妖精の章 三十

 

 未だしとしと降り続く雨を余所に、泉がちょっとした絶望感を味わっていると、程なく隣から声が訪れてくる。
「どうしたの、スイ?」
 とほぼ同時に、覆う手の隙間から包帯巻きの顔面が覗いた。
「のわっ、え、エン先生……」
 思わず仰け反った泉に対し、いつの間にか目覚めていた医者は、隣に腰掛けた状態で下から覗くという、何とも奇天烈な格好で首を傾げる。
「具合悪いの? 我慢したら駄目だよ?」
「い、いえ、そういうわけでは……」
 心配する言は嬉しくとも、身体を捩れるだけ捻った無理矢理な姿勢は怖い。
 加え、問い掛けるエンの顔の近さは、煙管の先を横にしていることから分かるように、御互いの息が掛かりそうなほど近く。
「しゃ、喋り辛いので、離れてもらっても?」
「あ、うん。そうだね」
 言えばあっさり引いてくれるエン。
 泉はほっと息をついたが、彼の心配が完全に晴れた訳ではない。
 ぺたり、断わりもなく額に張り付く包帯の手。
 医者という職業にしては、些か頼りない熱計りの仕草を受け、きょとんとした表情が泉に浮かんだ。
「エン先生? 本当に私、大丈夫ですよ? 逆にエン先生の方が心配なくらいで」
「私? どうして?」
 額から手を離したエンが煙管共々斜めに傾ぐ。
 ふわりと漂うほろ苦い煙の香りに、咳に似た苦笑が泉から零れた。
「だって、眠ってからそんなに時間経ってないじゃないですか。昨日は徹夜だったんですよね? それならまだ眠いはずじゃ」
「ううん。たっぷり眠れたよ? スイの傍だからか、いつもよりぐっすり」
 傾げた右頬に両手を合わせた甲をくっつけ、枕に擦り寄るが如く首を振るエン。
 仕草自体は可愛らしいモノだが、上背ある包帯巻きの男がすると、下手な怪談より余程怖い。
 中身がエンでなければ、一目散に逃げ出したくなる不気味さである。
 うつらうつら船を漕いでも結局眠らなかった泉は、そんなエンのたっぷり表現に似つかわしくない睡眠時間を思い、大きく目を見開いた。
「ぐ、ぐっすり?……あの、エン先生? 先生って、いつもはどのくらい、睡眠時間を取っていらっしゃるんですか?」
「どのくらいって……うーんと、このくらい?」
 言いつつ、エンは拳一つ分間を置いて、両手を向かい合わせた。
「え、えと……」
 長さや大きさの答えならそれで十分だが、泉が問うたのは睡眠時間である。
 物質ではないモノ相手、何を基準にして「これくらい」と示されるのかが分からなかった。
 時計もなく、時間間隔が大雑把な奇人街。
 それでも時間を計れないわけではないので、泉は再度、言い方を変えて接してみた。
「その、もう少しで夕方になりますけど、何時間も寝ていないのでは?」
「うん?…………あ、もしかしてスイは、私がいっつも何時間寝ているのか知りたかったの?」
「へ?……は、はい。そうです、何時間寝ているのかが知りたかったんです」
 どうやら「どのくらい」と聞いたのが拙かったらしい。
 エン先生、変なところで細かいのね。
 妙な気疲れを感じて吐息を漏らせば、少し考える素振りをしたエンが、指を四本突き出して答えた。
「大体三時間くらいかな?」
「え……と、エン先生? 指、四本ですけど」
「うん? 私の指は五本あるよ?」
「…………………………いえ、やっぱり何でもないです」
 指摘の仕方が可笑しかったのか。
 自分の説明力に段々自信がなくなっていった泉は、仕切り直しとばかりに愛想笑いを浮かべてみせる。
「睡眠時間三時間、ですか。随分短いんですね?」
「うん。たくさんは寝たくないんだ。夢を……見るから」
「夢……?」
「うん。お父さんが、死ぬ夢。何度も何度も、赤く染まって――」
 夢の話を口にした途端、酷く空虚な声音が包帯越しに届いてきた。
 語る言葉もどこか狂気染みた響きを孕み、今にも崩壊してしまいそうな儚さをエンに纏わせていく。
 そうか。エン先生のお父さんは、もう……
 死と赤。
 通ずる記憶を持つ泉は、炎で焼け爛れた赤い瞳の男を思い、それを為した己に小さく唇を噛んだ。
 弱肉強食が基本の奇人街だとしても、纏わる者の死は重く圧し掛かる。
 縁者ならば尚の事、悼みは強く、深くなるだろう。
 もしかしたら、当たり前だと断じられてしまう分、住人の方が辛いかもしれない。
 世間と自分との差異ある哀しみは、自身で慰めるしかないのだから。
 なればこそ、エンにその話題を与えてしまった泉は別の言を紡ぐ。
 エンの意識をこちらへ戻すために。
「……そういえばエン先生って、どのくらいの時間を過ごされているんですか?」
 真っ先に浮かんだのは、つい先程会ったばかりだというのに、鮮明な姿で思い出せるシウォンの娘、ニア・フゥの事。
 常では静寂をもたらす雨の中にあって、これを吹き飛ばすくらい快活だった彼女の存在は、不思議と泉に元気をくれた。
 そんなニア曰く、エンは泉より後に生まれたらしいが。
「…………私の、時間……過ごして来た、時間? どのくらい……」
 包帯巻きの顔面では分かり難くとも、次第に合わされる焦点を泉は声音で感じ取った。
 依然、暗い過去を抱えていても、本来の調子を取り戻す気配に安堵し――かけ。
「うんとね、このくらいだと」
「いえ、そーじゃなくて。何年くらいかな、と」
 またしても両手の平を向き合わせ、今度は拳三つ分の空間を設けて示すエン。
 自分の失態に気づいた泉は、被せて表して欲しい単位を告げた。
 するとエンは何やら困った様子でウンウン唸り。
「何年? うぅん?……スイは何年くらい?」
「え、私ですか?」
 いきなり質問を質問で返す暴挙に出たエンに対し、泉は目を瞬かせた。
 泉の元居た場所では女性に齢を訊ねるのは御法度、という風潮があるため、ストレートに訊かれる事はほとんどない。
 元より、高校指定のセーラー服を着用していれば大体の年齢が分かるので、泉自身がそういう場面に出くわす事もなく。
 ……でも一度だけ、訊かれた事があったわ。
 ふいに瞳に落ちる陰が映すは、元居た場所の、ある日の自分。

