妖精の章 二十二

 

 宣言通り、「ちょっと」の時間で戻ってきたエンは、藍染めの着物はそのままに、見慣れた包帯姿で泉の前にしゃがみ――かけ。
「…………………………ねえ、店主」
「……なんだ?」
 中腰姿勢で泉の隣にいるワーズへ声を掛けつつ、煙管を別方向に向けて問うた。
「あの人……具合悪そうだね。どうしたの?」
 言葉だけ取れば、心配そうな雰囲気だが、口調はどこか嬉しそうに響く。
 そんなエンが示す「あの人」ことランは、包帯を代えたエンを見届け、どこかしらへ消えていった看護師たちの声が届く度、苦しそうな呻きを幾度となく上げていた。
 こちらに背を向け、ベンチにしがみついた今も、荒い鼻息を持て余している。
 と、自分が話題に上がっていると知ったのだろう、金の鋭い瞳が恨みがましく振り向いた。
 しかも、泉だけを捉えて。
 思わず悲鳴を上げかけた泉は、これを赤いマニキュアの白い手に遮られる。
 構わず、助けを求めるように黒い服を握り締める泉の手。
 反し、金の眼に囚われたこげ茶の目は、逸らすことも叶わず。
「だから泉嬢、刺激するようなことはしない。……エン、アレに鎮静剤打て」
「え、いいの?」
 顎だけでランを差すワーズ。
 この命令に応じたエンは、ぱぁっと明るい気配を周囲に撒き散らした。
 ランに怯える泉ですら、ぎょっとするほどの明るさで。
「ああ。ボクが良いって言ったんだから良いんだよ」
「わーい」
 え……? よ、喜ぶところなの?
 心底嬉そうなエンの軽い足取りが、固定された視界にやって来る。
 同じく、泉を射抜いたままの金の眼にも、包帯巻きの男の姿が映っているはずだが、視線は終ぞ、泉から離れようとしない。
 完全にイった目付きのラン相手に、内心で「ひいいいい」と悲鳴を上げる事、何度目か。
「えいっ」
 気の抜けた掛け声が泉の耳に届いた。
 それから程なく、ランの眼が覇気を失くして澱み、泉の身体にも自由が戻ってくる。
 どうやら、エンがランに鎮静剤とやらを打ったらしい。
 とりあえず、ほっと息をつけば、唇にひんやりとした肌が触れた。
 驚いて目をぱちくり、口元から引っ込んだ手を追っていく。
 辿り着いたのは、回収した手の甲を頬に当て、背もたれに肘を掛けてクツクツ笑う店主。
「わ、ワーズさん……」
「ん? どしたの、泉嬢?」
「……い、いえ」
 呼びかけたものの、続けられる言葉もなく、泉は気まずさを払拭するように座り直す。
 ワーズはそんな泉の様子を追求せず。
「お前にしちゃ、上出来だよ、藪」
 珍しくも横柄に、エンへ褒める言葉を投げかけた。
 彼の方へ顔を向けているのだろう、頬杖を止めて垂れた手が、そのまま俯いてしまった泉の視界に入って来た。
 合わせ、自身の唇に軽く触れる泉。
 何でもない事のはずなのに、ワーズの手の平に触れてしまった箇所だけ、酷く熱く感じられた。
 自然と赤らみ潤む瞳に乗せられ、熱の部分を指でするりとなぞる。
 ぞくんっと這い上がる高鳴り。
 泉の肩が微かに震えれば。
 何を……意識しているんだろう、私。
 後悔と羞恥にきゅっと唇を結ぶ。
 息を吐いて、肩を落とし、顔を上げては、未だエンへと笑いかける隣を見やった。
 意識してもしなくても、相手はワーズで、彼自身が泉個人を気に掛けることなどないというのに。
 人間の括りでしか、泉を見ていないのに。
 ……って、それじゃあまるで、ワーズさんに別の見方をして貰いたいみたいじゃない。
 もしや、まだ恋腐魚の効力が残っているのではなかろうか。
 今となっては恥としか思えない日々が、走馬灯のように泉の頭を何度も巡る。
 乗じ、段々と赤みが増していく頬、煩くなる鼓動に、心の中だけで雄叫びに似た声を上げた。
 いや、いやいやいやっ!! 治ったはず! 残っていないはずでしょう!?
