妖精の章 三

  

 夢を見ていた。
 それは、遠い昔の夢。
 色づいた世界、華やぐ風に包まれて。
 けれど、知ったのは知らないままで居たかった、真実――――

 クン……と鳴らした鼻。
 嗅ぎ取った、知らぬ場所のニオイと、よく知った匂い。
「……起きた?」
 届いた声は、知った匂いから。
「…………何故」
 私はここにいる?
 お前なんぞの処に。
 続かぬ言葉を引き継ぎ、相手が呆れた溜息を付いた。
「何故って……あんなところで倒れてたんだから、当たり前だろ?」
「……また、拾われたわけか」
 抑揚のない声で言えば、相手から手が伸びたのを感じた。
 顔に掛かった髪を避けようとしていると知り、先回りに自分の手をそちらへやる。
 素知らぬ風体で髪を払うと、相手は首を振って溜息を一つ。
「全く。内臓破裂に複雑骨折。地面に陥没していたから分かりにくいけど、血も肉片も多量に飛び散ってたし。身に羽渡が入ってなきゃ、確実に死んでいたぞ」
「ふん。そう易々と死んでたまるものか。我が種の成就はまだ果たされておらん」
「またそんなこと言って……相手が悪いって、まだ分かんないのか、お前は」
 油断していたわけでもないのに、ぺちりと弾かれた額。
 ムッとして押さえたなら、仰々しい息が相手から漏れた。
「実際問題、あの男たちのどこがそんなに良いんだ? 種族も地位も申し分ないが、性格はどちらも難ありだろ? 片や男好きの中年、片や人間好きの人間外嫌い。そりゃ、お前は僕たちより、彼らに近しい位置に居るかも知れないが……傍から見てると、すっごい滑稽だぞ?」
「……それで? それがお前にどう影響を及ぼすと?」
「……そりゃ、影響はないだろうけど」
 尻すぼみになる相手の回答を受け、口の端がにぃ……と皮肉げに上がった。
「安心していいぞ? お前が所望する我が血肉、どうあっても最終的には届くのだから。約束は果たす。なればこそ、文句はあるまい? 私がどの男を選ぼうが」
「……まあ、それはそうだけど」
 はっきりしない、愚痴るような話し方。
 苛々する鬱陶しさを感じ、身を包む柔らかな布を引っ張り、相手へ背を向けた。
「眠い。言いたいことがあるなら、後にして貰おう」
「あ、うん。分かったよ」
 背中の気配は、素直にそう頷いたが、いつまで経っても去る素振りを見せない。
 呆れた溜息はこっそり枕へ零し。
「心配せずとも逃げはせん。見張ってなくとも良いぞ?」
「……そういうつもりじゃ、ないんだけど」
 困惑な声音に続く、頬を掻く音。
 息で思いの全てを払い、椅子を引く音を立てて、相手は立ち上がる。
 それでもそちらを向かなければ、一度歩みかけた足が止まった。
 やっと一人になれると、つきかけた息が呑み込まれ。
「君は……まだ、ツェン・ユイを覚えてる? 君が拾ったあの子ども……いや、今はもう――」
「……何の話だ?」
 相手の語る名を理解出来ず、眉根が寄った。
 残ったのは、拾った子ども、という言葉。
 いつかの己に似た、笑えるほど小気味の良い音だった。
 いぶかしむ傍らで、口の端を持ち上げたなら、背を向けているような遠い声音で相手は言う。
「やっぱり、忘れてるんだ。……いいや、何でもない。じゃあ、治るまでゆっくりしていけよ。お休み、緋鳥」
「…………」
 扉の開く音を背に聞く。
 躊躇う間を置き、閉まる音が重々しく響いた。
 本当は、とても軽い音だったのにも関わらず。
 震えて、しまった。
 見捨てられるような思いを不覚にも抱いて。
 八つ当たりで枕を一つ、扉に投げつけては、低くなった頭ごと身体を小さく丸め、緋鳥は眠りにつく。