 自暴自棄になっていた肩に触れる、無骨な手。
 振り返ればそこに、一見すると生真面目なスーツ姿の男。
 さも心配している口振りで「こんな時間に……君、幾つだい?」と問いかけてくる。
 裏腹に、全身を這う視線は未発達の胸や腰を掠めつつ、覗く柔肌に注がれていた。
 ざわりと肌が粟立てば、唐突に握られた手、そこから伝わる紙幣の感触。
 もう一方の熱い手が、馴れ馴れしく肩を引き寄せ――

 込み上げた、不快。

「スイ?」
「!」
 あだ名で呼ばれ、いつの間にか俯いていた顔を上げれば、身を乗り出すようにして近づいていた包帯巻きの顔があった。
 至近のホラー感には若干頬を引き攣らせつつ、エンの両肩に手を置いた泉は、これを軽く押して項垂れた。
 深く、息を吐き。
 もう二度と、一時でも誘いに乗りかける事がないよう、自分に言い聞かせる。
 いつ思い出しても危うかったあの時の怖気は、誘う手を振り払っても未だ泉の中に在り続けている。
 否、在り続けなければならないと肝に命じ。
 エンの肩から手を離しては、身を起こして笑いかける。
「何年、でしたよね? 私は、十六年です。生まれてから十六年、経っています」
「生まれてから? 生まれてから何年っていうお話だったの?」
「……は?」
 思わぬ疑問符を耳にし、落ちた陰が瞳から完全に消え去った。
 代わりに怪訝が泉の表情を象ると、彼女より大きな身体のエンがビクッと震えてしまう。
「す、スイ、怒った?」
「え……いえ、怒ってはいません。ちょっとビックリしただけで。……そんなに怖い顔をしていましたか?」
「ううん。でも、嫌われたのかと思って怖かった」
「嫌いって……発想が飛躍し過ぎですよ」
「じゃあ好き?」
「え?」
「私の事、好き?」
「え、えと……」
 先程までの怯えはどこへやら、ズズイと身を乗り出すエンに、泉は困惑を表情の下地にして口角を持ち上げた。
「あ、あの、いきなりどうされたんですか?」
「もうっ、いいから答えて! スイは私の事好き? 私はスイの事が大好きだよ?」
「ええと、その……」
 段々ムキになって告げてくるエンの様子に、泉はしどろもどろに視線をあちこち散す。
 軽くでも良いから「好き」と応じれば良いモノを、とある人狼の頂点さんが脳裏を過ぎっては、ヘタな返事が出来そうにない。
 エンの「好き」が親愛に近い響きだと分かっていても。
 するとエン、焦れたように泉の両肩へ手を置くと、ゆさゆさ前後に身体を揺すり始めた。
「ぅえ、エンっ先っ生!?」
「言ってぇ言ってぇ、好きって言って! 言ってくんないとヤダぁ!!」
 上を向いて駄々を捏ねる医者。
 ブレる視界の中、呆れ返って泉が叫ぶ。
「こ、子どもですかっ、あなたは!?」
「子どもでもいいもんっ! 物心ついてから十年くらいだから、条件分かんなかったら、まだちゃんと子どもだったもんっ!」
「じゅ、十年? 物心ついた時って、生まれてっからはっ?」
