妖精の章 十六

  

 泉の元いた場所では、首を縦に振った場合をいいえ、横に振った場合をはい、と捉える国があった。
 けれど、泉の生活していた国は縦に振ることをはい、横に振ることをいいえと捉え、奇人街もそちらで統一されている。
 そのため。
「あら、あんた……子どもが出来たら、すぐにお言いよ? でなけりゃ、あっという間に潰されちまうよ?」
 ランを先頭に進み、出くわした人狼の中年女・ニパから、開口一番、そう助言された泉。
 早々に、横に振っときゃ良かったと後悔した。

*  *  *

 倒れたまま手を振るキフに見送られ、ランを先導とし、“道”経由で地下の虎狼公社、幽玄楼の周りを囲う四つの楼の内、一の楼に訪れた泉たち。
 自身の記憶になければ繋がらないという“道”であるにも関わらず、ランが彼を宿敵とするシウォンの洞穴に来られたのは、偏に望まぬ女性遍歴の為せる業だという。
 情けないこの情報をラン自身が語るはずもなく、へらりと語った黒一色の店主は、ニパの言葉に肩を竦めた。
「だってさ。泉嬢、やっぱ帰っとく?」
「は……ちょ、ちょいとお待ちよ!」
 これに対し、過剰な反応を示したニパは、ワーズを通り越して泉の肩を掴んだ。
 朱を造りの基調とした一の楼は、ラン曰く、幽玄楼を除き、シウォンが頻繁に訪れる場所であると共に、それなりの実力者が揃う場所らしい。
 以前、シウォンに命じられて泉を攫ったニパが、屈強な人狼を顎で使っていた事を思い出せば、彼女の地位も推し量れるものである。
 が、現在はその権威も為りを顰め、逆に縋るような面が、茶色い毛皮と青い目を持つ彼女に宿っていた。
「勘弁しておくれ。あんたが来たってのに、フーリ様のトコまで連れて行かなかったら、あたしらが後で八つ裂きにされちまうんだ」
「はっ。いいじゃないか。人狼なんて掃いて捨てる程いるんだから。少しくらい減った方が世のため人のため」
 心底楽しそうに、悪辣なまでに笑うワーズは、謳う声音で高らかに皮肉った。
 対するニパはワーズの宣言を大きめの三角耳には入れず、泉へ必死に訴えかける。
「ねえ、お願いだよ。あたしらを助けると思ってさ」
「は、はあ……」
 ぐらぐら揺さ振られて、懇願され、無碍に出来ない泉は、首を縦に振らされた状態で曖昧な返事を発した。
 すると、ぱっと明るくなるニパの顔。
 来てしまった以上、帰ることは出来ないと思っていた泉、ありがとうと大袈裟に手を振られては、疲労感たっぷりに笑ってみせた。

