妖精の章 二十四

 

 朝っぱらから従業員二人に店番を任せ、ソファで寝そべる店主。
 その傍では一人の少年が、向けられた背へ、何やら必死で訴えかけていた。
「頼む、ワーズ殿! 識の峰(しきのみね)まで連れて行って欲しいんだ!」
「はっ、なんでこのボクが? 人間でもないヤツの頼みを聞くなんて御免だね。そんなに行きたきゃ一人で行きな、フェイ・シェン。んでもって、さっさとくたばっちまえ」
「一人で行けないから、貴方に頼んでいるんだろ! 僕が心身ともに弱いって事は、貴方だってよく知っているじゃないか!」
「ああもう、煩い餓鬼だなぁ。大体お前は、泉嬢がピンチだった時、見捨てて行ったんだろう? それなのに、自分の望みだけ叶えようなんて……図々しいにも程があると、その弱いおつむでは分からないのかねぇ?」
 黒い背中からにゅっと現れた白い手が、フェイと呼ばれた少年へ、シッシッと追い払う仕草をする。
 それでもめげないフェイは、なおもワーズへ追い縋り。
 この光景を、ここのところ毎日見ていた竹平は、店側の足場に腰掛け、隣で似たような格好をして店番をする泉へ、率直な感想を述べた。
「なんつーか……休日にどっか連れてけって駄々捏ねるガキと、意地でもいかないつもりのぐーたらオヤジって感じだな」
「竹平さん……そんな、身も蓋もない。それにあの人、見た目は私たちより年下みたいですけど、私たちより長い時間を生きているそうですよ?」
「…………」
 言って、彼らのやり取りに、また目を向ける少女へ、竹平は気づかれぬよう溜息を付いた。
 自分は店の方を見やりつつ、膝に肘をつき、顎を片手で支えながら。
 コイツ……自分が妙なコト口走っている自覚、ないんじゃないか?
 奇人街での奇妙な齢の取り方については、竹平も聞いていたが、はいそうですか、と頷ける内容ではない。
 だというのに、同じ場所から来たはずの泉は、実にあっさりと、フェイの情報を告げてきた。
 挨拶回りのあの夜、クァンの店で出会ったという、彼の事を。

*  *  *

 クァンの店より先に、史歩の家へと向かった泉一行。
 しかし目的の彼女は不在だったため、後日改めて、という話になる。
 そうして辿り着いた店前。
 前触れも、脈絡もなく、ぼとっと猫が落ちてきた。
 これを見事キャッチした泉だが、べたり、肩から胸に掛けて張り付いた、芥屋以外の密室嫌いな猫に戸惑えば、店主がへらり、泉の胸へ銃口を向けた。
 ぎょっとするランを尻目に、泉は軽く眉を寄せただけ。
 そんな彼女へワーズは「君が一緒なら、猫はどこにでも行けるんだよ」と告げる。
 理由はさっぱり分からないが、とりあえず、このままでも良いらしいと知った泉はクァンの店へ入り。
 途端、接待の娘らが現れ、ワーズを見ては「げっ」と呻く傍ら、止める間もなくランを引き摺っていってしまった。
 手早く簀巻きにされ、猛獣用の轡をつけられ、涙目になって助けを求める彼へ、素早い動きについていけない泉が反応できるわけもなく。
 そんな彼女がはっと我に返ったのは、鋭利な気配を感じた時。
 ほぼ同時に、その場から大きく前へ跳べば、軌跡を追って、微かな風の音が泉のいた空間を切り裂いた。
 一体何が? と振り向いたなら、同じように困惑した表情を浮かべる史歩がそこにいた。
 ――振り抜いた白刃を手にして。
 猫を抱えていたせいで斬られ掛けた、と理解が及べばぞっとするが、挨拶回りの相手でもある。
「綾音如きに……私の太刀筋が見切られた、だと…………?」
 本気で斬るつもりだった言葉には絶句しながら、茫然自失のていを良い事に、泉は手にしていたクッキーの袋を史歩へ渡した。
「これ、遅ればせながら、ご挨拶に、と」
 泉の声が聞こえているのかいないのか、差し出された袋だけはしっかり受け取った史歩、早々にクァンの店を辞し。
 そういえば、史歩さん、どうしてこの店に居たのかしら?……お酒目当て? でも、あっさり帰っちゃったし……ううん、それより何より、こういう雰囲気のお店、あまり好きじゃないってイメージがあるんだけど。
 ふと湧き上がった疑問に首を傾げたなら、いきなり死角から誰かに抱きつかれた。
 生命の危機に関してのみ、勝手に動く身体の凡庸な動きによろけ、相手を見た泉は喉の奥で「ひぃっ!?」と鳴いた。
 いつもは気だるげな、青天の蒼を思わせる瞳が、ギラギラ脂っこい光を放っていたので。
 この店の経営者クァン・シウは、史歩に関する泉の疑問へ答えるよう、彼女を抱きしめたまま。
「あんだけ接待してやっても、史歩のヤツ、首を縦に振らなかったけれど……泉ンっ、アンタから来てくれて嬉しーわっ! これでつれない剣客様へ、芥屋のへテキトーな事言って、アンタを引っ張りだして来るよう頼むメンドーも」
「メンドーが、何だって?」
「げっ、芥屋の。アンタもいたのかい?」
 ああ、だから史歩さん、この店に居たのね。
 店主の介入により、クァンから引っぺがされた泉は、史歩がここにいた訳を知り、溜息を一つ。
 クァンが歌い手として、泉を未だ欲している事実に辟易しながらも、手元に残った最後の一袋を、店主との言い合いに今日も今日とて押され気味で、ちょっぴり涙ぐむ鬼火へ差し出し。