「そんなの知らないよぉっ! だってお父さん、大雑把な性格で、正確な年数計ってくれなかったんだもん! だからスイに何年って聞かれた時、どう答えればいいのか分かんなかったのぉっ!」
 質問を質問で返してきた理由は分かった泉、ニアの言っていた事も正しいと知れたが、ふと疑問が生じる。
 物心ついてから十年ならば、少なく見積もっても十三歳くらいだろう。
 しかし、これを自分に置き換えた場合、エンの言動は医者としての手腕を除くと、それ以上に幼い気がした。
 一般的に男より女の方が精神的に早熟と聞くが、それにしたってこの幼稚さはないはずだ。
「で、え、エン先生? 物心ついた時って、ど、どのくらいの、身長っ、だったんですかぃっ!」
 泉は生じた疑問から、激しい振動の中で言葉を引っ張り出す。
 と、ぴたり、エンの動きが止まった。
 泉の肩には手を置いたまま、くらくらしている彼女を尻目に首を傾げたエン、店の鮮魚箱へと視線を投じる。
「どのくらい?……うんと、このくらい?」
 エンの片手が鮮魚箱よりやや低い位置で固定された。
 示された高さで推測するに、やはり少なくて十三、多くても十四が、エンの過ごした年数らしい。
 今までの経緯から、両手で長さを提示されると思っていた泉は、分かりやすい表現にほっと一息。
 次いで、片手が置かれた肩を思い出したなら、両手で教えられていた方が逃げやすかったと気づき。
 ――直後。
「そんなことよりっ」
「ぐげっ」
「スイ、私の事好き!? 私は大好き! だからスイも好きなの、じゃないと駄目なの!」
「じょっ、え、エン先生っ、服引っ張られるどっ、く、くび、首がひ、ひまりゅぅ〜っ!!」
「やぁだぁー! 怖いのー! 好きじゃなきゃ、離れちゃうから嫌なの!!」
「っ…………ろ、ロープ………………」
 まともに呼吸が出来ない泉は、救いを求めて誰もいない鮮魚箱に手を伸ばし。
 気づかないエンはぎゃあぎゃあ喚きながら、依然として泉を揺らし続ける。
 そうして徐々に、泉の意識が朦朧としていったなら。
「にゃっ」
「きゃうっ!?」
 何があっても泉の膝の上で丸くなっていた猫が、しなやかな尻尾を鞭のように振るい、エンの顎下をべしんっと打ち付けた。
 拍子で泉から手を離し仰け反ったエンを横目に、猫はフンッと鼻を鳴らした。
「け、けほっ……」
 解放を得て泉が咳き込んでも、靄の獣は彼女を振り返らず、地面に降り立っては尻尾を優雅に振った。
 まるで興醒めだと言わんばかりの仕草である。
 事実、そうだったらしい。
「ま、猫?」
 泉が咳をしながら呼ぶと、初めてちらりとこちらを向いた金の瞳は、続いてフワァ、と大きな欠伸をする。
 煩くて眠れない、とでも言うように。
 それでも泉の傍は完全には離れ難いのか、何かを待つ素振りで彼女の眼をじーっと見。
「ふぅううう……痛い、痛いよぉ」
「え、エン先生、大丈夫ですか?」
 顔を両手で覆っては、めそめそするエンに視線を移した泉。
 これへ小さく、人間臭い溜息を零した猫は、少しだけ気落ちした様子で店の外へと去って行った。

