妖精の章 二

 

 権田原竹平(ごんだわらたけべえ)は、食材店・芥屋の従業員である。
 人間以外の化け物連中が闊歩する奇人街において、食材とは動植物に限らず、住まう者まで対象としていた。
 店主が無類の人間好きを豪語しているため、取り扱う食材の中に人間はないが、だからといってすんなり受け止められることではない。
 奇人街の住人と、ある程度顔見知りになったなら、尚の事。
 そんな不本意極まりない従業員は、別段、竹平がなりたくてなった職ではなかった。
 ただ、犯罪と認識されるべき事象が一夜にして揃うこの街では、芥屋の従業員の肩書きが身を守る上で必要だったのだ。
 ――たとえ、肩書きの防犯効果が微々たるものだったしても。
 元々は、別の場所から、偶然にもこの街に来てしまった身。
 帰れるものなら、さっさと帰りたかった。
 けれど、元の場所へ帰るためには、条件が必要だという。
 まず提示された条件は、共に来ていた恋人だった。
 なんでも、この街を出るに当たっては、訪れた時と同じ状態を作るのが望ましいそうで。
 目覚めた当初は近くにいなかった彼女だが、一騒動の末、ようやく再会を果たし。
 けれど彼女は人間ではなくなっていた。
 奇人街から出られるのは、人間だけという制限があるため、人魚(メイリゥニ)と呼ばれる存在になった恋人は連れていけず……

 それよりも、何よりも――――

 締め切った曇りガラスの戸を背に座り、足組み肘立て頬杖つく竹平は、仰々しい溜息を吐く。
 赤い髪に茶の瞳。
 服装いかんでは、凛々しい少年にも麗しい少女にも見えてしまう、整った顔立ちと体格。
 そんな彼が纏っているのは、店主手製のアオザイに似た、濃紺の上下。
 上半身の線がはっきり出るデザインのため、正真正銘、男にしか見えないが、物憂げに伏せられた長い睫毛は、女性的な色気を演出していた。
 もう一度、溜息が吐き出され、頬に飽いた手が滑らかな顎を支える。
「……居づれぇ」
 変声期を越えたにしては、少しばかり高い声で、ぼそり、呟く。
 そのまま、気を紛らわすように、竹平の眼が番をする店内を巡った。
 正面には鮮魚が入った箱と、柵のある路。
 右を向けば、ガラス戸近くに乾物があり、路側には青果棚が並ぶ。
 左を向けば、精肉の入った箱――店番をする竹平が一番開けたくない箱がある。
 これらを照らす灯は、天上から吊るされた青白い裸電球の数個。
 とてもではないが、奇人街でも一級品の食材を取り扱っている店には見えない、立派に寂れた内装である。
 しかもこの店、店主である男が人間以外を冷遇するので、内装どころか本当に寂れているのが難だった。
 まあ、鋼の心臓を持つわけでもない竹平としては、客足の遠さは有り難い限り。
 特に、昼間は人間、夜は二足歩行の狼となる種族、人狼の客は遠慮したい。
 命の危険もさることながら、別の部分にも危険を感じてしまう、そんな目に合ったので。
 今でも二割の確立で、夢に見る光景は全て未遂だが、楽観できる優しさは全くない。
 リアルな焦らしは総毛立つ気分の悪さがあった。
 かといって、残りの八割を思えば、まだそちらの方がマシかもしれない。
 何せ――

