妖精の章 十二

  

 そういえば、何故、着地できなかったのだろう?
 黙々と不気味な空間を歩くワーズに続けば、そんな疑問が泉の中に生じてきた。
 会話の糸口を探した結果ではあったが、考えるほどに不思議に思い。
「ワーズさん、あの、どうして着地出来なかったんでしょう?」
「? 何が?」
 思ったままを口にしては伝わらない事実に、問われて気づいた泉は、羞恥から微かに頬を染めた。
「えっと、あの、物置に来た時の。ワーズさん通り越して」
「ああ、あれ? あれは……泉嬢が足場を意識してなかったからだね」
「意識?」
「そう。ここは“外”(アウター)と奇人街を隔てる境だから、とても不安定なんだ。しっかり目標を決めておかなくちゃ、今だって、ほら」
 言って、踏み出したワーズの片足。
 同じ高さにつくと思いきや、まるで落とし穴か何かがあるように、ずぽりと沈んでいく。
「ひっ」
 通り抜けた感覚を思い出し、小さい悲鳴が泉の喉を通る。
 ワーズの腕を絡めた手で締め上げたなら、沈んだ黒い靴が持ち上がった。
 再度同じ場所に下ろされると、今度は泉の足と同じ高さに地を見つける靴。
「ね?」
 カツカツ、靴の踵を用いてワーズがへらりと笑う。
 安心させるような笑顔だが、反し、泉は青褪めた顔で更に強くしがみついた。
 可笑しな空間という認識は元々あったけれど、ここまで危なっかしい場所とは思わなかった。
 歩くことすら恐ろしく、ぎゅっと身を縮ませた。
 けれど、この空間で唯一、触れても恐ろしくない黒一色は、そんな泉に構わず歩みを進めてしまう。
「わ、ワーズさんっ」
 上半身だけ引き摺られていく不恰好に思わず呼べば、きょとんとした混沌の瞳に迎えられた。
「泉嬢? 何してんの?」
「な、何って」
「……もしかして、怖い?」
「あ、当たり前じゃないですか。落ちちゃうって聞かされて、安心できる人なんて」
「んー……じゃあ、はい」
 あくまでのほほんとしたワーズの声。
 だが、その行いは非情にも、しがみついていた泉の腕を振り払うもので。
「ひっ!?」
 バランスを崩した泉は、見返った先に広がる底抜けの空間に、足場を認められず。
 辺りには物が宙に散乱しているというのに、掛かる重力が、行き場を失った足ごと、泉の身体を下に引き摺り込む。
 落ちる!?
「ぃやあああああああっ!!?」
 ぞっと冷える心のまま、引き攣った叫びが喉を焼く。
 必死にワーズへ手を伸ばしても、笑う白い面は自身のこめかみに銃を突きつけるばかりで、支えようともしてくれない。
 見捨てられた……?
 愕然とした面持ちで見つめようが、眼前の男はこちらを向いたまま笑うだけ。
「っく!」
 その態度を認めた途端、泉の内に沸きあがったのは。
 絶望でもなんでもなく。
 ただ、知りたいという思いだけ。
 ワーズが、人間好きを豪語する彼が、泉を、人間を助けもせず見つめる理由を。
 ――知りたいと。
 だから、惰性に落ちてはいられない。
 ワーズに向けて伸ばした指を折り曲げる。
 まるでそこに、何か引っ掛けられるところがあるように。
 数度宙を掻けば、そんな泉の思いを汲んだかのように、何もない空間に指が掛かった。
「っ痛」
 落ちた分だけ、地を掴んだ指を負荷が引っ張る。
 脱臼しそうな痛みに、もう一方の手を指の先にある地へ叩きつける。
 びたんっと響く音と痺れを受け、ずり落ちかけた指が立ち、折れた肘が宙ぶらりんの身体を引き寄せた。
 もどかしい動きで足をばたつかせたなら、壁を蹴る感触。
 その壁を爪先で引っかくと、小さく足が掛かった。
 これを支点に、まずは腕を乗せ、蹴っては逆の膝を乗せ。
 半身を視覚では捕らえられない地に乗せたなら、億劫な動きで這いずり、残りを引き上げた。
「く……はぁ、はぁ、はぁ、はぁ…………」
 うつ伏せを仰向かせ、荒い息を整えて。
 ひょっこり高みの見物をしていた白い面が見えれば、浮かんだのは恨み言――ではなく。
「せ、生還しました……!」
「……泉嬢。怒る場面じゃないの、ここは?」
 心底呆れた苦笑に迎えられ、落ちた感覚から抜け切れない震えのまま、泉は泣き笑いのような顔をした。
 ゆっくり身を起こし、ふらつきながらも一人で立つ。
「だって……ワーズさん、ですから」
「怒らない理由になるの、ソレ?」
 困り果て寄せられた眉。
 まだ煩い心臓と呼吸を整えつつ、小さく頷く泉。
「たぶん、私の……人間のためになることだから」
 きゅっと唇を結び、震える吐息を小さく零しては、前を向いてワーズに苦笑を浮べた。
「すみません」
「…………そこで謝るんだ?」
「はい、謝ります」
 一見、無体な仕打ちのようだが、一番手っ取り早い方法だと、整える息の中で泉はワーズの行動の答えに至った。
 今、自身が向かおうとしている先には、奇人街。
 長らく芥屋に居て、ワーズに頼り過ぎていたから、漠然とした思いしか抱かなかったけれど。
 自身が注意を怠れば、何の庇護が近くにあろうとも、心身を害する場所なのだ。
 それなのに、泉はワーズに縋るばかりで、恐怖から動く足も忘れて。
 だから、ワーズは腕を払ったのだろう。
 落ちても、何もせず、手を伸ばしても、見つめるだけ。
 ……導き出したこの答えは、泉にとって都合の良い、一方的な思い込み。
 誰かにそう言われても構わない。
 ワーズ本人から違うと言われたとて。
