妖精の章 二十三

 

 帰りがけの扉前。
 ワーズと、彼に蹴り飛ばされ正気を取り戻したランが、外へ出て行くのを目の端に、泉はふと思い出して、エンを呼び止めた。
 ニパから聞いた、あの二人の容態を尋ねるべく。
「あの、エン先生?」
「何?」
 すると返って来る、苛立ち混じりの声音。
 反射でびくっと震えたなら、気づいた医者は、はっとした様子で固まった。
 けれど、何か言う前にエンは無言で手を伸ばし、男二人を追い出した扉を勢い良く閉める。
 自分だけ取り残された事で、更に怯えた泉が一歩下がれば、閉めた扉に寄りかかったエンが慌てた様子で言う。
「あ……ち、違うよ? 別に泉・綾音がどうのこうのってわけじゃないんだ。ただ……あんまり、外の汚れた空気を入れたくなくて――」
「泉さん! 大丈夫ですか!?」
 俯いたエンに合わせ、扉の向こうから叩く音と共に、ランの声が届いた。
 これにより、ひしっと扉にへばりついたエンは、頭を打ち付けて叫んだ。
「止めてくれ! 扉が壊れる! 私は泉・綾音の愛人なんだから、彼女を傷つけるような真似はしないよ!」
「あ、愛人……」
 扉越しとはいえ、大声で宣言された泉は必要もないのに、目を右往左往。
 挙動不審な彼女は置いてけぼりに、扉を打ち続けるランの後ろから、ワーズがのほほんとエンへ告げた。
「んー、ならさっさとそこ、開ければいいだろ? こっちはいきなり締め出された気分なんだからさ。幾ら外気を入れるのが嫌だからって、泉嬢を閉じ込めるのは良くない。ほらほら、早くしないと、凶暴な人狼がお前の診療所をぶっ壊しちゃうよ?」
「っ、人聞きの悪いことを言うな、ワーズ! 俺はただ、何かあったんじゃないかと心配して」
「――心配ついでに、鎮静剤なんざ打ち込みやがった藪医者へ、報復してやろうと」
「違うっ! 妙な尾ひれを付けるな! 大体、報復ならお前にするだろ! 人のコト、何度も何度も蹴りやがって」
「うわ、止めてくんない、それ。まるでボクに、変な性癖があるみたいじゃないか。しかも人狼相手。せめて人間にして欲しいねぇ」
「……ワーズさん、それもどうかと思いますけど」
 しみじみ語る扉越しの店主へ、泉は多少頬を引き攣らせながら、聞こえぬ意見を述べた。
 そんなワーズの参戦により、扉を叩く音は止み。
「性癖って……俺だって御免だ、そんな気色悪い奴!」
 代わりに、向こう側では新たな言い争いが勃発する。
 止めることも叶わない泉は、大人げないやり取りを聞きつつ、溜息を一つ。
 重なる別方向からの溜息を捉えたなら顔を上げ、手提げ鞄の中身の無事を確認してから、煙管をこちらへ向けるエンを見やった。
「た、助かった……本当、人狼は乱暴者ばかりで困る。怪我しても大人しい奴は珍しいし。あ、でも、クイ・イフィーとレン・イフィーは良い患者だ。まだまだ治療にも時間を要しそうだし、本当、私の良い患者――」
「! そ、そんなに悪いんですか、クイさんとレンさん」
 エンを呼び止めた理由の二人の名が上がり、唐突に問い掛ける泉。
 知らぬ処での出来事とはいえ、自身が関係して入院する羽目になったと思えば、顔が青褪めていく。
 大して大きくもない声に一瞬、肩を竦ませた医者は、包帯の頭をゆっくり傾がせた。
「え……知っているの、泉・綾音?」
「はい……それで、その、お二人は?」
 聞くのも怖いが恐る恐る尋ねると、ぴこぴこ上下に煙管が振れた。
「んー……なんだっけ、こういうの。個人情報漏洩? だから、本当は話しちゃいけないんだけど。特に病歴とかって、付け込まれる材料になるし。んでも、私は泉・綾音の愛人で。けどけど、公私混同はしちゃいけない……いや、まあ、いいか。どうせここは奇人街。流出もアリってことで」
「えぇー……」
 聞いたのは自分だが、短い間で呟かれた思考は、元居た場所の常識に照らし合わせると、変に罪悪感をもたらしてきた。
 かといって、今更いいです、とも言えない泉。