「よっ! 元気か、竹平!」

 元気一杯声を掛けられ、竹平の身体がビビクンッと大袈裟に跳ねた。
 だらけた姿勢を正し、親しげに手を上げる姿を認め。
「……な、なんだ、クァンか」
 一時、恋人の面倒を見ていた、芥屋の斜め下に位置するパブの経営者に、ほっと息をついた。
 鬼火という種特有の額に生えた角や、時折、からかう店主へ向けられる業火は慣れないが、クァン自体は気安く接せられる竹平。
 立ち上がり、接客しようとして。
「こんばんは」
「ひぅっ!?……な、なんだ、あんたか…………にしても、その姿、どうにかなんねぇのか?」
 新たに現れた姿へは、ビクビクしたまま文句を言う。
 挨拶したっきり沈黙したのは、同僚である古参の少女の傷を診ている、医者のエン。
 自分こそ医者に掛かれと言いたくなる包帯姿は、幾ら回を重ねても慣れるモノではない。
 彼の意識は常に患者へ向けられるため、怪我も病気もしていない竹平は、最初から眼中にないと知っていても、怖いモノは怖いのである。
 とはいえ、これはどういう組み合わせなのだろうか、竹平は眉を寄せた。
 片や薄手のジャケットにドレス姿の長い白髪、空色の眼の妙齢女。
 片や全身真っ白の、年齢・種族共に不明の包帯男。
 非常に珍妙な組み合わせだ。
 しかも職種はそれぞれ、水商売の経営者と医者。
 出された結論は、
「……同伴ってヤツか?」
 店の中だけではなく、外でも接客するという話を聞いたことがある。
 その内容の程度はピンからキリまで。
 けれど、浮かんだ結論へ、同時に竹平は思った。
 ……趣味悪ぃ。
 どちらが、とは断言できない。
 包帯男・エンは言わずもがな、クァンという選択肢も竹平的にはナシだった。
 何せ、竹平の知る彼女には、話で聞く限りの面倒見の良さと、実際目にした暴力的な印象しかない。
 幾ら制御出来ると聞いても、店主を包んだ彼女の操る炎の熱さは記憶に新しかった。
 ぶるりと一度震えたなら、きゃらきゃら笑う声が当のクァンからやってきた。
「いんや。違うよ。んなわけないって。なんせ、泣く子も逃げ出すエンセンセーだよ? ウチの上位ランクの娘にのし付けたって、怪我か病気ない限り、お持ち帰りしない変態だよ?」
 本人のいる前でズケズケ物を言うクァン。
 親指で差されたエンは気にせず、頭を少し傾げた。
「泉・綾音を診に来たんだけど」
「ああ……いるよ、いつも通り、居間に」
「そう」
 煙管の刺さった、否、咥えた頭が元の位置に納まるなり、いそいそこちらへ向かってくる。
 慌てて退いた竹平は、ガラリと開けられた向こう側を見ないようにして、クァンを見。
「で、あんたは?」
「ん? ああ、アタシも泉の様子見……けど、辛いわね、竹平」
「……何がだよ」
 続く言葉は分かっていても、聞き返すのは何故だろう。
 にやり、笑ったクァンが、それでも若干の悲哀を織り交ぜて言った。
「失恋したばっかなのに、熱々状態が近場にあるなんてさ」
「っ」
 分かっていても、言葉に出されると、ぐさり突き刺さる事実。
 恋人と帰れなくなった一番の理由。
 失恋。
 そして、今なお、八割方夢に出てくる、その場面。

“竹平君、好きだって……私、勘違いしてたんだ”