 悪意の行動と取るのが打倒――だが、安易だろう。
 見捨てられたと、あっさり頷けるほど、罵れるほど、ワーズの傍にいても。
 見捨てられたと思えるだけ、ワーズの傍にいるのだから。
 見捨てられたと結論付けられる理由がないのだ。
 何より、本当に見捨てるつもりなら、泉が這い上がるのを待つ必要はない。
「…………」
 小さく、ワーズから零れる溜息。
 様々な感情が入り混じったそれは、泉の息が整えられたのを認めるなり、彼女へ背を向け横に流れていく。
 呆れるに似て、どこか安堵したような、ふらふらした背の動きへ、泉は再度苦笑を浮かべ。
「ぉわっ、ま、待ってください!」
 我に返り、つんのめるようにして横に並んでは、振り解かれた腕にもう一度しがみついた。
 ちらり、一瞥する柳眉が上がる。
「……泉嬢。しがみつくの、止めたんじゃないの?」
「それとこれとは話が別です。ちゃんと自分で立てるし、歩けるようになりましたけど……やっぱり、こっちの方が安心するんです」
「そ。……ああ、何かあったらボクを盾にするんだったっけ?」
 いつぞや、物置内で腕を絡めては泉が口にした言葉を、楽しそうになぞるワーズ。
 合点がいったと前を向き笑う顔へ、泉はしれっと同じ方向へ視線を移動させつつ。
「それは昔の話です。今だったら、ワーズさん引き摺ってでも、一緒に逃げますよ?」
「……ふーん?」
 シルクハットの下、闇色の髪の中で、混沌の視線を感じ、泉は向きもせず言葉を重ねてみせた。
「だって、こんなところに一人残されても困りますし。ここ、偏屈だからワーズさんしか使えないって聞きました。それなのに離れたら、迷子確実じゃないですか」
 表では憎まれ口をききながら、裏ではまるで別の事を思う。
 この空間に限らず、あなたを犠牲にして、私が得られるモノなんてないんです。
 失うモノの方が大き過ぎる――と。
 素直に言っても、どうせ捻くれた捉え方しかしてくれないだろうから。
 勿論、ストレートに言う恥ずかしさもあるけれど。
 なればこそ、仮初を口にしようとも、目線を合わせられず、捲くし立てるような語りしか出来ず――
「んー? 迷子どころか、死ぬのは確かだね」
「…………はい?」
 毎度の事ながら、突然吐かれた物騒に泉の目がワーズを見上げた。
 合わせ、今度はワーズの方が視線を前に投じてへらりと笑う。
「まあ、ここには色んなモノがあるから、精神崩壊しない限りは生きていけるかもしれないけど」
「……どんな前提ですか、それ」
「でも、あんまり歩き回ると“外”に入って、殺されちゃうだろうね」
「…………すみません、話が全く見えないんですけど?」
「そりゃあそうだろうねぇ。話ってのは聞くモノで見るモノじゃないし」
「ワーズさん……分かっててそういうこと言うの、止めて下さい」
 口を尖らせて抗議すると、クツクツ震える肩。
 半眼で睨みつけた泉は、ワーズが見定めたままの前方へと視線を移す。
 終わりの判別しない空間。
 見ている方向は同じでも、目的地が分かっているワーズとは別の場所を捉える視界。
 それでも同じ場所に行くのだと腕を掴めば、おどけた仕草で黒衣から息が吐かれた。
「シン殿の話を聞いてるから知ってると思うけど。奇人街から別の――たとえば泉嬢の元居た場所に行くことは、条件がなくても可能なんだよ」
「はい」
「で。話の流れから薄々勘付いているかもしれないけど、それが出来るのが“外”。通り抜ければ、存外、簡単に行ける……抜けられれば、ね」
「勿体ぶってないで、すぱっと言ってください。殺されるってどういう」
「幽鬼が出るんだよ。そりゃもう、うじゃうじゃと。しかも一寸先は闇で、警戒すら出来ない状態。自分の姿やある程度まで近づいた相手の姿は、光源がなくても分かるっていう」
 ぱっと想像した光景は、黒い霧の中から出てくる生白い姿。
 左寄りの黄色く濁った一つ目。
 華やぐ蜜が詰まった頭は丸く、鼻は削げ落とされたように見当たらず。
 白い四角い歯の列は、唇の肉が失せた状態。
 人に似た二足歩行の身体つきは男に近いが、血と花の煙る匂いを漂わせる裸体に、性差の有無はなく。
 伸びきった四肢の先で蠢く指は、触手を思わせる関節の多さ。
 奇人街の住人に恐れられながらも、ちゃっかり高級食材として扱われている存在。
 よりにもよって、人間が大好物だという幽鬼と、幾度かご対面の機会に恵まれてしまった泉は、無意識に右腕を擦る。
 以前、幽鬼の攻撃を受けて裂けたそこに傷痕はなくとも。
 なお鮮やかに甦るのは、死への戦慄。
 泉はごくりと喉を鳴らし、これを振り払うようにワーズへ問う。
「あの、それじゃあ私にしても、竹平さんにしても、元居た場所には絶対」
「ん? ああ、幽鬼対策取ったところで、たかが知れてるからねぇ。でも、“外”以外にも行く方法はあるから。“外”は手段の一つってだけ。それとね――」
 へらりと言われてほっとした泉、描いた竹平へ良かったですねと笑えば。
「シン殿は大丈夫だけど、泉嬢は“外”抜けても無理」
「え……?」
「あ、ついたよ泉嬢」
 驚きに被せられた指が、答えも為さずに空間へと埋められた。
 聞こえなかっただけと結論付けた泉は、再度、何故自分だけ無理なのか問おうとし。
 ガラス戸をスライドさせるのと同じ要領で、開けられた空間から届く、夜気混じりの声音に顔を引き攣らせた。