 そうして彼女が案内してくれたのは、ここのところシウォンが過ごしているという、一の楼の奥の部屋へと続く扉前。
 ここに来るまでの間、通った廊下は、シウォンが頻繁に訪れる話を如実に示すが如く、造形のどれもが秀逸だった。
 凝った意匠は幽玄楼にも引けを取らず、普段であれば圧倒されるところだが、泉の気を引いたのは別の事柄。
 何やら、視線を感じるのである。
 最初は、前を行くランや後ろのワーズのとばっちりだと思っていた。
 しかし、次に泉の耳が捉えたのは、黄色い悲鳴でも厭う呻きでもなく、人魚という名。
 脳裏に浮かぶ、海辺では白い美貌、陸上では幽鬼に似た姿と為り果てる化け物・人魚。
 ――を、知らぬ事とはいえ、食べてしまった己。
 美味と引き換えの副作用的な日々を、半ば強制で送ってきた泉は、口々に囁かれる人魚が、どうやら自分を指している事に気づいた。
 ふと思い出す、元居た場所にあった、似たような存在を食した際の効用。
 不老不死だか長寿だか、兎に角、凡そ人とは呼べない身体になってしまう逸話に、泉の想像力は別方向へと飛躍する。
 人魚を食べた人間は人魚になる……
 竹平の恋人だった少女がいつの間にか、人間から人魚になっていた前例があるため、その詳細を知らない泉はこれを否定出来ず。
 案内はここまでだから、と告げたニパへ、泉は慌てて確認のような問いを投げかけた。
「あ、あの、ニパさん。さっきから、人魚って聞こえる気がするんですけど……どこかにいるんですか?」
 まさか自分を指して人魚と言われているのでは?
 いやそんなはずはないと否定する泉へ、ニパは呆れた様子で目をぱちくり。
「いるんですかって、あんた……そりゃ、あんたの事だろ?」
「!?」
 まさかが実現した泉は、あまりの驚きに声も上げられず、咄嗟にワーズを振り返った。
 予期していなかったのだろう、きょとんとした表情を浮かべたワーズは、数度、闇色の髪が掛かる目を瞬かせ、何かを思いついた節を見せては、片眉を上げて首肯した。
「ああ。そういえばそうかもね。泉嬢は人魚かもしれない」
「ええ!? め、人魚って……酷いじゃないですか、ワーズさん!」
「ん? 何でボク?」
 意味が分からないと首を傾げるワーズへ、泉は先程の考えを述べた。
「だって、人魚を食べさせたの、ワーズさんじゃないですか! それなのに、わ、私……人魚だなんて…………」
 思わず自分の両手を見る。
 何の変哲もない、見慣れた自分の手だが、この皮膚の下には、陸に上がった人魚と同じゼリー状の肉があり――
 茫然自失のていとなった泉に、ワーズののほほんとした声が掛かった。
「ん?……んー? 泉嬢、もしかして、すんごい勘違いしてないかい?」
「……へ? 勘違い?」
 掲げた手はそのままにワーズを見やれば、黒い肩が竦められた。
「話聞いてるとさ、まるで、人魚を食べたから人魚って呼ばれてる、と思っている風に聞こえるんだけど」
「え……ち、違うんですか?」
「っぷ」
 目を丸くして問うたなら、背後から噴出す音。
 訝しんで振り返ると、灰色の強面が嘲笑う金の眼で泉を見ていた。
 喉を衝く悲鳴をすんでのところで止めた。
 そんな泉をどう思ったのか、ランは肩を震わせたまま言う。
「い、泉さん……発想の飛躍が凄いですね。でも、違いますよ。人魚っていうのは、凪海に生息するヤツのことを指す以外に、もう一つ、意味があるんです。魔性の女の代名詞っていう」
「……魔性の女?」
 誰が?
 示された先に自分がいることを認めたくない泉が、ぐるり、周囲に視線を巡らせた。
 シウォンが居るという深紅の扉を背に、続く白の壁を左右に辿り、ワーズとニパ越しに来た廊下を眺める。
 途端、天井からぶら下がる等間隔に並んだ灯りの下、ささっと廊下の影に隠れる影をいくつも認めた。
 かと思えば、恐る恐るといった風に覗き見、泉と目を合わせたなら、また隠れるを繰り返す。
 毛並みの色こそ違えど、もぐら叩きの要領で現れたり隠れたりする相手が、全て人狼と知ったなら、泉の気が段々と滅入ってきた。
 奇人街で目覚めた時、最初に害をもたらした忌まわしき種。
 幾ら人狼に知り合いが増えたとはいえ、今もって、易く付き合いたい相手ではない。
 が、だからと怯えられて嬉しいものでもなく。
 目ぼしい“魔性の女”とやらを捜せなかった泉は、視線をランへと戻し、思いっきり眉根を寄せて問う。
 魔性の女、イコール、自分、という面白構図をないものとして。
「あの……どこに魔性の女がいるっていうんですか?」
「あー……まあ、そうですよね。普通、そういう反応しますよね。特に泉さんはシウォンについて、一般に流通している程度の認識しかありませんし」
「はあ!? 一般って、あれだけ気にかけて頂いているのにかい!?」
 鼻面を掻くランの言葉に、ニパが責めるような呆れを背後から投げつけてきた。
 驚いて振り返れば、かぱりと口を大きく開けた、ふくよかな人狼女の姿があり。
「そう言うなって。俺もついさっきまではそう思ってたけどさ。泉さんの話聞いてたら、仕方ない気もするんだ。ほら、彼女って芥屋の従業員だろ? 前例があるし、それでなくても他種。応えたら殺されるって思っちゃうよ。しかも、猫っていう熱烈な誘いの理由になりそうな要因があるし」
「猫、ねぇ……そりゃあ、確かに。あたしらも最初は、純粋にそっち狙いと思ってたからさ。だが、あの痛々しい荒れ様を目の当たりにしたら……フーリ様が不憫で不憫で」
 口調は哀愁を帯びたものだが、反し、ニパの表情は硬かった。
 一の楼という建物内に地上から直接来たため、洞穴の様子は分からないものの、ニパの言はここに来る前のランの忠告を事実と伝えてくる。
 魔性の女……そんな得体の知れない者に為った憶えはないけれど。
 人魚と呼ばれるだけの理由はあるようで、今一度、シウォンが控える扉に向き直った泉は、拳をぐっと握り締めた。
 この先に何が待ち受けていようとも。
 クッキー渡してさっさと帰れば問題ないはず。
 心意気は魔王の城に乗り込む勇者だが、実行しようとしている計画はあまりにも情けなかった。
 そこではたと気づいた泉。
 行く覚悟はどこへやら、話は終わったと去りかけるニパへ声をかけた。
 手提げ鞄をがさごそ漁りつつ。
「あ、ニパさん。クッキーいかがですか? 遅ればせながらのご挨拶なんですけど」
「あんた……あたしゃ、以前、あんたを攫ったっていうのに。相も変わらずお人好しだねぇ?」
