妖精の章 二十一

 

 へらへらしたワーズの、訪問を告げる半ば偉そうな言に対し、扉越しで応対したのは齢若い女であった。
 神経質なその声の主は、嫌みったらしいワーズの言葉から用件だけを上手く読み取り、すぐ入ることを条件に扉を開けた。
 お陰で、片足しか入らなかったランが、置いてけぼりをくらうところだったが、泉が頼むと意外にもあっさり入れてくれた。
 何でも、院長のイイ人の頼みは断れないらしい。
 院長……?
 ワーズが泉の愛人と評したことから、白い建物はエンが勤めるところと察せたが、包帯巻きの医者にしては、似つかわしくない肩書きに、自然と眉は寄るばかり。

 三人掛けのモスグリーンのベンチが左右に三脚ずつ、同じ方を向いて並ぶ、病院の待合室然のフロア。
 隅まで照らしきれていない白色灯に反し、カーテンの引かれたガラス張りのカウンターから、ひっそり佇む観葉植物の鉢植えまで、全てにおいて清潔感がある。
 否、潔癖と評すべきであろうか。
 神経質に磨かれた白い床の上で、呆気にとられること数秒。
「どうぞ、お掛けになってお待ち下さい」
「あ、はい。どうも」
 ここまで案内してくれた女に手で示され、我を取り戻した泉は近くのベンチに座った。
 ワーズがその隣、ランが後方、やや離れた別のベンチに腰掛けたのを確認後、女は静かに会釈し、入って来た通路とは別の、カウンター隣にある薄暗い廊下へと消えていった。
 ぺたぺた遠ざかる白いサンダルの音を聞きつつ、溜息をついた泉は、知らず寄っていた眉間の皺を伸ばす。
 白いナースキャップやナース服姿から、女が看護師だとは、結論づけられるが。
 タイトな衣装に押し込められた、豊満なバストに艶かしいウエスト、張りのあるヒップといった身体つきは、アウト寄りのギリギリセーフだったとしても。
 見えそうで見えない危ういスカート線の下、淡いピンクのガーターベルトと内側に花のあしらわれたストッキングという出で立ちは、非常に心臓に悪い。
 ……奇人街の病院って初めて入るけど、全部あんな?
 しかも院長はエン。
 彼の趣味もやっぱりああなんだろうかと、愛人宣言された泉が真剣に悩めば、何やら妙な呻き声が近くから聞こえて来た。
 顰めた眉のまま、声の主を探す泉。
 と、辿り着いた相手は、ベンチの背に縋りつつ、その上で正座する珍妙な人狼。
 背中を丸めて、何かに耐えているかのように、目をぎゅっと瞑っては鼻息も荒く、世にも恐ろしい顔に苦悶の表情を浮かべていた。
 小首を傾げた泉は、どうしたのだろうと心配し、声を掛けかけ。
「泉嬢……止めた方が良いよ。今のランは手負いの獣みたいなモンだから」
 隣から珍しく神妙な店主の声が届いた。
 答えを求める泉は、今度はそちらへ困惑を向けた。
「何が」
「さっきのアレ、人狼じゃなかったでしょ?」
「ええと、看護師さんのことですか?」
 言われて思い出す看護師の容姿。
 人狼の獣面より人間に近い顔立ちであったが、両耳上の緑掛かった黒髪が羽のような形をしており、目にしても白目部分のない、石を髣髴とさせる斑模様。
 初めて見る種族だと小首を傾げたなら、答えはすぐさまもたらされた。
「そ。アレは羽渡って奴」
「え……と。それって、前にランさんが言っていた……再生能力が高いっていう?」
 ついでに浮べてしまった、首から下をすぱっとちょん切っては、食材店に売るという話に少しだけ眉根が寄った。
 想像だけで気分の悪さを憶える泉に対し、ワーズは満足げな顔で頷く。
「そうそう。まあ、種族自体はどうでも良いんだけど。肝心なのは、アレが人狼じゃないってことでさ」
 言って、白い面の細い顎が、くいっと投げやりにランを示した。
 つられてワーズからそちらへ視線を逸らせば、黒い肩がクツクツ揺れる。
「ランは同族の女に免疫在りすぎて、逆にアレルギー気味なんだけど、異種族の女に関しては、その反動でちょっとの刺激でも過敏に反応しちゃう性質なんだよ」
「…………はあ」
 ワーズの言葉の意味を正しく解し、応じに困った泉は気の抜けた返事を発した。
 これへ付け足すべく、ワーズがもう一言続ける。
「だもんだから、アレの格好見て衝動を抑えるので精一杯。そんなとこに、人狼でもない泉嬢が声を掛けちゃったら…………最後まで言う?」
 突然問われ、ぶるぶる首を振る泉。
 へらりと笑ったワーズは、賢明な判断だと頷いた。
 ランを死角に納め、姿勢を正して座る。
 耳に届く荒い息はないものとして扱いつつ。
