妖精の章 十八
思わぬ味方を得、疲労困憊ではあっても、比較的難なく“道”まで辿り着いた泉。
廊下に点在する他の扉と、あまり変わらない造りの赤い扉を開け、意識せずとも足が付く点で芥屋の物置よりマシな、赤黒い空間に足を踏み入れた。
視覚では判然としない、しっかりとした地面を両足で確認。
遠巻きに見送る人狼へ小さく頭を下げつつ扉を閉じる。
直前、「泉!」という、断末魔の悲鳴染みたシウォンの声を聞いた気もしたが、再び開けて確かめる気力はなかった。
「っ……はぁ…………」
隙間なく閉じた扉を背もたれにして、ずるずるその場にしゃがみ込む。
とりあえず、息を整える事を優先しよう。
目を閉じて、眩む闇に鼓動の音を聞く。
頭まで心臓になった響きを受け、扉へその重みを預けようとし。
「いだっ!?」
ごちっと倒れた上半身。
痛みに伏し、億劫な手を扉へ向けるが、掻くのは宙ばかり。
そういえば、と泉が思い出すのは、繋がっていた扉を閉ざすと、しばらくして扉自体がなくなってしまうという話。
仕方なく、身体の横に手を向けたなら、今度は壁と思しき硬さが感触として返って来る。
荒い息、薄く開いた視界の下、透明な壁へと縋っては半身を起し、しばらくじっとする。
程なく、吸い込む空気の冷たさが体温に馴染めば、息苦しさも幾らか楽になり、泉は知らず閉じていた目を開けた。
「ふひぃ……りゃ、ランさん、大丈夫、かな?」
弾む吐息の内で口にしたのは、シウォンの声が近く聞こえたからこそ、安否の気になる相手。
店主は……どう足掻いてみても、ピンチっぽい場面が浮かばないので、大丈夫だと思っておこう。
壁に体重のほとんどを預けつつ立ち上がる。
まだ震える足を知り、それでも一歩踏み出しては前を行く。
ランの身を案じはしても、その身体は泉を逃がすために張られたのだ。
立ち止まってはいられない。
「ええと“道”の使い方って、確か目的地を頭に描くんだったよね」
一人ごち、泉の脳裏に浮かびかけたのは、前に向かった憶えのあるクァンの店内。
だが、あの時は昼で営業時間外。
とっぷり陽の暮れた今は、営業時間真っ只中であり、しかも泉は一人だけ。
奇人街の住人を相手取るパブなんぞに、単身で乗り込む勇気はなかった。
ついでに、見知らぬ住人よりよっぽど恐ろしい勧誘者を思い出す。
間に入ってくれる者がいなければ、長年の客商売で鍛え上げられた彼女に、勘定もままならない小娘が敵う筈もなし。
あれよあれよと言う間に、クァンの常日頃からの思い通り、煌びやかな舞台に上げられた挙句、何故か唄う事を強要される絵は、泉の頭に鮮明に描かれていった。
「っとと!? だ、駄目、描いちゃ! く、クァンさんの所はなし!」
虫を追い払う動作で手を払い、何者かを想定して誰もいない空間へ叫ぶ。
上手く払えたか分からない泉は、それより勝る目的地を描くべく、“道”に通ずる奇人街の街並みを想像。
しかし。
あ、あれ? どうしよう、奇人街ってどこも同じイメージしかないから、ちゃんと描けない。
今更ながら、“道”の扱い辛さにぶち当たってしまった。
行ったばかりのラオの周辺を浮べても、はっきりとした扉の位置が掴めず、ランを先頭にして歩いて来た為、一の楼へ付く際に入った扉もいまいち分からず。
「ええとぉ……ほ、他に何か、何かなかったかしら」
最悪、クァンの所へ行かなければならない事実に、手当たり次第に記憶が引っ張り出されていく。
その内に現れる、妻と望むシウォンの手紙に対し、ワーズが言った言葉。
――ね? 本気っぽいでしょ?