 呆れながらも、貰う物だけはしっかり頂くニパに、泉は申し訳なさそうにもう一言。
「あと、クイさんとレンさんっていう、ええと、前に私を……こ、殺そうとしたっていう人たちにも、コレ、渡しておいてくれませんか」
「殺……て、毒でも入ってんのかい、このクッキー?」
 余分に渡した二袋どころか、自分の分まで訝しむニパに、泉は首を振って否定する。
「い、いえっ! そんな物騒な代物は入っていません! ただ、そう言った方が伝わるかなって。あの後で、助けて貰ったりもしたので」
「ふぅん? なるほどねぇ。だからあいつら、戻って来れたって訳かい」
「あいつら……って、クイさんとレンさん、シウォンさんのところに?」
 ちらりと見た、奥の扉。
 視線の意を知り、ニパは首を緩く振った。
「いんや。あっちにゃいない。てぇより、あいつら、戻ってから随分な厚遇受けてね。今は、なんつったか……ほら、あの包帯巻きの」
「エン先生がどうかしやしたか?」
「そうそう、そのエンのとこに――おや、司楼、今戻りかい?」
 会話に入った新たな声を受け、ニパが半身を逸らしたなら、ぴっちりスーツをもこもこさせた白い人狼が、ひょこひょこやって来た。
「へぇ。ただいまっす。綾音サンがいらしてるって聞いたモンですから」
「司楼さん……その足は?」
 最後に見た時、顔に貼り付けてあったガーゼは取れているものの、少しばかり引き摺られた右足が気になった。
 これへ、司楼は「今晩は」という挨拶を交えて答えた。
「不手際っす。ちぃと油断したばっかりに、逃げ遅れてこの様っすよ。全く、親分には困ったもんです。人狼の回復力任せだと、砕けた骨とかズタズタになった繊維とか、治るまでに時間掛かるんで、エン先生んトコに通院中の身の上です。あともうちっとで完治なんですがねぇ」
「……そ、そうなんですか」
 思ってもみなかった惨状を聞き、泉の視線が右足に集中する。
 人狼の回復力もさることながら、あのエンがそんな怪我の治療を出来る腕を持っていたとは。
 問診時の対応を思い出したところで、凄腕の片鱗も感じられないのに。
 などと、半ば失礼な感想を抱く泉を余所に、ワーズが首を傾げて呟いた。
「親分って事は、あの手紙が原因か」
「手紙……あ、あれの事ですか…………」
 あなたの願いを叶えるつもりはありません、とだけ認めて貰った手紙。
 泉の思いを伝える手段だっただけに、司楼はそのとばっちりを受けたという事になるだろう。
 申し訳ない気分に陥り、泉の頭が下げられる。
「すみません、司楼さん。私が手紙を渡したばっかりに」
「へ? いえ、全く。これもオレの仕事の内と思えば、苦になりませんから。幸いにも、今回は足一本で済みましたんで」
「……今回は?」
 不穏な響きに顔を上げる泉。
 失言だったと後悔する素振りの司楼は、慌てた調子で、努めて明るく問うた。
「で、そーいや、エン先生がどうとか。どーしたんすか?」
 黒いくりくりした目が愛想笑いに細められた。
 今回の意味を語る気のない様子に、泉は首を傾げながら、エン関連の話に応じた。
「あ、はい。そだ、司楼さんにもクッキーが……遅ればせながらのご挨拶で」
「お、こいつはどうも。有難く頂戴しときます」
 渡せばひょいと抓み上げ、さっさともこもこの懐にしまう司楼。
 手際の良さに呆気に取られた泉は、瞬いてから、注目する黒い目に笑いかける。
「ええとですね、クイさんとレンさんっていう人たちが、エン先生のところに――あれ? 厚遇だったって聞いたのに、どうしてエン先生のところに?」
 口にして可笑しな点に気づいた泉がニパを見やれば、肩を竦めて溜息混じりに彼女は言う。
「何事も過ぎるとねぇ。あんたと繋がりあるってだけで、あの二人――特にあんたと直に接触したって方は、未だかつて誰も体験した事のないような目に合ったらしい。なまじ同族だったのもいけなかったんだろうね。他種なら傷つけないように注意を払われて、そこまで到達しなかっただろうに。……ま、要するに、だ。重度の疲労持ちになっちまったんだよ。長期療養が必要なくらいの。あれからだいぶ経ったものの、未だ面会謝絶だから、行ったところであんたじゃ会えないし」
 だからこのクッキーはあたしが責任持って届けてやるさ、と手の中の袋を弾ませつつ、今度こそ去ってしまったニパ。
 見送るだけの泉は、残された彼女の言葉を噛み砕く傍らで、司楼、ラン、ワーズと順に巡り。
 一人だけ目を逸らさなかったワーズが、その肩をぽんっと抱いて、奥の扉に向き合わせた。
 その際、固まった手から手提げ鞄を外し、クッキー入りの袋を一つ泉に渡しては、残りを黒い懐にしまう。
 身軽になった分だけ、ずしりと重く圧し掛かる、手の内のクッキー。
 次いでランへ先頭を行くよう指示したワーズは、司楼に扉を開けるよう命令しながら、薄青の着物に泉の身体を押した。
「泉嬢。ここまで来て帰ろうとしたら、たぶん、シウォンの代わりに大勢の人狼と対峙する羽目になるよ。しかも奴らの狙いはボクらの命なんかじゃなく、君をシウォンのところに連れて行く事。幾らランが、最強だかなんだか持ち上げられていても、押し潰されちゃ身動き取れないし、知っての通り、ボクは身体が丈夫なだけで強くない」
 囁く小ささだが、硬直する泉の耳に浸透するワーズの声音。
 緊迫を秘めつつも、おどけた穏やかさを保つ言葉は続く。
「だから、シウォンに会おう。ボクらがいる内に。一人で会うよか、数段マシなはずでしょ? でね。ボクの予想通りだと、シウォンは絶対君に手を出す。間違いないから、クッキー渡したら、すぐ“道”を使って一人で地上に戻って? ボクらはそれまでアレを足止めしておくから。たぶん、他の人狼たちはシウォンに会った君を追いかけたりはしない。誰も好き好んで、二次災害蒙りに行く奴はいないだろうし」
 励ますようにぽんぽん、肩で弾む赤いマニキュアの白い手。
 肩から覗く微笑みは安堵を招くでもなく、ただその形を維持し続けるのみ。
 知らず知らず頷けば、ワーズの言う通りに動いた司楼が扉を開く。
 途端、鼻を衝く、煙と酒の匂い、むっとした熱気。
 咽ないよう細心の注意を払い、ランの広い背中に隠れて進む。
 司楼の横を過ぎる傍ら、交わした目に強い光を見た。
 幸運を、とでも言いそうな眼差しであった。
 これに緊張を高めたなら、耳元でワーズが告げる。
「大丈夫。地上にさえ着けば――」