*  *  *

 頭がふわふわする。
 けれどそれは決して不快なモノではなく。
 ゆるゆる視線がたゆたい、辿り着く先は決まって彼の人。
 最近では、すっかり自分の寝床となってしまったソファに深く腰掛け、ぼんやりその黒い背を見つめていたなら、白い面が振り返った。
「泉嬢、待ってね。もうすぐご飯が出来るから」
「……はい」
 へらり笑う顔に合わせ、ふにゃっと頬が緩む。
 同時に、酷く幸せな気分を味わった。
 これは今に限らず、ここのところずっと続く現象。
 その都度、何故、という思いが巡る。
 何故、彼が自分に気づいてくれただけで、こんなにも嬉しいのか。
 何故、泣きたくなるくらい、恐ろしい、満ち足りた時を感じるのだろうか。
 いつだってこの人は、私を――人間を気にかけてくれているのに。
 まるで、元居た場所に戻ったような感覚だった。
 あの場所で、得た、あの人と、共に、在った、時間の――
「………………あの、人?…………て、誰……?」
 途端、消え去る、幸福の感触。
 後に残るのは、寒々しい思い。
 毎回、何故と考えた先に待つ、空虚な胸の内。
 表情を失くし、背もたれへ頭を預け、宙を仰いだ。
 見るともなしに見つめるのは、木造の天井と昼ではまだ明かりのない、古ぼけた電灯。
 少し前までは全く分からなかったが、今の自分が可笑しいのは、何となく、分かるようになっていた。
 もし、きちんと残っている今までの記憶を、この可笑しな状態から脱した自分が振り返れば、羞恥から身動き一つ取れなくなるだろうということも。
「御免くださーい」
「おう……って、あんたか」
 そんな声が聞こえて、天井に向けていた視線を右の店側へと向けた。
 奥のくすんだ陽から現れた、冴えない顔つきの青い着流し姿の男が、こちらへ背を向け座る、赤い髪の赤い衣の少年へ、気弱な表情を浮かべていた。
「あんたか……って、夜と昼とじゃ、随分、対応違わないか、お前」
「るせーな。んなこと言ったら、あんただって、昼と夜とじゃ外見のギャップ、激し過ぎるじゃねぇか。まあ、中身同じってのが、救いなんだか、間抜けなんだかって話だが」
「……同じ中身と知りつつ、夜じゃへっぴり腰になるお前に言われたかない」
 気安いやり取りの内容は、結局どっちもどっちという話なのだが、この二人にとっては、常に相手の方が情けないらしい。
 しばらく、どちらも似たような言葉で貶しあった挙句、着流しの男がじっと見つめるこちらに気が付いた。
「あ……こ、こんにちは」
「こんにちは……ランさん」
 表情のないまま、軽い会釈だけをする。
 名前まで間が開いたのは、相手の名をど忘れしていたためだ。
 不思議な食材を口にして以来、台所で調理する彼へあらゆる意識を費やしているので、どうも他に対する認識が薄くなっていた。
 彼が口にした直後の名や言葉は鮮明に思い出せるのだが、しばらくするとすっぽり抜け落ちてしまう。
 しかし、相手はそんな事情を知っているのかいないのか、ほっとした息を吐いて、どう足掻いても冴えない顔を、灰色の髪の下で笑みに彩る。
「だいぶ良くなったみたいですね、泉さん。前に来た時はワーズにべったりだったし」
「ワーズさん……はあ、そうでしたか?」
 彼の名を口にしただけで、身を柔らかく包まれる感覚を受け、無表情だった顔が微笑んでしまった。
 これへ着流しの男は苦笑を示し、振り返った赤い髪の少年は茶の瞳で、じろりとこちらを睨んだ。
「まあ、確かに前よかマシだが。べったりってのは変わんねぇよ。今は炊事の邪魔になるから離れてるだけで。食事もまだワーズからのしか受け付けねぇし。全く、少しはこっちの気も察しろっての」
「ふーん。まだ癒えないのか、失恋の痛手」
 さらりと吐かれた言葉に、赤い髪の少年がピシッと固まった。