 それ以前に、一人で勝手に納得したエンの口へ、立てられる戸は在らず。
「シウォン・フーリって知ってる? 退院はしたし、経過も良好だけど、まだまだ私の患者な人狼」
「え、えと、はい、知っています」
 ――どころか、ついさっき、その人のところから逃げてきたばかりです。
 続く言葉はごくりと呑み込む。
 が、これを知ってか知らずか、エンは首をこてっと傾げ。
「……あれ? そういえば、シウォン・フーリは泉・綾音のお嫁さんだったんだっけ?」
「は……?」
 ぽんっと浮かぶ、ウェディングドレス姿の人狼。
 獣の面構えでは厳しいばかりだが、頭を振って人間姿を浮べたなら、なかなかどうして似合っていた。
 ついでに何故か浮かんだ新郎の姿は、凶悪な人相に厳つい獣面のラン。
 バージンロードを恥じらい進む頂点と並んで歩く父親は、花嫁の父親らしからぬへらへらした笑みを浮かべるワーズで、神父は珍しく真面目な顔つきのキフ。
 誓いの言葉を破って乱入し、花嫁を掻っ攫っていくのは猫――まで浮べた泉、慌ててその想像を首をぶんぶん振って追い払った。
 逞しい想像力。
 若いって怖い。
 珍妙な場面の連続から現実に戻り、訝しむ様子のエンを視界に納めたなら、意味なく手を動かし誤魔化し。
「い、いえっ、なんでも――って!? お、お嫁さんって、私の!!?」
 理解が追いつくなり、素っ頓狂な声を上げた泉は、言葉より先に、持てる力の全てを用い、首を横に振った。
「ち、違います!! だ、誰がそんなホラ話」
「シウォン・フーリ本人から」
「シウォンさんがっ!? あ、あの人……ちょ、ちょっと待って? それって、つまりぃ?」
 エンの答えに唖然としてしまった泉だが、ある事に気づいて頭を抱えた。
 虎狼公社の人狼たちから「奥方」と呼ばれる己。
 けれどそれはただ単に、彼らがそう思って付けただけのはず。
 なのに、シウォン自身がエンへ、自分は泉のお嫁さんだと豪語したらしい。
 ――否、エンの勘違いを考慮し、訂正すると、泉は俺の妻、だとかなんとか言ったのだろう。
 それは詰まる所、シウォンの中では、すっかりそういう図式が成立している事を示唆しており。
「これはやっぱり、本気……なの?」
 散々シウォンの想いを疑ってきたが、自分の居ないところでも、そんな反応をしていたと知らされ、泉の心が揺れた。
 しかしそれは、決して甘いモノではなく。
「う……」
 改めて、泉を見つめる鮮やかな緑色の双眸を思い出し、軽く呻いてしまった。
 ほ、本気だったら本気で……物凄く怖いんですけど。
 しかもたぶん、とっても――重い。
 一方が只の知人、一方が伴侶として相手を認識している、この差。
 だというのにこれを考慮せず、周りに「アイツは俺のモノ」と宣言して憚らないらしいシウォンは、泉にとって厄介な事この上なかった。
 好かれている事自体は、素直に嬉しいと感じられる。
 が、一方で、妄想入りの想いは、正直引いてしまう。
 幾ら相手が見目麗しくとも、多種多様な事に長けていようとも、頭の中で作り上げた関係を現実に持って来るのはイタ過ぎる。
 それこそ真実だと思い込んでいる節があるなら、余計、付いてはいけないだろう。
 って、これ、完璧にストーカーじゃない? いや、シウォンさんとは面識あるけど、でも……
 一瞬、泉の脳裏にある女の顔が浮かぶ。
 元居た場所で遭った女が。
 思い込みの激しかった彼女は、愛する男と自分が添い遂げられない理由を、移り住んで来た泉にぶつけていた。
 最初は泉も気づかないほどの害で。
 最後には明確な殺意を持って――
「泉・綾音? どうしたの? 顔、真っ青だけど。大丈夫? 具合悪い?」
「えっ! あ、いえ……何でも、ありません」
 エンの問いかけに、いつの間にか俯いていた視界を上げた泉は、笑みを浮かべて手を振った。
 だとしても、こうして身体は無事。
 何も、問題はない。
 本当に、何でもない事だ。