 こだました幻聴に、竹平は心底恨めしいと、今まで目を逸らしていた、ガラス戸の向こう、ソファに座る二人の姿を睨む。

*  *  *

 赤く煤けたソファに深く腰掛けるのは、生地の多い黒い帯締めの服を来た男。
 病的とは違う白い面に血色の口。
 黒いシルクハットから覗く髪は闇の深さを保ち、奥に控える混沌の瞳は不安定な色を示す。
 右手には銃を持ち、爪には黒いマニキュアが塗られている。
 それと気づけば、やや男性寄りの中性的な美貌の持ち主だと分かる彼の名はワーズ・メイク・ワーズ。
 人間外が多い街で人間好きを豪語する、食材店・芥屋の店主である。
 この店主、通常は人間外を無下に扱うのだが、
「で、どう? 泉嬢の具合」
 今回ばかりは、へらりとした笑みに珍しく縋る色を含め、人間ではないエンを頼っていた。
 ワーズ言うところの泉嬢とは、彼の膝の上に座り、胸へ頬を預ける少女・綾音泉のことである。
 案じるワーズの問いにはすぐさま応えず、ソファの前にある食卓の、四つある椅子の一つへ腰掛けたエンは泉の右手を取った。
 抵抗なく、だらりと垂れた藍染めの浴衣の袖が捲られると、包帯の巻かれた腕が現れた。
 エンはこれを解き、傷の具合を確認。
 後、新しい包帯を巻きつけ。
「……右腕はもう少し」
「じゃなくてさ。この子、まだ?」
 ワーズの指摘を受け、ソファから伸びる腕の袖を治しつつ、エンは煙管の先の泉へと向けた。
 ぷかりと浮かぶ煙は、人間に対して喫煙者の意思を反映させる効果があるのだが、エンには望むことがないらしく、ぼんやりとした泉の眼差しに変化は見られない。
「んー……泉、私の患者…………店主の奥さん」
「おい」
 エンの呼びかけに対し、過剰に反応したのはワーズ。
 口元は笑みを浮かべた状態で、不愉快そうに眉を顰め。
「ちょっと待った。泉嬢はボクの伴侶でもなんでもないよ。そういう風に彼女の意思を捻じ曲げる理解は――」
「わぁずさん……わたし、要りませんか? いない方が、イイですか?」
 抗議するワーズへ、今までピクリとも動かなかった泉が、潤んだ瞳を上げて訴えかける。
「わたし……わたし…………わぁずさんにいらないって言われたら…………………………死のう」
「い、泉嬢っ!」
 ぽつり、不吉を語っては、離れようとする肩をワーズは慌てて留めた。
「待って、待った、待つんだ。い、要るよ。君は要るから」
「…………本当?」
 恨むような上目遣いが、引き攣る店主の混沌を射た。
 これを見たのが竹平だったら、白目の多さと垂れる長い褐色のクセ毛に恐れ慄きそうだが、相手はそうそう物事に動じないワーズ。
 それでも恐々した動きで、抱く手を動かし、泉の頬をぎくしゃくと撫でた。
「うん、本当。だから、じっとしててね?」
「……はい」
 するとふんわり笑んだ泉、再びワーズの胸へ頬を寄せては、彼の言葉通り、じっと動かず。
「ふぅん? 随分と重症みたいだねぇ?」
「……なんだ、クァン・シウ。いたのか?」
 店先からの声を見もせず、店主は面倒臭そうに言う。
「こっちは今、立て込んでるんだ。お前なんかに構ってる暇はないんだから、さっさと去ね」
「うっさいねぇ。アタシャ、アンタじゃなくて、泉に用があってきたんだよ」
「……くぁんさん?」
 泉の顔が自分の名を呼ぶ相手に反応し、くてんとワーズへ頭を寄せて、後ろを振り向いた。
「はぁい、泉」
 クァンがそう、手を振れば。
「まだいたんですか? わぁずさんが帰れって言ってくれたのに」
「ぐ……本当に、重症だよ」
 心底不思議だという顔つきの泉に対し、クァンは苦い表情を浮かべた。
「泉・綾音、こっち向いて」
 そんなやり取りを全く視野に入れぬエンは、クァンを怪訝に見つめる泉の頬に触れた。
 これへ、泉は困惑を浮かべ、伺うようにワーズを見つめる。
 白い面がへらりと頷けば、にっこり笑ってエンの言う通り彼の方を向く泉。
 包帯の指の腹で頬を撫でられても、ぼんやり、エンではない遠くを見るこげ茶の瞳。
「……頬の傷も治ってるね」
「じゃないだろ」
 ぽつりと囁く言葉に、ワーズが呆れた声を上げても、エンは気にせず、するりと包帯の手を泉の首へ持っていった。
 片手で顎を上に向け、もう一方で首元の着物をずらす。
 露わになる白い頸。
 そこへ埋めるようにエンの顔が寄せられ。
「……なんか、ヤバい図じゃねぇか、コレ」
「そうかい? まあ、見ようによっちゃ、男二人に弄られる直前の少女って感じだけど」
「……ストレートに表現すんなよ」
 竹平とクァン、二人の外野による茶々も取り合わず、エンは煙を口の端らしき辺りから吐き出した。
「うん。赤い痣も無くなったね」
「……この藪。そうじゃないって言ってるだろ?」
 マイペースを貫き通すエンの姿勢に、さしものワーズも苛立ちを声に含める。
 ――顔全体は変わらぬ笑みを貼り付けているため、感情を正しく伝えるのは難しいが。
 けれど、エンはやはり気にする素振りを見せず、再び泉の頬を捉えては、口付けするように顔を近づけた。