 夜の喧騒をほとんど遮断する、ひっそりとした空気。
 必要もないのに妙に緊張してしまうのは、ここが診療所であるという意識の為せる業か。
 ふるり、心音の震えを感じ、知らず知らず、縫い目の感触が残る胸を押さえた。
 と、脈絡もなく肩を叩かれる。
「うぉひゃあっ!!?」
 併せて過剰な反応が口をついて出たなら、がったんっ! と大きな音を立て、ランの座るベンチが跳ねた。
 声には出さなかったものの、ランもつられて驚いてしまった様子。
 思わず合った金の眼の、よろしくない光に愛想笑った泉は、店主を壁に身を隠す。
 そうしてから、肩を叩いた元凶の白い面へ、怪訝な顔で問うた。
「な、何ですか、ワーズさん」
「んー……ボクとしては、肩を叩いたくらいで、どうしてそこまで驚くのかを聞きたいんだけど」
 眉をハの字に顰めて笑うワーズ。
 ある意味尤もな話だが、掛けるなら声を先にして欲しかった。
 仮に声だったとしても、特殊な緊張感の中、驚かない保障はないが。
 ともあれ、沈黙でもって先を促す泉の様子に、ワーズは銃で己を小突く。
「ま、いいや。それより……どうだった?」
「へ?」
「ほら、シウォンだよ。聞いたんでしょ、自分が食べ物かどうかって」
「……あー」
 不明瞭な問いが明らかになるにつれ、泉の視線が自身の膝へと落ちていった。
 食べ物扱いの勘違いに乗っかった風体のシウォンは、あれをからかいと称していた。
 元より、泉をそんな風に思っていないとも。
 だが困った事に、シウォンの言葉は泉にとって、素直に受け入れられるものではなかった。
 何せ、今まで彼が泉に告げた言葉は、土壇場になってコロコロ様相を変化させるのだ。
 利用すると嗤っては、好意を述べ、かと思えば人を貶し、意思を無視した矢先、身を助けようとする。
 今回とて、食べ物と肯定した舌の根も乾かぬ内に、違うと否定して。
「一応、否定はされましたけど……」
「信用出来ない、か」
 引き継がれた言葉に頷く事も出来ず、俯くばかりの泉。
 シウォンの想いが本当に自分に向いているというなら、酷な話かもしれないが、信用に足るモノがないのは、変えようのない事実であり。
「……シウォンさん、大丈夫ですかね? 猫、あの人の事、苛めたりしてないと良いのだけれど」
「んー。殺す、じゃなくて?」
 告げられた物騒に思わず顔を上げ、へらりとした赤い笑みを見た泉は緩く苦笑した。
「それは、なんとなく……ない、と思うんです。最初にシウォンさんを威圧する猫を見た時は、確かにそう思いましたけど。人魚の一件で教えられて、繋がりを意識するようになってからは、変な直感めいたものが過ぎるんです。だから」
「でも、苛める事はあるって?」
「……はい。いえ、猫にはたぶん、そのつもりはないような気がするんですけど……力加減が」
「あー、なるほどねぇ」
 やけに実感の籠もった声でしみじみ頷くワーズに対し、同調された泉はばつが悪そうな顔を浮かべた。
 食べるという発想はどうあれ、長年、猫と暮らしてきたワーズに、ぽっと出の自分が語りを入れるのは野暮のような気がして。
 けれどワーズは欠片も構わず続ける。
「うん。ほぼ正解だと思うよ」
「え……?」
「猫とシウォンの関係。付け加えるなら、猫はシウォンを自分の子どもとして扱ってるから」
「は?」
「しかも過干渉でねぇ。シウォンもイイ齢だし、そんな構い方されたくないし、まして他には知られたくもない。だから猫、最近じゃ避けられててね。その分、会ったら必ず弄り倒すんだよ。まあ、泉嬢のボディーガードしなきゃいけない今は、シウォン放って、こっちに向かって来ているみたいだけど」
 最後は虚空へ視線を投じ、在らぬ場所を見つめて告げる混沌の瞳。
 魅入られたように見つめれば、す……と瞼が閉じられた。
 闇色の髪から覗く瞳を見ることはあっても、閉じた姿を見るのは初めてで。
「……?」
 焦燥に似た不思議な動悸を感じた泉、子ども扱いの意を詳しく問う事なく、不安定な思いから逃げるように別の話題を己に浮べた。
 かといって、全く関係のない事でもなく。
 信用……じゃあ、ワーズさんに対しては?
 胸に手を押し当て、再び俯いた瞳を閉じる。
 生じた暗闇に喚起され、店主とのやり取りが泉の脳裏を過ぎる。
 現れるのは、シウォン以上にふらふらした言動の多いワーズ。
 それでも、信用は誰よりも深く、泉の中に根付いていた。
 何故、と己に問う。
 返る答えは簡単で。
 きっとそれは、彼が再三、人間好きを豪語するから――

 本当ニ?