「何の用だ、ラン?」

 ふいに被せられた、ねっとり絡みつく陰湿な低い声音。
 艶やかさは、泉の記憶にあるより一層濃いはずなのに、声だけで切り刻まれる迫力がある。
 密かにごくりと喉を鳴らせば、「んん?」と訝しむ気配。
「何だ、他に誰か連れて来たのか? まさか立会人とでも? ようやく、ケリをつける気になったってんなら、俺は大歓迎だぜ?……最強様と一戦交えられるなんざ、光栄過ぎて、暇つぶしにしちゃ上等よ」
 寝転がってでもいたのだろうか。
 起き上がるために弾みをつけた、声質の変化を会話の最中に聞き取れば、同じ方向から数名の「きゃっ」だの「やんっ」だの、甘ったるい声が重なる。
 瞬間的に察する熱気の正体に、泉の顔が真っ赤に染まった。
 ランという壁がなければ、入る事も躊躇われるシーンが、薄青の着物向こうにあると知り、足がじりっと音を立てて退いたなら、肩をランの方に押されてしまう。
 弾みでその背に手を付けば、泉の顔が勢い良く上がった。
 ランさん……震えてる?
 シウォンに対し、恐怖を感じている――そう理解したなら、恥ずかしがっている場合でも、引いている場合でも、怖がっている場合でもないと知った。
 どうせ、クッキーを渡して帰るだけなんだから。
 変に腹の決まった泉は、ランの背後から身を躍らせようとし。
「やあ、シウォン」
 その前に、ひょっこり顔を覗かせたワーズを見ては、意を削がれ。
「てめぇは――ワーズ!!」
 空気を震わせる怒声と共に、へらりとした白い面が何者かの手に攫われ、薄暗い部屋の中、床へ叩きつけられるのを目の当たりにしては。

 ……な、なんで?

 突拍子のないその行動に、泉は完全に出遅れてしまった。

 

 


UP 2009/5/25 かなぶん

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