 素っ頓狂な声音の確認に対し、ウンともスンとも言わない自分の胸が恨めしい。
 知らず、またも顔が俯いたなら、視界の隅に包帯巻きの手が見えた。
 どうやらエンが戻ってきたらしい。
 思わず、完治の状態を知る医者のその手をがっしと掴み、泉は顔を上げた。
 と。
「わわっ!? え、エン先生!?」
 至近に包帯巻きの顔面を捉え、慌てて手を離しては仰け反る。
 これへ不思議そうに首を傾げたエンは、仰け反った分だけ泉に近づくと、煙管を咥えたまま問うてきた。
「泉・綾音? どこか具合悪い? 顔が赤いけど熱があるのかな? お注射しようか?」
「い、いいいいいいいいいいいいい、いいえっ! そ、そうじゃなくてっ! あ、あの、エン先生、この姿勢じゃ辛いんで、もう少し離れて貰っても?」
「ああ、うん。はい」
 思いの外、素直に離れてくれる医者。
 奇人街に来てからというもの、自分の意見しか通さない輩しか見てこなかったため、自然と泉の口から「ありがとうございます」という礼が零れた。
「?」
 何故礼を言われるのか分からない様子のエンだが、深く尋ねるような真似はせず、改めて泉の前にしゃがんでは、彼女を見上げる形の位置で煙管を上下させた。
「んと。いらっしゃい、泉・綾音。お待たせして御免ね? ちょっとしゅじゅちゅ中だったから」
「……しゅじゅちゅ?」
「んーん、手術」
「…………手術中、ですか?」
「そう、しゅじゅちゅ中」
「…………」
 ヒアリングには問題がないらしい。
 ならば深くつっ込む必要もないだろう。
 まあ、言い辛い言葉の並びではある。
 私の聞き間違いという線も捨て切れないし。
 一人で勝手に納得しといた泉は、小さく頭を下げた。
「すみません、お忙しいところ」
「ううん。丁度終わったところだから大丈夫」
 エンはふるふる首を振り、次いで泉の手首をそっと取った。
 きょとんとする彼女へ、エンは何も告げず。
「んー……」
 首、頬と代わる代わる触れられ、下瞼を捲られたところで、無断で診察されているのだと知った。
「え、エン先生?」
「はい。じゃあ、口を大きく開けようか」
 「あーん」と自分で言う医者へ、断りを入れられなかった泉。
 戸惑いつつも口を開けたなら、舌にひんやりした金属の棒が押し付けられ、ライトが口内を照らす。
 そこへ、ひょいと横合いから店主が顔を覗かせた。
「わぁ」
「泉・綾音、喋ったら駄目だよ」
「ふあ……」
 ぴしゃりと強い口調で言われ、間の抜けた返事が泉の喉を通った。
 けれど、へらり顔を覗かせたままの店主へは、見るなという念を送って睨みつける。
 特別な事をしている意識はないものの、大口を開けた姿を医者でもない相手に見られるのは恥ずかしかった。
 かといって、そんな泉の思いがワーズに届くはずもなく、エンが「はい」と終了の声を掛けるまで、白い面はじーっと泉を見つめていた。
 闇色の髪に隠れた混沌の瞳が、口の中を見ていたのか、目を見ていたのかは知れないが、泉は羞恥から素早く閉じた口元を手で覆い隠す。
「うん。異常なし」
 ほとんど道具を使わない簡単な作業で、診断を下したエンは、口を押さえた泉を見やり、小首を傾げた。
「あれ? 泉・綾音、歯が痛いの? 見たところ、虫歯は治療跡くらいしかなかったけれど……」
 治療跡、の部分だけ、妙につまらなさそうに言う医者。
 手を離して「いえ」と首を振ったなら、「そう?」と煙管が円を一つ描いた。
 合わせ、ぷかり、包帯巻きの口と思しき箇所から、輪を象った煙が宙を舞う。
 普通に出すのも難しい煙は、包帯越しから出たとは思えない、見事なドーナッツを広げては、空中で霧散させた。
「それで、今日はどうしたのかな?」
 少しばかりくぐもった声。