 ――何モ、ナカッタ?

 内から生じる己の問い。
 ぎくりと身を強張らせた泉は、見開いたこげ茶の瞳に、別の景色を見た。
 橙の街灯が差し込む、明かりのない部屋。
 血走った眼、口の端に浮く泡。
 自然、喉を押さえれば、耳鳴りが起こる。
 甲高い、悲鳴のような怒号と、深く、底冷えする宣告。
 続くは、ノイズ。
 二つの音色は、先の怒号や宣告よりも、泉の鼓動を早めさせ――

「泉・綾音?」
「にょあっ!?」
「ぅにっ!?」
 眼前、いきなり下から現れた包帯面のどアップに、思いっきり驚き、大きく飛び退いた。
 先程まで浮かんでいた景色と音は瞬時に消え去り、別の動悸だけが胸を抑えさせる。
 ぜーはー繰り返し、反射で涙まで浮かべば、泉の反応に驚いたのだろう、手提げ鞄を握り締めた手を挙げ、仰け反っていたエンが、姿勢を正して首を傾げた。
「にょあ?」
「……き、聞かないで下さい。勝手に口から出てきただけで。エン先生こそ、ぅにって何ですか?」
 息を整えつつ問い返す泉。
 これへエンは首を傾げたまま。
「…………ぅに?」
「やっぱり……なんでもありません」
 泉の驚きにつられ、自分がどんな声で驚いたかを知らない風体に、緩く首を振った。
 落ち着いてきた鼓動を感じ、手を離すと、ごくんと喉を鳴らした。
 次いで息が一つ零れ。
「でね、シウォン・フーリが最初の処置を終えてから、最初に呼んだのがあの二人だったんだ」
 唐突に話題を切り替えるエン。
「は? へ? え?…………あ、ああ、クイさんとレンさん」
 泉は話が戻ったのだと知り、呆気に取られたまま頷いた。
「ん? 二人の事が聞きたかったんじゃなかったっけ?」
「ええと、はい。そう、ですけれども……」
 どこまでもマイペースに話を進めていくエンに、自身にかまけていた泉は、心の中でぐっと拳を握る。
 いけない、話の途中に考え事なんて。
 特にエンは今までの相手とは違い、とことん自分のペースを貫くタイプ。
 没頭した分だけ置いてけぼりを喰らいそうである。
 ――とかなんとか泉が思っている間にも、彼の医者の語りは続き。
「最初は何かの言付けのつもりだったみたいなんだけど、シウォン・フーリって欲尽くしの生活していて、自分の思う通りに生きてきたから、病室生活が合わなかったみたいでさ。来た二人相手に延々、色々やってたみたい。その時の状況って、まだ二人とも、私の患者じゃなかったし、あんまり印象に残ってないんだけどね。あ、でも、ちゃんと健診は定期的にしていたんだよ? シウォン・フーリからは邪魔者扱いされたけど」
 シウォン・フーリは悪い私の患者だ、と包帯の頬が膨らむ。
 聞けば聞くほど、言葉を挟む気力を失っていく話に、泉の顔は「うわぁ……」と言いたげな顔で固まったまま。
「あの時は大変だったなぁ。シウォン・フーリの性癖のためだけに、何度、彼の病室を移動させた事か。掃除もそうだけど、騒音も酷かったから。煩かったよぉ? 悲鳴に嬌声に喘ぎにすすり泣き。最終的には許しを乞う叫びでさ。でも、ピタッて止まるんだ。何日も何日もその繰り返し。しかもさ、そういう音に私の患者の数人が煽られちゃって、看護師が何人か襲われたんだ。そのせいで一時、私の患者が激減してね。これでも入院時にはちゃんと説明していたんだけどなぁ。診療所に勤めているのは全員狩人だから、手を出したら死んじゃうよって。あ、勿論、皆が屈しそうな相手は、全部私が担当しているからね。他人を助ける、なんて奇特な人、奇人街じゃ滅多にいないから。治療に支障は来たしたくないし。まあ、私を襲ってくる人も男女問わず、中にはいるんだけど」