*  *  *

 余りにも痛いと連呼する医者に対し、泉は慰めるように頭を撫でなで。
 すると感極まってか、がばちょと腕を広げて抱きついてくる包帯男。
 上げかけた悲鳴を呑み込んだ泉は、身動きが取れずにエンの腕の中に納まってしまう。
 かといって、愛を囁くわけでもない自称・泉の愛人は、彼女の肩に顎を乗っけると「ひぃ〜ん」と毒気の抜かれる声で泣き始めた。
「痛いぃ、叩かれたぁ」
「あー、はいはい、痛かったですね、でもすぐよくなりますからね。猫に叩かれて、それだけで済んだのだから大丈夫ですよ」
 もしも猫が本気だったら間違いなく、エンの首は吹っ飛んでいただろう。
「ううぅ……」
 無事な姿を喜ぶように背中をぽんぽん叩いてやれば、痛む顎を肩に擦り付けるエン。
 傍目から見ると襲われかけている状況なのだが、今の泉の目にはエンが幼い子どもとして映っていた。
 これじゃあ、愛人っていうよりお母さんと子ども、ううん、保母さんと園児みたいだわ。
 エンと接している内に、何となく察してはいた自分の立ち位置。
 しっかり評価を下したなら、泉は小さく吐息を零した。
 お母さん、か……。
 そういえばエン先生、さっきからお父さんの事しか口にしなかったけど――。
 母親の有無にぼんやりした泉だが、その口から問いが現れることは終ぞなかった。
 語られない事柄に、首を突っ込む真似は出来ない。
 探られたくない過去は誰にでもあるものだから。
 他愛なくとも、深刻であろうとも。
 けれど泉を腕に抱いたエンは探るように問う。
 痛みを引き摺る泣き声を絡ませながら。
「ふぅっ、しゅ、スイぃ……わ、私の事、好き? それとも、き、嫌いぃ?」
「ええと……好きかどうかを気にするのは分かりますけど、随分こだわりますね?」
「だって、だってぇ、嫌いだったら、一緒にいちゃいけないんだよ? き、嫌われたら、もう、スイに会えなくなるの……。叩かれたり、蹴られたり、笑われたり、貶されたりするから。もうヤダ、あんなの」
「…………」
 泉個人に向けられた言葉ならば酷い言われようだが、過去に何かがあった事を示唆する言。
 詳細は分からずとも、ぎゅっと強まる腕の力に泉は力を抜いてエンの頭に頬を寄せた。
「それなら心配ありませんよ? 私はあなたを嫌ってないし、仮に嫌ったとしても、会いたいと思うあなたには会います。嫌っていなくたって怒っていたら、私も出来た人間じゃないので、あなたに気持ちをぶつけるかもしれません」
「……忘れない?」
 少しだけ緩んだエンの緊張に、泉はぐっと息を呑み込んだ。
 別に、患者の事以外は忘れてしまうエンへ、つっ込みを入れたかったからではない。
 エンの話の連なりは突拍子もないが、彼が口にしたのは奇人街に来た経緯を未だに思い出せない泉にとって、かなりの重さを持つ言葉だったからだ。
 それゆえ元居た場所へ帰る方法が分からないなら、尚の事。
 だから泉は正直に告げる。
「忘れない、とは言い切れません。私は、自分がどうやって奇人街に来たのか、全く思い出せないんです」
「スイ……憶えていないの?」
「はい、残念ながら」
 だいぶ落ち着いてきたのか、泉から身体を離したエンは、両肩には手を置いた状態で首を傾げた。
 泉はただ、苦笑を浮かべるのみ。
 これに思案げな沈黙を置いたエン、ぷかり、口元から輪を描く煙を吐き出し。
「店主には訊かなかったの? 君を奇人街に連れて来たのは彼なのに?」
「…………え?」
 上方で煙が宙に溶けて消えたなら、泉は瞳をぱちくり瞬かせ。
 真偽を問うべく、緩慢な動きで店主がいるであろうソファを見やれば、そこに黒衣の姿は在らず。

 エン先生が騒いでも、ワーズさんが何の反応も示さなかったのは、いなかったからなのね……

 喪失した記憶の、大き過ぎる手掛かりに混乱した頭は、そんな納得を泉にもたらしてきた。

 

 


UP 2009/11/18 かなぶん

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