 ふいに起こる、二度目の問い。
 本当ニ、ソレダケ?
 尋ねる声が内から響けば、泉の目が開かれた。
 瞬きも忘れ、注視するのは自身の膝、その先にある白い床。
 しかし――。
「っ」
 眩暈を含む違和感。
 生じた具合悪さを隠すように、閉じない眼を片手で覆った。
「……泉嬢?」
 名を呼ばれ、のろのろ顔を上げた泉は、そこに訝しむ白い面を見やる。
「ぁ?」
 黒一色の姿を捉え、丸くなる瞳。
 伸ばした手は、彼の腕へ縋るように皺を作り。
 一層、柳眉が寄ったなら、掠れた声が喉を衝いた。
 酷い混乱を抱えたままに。
「ど……して?」
「…………………………何が?」
 ひと目で可笑しいと分かる泉の様子に、けれど男は静かな目を向けるだけ。
 不鮮明な混沌の、反して全てを見通すように澄み切った眼を。
 理解を示すわけでもない、ただ知るだけの双眸から逃れるように、泉はいつの間にか向けられていた黒い胸へ、額を擦り押し付ける。
 安定しない己の身体を寄りかかる事で支え、安らぐ彼の薫りを胸に溜め。
 吐き出す。
「だって……私は、まだ、何もっ」
 肘を伸ばし、身を遠ざける。
 それでも視線だけは縋るように混沌へと絡め――

「泉・綾音が来てるの!? 私に会いに!?」

 廊下から突然響く、黄色い悲鳴染みた男の声。
 きゃーと一人ではしゃぐ音に打たれた泉は、ゆっくり身体を声のした方へと向けた。
 握り締めていた黒い服さえ、忘れた風体で手を離しつつ。
「あ……の声――――エン先生?」
 こてり、ぎこちない動きで首が傾げば、瞼が目覚めを促すように数度開閉を繰り返す。
 その後ろで、袖の皺を伸ばし、些かほっとした表情を浮かべる男も知らずに。
「え……えと、でも、何だか…………足音の数が多い、ような?」
 混乱から徐々に醒めていく泉は、滑らかな動きで頭の位置を戻すと、眉を寄せて耳をすませてみた。
 すると届く、エン以外の声と動き。

「きゃっ、エン先生、駄目ですって! 手術着のままじゃ、あの女の子がビックリしちゃいます!」
「ほら、ちゃんと脱いで。そうしたら、これを着て」
「紐も締めないと。だらしない格好してたら嫌われちゃいますよ?」
「あらまあ、包帯に血が付着してるわ。ちょっと待ってくださいねぇ、エン先生。この部分だけ切っちゃいますから」
「ああ、エン先生、すぐ終わりますからねー? 動かないで下さい……はい、終わりました。ほらほら、可愛いちょうちょさんですよー」
「もうっ! 君たちは自分の持ち場に戻って! 私はここの院長先生なんだよ!? 子どもじゃないんだから大丈夫っ」
「「「「「そういうことは、きちんとお着替えが出来るようになってから言って下さい。そこら辺の子どもの方が、まだ手が掛かりません!」」」」」
「むぅ!!」