ずしっと重量を持つソレは、今現在、さほど重要ではないはずなのに、泉の足をぴたりと止めた。
思えば最初から、ワーズだけがシウォンの想いを本気と捉えていた。
付き合いが長いためか、それとも他に理由があるのか。
頭の半分で“道”の出口探しに記憶を漁りつつ、もう半分で泉は改めて、シウォンのこれまでの行動を辿っていく。
泉の知る限り、最初に出会ったのはランや緋鳥と初めて会った日。
次は、意識を失った竹平が芥屋に連れて行かれた後、クイとレンを引き連れて。
それから雨の日に泉を攫い、そこから逃げて散歩に出たなら、昼間は寝ているはずなのに現れて。
最終的にはニパへ攫うよう命じ、迫られたと思ったなら、諦めると告げられた。
諦め?……そういえば、どうして諦めるって話になったのかしら。しかも後になってそれも止めてしまったようだし。
意外と多かった接触回数にも関わらず、個人的な会話があまりなかったシウォンだが、泉は彼を有言実行するタイプだと感じていた。
何せ、諦めると言ってから、泉を芥屋へ送ると告げた彼は、別れてからも彼女の跡を追い、経過はどうあれ、ワーズの下へ送り届けてくれたのだ。
なればこそ、同じ内容へ二度も変更を加えたシウォンの行動は奇異に映る。
その前後に何があったのだろう?
もう少し、記憶を掘り下げようとした泉。
けれどその前に、はたと思い当たった光景が、“道”の目的地を探すもう一方の頭に合致した。
竹平と共に乗り込んだエレベーター、その先にあった殺風景な小部屋の扉。
あの時シウォンが出てきた扉は、白い衣に赤い斑模様を付けた青黒い人狼姿と合わさり、描こうとすればしっかりとした線を表していく。
「や、やった……ありがとう、シウォンさん。これでクァンさんの所に一人で行かなくて済むわ」
シウォンに追われているからこそ、“道”を一人で使う羽目になった事実を忘れ、ついでに彼が何故諦めたかについても考えるのを止めて、泉はいない相手へ礼を述べた。
そうして、描けた場所がぼやける前に、という意気込みの下、透明な壁から離れた泉、やや早足に近い状態で前に進んでいく。
途中、数回に渡って透明な壁に激突しながらも、泉は奇人街に通じる目的の扉へと辿り着いた。
感慨もひとしおに、しかしやはり痛い頭や鼻、手足を擦りさすり、室内だというのに剥き出しの地面を踏む。
音もなく閉まった扉とは違い、靴底と土との摩擦がざらざらと鳴った。
前方、外へ通ずる扉を挟む形で存在する、二つの窓から光が差し込めば、薄く舞う土埃にほっと息をつく。
どうにか抜け出たものの、“道”に広がる赤と黒の空間は居心地が悪いと改めて思った。
一定しない色合いは、不安や恐れを助長させる効果があるようだ。
実際、幽鬼が街を徘徊する際には、“道”を利用しているという話も聞いていたので、そう思えばより一層恐怖が圧し掛かり。
だけど……同じくらい一定していないのに、ワーズさんの眼は落ち着くのよね、私。
何ともなしに目を閉じて浮べたへらり顔。
常はシルクハットと長い闇色の前髪に遮られているため、白い面と赤い口だけが鮮明に思い起こされるが、垣間見える混沌の双眸はどこまでも柔らかい。
たぶん――誰に対しても。
「ああ、でも、一人だけ違う人がいるんだっけ」
目を開いて呟き、口にしたのは、ワーズが好きだと言っていた彼女の事。
本当に大切にしていると伝わる眼差しを描いた泉は、それに似た表情で吐息を一つ零した。
会って、みたかったな。
そんな表情で見つめられる相手を、泉は未だかつて、ワーズに限らず見たことがなかった。
だから、彼女がどういう人だったのか、知りたかった。
どうすれば、そんな風に他者の中に留まっていられるのか。
どうすれば、姿はなくとも、己を認めて貰えるのか。
どうすれば……
アノ人タチノ中ニ私ハ――
「っと、今は物思いに耽っている場合じゃないわ」
ぼんやりとした、焦点のおぼろげな目を正気に戻すよう、自身の両頬を張る。