「……えっ!?」
 どれも衝撃的な内容だったが、泉はエンを襲うという相手に、一番目を剥いた。
 昔、彼を“お嫁さん”にしようとして、殺されたという“おじさん”の話は聞いていたものの、今現在の包帯姿のどこに、男女問わず惹かれる要因があるのか分からない。
 あまり考えなかったけど……エン先生って、中身、あるのよね?
 ともすれば、様々な種族が住まう奇人街、そういう存在もアリだと思っていた自分に、泉は気づいた。
 すると疑問が生じ、妙に落ち着かなくなってくる。
 そう感じたなら、疑問は早くも泉の口から出ていき。
「あの、エン先生? エン先生って……どんな容姿なんですか?」
「どんなって……こんな?」
「や、包帯の下の話なんですけど」
 着物の袖を掴み、身体を大の字にして示す医者へ、間髪入れず首を振る泉。
 好みは人それぞれなれど、全身包帯巻きを襲いたくなる輩は、いかに奇人街と言えども、そうはいないだろう――と思いたい。
「……目の部分すら包帯で隠しているから、色も分からないし」
「ああ。これね。ちゃんと見えているから問題ないと思ったんだけど……外してみる?」
「へ?」
 おもむろに手提げ鞄の持ち手を肘へと移動させるエン。
「この包帯もね、だいぶ前から、怪我の保護が目的じゃなくなってて。皆がね、付けといた方が私の患者が平穏無事でいられるからって。これまでも、包帯じゃない物で身体を部分的に覆っていたんだけど、こっちの方が確かに絡まれなくてさ。どうも、私の容姿は人目を引きやすいようで……はい、取れた」
 顔の部分に、一体、どれだけの包帯を巻いていたのか。
 泉の返答も待たず、話の最中、巻き取られた包帯により一回り近く小さくなったエンの顔。
 それでもまだ包帯は顔面を覆っているが、エンの言葉通り、目だけは分かるようになった。
 ただし、左目だけ。
「……紫、だったんですね」
 惚けて呟く泉。
 初めて見る色合いもさる事ながら、柔らかな眼差しに落ち着かない気分を味わう。
 一方で、不可思議にもほっとする安心感があり、片目だけでも、エンの容姿が人目を引く話は十二分に納得できた。
「これ以上外すと、巻き直すのが面倒になるんだ。何せ、一巻しか使っていないから」
「え……」
 言いつつ巻き直すエンに対し、泉はその内容に驚いた。
「この包帯、一巻しか使ってないんですか!? で、でも、替えて来た時は、時間もそんなに掛かってなかったのに?」
「ああ、あれ? まあ、これでも医者だからね。包帯の巻き取り・巻きつけは簡単簡単」
「簡単……て、まさかお一人で?」
「うん、当然。ほら、着物の着付けと同じでさ、自分でやらないと苦しかったりするでしょ?」
「……看護師さんたち、エン先生は着替えがきちんと出来ない、って仰ってませんでしたか?」
「それはそれ、これはこれ。包帯はきちんと巻かないと用を為さないけど、清潔でさえあれば身だしなみなんて、どうでも良いモノだから」
「…………」
 容姿の話は納得出来たのに、こちらの話はとんと納得出来なかった。
 確かに清潔は、医者という職業柄、第一かもしれないが、見た目だって見る方にとっては大事だと思う。
 フィクションなら、だらしない風貌の医者だが実は凄腕、という設定は見ていて楽しい。
 しかし現実において、だらしなさを全面に出されては、幾ら凄腕でも掛かる前に患者が逃げ出すだろう。
 とりあえず、泉自身が掛かりたくない。