 煙を追って上がっていた視線をそちらへ戻した泉は、エンの後ろにいた店主の姿が消えている事に気づいた。
 答えようとした口が閉じては目を瞬かせ。
「店主? それなら、あっちにいるよ」
 言ってエンが煙管だけで示した先は、ランがいる方向。
 ギラつく金の眼を思い、やや怯えながらも泉の首が向けば、ぐったりと座席にもたれた人狼の後ろに、黒い姿。
 どこか思案げな顔つきでランを見、顎を擦っている。
 へらりとした赤い口はそのままなので、一体何をしているのかと眉を顰める。
 と。
「値踏みしているのかな?」
 死角から聞こえてくるエンの声。
「ねぶ――――ぅひゃっ!?」
 見やった泉は、ワーズが座っていた隣の席に、音もなく包帯姿が片膝を乗っけた格好でいる事に驚いた。
 しかも、ランへ煙管を向けたままの医者は、泉の肩に手を回し、ベンチの陰へ隠れるよう促してくる。
 自然、密着する形になるわけだが、突拍子のない行動に目を回す泉を尻目に、当のエンはどこかウキウキした様子で、ワーズの動向を見守るのみ。
「アレってニャン・ボンゲソだよね? 人狼で最強とかいう。そのせいで、色んな同族から狙われているって。」
「え、エン先生?」
 誰ですか、ニャン・ボンゲソって。
 内容からランを差しているのは分かるが、聞きなれぬ名を泉が尋ねる間もなく、うっとりした調子が続く。
「ああ、大変そうだなぁ。どこかに怪我していないかな? 店主、あの銃で頭と心臓以外、撃ったりしないかな? そしたら私の患者として、ちゃんと収容出来るのに。もしくは鎮静剤、合わないとイイな。軽い拒絶反応が出てくれれば、しばらく私の患者として診ていられるのに」
 どことなく、医者の呼気がハァハァと荒いものになってきた。
 背もたれに掛けた手と、泉の肩に掛けた手が、忙しなく指を動かし、滑らかに掴んだ箇所を叩く。
 危ない発言と荒い呼吸とくすぐったい動きに、泉が身を捩ったものかどうか悩めば、肩に置かれた手が泉の頬へ当てられた。
「!」
 ぎょっとすれば、反対側の頬に擦り付けられる包帯の感触。
「ああっ、堪らない! 手術しちゃった患者はどうせ、経過良好で減っちゃうからさ、リン・マーケセが入院してくれたらいいのに。きっと、彼を狙って幾人の人狼が来て、返り討ちにされちゃうんだ。そうしたら、いっぱい、私の患者が増えるんだぁ。人狼は治りが早いけど、最強相手なら、司楼・チオの傷みたいなのがたくさん出来るでしょ? それに司楼・チオは仕事中毒(ワーカホリック)だから通院しか出来ないけど、彼らならベッドに縛り付けても院内半壊させたりしないだろうし……あぁ、イイなぁ」
「ちょ、え、エン先生……」
 うっとりとした調子で語るエンに対し、頬を擦られる一方の泉は、戸惑いの表情を浮かべつつ、眉を顰めた。
 素肌なら良いというわけではないが、段々、擦れる包帯によって頬が痛くなってきていた。
 逃れるようにして身を捩ったなら、気づいたエンが唐突に泉の方を向いた。
 ――至近のまま。
「わっ、エン先生、煙管!」
 泉の小さな悲鳴を受け、エンの顔につられて鼻にぶつかりかけた煙管が、ひょいと辿った宙を戻っていく。
 ふわりと香る、甘くもほろ苦い煙の匂いに、泉の喉がけほっと咽た。
「あ、御免ね。私は患者を拾うのは好きだけど、作るつもりはないのに……不可抗力は仕方ないとしても」
 トリップの世界から返ってきたエンだが、さらりと吐かれた言葉はちょっぴり怖かった。
 ぞっとする思いで、近い包帯面を見つめた泉は、ゆっくりと右手を持ち上げた。
「……泉・綾音?」
 強張った顔のせいか、それとも泉の右手が近づいたためか、エンが怪訝そうに名を呼んだ。
 けれど泉は反応を示さず、エンの頬に指を滑らせる。
 途端、包帯下が硬直し、構わぬ右手はエンの頬を撫でては、向かい合う形で更に指を進め――