一回、二回と連続で叩いては、威力のなくなったところで、額を一度、ノックの要領で叩いた。
合わせて目を閉じ、作為的な暗闇に己の存在をしっかりと確認する。
ココに自分は居るのだと自分に知らしめて。
「よしっ」
誰に向けるでもない声を掛け、瞳を前に向けて一歩踏み出した。
扉へ進む最中で考えるのは、これからの事。
逃げおおせたは良いが、扉の先に広がる光景は、一夜で犯罪の類が軒並み揃う奇人街。
落ち合う場所は決めていなかったが、ここでじっとしている訳にもいかない。
外は危険でも、内の方が安全とは限らないのだ。
背にした“道”の近くには、虎狼公社へ繋がるエレベーターがある。
わざわざここまで、シウォンが来るかどうかは分からないが、他の誰と鉢合わせしようとも、ワーズたちでないのは確か。
逃げ場もない密室にいるより、人混みに紛れて行く方が何倍もマシだろう。
外へ通ずる扉の前で足を止め、ドアノブより先に自身の服を握り締める。
ワーズ手製の薄桃の衣は、芥屋の従業員を示す役割を果たすという。
これで少しは危険から遠ざかる事が出来るはずだ。
絶対の確証はなくとも、一人で街を行くための勇気を貰い、泉はゆっくりとドアノブへ手を掛けた。
以前、同じ扉を開いた時、そこに在ったのは、生白い化け物と夜の静寂。
しかし今、泉の目の前に広がるのは、行き交う人々の群れと夜特有の活気。
ごくり、知らず喉を鳴らしては、そちらへと歩みを進める。
降り立つ地は、背後の小部屋と同等の感触を靴底にもたらした。
強張る頬を張りたい気分だが、そんなことをして注目を浴びてしまうのは御免である。
誰の眼にも付かぬよう、平然を装い、静かに奥歯だけを噛み締めた。
どちらに行くか迷う素振りは後にして、一先ず左へと折れた。
路地裏を左、露店を右に流し、前だけを見て進み。
有難い事に、泉へ視線を送る者は誰もいなかった。
街の出口を求めて彷徨った最初の日とは違い、泉の身は奇人街に上手く溶け込めているようだ。
と思えば、別の感傷で胃が痛くなる。
遠く近く、殴り合う怒声と野次る嗤いが聞こえる、そんな所に馴染んでしまうなんて。
泉はまだ、元居た場所に戻る選択肢を捨てた憶えはないのだ。
注目を集めれば危険を招くと知りつつも、溶け込めば溶け込んだ分だけ気が滅入る。
板ばさみの遣る瀬無さについつい、溜息が出るのは仕方なかろう。
だが、それが引き金になってしまったのか。
「っ!?」
丁度、路地裏の前を通り掛かった泉は、横合いから伸びてきた手に腕を掴まれ、声を挙げる暇なく、暗がりへと引き摺り込まれていく。
奇人街に溶け込んだ身の上の不幸なぞ、周囲の注目を集める訳もなく、彼女が消えた路では相変わらずの喧騒が行き交っていた。
唯一人を覗いては。
* * *
「な、なんだ、今の……」
白目を黒とした金の瞳の少年は、一瞬にして路地裏へ消え去った娘に瞠目した。
その前に、彼女の腕を何者かが掴んでいたようにも見える。
弱肉強食の奇人街において、笑ってしまう程弱い彼だが、視力は同族のソレより格段に良い。
見間違いでなければ、あの人間の娘を連れ去った腕は。
「……いやでも、奴らがこそこそ動く謂れなんか」
惚けた声を上げつつ、反対方向へ進んでいた足を路の端に寄せた。
そこで方向を転換し、娘が消えた路地裏を目指す。
別に物見遊山のために行くわけではない。
見ていなかったらこんな行動はしないだろうに、見てしまっては気になって仕様がないのだ。
これはもう、生まれ持った性質で、彼には今更、どうする事も出来ないと言えよう。
自分の力の程度はよく知っていても、何か彼女の助けにはならないかと考えてしまう。
たとえば相手が、粗野だけが取り得のような人物ではなく、もう少しマシな、少しくらい考える脳みそを持っているなら。
貧弱な彼でも、どうにか出来る。
あまり褒められた方法ではないし、情けない事この上ないけれど。
……アイツに知られたら、また馬鹿にされるんだろうな。
向かう途中で思い浮かべたのは、目深帽を被った同い年の少女。
うつけめ。