「ぐっ…………そ、そういうお前はどうなんだよ」
「何が?」
 意地悪く笑む、少年の綺麗な顔を下から受け、着流しの男が若干たじろいだ。
「最初会った時、ようやく逃れて来たって言ってたけどよ? 前に来た後で、また不自由強いられてたって、クァンから聞いたぜ?」
「うっ……く、クァン、まだ緋鳥のことで怒ってるのか?」
「緋鳥……って、あの妙な奴のことか。あー、猫の攻撃で地面にめり込んでいたからクァンは助けようと思ったのに、ランが放置を提案して。んで結局、後でクァンが見に行ったらいなくなってた、っていう」
 掻い摘んで話す少年の表情は苦いモノであったが、これを言われた着流し男はそれ以上に苦い顔を浮かべていた。
「言うなよ。風の噂じゃ、どっかで保護されたって聞いたけど」
「でも、あいつ、合成獣とかいう種族なんだろ? 史歩の話じゃ、合成獣ってのは……美味って聞いたぞ?」
 益々少年の顔が歪めば、今度は困惑を浮べる男。
 頬を掻きつつ。
「うん、まあ。いや、でも、緋鳥は三凶だし、羽渡も身体に持ち合わせているから、余程の命知らずじゃなきゃ、解体しようなんて思わないと思うんだけど」
「解体……本当に、嫌な街だな。そういう言葉がさらりと出てきやがる。しかも住人相手で……ところで、そのサンキョウってのは? ワタリとかも初めて聞いたから、さっぱり分かんねぇんだけど」
「あ、そっか」
 小首を傾げる少年に金の目を丸くした男は、頭を掻いて言葉を探す風体。
「えーっと、三凶ってのは、要するに、喧嘩を吹っ掛けちゃいけない相手って意味だな。とりあえず、死ぬの前提になるから」
「……へぇ」
「この言葉自体は結構前からあるんだけど、今現在、三凶の地位にあるのは、緋鳥の他に史歩」
「ぃいっ!? ま、マジか? 俺、あいつに色々教えて貰ってんだけど?」
 少年が思いっきり仰け反れば、男は慌てたように言葉を付け加える。
「いや、面倒見は良いんだけど、一度機嫌を損ねると厄介でさ。あいつ、手を払い除ける要領で人の首刎ねるんだよ。ちなみに、三凶って言ったら機嫌悪くなるから、史歩の前じゃ言わないように」
「……とんでもねぇ女だな。美人なのに」
「……全くだ。美人なんだけどな」
 どちらともなく、惜しい人を亡くしたもんだ、とでも言うような、辛気臭い溜息が吐かれた。
 史歩、と呼ばれた少女をふっと思い浮かべ、すぐさま消えようとするその袴姿に、当人が聞いてたら間違いなく怒るだろうと想像する。
 あまりにも真実味を帯びて再現された想像は、袴姿の記憶はもうないのに、刃の冷たい記憶を首へと押し当てた。
 それも霞の如く消え去れば、少年と男の会話が再開される。
「……ん? 三ってことは、もう一人いるんだろ?」
 知人に殺人狂がいたと知らされた怖気を払うように少年が問う。
 対し、男は複雑な表情を貧相な相貌に乗せた。
「いる……というより、いた、かな。人狼、なんだけど……前回の人魚騒ぎの時、腕を跳ね飛ばされてさ。今は療養中だけど、片腕失ったから、下克上狙いで色んな奴に襲撃されそうなんだよね」
「そうか……人魚関係ってことは、俺にも一因があるんだろうな」
 思い耽り項垂れる少年に、男は失敗したと慌てて弁明を図る。
「いや、気にしなくていいと思うよ? あの人、三凶って呼ばれるようになってから、誰も自分のトコに来ないって嘆いてたし。根っからの喧嘩好きで性格悪いから、襲って来た相手全員、嬉々としてのした挙句、虐め抜いて殺すの愉しめるって、悦んでるくらいじゃないか?」
「……ありがとよ。全然、慰めにならねぇのが凄いな」
 捲くし立てる男へ、少年が疲れた吐息を漏らす。
「え? あ、そう? うん、ありがとう」
「…………」