「こンの、クソガキがっ!」

「きゃっ!?」
 クァンが袋に気づく直前、言い合う二人と泉の間を、罵声と小柄な姿が、物凄いスピードで通り抜けていった。
 驚きと風圧に押され、短い悲鳴を上げた泉の身体がよろめく。
「ぅぐっ」
 次いで、入り口付近の壁に強く叩きつけられた少年から、鈍い呻きが発せられた。
 突然の事に動揺する泉を余所に、店側から伸びる影が彼に掛かる。
 合わせてそちらを見やった泉は、悲鳴を喉に乗せ、小さく一歩仰け反った。
 そこにいたのは、虚ろな目をした人狼の男。
 荒い呼気には酒が混じり、なんとも言えない生温いニオイが鼻を衝いた。
「っの、ガキ……人様のテーブルに潜り込んだばかりか、酌の一つもできねぇたぁ、舐めてんのか!? 下で喘ぐだけしか脳がねぇような面しやがって、気安く口を聞く態度も気にいらねぇ……へっ、いいぜぇ? 躾けてやらぁ。四肢を潰してからなっ!!」
 ろれつの怪しい語り口から転じ、未だ蹲る少年へ一喝した人狼は、泉達には目もくれず、ずかずか彼目掛けて歩いていく。
 気圧された泉がもう一歩退いたなら、少年が壁に叩きつけられる過程を男は通り。
 丁度、目の前を男が通り抜けようとした、当にその時。
「あっ! 駄目っ!!」
 あることに気づいた泉は、勢いのまま、人狼の側面を左手で目一杯突き飛ばした。
「ふぎゃっ!!?」
 予想だにしなかった衝撃に、対処し切れなかった人狼は、ワーズたちに向かって倒れていく。
 が、一連のやり取りを受け、言い合いを中断していた彼らが、大人しく人狼を受け止めるはずもない。
 さっとそれぞれ別方向に逃げ、人狼の身体を床まで導いていった。
 その際、受身すら満足に取れなかった人狼の腹を、ふらりと退いたワーズの黒い革靴が、容赦を欠片もみせずに踏みつけた。
「ふぐぅっ…………こ、このクソアマァ! 突き飛ばしたばかりか、踏みつけやがって!!」
「えっ!? ふ、踏みつけたのは私じゃないです! 濡れ衣です!」
「だとしても、突き飛ばしたのは、確実にてめぇってことだろうが!!」
「あっ! わわわっ」
 つ、突き飛ばしたことも、否定した方が良かった!?
 牙剥く形相に慌てつつ、突き飛ばす要因となった袋を拾う。
 よろめいた時に落としてしまった袋が、危うく踏まれそうになったため、咄嗟に及んでしまった凶行だが、元を正せばこの人狼のせい。
 かくして謝る気も生じず、逃げの姿勢へ入る泉に対し、起き上がった人狼は、剥いた歯の隙間から泡立つ涎を垂らして、憎悪の赴くまま腕を振り上げ――

