優しいのだ。
 それが彼女限定と思ってもみない泉は、ほだされた挙句にシウォンの願い通り、猫へ頼む己を重々自覚していた。
 男女間のやり取りに関して、相手は百戦錬磨の猛者で、こちらは問われて詰まるような小娘。
 最初から相手にならない負け戦、先手を打たれる前に離れるのが吉――と、その百戦錬磨を連敗させている無自覚少女は、拳をきゅっと握り締めた。
 合わせ、思い出される包まれた手の存在。
 ワーズから為された質問を今一度、口の中で転がし。
「……私は、時と場合によります」
 卑怯っぽいと思いつつ、思ったままの答えを出せば、包まれた時と同じ仕草で離れていく手。
 触れた理由も離れていく理由も語らず、「そう」とだけ返されたワーズの声に、泉は酷く心が揺れるのを感じた。

 

 


UP 2009/4/20 かなぶん

修正 2012/8/10

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