 吐息が掛かる距離でぴたりと止まり。
「恋腐魚(リゥフゥニ)……摂取の仕方によって効果を変える、奇人街の三大珍味の一つ。柚姻(ユイン)と同じ、媚薬の位置に列せられるが、的確な表現は惚れ薬。恋する相手を見つけた人魚の肉を、海中にいる内に採取。保存する際に必要なのは、その人魚が在った辺りの海の水。保存期限は採取からニ、三日。摂取には三パターンあり、一つは誰の手も介さず自力で食す方、もう一つは誰かから与えられて食す方、最後の一つは口移しで食す方。正式な食べ方は口移しとされている。効果も口移しが一番強く、これは、人魚が視線を交わすことにより、相手の心を掌握する術を持つ点が関与していると考えられる。昔は体液が関連していると思われたが、過去の実験結果から、皆無との判断が下された」
「……実験って、何の実験だよ」
 淡々とした説明を泉の眼前で披露するエンへ、竹平が呆れた声を上げた。
 構わず、説明は続けられる。
「具体的な効果は、与えた相手への恋慕に似た身体機能の変化と、食物摂取の際に感じられる味覚の変化。精神面で表すならば、絶対的支配者への隷属、もしくは洗脳。効果が切れても、その間の記憶は鮮明に残っており、場合によっては、恋腐魚不使用でも同じ症状が継続される。効果の持続期間は、その人魚がどれほど相手に恋焦がれ、放置されたかに左右される。しかし、これは正式によるモノであり、自力で効果は皆無、与えられた場合であっても、その効果は長くて十日程度――のはずだけど、私が君を診てから十日以上は経過してるし」
 ここでエンは首を大きく傾げてワーズへ問う。
「正式な食べ方はさせてないんだよね?」
「させてない。させるわけないだろ? 大体ボクは、少しの間だけ泉嬢に芥屋でじっとして貰おうと思ったんだ。なのに、ずーっとこのまんま」
「んー……じゃあ、問題があるのは泉・綾音の方かな?」
「……どういう意味だ?」
 ワーズの眉間に皺が寄った。
 迷惑顔のワーズから目を逸らしたエンは、包帯越しに顎を撫で、衣擦れの音をさせながら泉を見やる。
「たぶん、相性が良かったんだ。食した恋腐魚と泉・綾音の。誰に向けられた想いかは知らないけど、泉・綾音にも焦がれる想いとやらがあるんだと思う。……ねえ、泉・綾音?」
 名に疑問符が付いても泉の瞳は何も映さず。
「店主のこと、好き?」
「はいっ、勿論ですっ!」
「…………」
 尋ねられた途端、焦点の合っていなかったこげ茶の眼が、力強く輝いて微笑んだ。
 当のワーズは常時携えた笑みを消し去り、口をへの字にひん曲げ。
「何のつもりで、そんな質問を」
「じゃあ、私のことは?」
「……あいじん?」
 ワーズを綺麗さっぱり無視したエンが、どさくさに紛れて尋ねれば、泉の指がエンを差した。
 その指へ、同じ形を取った指が当てられた。
「うん。そう。店主が君に聞けって言って、君は好きにして良いって言ったから、私は君の愛人。だから私は愛しの君に告げておく」
「?」
「君のためにも思いっきり、店主を愛して?」
「! ちょ、ちょっと待て、この藪――」
 エンの言葉に珍しく慌てたていのワーズ。
 身を乗り出し――掛け。
「思いっきり……えいっ」
「どぁ!? 泉じょっぃだ!!?」
 泉を抱えたまま重心をずらしたところを狙われ、押し倒されたワーズは肘掛へ思いっきり頭をぶつけた。
 いつぞやはここで意識を失ったワーズだが、今回は眠気も何もないため、起き上がろうと身体を動かす。
 ――が。
「あのね、店主。早くその状態から脱けさせて上げたいなら、泉・綾音の気が済むまで、その想いを汲んでやるのが一番なんだよ。幸い、君は人間相手に、私の患者、シウォン・フーリみたいな無体を働かないでしょ? だから」
 ソファで自分より上背も体重もない少女に組み敷かれた男を余所とし、帰り支度をする医者。
「い、泉嬢! 早まったら駄目だよ!? くっ、藪医者! なんてことを!」
 ワーズが殊更珍しい悲鳴にも似た抗議を上げても、医者に関心は在らず。
「……忘れて貰っちゃ困るけど」
 展開される痴態を隠すように、竹平とクァンの前を行くエンは、咥えていた煙管を放すと、煙と共に言葉を吐き出した。
「君が人間を贔屓するように、私も私の患者を贔屓するんだよ。それがどんな状態の望みであろうとも、ね。優先されるべきは患者の身体、そして意思」
「ま、待――――」
 追いかける声をガラス戸でぴしゃりと遮るエン。
 不満そうなクァンや気まずそうな竹平が、何やら文句を言おうとするのを感じ、煙管を咥え直しつつ言った。
「現在、居間で治療中。ゴタゴタが終わるまで面会謝絶。覗きは厳禁。やったら――強制的に私の患者になって貰うから」

 その日、芥屋へ訪れた客は、居座るエンと彼に怯えてクァンを引き止める竹平、店との板ばさみに喘ぐクァンという、珍妙な三人組を目撃することとなる。

 

 


UP 2009/2/16 かなぶん

修正 2017/10/2

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