「にー」

「っっ!!!?」
 至極面倒臭そうに、泉にへばりついた猫が、人狼へ金の瞳を投じる。
 途端、金縛りにあったように、人狼の動きが止まった。
 目を閉じる事も出来なかった泉は、次いで、緩慢に己を上から下と往復して見つめる人狼の、不可思議な動作に目をパチパチ。
 と、思えば、人狼は一歩、泉から後退する。
「お、前……虎狼公社の…………シウォン・フーリの女!」
「や、違いますけど」
 人狼への恐怖もなんのその、そこはきっぱり否定しておく泉。
 わざわざ虎狼公社という辺り、この人狼は別の群れに所属しているらしい。
 だというのに、知れ渡っている、勘違いも甚だしい己の立ち位置に、泉は状況も忘れて重々しく溜息をついた。
 拍子に思い出したのは、芥屋の奥さんと呼ばれた日々の事。
 ワーズさんにシウォンさんに、果てはエン先生が愛人って……これじゃあ私、まるで――
「マ、猫使いの人魚!!」
 泉の心を如実に表すが如く、彼女を指差し、人狼が絶叫した。
 人魚=魔性の女=自分、という図式には辟易しながらも、横行していると思しき噂を並べたなら、否定できる要素がなかった。
 ただし、“猫使い”の面だけはいただけない。
 すぐさま訂正を入れるべく、泉は「あの――」と言いかけ。
 あ、れ……?
 周りが異様に静まり返っている事に気づいた。
 指差す人狼を目の端に、ちらりとクァンの店を見やる。
 いつだったか、シイとランを伴い訪れた、あの時。
 この店はまだ準備中で、ボックス席を劇場造りに配置した景観は、薄暗い中に重厚さを備えていたモノだが、営業中の現在は、そこに華やかな灯りが加えられている。
 けれどそれは決して、店の内装を脅かす派手な色彩ではなく、幻想的な余韻を見る者に与える代物。
 ――は、置いておくとして。
 そんな灯りの下、店内では先程まで、雑談や音楽が行き交っていたはずなのだが、今はシン……と静まり返っていた。
 否、小声で交わされる話があった。

「あれが例の猫使い?……本当だ。本当に、人間だったのか」
「猫使い……てぇと、自分の餓鬼一匹助けるために、幽鬼他諸々、同族問わず猫に殺させたっていう?」
「いやいや、ありゃ、てめぇの餓鬼じゃねぇって話だぜ? 何でも、お気に入りの玩具だったんだとよ。しかも、だ。幽鬼の徘徊する町に、てめぇで放しておいて、逃げる様を愉しんでいたらしい」
「お、俺が聞いた話じゃ、あの娘をからかったヤツは、突然消息不明になって、程なくソイツの死体が凪海に浮かぶんだ……くわばらくわばら」
「私が聞いたのは、あの娘が凪海にいる時漁に出ると、必ず魚に喰われちまうって話だったわ。船で逃げようとしても、人魚が水中から腕を伸ばして引き止めるそうよ」
「比喩どころか、本当に人魚と通じているってか? そーいや、先の人魚騒動、あの娘の姿が色んなとこで目撃されていたってな。あの時の人魚は全部焼却されたって聞くが、するってぇとアイツは仲間を切り捨てたクチか」
「ワタシが聞いたところによると、あの娘は腕を収集しているらしいぞ。ほら、彼女の連れ合いと噂されるシウォン・フーリ。隻腕になった理由は、彼女に腕が欲しいとせがまれたからだそうだ」
「おや? そいつぁ、あたくしの聞いた話と違いますわね? あたくしが聞いたのは、収集ではなく、腕を喰らうという話でしてよ? しかも、同族・他種、関係なしに。おおこわ」
「そうそう、聞きまして? 芥屋の店主にシウォン・フーリ、ラン・ホングスの他にも、あの小汚い奇天烈人間やキフ・ナーレン、果ては中央の古木に至るまで、あの娘の手付きなんですってよ? まあ、芥屋の店主はギリギリ許容出来ますが、どう考えてもイロモノな輩まで網羅するなんて……流石は人魚といったところなのかしら?」
「しかも、あのシウォン・フーリが骨抜きと来た日にゃ……い、一度くらい、お相手願いたいモンだが、確実に死ぬよな」
「いいえ、それ以前の問題よ。だってあの娘、お手付きどころか、自分からは彼らに触れもしないって言うんだから。きっと、長い時間傍にいると、精神がイカレちゃうんだわ。それこそ人魚って感じがしないかしら?」