 掛かって後、身だしなみにはルーズ思考だったと分かったエンは、仕方ないにしても。
 否、包帯巻きの医者に泉が掛かったのは、偏に恋腐魚の症状にどっぷり浸かっていたためだ。
 もし、正気の状態で彼と会っていたなら……
「泉嬢、そろそろ行かないかい? ランが煩くて仕方ないんだけど」
「お、お前! 散々、ヒトをコケにしておいて、いきなりそれか!?」
 耽る傍らで、扉越しに届く店主の呑気な声。
 聞いた泉は緩く首を振って、正気だろうともエンには掛かっていたと結論付ける。
 人間好きの店主が医者を呼んだ時点で、患者の人間はどう足掻いても拒めないように出来ているのだ。
 ある日に幽鬼の肉入り粥を喰わされた泉のように、食事を拒否したせいでエラい目を見た竹平のように。
「あや。店主が呼んでる」
「……あや? それって私の事ですか?」
 エンの言葉で意識を目の前に戻した泉。
 ぽかんとしたその問いかけに対し、扉へ向けられていた煙管が泉の斜め下を差した。
「泉・綾音の? ううん、違う。あやって、ただの掛け声みたいなもの、だけど……良いかも」
「へ?」
「うん。今度から、泉・綾音のこと、あーやって呼ぶね」
「え、ええ?」
 なんで名字? じゃなくて、どうして伸ばし……ううん、それでもなくて。
 切っ掛けは惚けた自分の発言だが、突拍子のない提案に泉が戸惑えば、包帯巻きの男は嬉しそうにコクコク頷き。
「愛称あった方が、より愛人ぽいな。うん。響きも可愛いし、あーやにピッタリ……そうだ、あーや」
 愛人ぽいってどの辺で? と泉が呟くより早く、了承なしに定着した愛称でエンが呼んできた。
 きっともう覆せない呼び名に、頬を掻きかき、包帯で覆われたエンの目を泉が見つめれば、包帯の合掌が形作られる。
「御免ね?」
「え、えと?」
「クイ・イフィーとレン・イフィーは、シウォン・フーリからそういう目にあわされたせいで、まだまだ面会謝絶中なんだ。肉体的にはだいぶ回復しているんだけど、後遺症が酷くてね。精神面じゃ全然駄目だし」
「そう、ですか……」
 決して具体的な内容ではないが、謝罪の割に、患者で居続ける二人の事を嬉々として語るエンの様子は、かなり深刻な状態を表しているのだろう。
 ニパの言を思い出せば、泉のせいと言えなくもないが、だからといって、そんなシウォンに応える事は想像すら出来ない。
 ……ううん。知ったからこそ、応えたくないというか。
 人間より丈夫な人狼が、面会謝絶にまで陥り、今も苦しんでいる、この状況。
 うっかり自分に当て嵌めたなら、物凄い寒気が背筋を這った。
 思わず身震いした泉は、エンへと愛想笑い。
「ありがとうございます、エン先生。それじゃ、ワーズさんも待っているようなので」
「うん。またね、あーや。いつでも遊びに来て良いから」
「え……いや、でも、ここって診療所ですよね? 遊びに来るところじゃないような?」
「そっか……愛人は通われるモノだと聞いていたから……じゃあ、また遊びに行くよ」
「え、えと、はい……」
 ……また?
 エンが診察以外の用件で芥屋を訪れた事は、一度たりともなかったはず。
 もしかして、エン先生にとって、仕事は全部――――遊び?
 ぞっとしない仮定の話である。
 愛想笑いを固めた泉は、浮かんだ仮定を心の中で必死に払い除け、エンが開けた扉向こうへと足早に出て行った。

 

 


UP 2009/7/17 かなぶん

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