*  *  *

 事の起こりは昔々。

 飽食の主が末の君に弑奉られた。
 永き縛の解放は無数の屍を山と為し、無限の血潮を海と為す。
 父を、母を、一族郎党、己に纏わる全てを滅した末の君は、残された荒涼たる地を後に、放浪の旅へと向かわれた。

 何にも寄らず、ただ視つめ続けた末の君は、ある存在に心惹かれる。
 脆弱であるがゆえに、知と名付けし力を用い、滅びと再生を繰り返す種――人間。

 内の一匹を採取された末の君は、それまで忘れていた地にこれを放った。
 望みは人間が築きし、文明という遊び場。
 けれども、放り出した一匹は、程なくして地に住まう数匹に狩られてしまう。
 折角持ってきた一匹が残念な結果に終わり、末の君は落胆した。
 狩った数匹の血の連なりを塵芥と化した末の君は、群れるそれらを目の当たりにし、一匹だから無理だったのだと思い至られた。

 そうして今度は、気に入った箱の連なりごと、大地に移された。
 同じ失敗を繰り返さぬよう、家という名の箱へ近づくモノを弾きつつ。
 だが、これも末の君の尊顔を綻ばせることはなかった。

 原因が分からず、死骸の中へ降り立つ末の君に対し、恐れ多くも裾を引く一匹があった。
 汚らわしくも卑しい手を払われぬ、心寛大なる末の君は、この一匹に原因を問われた。
 しかしこの一匹、うわ言のように同じ音を発するだけで、末の君の玲瓏たる御声を知覚する術を持たない。
 それでも、聡明なる末の君は、一つ増えた死骸の意を御汲みになさり、人間には飲食が必要と解された。

 下賤なモノと比するは誠に罪深きことなれど、末の君は他を搾取なされずとも永を生く御方。
 一方、姿形は不可思議にも末の君とよく似た、所詮は愚にもつかぬ人間風情。
 末の君は雲泥の相違を憂われた挙句、世にもおぞましき案を描かれてしまった。


 人間を対等に扱う、という。


 そこから得た情報を元に、街を起されるべく。
 全ては末の君のささやかな戯れが為に。

 果たして、築かれた街の名は、蒙昧な人間が名付けたにしては上出来な――

 

 


UP 2009/4/27 かなぶん

修正 2012/8/10

目次 

Copyright(c) 2009-2019 kanabun All Rights Reserved.

inserted by FC2 system