 次いで少年が浮べるのは、照れくさそうに礼を述べる男に、言いたいことが山ほどあるような顔つき。
 全て呑み込んだ沈黙が保たれれば、男は話を続けた。
「まあ、そんな訳で、三凶は今のトコ、ニ凶、って話で」
「緋鳥って奴が無事じゃなかったら、史歩だけってことになるよな」
「……そこを蒸し返すな。で、羽渡というのは、頭さえ無事なら、身体を幾らでも再生出来る種族のことだ。ある意味、とっても奇人街向きの奴らだな」
「奇人街向き?」
「ああ。身体を売るんだよ。比喩じゃなくて、本当に、頭から下を、こう、すぱんっと」
「げ」
 少し伸び気味の男の爪が、自身の首を横に薙いだ。
 少年から上がる短い呻き。
「でもさ、やっぱり痛いらしいんだ。しかも、もう一人誰かいないと売りに出せないし。だから、羽渡って関係はどうあれ、ペアが基本なんだ。ある程度親しい奴じゃないと、そこまでしなきゃならなくなった場合、頭まで売られる可能性あるからさ」
「…………なんつーか、聞くだけで胃の痛くなる話だな」
 げっそりする少年。
 男は愛想笑い。
「まあ、そんな訳で、緋鳥は無事だと思う。それに――――」
「御免くださいっす」
「お、いらっしゃい」
 続けようとする男の話を遮り、赤い髪の少年は彼の後ろからやってきた、そばかすの浮いた三白眼の少年へ声をかけた。
 白髪の一房伸びた後ろを縛った、濃紺のスーツ服姿の少年は、客としての扱いを手の振りで違うと示し、彼らへ一礼。
 こちらへ気づいては、ほっとした表情になった。
「お久しぶりっす、綾音サン。ここんとこ、戸締り厳しくて、誰も綾音サン見てないから、ちょっと心配だったんすよ……特に親分が煩くて」
「……ああ、そういえばシウォンの奴…………」
 三白眼の少年が余所へ文句を零せば、着流しの男は憐れむ目で彼を見つめる。
 これを取り除くように少年は溜息を吐き。
「失った部分は戻りませんが、腕の調子はもうイイんすよ。ただ、何度も脱走繰り返すし、女も呼ぶし、酒も煙も持ち込むから、とうとうエン先生がぶち切れちまって。あと一週間は絶対安静って、強制的にベッドに縛り付けられまして。まあ、それも今日までで、明日がいよいよ退院なんすけど」
「なるほど。それで敵情ならぬ……って訳か。大変だな、お前も」
「ははははは……そうっすね。別の仕事なら喜んで引き受けるんすけど。でも、良かった。綾音サン、元気そうで。これでオレも安心して親分へご報告に――」
 男と少年のやり取りを見ている内に、ようやく、三白眼の少年の名を思い出した。
 ついでに、片腕を失ったという親分の名も思い出せば。
「泉嬢、ご飯だよ?」
「ワーズさん!」
 視界を通った腕を知り、元を辿ると見つける、開かれた黒い胸。
 掛けられた声により、一切が彼方に吹き飛んでいった。
 他の眼なぞ気にもせず、思いっきり首へ抱きつけば、ひょいと両足が彼の片手に掬われる。
「えええっ!!? な、な、な、何が、どうなって!?」
「うわー……本当だ。……報告、頑張れよ、司楼」
「…………さて、俺も飯か……はあ」
 外野が何かを喋っているが、聞き取る耳はなく、ふらふら身体を運んでいく彼だけを一心に見つめる。
 椅子に落ち着いたなら、彼が食べ始めるまで、膝の上でじっと待ち。
「いただきます……はい、泉嬢?」
 あーん、と運ばれるスプーンを口に含んでは、咀嚼。
 呑み込み。
「美味しいかい?」
 尋ねられ、コクンと頷いた。
 それから続く食事風景に他はなく、ただただ彼のへらりとした白い面だけがあり。

 これ以上の幸せを彼女は知らない。

 

 


UP 2009/2/23 かなぶん

修正 2010/8/9

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