唾棄するような幻の声に、知らず口許が苦笑を象っていた。
ようはバレなければ良いだけのこと。
しかし、きっと彼女はどこからか聞きつけ、わざわざ彼の前に現れては御丁寧に詰っていくだろう。
弱いくせに、と。
否定はしない。
真実、彼は弱かったから。
身体も、心も。
弱くて、未熟。
けれど彼は、思い出した少女の言により、はたと足を止めた。
籠の鳥は大人しく籠の中におれば良い――
「……そうだ。すっかり忘れていたけれど」
言って通行の邪魔にならないよう、娘が引き摺り込まれたのとは違う、入ってすぐ行き止まりとなる路地裏に身を潜めた。
おもむろに空を見上げる。
人間の娘に気を取られてしまったが、彼は今、追われている身であった。
一応、言付けを部屋のテーブルには残してきたものの、あれで納得するとは到底思えない。
現に、街へ降りてからというもの、同族に会う度、指を差されては制止を叫ばれていた。
思った以上に知られている己の顔へ、少年は小さく歯噛みする。
娘が路地裏に連れ込まれてからの時間を考えると、正直、助けに入った所で彼女の心身が無事とは思えない。
その場でどうこう、という事になっていなければ、まだ無事と言えるかも知れないが、そうなると考えられる可能性は、どこかへ連れ去れた跡でしかなく。
無事、どころか、彼では助ける事すら出来ないだろう。
腕だけ視界を掠めた相手は、彼程度が追いつける、遅い足を持っていないのだから。
こうして考えている内に行けば良い、と誰かに言われそうな状況だが、少年は空を意識した途端、娘を助けるという考えを捨てていた。
どちらにせよ、彼には彼女を救う手立てはないと、検討がついてしまったがために。
なればこそ、少年が物陰で描く事は、娘の不運な最期。
追っ手がおらずとも、彼には娘を助けられなかった、という慰めが欲しかった。
卑屈なまでの――。
気付いてしまった後では、そうすることしか出来ない。
彼が娘を助けられる方法は、この状況下、確実に娘を亡き者としてしまうから。
少年を追う相手は彼を見つけたと同時に、周囲の関係のない者たちを殺す。
空がある限り。
少年は経験で知っていた。
過去に、置手紙の相手から自分本位に離れ、振り返って悪戯な笑いを投げかけた事がある。
その瞬間、周りは全て血の海と肉塊の山に成り果て、降り注いだ槍の中央で、彼は茫然と立ち尽くす事しか出来なかった。
優しく諭す腕に抱き締められても、案じる声が聞こえても、運ばれていく身を知っても、無力感だけが少年に押し寄せて。
お陰で、諦める術だけが身につけられてしまった。
動いたところで、お前に出来る事は何もないと、動いた分だけ他に迷惑が掛かるのだと。
実際、目にし。
お前は何もするなと、お前の手足となれる者は山ほどいるが、お前の代わりになれる者など誰もいないのだと。
聞かされ、続け。
以前に一人だけ、無力な自分でも救えたと思った子どもがいたけれど、それすら、その時以上の深い傷を負わせてしまっている。
今もあの子が抱える傷を知りながら、どうすれば癒せるのか、少年には分からないまま。
本当に無力だと、己を卑下する事しか出来ず。
「……御免」
空虚な謝罪を口にする。
一番低い可能性だが、娘を連れ去ったのが、彼女の知り合いなら良いとさえ思う。
この謝罪が本当に意味を為さなければ良いと。
少年の周囲の者がこれを聞けば、皆一様に奇異な視線を彼へ向けるだろう。
奇人街は弱肉強食が基本。何故、貴方が悔やまねばならぬのでしょうか?
心底、不思議だと言わんばかりに。
それでも彼は謝罪を口にし、切り替えて、元々向かう予定であった進行方向の人混みへ、小柄な身体を潜り込ませる。
何も知らぬ周囲に危険が及ぶと知りながら、彼が歩みを進める理由は。
「あの人の所に辿り着くまでは、絶対、捕まる訳にはいかないんだ」
呟けども未だ、彼しか知り得ず。
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