「「ストップ」」

「はぇ?」
 エンと、いつの間にかベンチ越しにいたワーズの制止により、目が覚めたような面持ちとなる泉。
 握られている右手の感触を知り、そちらへ視線を向けたなら、煙管へ触れようとしていた己の手が、包帯と赤いマニキュアの、二種類の手に進行を遮られていた。
「…………?」
 とはいえ、目で見ても理解は及ばず。
「ちっ。妙なモノに触られちゃったよ」
 忌々しいと先に離れたのは、包帯より先に掴んでいた、ひんやりとした温もり。
 薄暗い室内灯の下で手を振り、取り出したティッシュで自身の手を執拗に拭くワーズを横に見ても、泉の思考はぼんやりとしており。
 きゅっと包帯の手が握ったなら、寝起きの眼が今度はエンを捉えた。
「御免ね、泉・綾音。私が不特定多数相手に夢想したせいで、どうやら君に煙の効果が表れてしまったらしい。危うく火傷をさせてしまうところだった……」
「あ、ああ」
 ここに来て、自身の意識が虚ろとなった訳を察し、泉の意識が鮮明になった。
 絶えず煙を燻らせているエンだが、吐き出す煙をまともに吸ったのは今回が初めて。
 元より、自身の患者に意識のほとんどを向けている医者の煙では、人間が吸っても効果が表れるのは稀だという。
 その稀に引っ掛かってしまったと思ったなら、半分落ち込みかけ。
「……エン、先生?」
 手の平を撫で回す包帯の指を感じ、首を傾げれば、エンが慌てた様子で手を離して、身体をベンチから飛び退かせた。
「ち、違うよっ!? 惜しかったなぁ、とか思ってないし、どこかに火傷ないかなぁ、とか期待していないから!!」
「…………」
 必死にふるふる首と手を振り、本音を暴露している事に気づかないエンを、泉はなんとも言えない顔で見つめた。
 遣る瀬無い溜息が零れ出れば、医者はまたしてもいらん事を言った。
「ほ、本当だよっ! 泉・綾音が私の患者になってくれたら嬉しい、なんて思ってないから! もういっそ大怪我させちゃおうかなぁ、とも思ってないんだからねっ!?」
 返せる言葉のない泉は、内心で引き攣りつつ、別の話題に持っていこうとする。
「…………ええと、エン先生」
「ほ、本当だよっ!? 私っ、本当にっ」
 グーにした両手を両脇に置き、子どもが癇癪を起こした時と、よく似た仕草で訴えかけるエン。
 泉は頬を指で掻きかき、ワーズやエンが座っていたベンチではない、もう一方の隣へと手を伸ばした。
 これにビクッと反応したエンが大きく下がり。
「……鞄?」
 泉が掲げた手提げ鞄を見ては、叫びも忘れて首を傾げだ。
 同意を示すべく、頷き。
「はい。クッキーを焼いてきたんです」
 安心させるようににっこり笑いかけた泉が、手提げ鞄の中身を漁ると、おずおず近づいてくる藍染の着物。
「クッキー……?」
「はい、エン先生。遅ればせながら、ご挨拶に」
 立ち上がり、袋を一つ手渡す。
 瞬間、包帯越しの雰囲気が明るくなり、いそいそと袋の中を開けた。
「うわぁ……美味しそう。ありがとう、泉・綾音」
 花が綻ぶような声音。
 不気味なエンの外見にも関わらず、つられて微笑む泉は、けれど、すぐに口を閉じた彼の行動へ小首を傾げた。
「どう、しました?」
 喜んでいたようだったのに、気に入らなかったのだろうか?
 困惑する泉へ、顔を上げたエンはクッキーを両手に包んで言う。
「うん。後で皆と一緒に食べようと思って」
「皆……看護師さんたちのことですか?」
「うん。甘い物は疲れに効くからね」
「…………」
 本当に、嬉しそうに袋へ頬ずりするエンに、言葉を失った泉は手提げ袋へと視線を落とした。
 黙考する事、約一分。
「泉・綾音? どうかした?」
 きょとんとしたエンの声に顔を上げた泉は、二つの袋を取り出し、手提げ袋を彼に差し出した。
「これ……皆さんでどうぞ」
「え、いいのかい?」
「んー? 泉嬢、それって他に届ける分じゃなかったっけ?」
 続くワーズの言のせいで、素直に受け取りかけたエンの手が止まった。
 おろおろとした表情の変わりに、煙管が泉とワーズを往復する。
 そんなエンへ躊躇いなく、再度手提げ鞄を向けた泉は、取り出した二つを抱えてワーズへ言った。
「大丈夫です。クッキーを詰める時、芥屋で済む分も入れてしまったので。挨拶回りも、あとは史歩さんとクァンさんだけですから、この二つで十分なんです。それに、シイちゃんの分も作っちゃいましたけど……死人は血だけしか摂取できないんですよね?」
 泉の脳裏に浮かぶ、光を思わせる頭髪、夜色の瞳の子ども。
 人魚の一件が終わってからというもの、一度として見かけていない事に不安はあるが、だからといって、食べられない子どもにクッキーを作ったのは失敗だった。
 今の黙考がなければ、出会い頭にこれを渡していたであろう事は想像に難くなく、そうすると、彼の子どもは食べられずとも受け取り、笑って礼を言うのだ、「ありがとう」と。
 泉は受け取って貰った事にほっとするだけの自分を思い、苦笑を浮べた。
 シイの事だから、受け取ったクッキーは必ず、誰かの口に運ぶよう動くだろう。
 かえって気を使わせてしまう事を、遅ればせながら予測すれば、皆で食べるというエンに渡した方が都合が良い。
 返事の代わりに、好きにしたら良いと肩を竦めるワーズの仕草を見届け、未だ受け取ったものか迷うエンへと向き直る。
「貰って下さいませんか?」
「いいの?……本当に?」
「はい」
 しっかり頷けば、ようやく手提げ鞄が包帯の手へと渡った。
 早速中身を確認し、感嘆の声を上げるエン。
「なるほどね。人魚も母性だかに絆されるクチなのか」
「……ワーズさん」
 喜ぶ医者から店主へと視線を送れば、白い目を迎えた白い面は、へらりと笑う。

 

 


UP 2009/7/10 かなぶん

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