「…………」
 何だろう? この、妙に脱力したくなる会話は。
 実際、肩がガクッと下がった泉に対し、呑気な答えがやって来た。
「あれはエンと看護師たちだよ。あの藪、腕は確かだけど、どうも精神的に幼くてねぇ。看護師共は、そこに母性本能だかって変わったモン見出しちゃった、エンの元・患者」
「……へぇ。詳しいんですね、ワーズさん」
「まあね。アレらとの付き合い自体は、他の奴らほど長くないけど、関わる頻度は高くてさ。そのせいで、自分の患者と看護師以外、あんまり覚えていられないエンに憶えられちゃったんだよねぇ、ボク。店主って。何だかすんごい癪」
「……そうなんですか」
 言葉自体には笑みを含みつつ、嫌悪感を露わにする声音を受け、そちらを見やった泉。
 変わらぬ赤い口の形に頬を掻いては、段々近づいてきた音へ視線を戻し。
「泉・綾音!」
「は、ひっ!?」
 壁からにゅっと顔を突き出したエンの変わらぬ包帯姿に、思わずワーズの腕へ縋った。
 世話を焼く看護師たちの手を振り切って現れた藍染めの着物や、煙管を咥えた頭部に一列並ぶ蝶結びの包帯は兎も角として。
「え、エン先生……そ、その血は?」
「チ?」
 ぴょんっと飛び跳ね、軽い足取りで泉の下へ向かおうとしていた医者は、震える指摘を受けて首を傾げた。
 次いで、尻尾を追う犬のように自分の身体をくねくねと見渡す。
 やたらと艶かしい包帯男の動きへ、彼が通ってきた廊下から、看護師の一人が顔だけひょっこり覗かせた。
「あ、エン先生。ほっぺです、ほっぺ。ほっぺにまだちょっぴり血が付いてます」
「ほっぺ?」
 そちらを向いたエンは、袖口に手を隠すなり、そこでごしごしと頬を拭う。
「取れた?」
「…………駄目ですね」
「そっか。じゃ、諦めよう」
「え! 駄目ですよ! 彼女、引いてるじゃないですか」
「いいの。泉・綾音はそんなことで私を見捨てないもん。それより、れでぃを待たせている方が失礼なんだよ?」
「また誰に教わったんですか、そんな台詞……じゃ、せめてお断りを入れてから、こっちに戻って来てください」
「……折角来てくれたのに、断るの?」
「違いますって。ちょっと待ってて下さい、って言って来るだけです。何の連絡もなしにお待たせするのは確かに失礼な事ですが、その格好も十分失礼に値するんですよ?」
「…………うん。分かった。じゃあ、お断りしてくる」
 こくこく看護師たちに頷いたエンは、くるり、今一度泉の方へ身体を向けた。
「ひっ」
 が、先程より増して青褪めた泉、ワーズの身体が傾ぐのも構わず、思いっきり仰け反ってしまった。
 看護師がちょっぴりと評した頬の血は、先に処理されたと思しき蝶結びの包帯より、範囲は狭い。
 けれど、ちょっぴりで済ますにはかなり無理があった。
 しかも、エンが無闇に拭ったせいで、イイ感じに引きずった跡が出来上がってしまっており、薄暗い室内の雰囲気も、包帯の猟奇的な不気味さに拍車をかけていた。
 どこぞのホラーハウスのモンスターを思わせる仕上がり。
 中身が人間ではないという事も相まって、泉の目に涙が浮かぶ。
 この様子に気づいたのか、それでも数歩前まで近づいたエンはぴたりと足を止めた。
「泉・綾音?」
「は、はい」
「私が怖い?」
「……へ?」
 ストレートに尋ねられ、怯えが戸惑いに転じた。
 怖いと問われれば姿形は有無もなく怖いが、エン自身に害された憶えはない。
 思い至ったなら、随分酷い反応をしてしまったと反省する。
 そのまま、首を振りかけた泉だったが、やはり包帯にべったりこびり付いた血は恐ろしく、頬を掻くに留めて言う。
「ええと、その頬が怖いです」
「そっか。うん、分かった。じゃあ、もうちょっと待っててね。包帯替えてくるから。……蝶結びのまんまも何だか嫌だし」
「はあ……」
 ぽつりと最後に零した不満を聞き取り、愛想笑いともつかない表情を浮かべる泉。
 返事を受け、背を向けたエンは、数歩来た道を戻って後、思い出したかのように足を止めて半身をこちらへ向けた。
 煙管でぴっと泉を差しつつ。
「ちゃんと待っててね? すぐ戻ってくるんだから。次は怖がらせないから」
「はあ…………あ、はい」
 懇願の如き訴えに、呆気に取られた声を上げた泉は、じーっと見つめている――ようなエンの様子を受け、きっちり頷いてみせた。
 途端、ほっとした気配がエンから生じ、泉は藍染めの背を見送りながら、目を瞬かせた。
 今……何か、違和感みたいなものが…………?
 正体の判別しない、すっきりしない思いに眉根を寄せ、ふと視線を移した先は隣のワーズ。
 傾いだ身体を元に戻した男は、へらりとした表情を泉に向ける。
 これをただ見つめる、その頭が考え巡らせるのは、先程、ワーズに何か言いかけた己の事。
 エンに感じた違和感とは、別の感覚に襲われた行いは、一体、何をワーズに告げようとしていたのか。
 続く言葉を探し、混沌の眼を見つめ続けても、そこに得られる情報は在らず――
「泉嬢? あんまり目を開けてると、目が乾いちゃうよ?」
 ふいに視界を塞ぐ、ひんやりとした温もり。
 もたらされた闇の中で、瞳を閉じた泉は小さく頷き、しばらく考えるのを止めて、その手の感触に安堵の吐息を零した。

 

 


UP 2009/7/2 かなぶん

目次 

Copyright(c) 2009-2019 kanabun All Rights Reserved.

inserted by FC2 system