 等等。
 う、噂にしては、悪質な鰭が付き過ぎじゃありませんか?
 人狼男の叫びに反応し、ざわめく客たちへ泉はなんとも言えない表情を浮かべる。
 そうして、物陰から覗くその内の一人と目が合ったなら、「ひぃっ!」と強面の人間外に恐れ戦かれる始末。
 ちょっぴり凹んだ。
 しかして、それも長くは続かず。
「………………………………………………………………………………人魚?」
 小さな呟きに合わせ、人狼の背後が赤く揺らめいた。
 ぎょっとしてそちらを見やった泉は、俯き加減のクァンが、鬼火特有の炎を身に纏う姿を視界に納める。
 それも、いつも以上の火力で。
 天井を焦がすか焦がさないかの位置で舐める、立ち上る火柱の熱さに気圧され、泉は人狼から大きく距離をとった。
「く、クァンさん……? 何だか、機嫌悪くなったような……」
 ワーズを相手取った時よりも根深い、負の激情に恐る恐る呟けば、後ろから飄々とした声が届く。
「ん? 泉嬢、知らなかったっけ? クァンは人魚が嫌いなんだよ。自分の男を盗られたって思い込んでいるからさ。だからアレに、人魚って単語は禁句」
「わ、ワーズさん、いつの間に?」
 知らぬ内、人の後ろまで避難していた店主に身を捩る。
 と同時に、熱風がクァンのいる方向から巻き起こり。
「誰が、人魚だあああああああああああああっっっ!!」
「あ、アンタに言ったんじゃねぇよ!!?」
 引っくり返った悲鳴を上げる人狼へ、クァンの炎が文字通りの牙を模り、襲い掛かった。
 これを巧みに避ける人狼は、すっかり酔いの醒めた顔つきで、出口から早々に店を出て行く。
「くそっ、逃げやが…………って、ああっ!? しくじった! あの野郎、金払ってない! ああ、くそっ!! 食い逃げ呑み逃げ、上等だコラァ!! 次、どっかで会ったら憶えとけ! チンケなカスも残らねぇほど、燃やし尽してやるよっ!!」
「く、クァンさん、柄悪……第一、逃げる原因作ったの、クァンさんなんじゃ?」
「ま、いいんじゃない? それでこの店が廃れてくれりゃ、ボクは嬉しいくらいだし。尤も、今のヤツの顔、鬼ババアが覚えていられるとも思えないけどね」
「……聞こえているよ、糞ガキ」
 へっと鼻で笑ったワーズに、激昂を堪えた低い音が向けられた。
 今度はワーズが標的になってしまうのかと怯えた泉は、離れる代わりに黒い袖をきゅっと握り締めた。
 けれど予想に反し、再び目を合わせた鬼火は纏う炎を消し去った姿で、仰々しい溜息をつくのみ。
「はあ……マジでしくじった」
「ククク。だろうねぇ、クァン・シウ。もっと早く、アレを燃やしておけば、お前の企みもまだ実行の余地があったかもしれない……なんて事はないだろうけどさ?」
「へ? な、何のお話ですか?」
 袖から手を離し、ワーズの方を泉が向けば、赤いマニキュアの指が店側を示す。
「泉嬢をココで唄わせるのが不可能に近くなったって話さ。ま、元々不可能には違いないんだけど……さっき、人狼が猫を抱く君を指して叫んだでしょ? 奇人街ってのは、場所柄、少しくらいドタバタしてても誰も見ない。殴り合いなら、野次馬もあるだろうけど、一方的なモノや言い合い程度なら無視するんだよ。でも、全員が過敏に反応する言葉がある。それが、猫」
「にー」
 店側から移動してきた指先へ、煩わしそうに猫が鳴いた。
「「「「「っ!!」」」」」
 途端、小さなざわめきが息を呑む音を経て、艶やかな色彩の下、異様な静寂を作り上げた。
 思わず泉までもが息を呑めば、クツクツ笑うワーズの代わりに、足下近くまである長い白髪をかきあげ、クァンが先を続けた。
「そうさ。しかも、猫は本来、こういう密室に来られないって話なのに、アンタと一緒なら大丈夫、なんて知られた日にゃ……集客どころか、客なんて一人も入らないだろ? ほら、見なよ。出入り口にアンタがいるからじっとしているけど、連中、本当はアンタのいるこの店から出て行きたいのさ。ってなわけで――」
 おもむろに拳を握り、親指を立てたクァンは、それをくいっと後方、出入り口へと向けて言った。
「帰っておくれな。アンタたちがいちゃ、商売にならないからさ」
「クァンさん……」
「……そんな顔しないで、泉。用があるんなら、後日改めて、アタシがそっち行くから」
 自分がどんな顔をしているかは分からないが、苦笑するクァンを見るに、泣きそうな顔でもしているのだろう。
「……はい」
 静かに頷いた泉だが、手にした袋の感触を思い出し、コレを軽く握り締めた。
 クッキー……ここで差し出したら、迷惑、よね?
 息をつく代わりに袋を持つ手を下げ、刺さる視線を背後に出て行く。
 と。
「……き、君、ちょっと待って!」
「ひゃっ」
 泉が扉に手を掛けたところで、逆の手首を軽く握られた。
 驚き見やれば、先程まで蹲っていた少年が、不思議な瞳の色をこちらに向けており。
 白目の部分が黒って初めて見たわ……
 やや惚けた感想を抱く泉へ、彼は構わず訴えかけた。
「君、あの時、物陰に攫われていった子だよね? 白い爪の人狼に!」
「え……と、ああ、あの時…………見ていたんですか?」
 気安く声を掛ける割に、物陰からシウォンに連れられた際、見て見ぬ振りしたと思しき言。
 自然と泉の眉間に皺が寄ったなら。
「あれ? アンタ、誰かと思ったら、シェンとこの御曹司じゃないの」
「クァンさん、お知り合いですか?」
「え、まあ、知り合いってぇか……いや、それより、話だったら外でしておくれ。これ以上は」
「あ……はい、すみません」
 声を潜めたクァンの様子を受け、出て行く途中だったと思い出した泉は、再度、扉に手を当て。
「…………あの、手、離して貰えませんか?」
「えっ!? あ、ああ、御免」
 何かに意識を移していたらしい少年は、慌てて泉から手を離した。
 と思えば、またも手首を掴み。
「いや、そうじゃなくて、僕は君に頼みがあるんだ」
「へ? 頼み?」
「うん。……どうか、どうか僕を」
 ここでぎゅっと手首を掴む手に力が籠もる。
 華奢な指の力は、泉でも簡単に振り払えるほど弱いが、反転した白目部分の中にある金の光は力強く、無下に出来なかった。
 これに安堵してだろう、吐息が少年の呼気を震わせたなら、彼は言う。

「僕を、男にして欲しい」

「………………………………………………………………………………は?」
 一瞬、凍りつく空気。
 自分だけが作ったわけではないだろうその中で、理解を拒む泉は、ぱくぱく口を開閉し。
 そんな彼女の反応に、少年は真剣だった表情を段々弱らせ、瞬きを繰り返した。
「…………あ、あれ? え、ええと…………あっ! ち、違う! そういう意味じゃなくて!!」
 自分の言がどう受け取られる類の代物か、遅れて気づいた少年は、手と首をぶんぶん横に振った。
 否定を為された泉は、ほっとして胸を撫で下ろし。
「僕を、騒山(そうざん)の識の峰まで連れて行って欲しいんだ」
 ……ソウザン? シキノミネ?
 改めて告げられた言葉の意味が判らず、きょとんとした表情が泉の顔に浮かんだ。
 そもそも、何故、連れて行って欲しいと頼む相手が自分なのか分からず。
「お願いだ、人魚。奇人街最強の猫まで操れるという君に、是非、頼みたいんだ」
「…………」
 人魚嫌いのクァンには、決して届かない声量でそう言った少年に、泉は訂正より先に、軽い溜息を吐き出した。

 

 


UP 2009/7/30 かなぶん

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