妖精の章 三十一

  

 泉が奇人街で目覚めた次の日。
 こんな会話が彼女と店主との間で交わされていた。
 ――私、いつ帰れるんですか!? それに、どうしてここにいるんです?
 ――なんでって聞かれても、ねぇ……帰れるのはたぶん、早くても一ヶ月くらい後じゃないかな?
 あの時は、帰るまでに一ヶ月も掛かるのかと茫然としてしまったが。
 加えてその後渡された服がサイズを事細かに知ったワーズの手製と分かり、二重の衝撃から眩暈を感じたものだが。
 超人的な記憶力を持ち合わせていない泉は、このやり取りを大体しか覚えていない。
 けれどもし、彼女がこの会話を完璧に覚えていたとしたら。
 確実に、気づくだろう。
 泉がここにいる理由を問うた、あの時。

 ワーズは間違いなく、明言を避けて誤魔化しに走った――と。

 何故なら彼女は未だ、一ヶ月は経ったであろう時を迎えてもなお、奇人街に――芥屋に居続けているのだから。

*  *  *

 どういう仕組みなのか、ワーズの黒いコートのポケットや黒い帯び締めの服の懐は、芥屋の二階にある物置に通じており、そこにあるモノなら取り口より小さい物に限り、何でも取り出せた。
 しかし――
「……エン先生の懐も、中々どうして、いっぱい入れられるんですね…………」
「うん。私の懐はとっても深い――って、皆が言ってた」
 皆というのは、エンが院長を務める診療所の看護師の事だろうか。
 何にせよ、若干のニュアンスの違いを感じさせる応酬は、泉が「へー」と気のない返事をして終わりをみせた。
 ニュアンスは違っても、確かにエンの懐は深い。
 ――物理的に。
 つい今し方エンに抱き締められた泉の目の前には、その時は全く気づかなかった、硬いファイルが三冊積み上げられている。
 思わず、ファイルを挟んだ向かい側のエンに手を伸ばした泉は、着物と包帯越しの胸と腹をぺたぺた触り。
「くすぐったいよ、スイ」
「あわわっ、す、すみません」
 身を捩るエンの訴えを受け自分の行動に恥を知って赤くなる泉だが、回収した手を己へ向けてはにぎにぎ手の平を怪しく動かして凝視した。
 やっぱり、変わっていない気がする……
 ファイルの硬さも確認しつつ、何ら代わり映えしなかったエンの身体に首を捻る事数回。
「……ええと、その、これが?」
 脱線させてしまった話を元に戻そうとファイルを指差したなら、エンがコクコク頷いた。
「うん。スイのカルテ。愛人になってから、いつも持ち歩いているの」
 ぽっと顔を赤らめ恥らう素振りで両頬を手で包むエン。
「……こ、個人情報持ち出し?」
 照れるのは結構だが、泉自身にとっては笑えない話である。
 暗くなってきた店内と居間に褪せた光が灯る中、ショッキングピンクのファイルは目に痛かった。
 ワーズが泉を連れて来た直後、意識がない内に会っていたのだというエン。
 その時の情報が書かれているというファイルを前に、泉はまず、何よりも気になっている事を問うた。
 ファイルを出した経緯とはあまり関係のない、個人的には何より重要な面を。
「…………すみません。このカルテには私のどこまでの情報が」
「んとね、スイの身体の事なら大体全部かな? 身長・体重は勿論の事、血中の酸素濃度とか、指紋とか、お肌の状態とか、その他諸々がこの一冊に」
 掲げられたのは三冊ある内の一冊。
 顔を青褪めさせた泉は、それでも一応断わりを入れて受け取り中を開いた。
「うわ……よ、読める人いるんですか、これ?」
「うん、いるよ。というか、私しか読まないし、誰にも読ませないし。誰かに見せたのはスイが初めて」
「そう、ですよね……やっぱり」
 そこに書かれていたのは確かに奇人街の文字なれど、一面にみっちり詰まった内容は、たとえ泉が文字を理解できたとしても到底読めるものではなかった。
 僅かに残った余白部分に丸い黒点を二つ置けば、雑誌の懸賞クイズで時折見かける図と勘違いしてしまいそうだ。
 尤も、その点が一つになるように頑張ってみても、斜めから見ても、浮かんでくる絵はないだろうが。
 この中で辛うじて読める文字があるとするなら、“泉”に似た文字とその横に書かれている日付と思しき数字。
 何故日付だと分かるのかと言えば、ページを捲るにつれて一定単位で三つに区切られた数字が変動するためだ。
 左が一番動いているから日、真ん中が次で月、右はそんなに動いていないから年…………だけど。
「ん? どうかしたの、スイ?」
「い、いえ、何でも……」
 つい、エン先生だしなぁ、という目で見てしまった泉。
 奇人街における時の概念の薄さに加え、エンのお人柄はそこそこ知っている。
 書かれている日付には信憑性がほとんどなかった。
 この進み具合を信用するなら、泉は少なくとも一年以上奇人街にいることになる。
 奇人街で目覚めてから意識を失う事はままあったが、それを考慮しても丸まる一年経ったという感覚はない。
 それに――と泉の視線が居間の天井、正確には泉と兼用している部屋で休んでいるはずの、赤い髪の美少年へと向けられた。

 泉の調子が戻ってからソファで寝ていた彼だが、彼女よりある背丈、ソファで寝続けるには窮屈なはず。
 伸び伸び布団で寝たいだろうと思った泉が、日替わりで部屋を使っては? と進言して二階の部屋にいる竹平は、しかし、当初は了承しなかった。
 まあ、当然だろう。
 ワーズの話では泉より元居た場所に帰れる可能性の高い竹平、部屋を明け渡すといっても泉の私物はほとんど置かれたままなのだ。
 齢の近い異性の私物、疚しい気持ちがなくとも心臓に良いモノではない。
 これを平気で置いておける泉の神経は、ただ単に、竹平から見た自分はそういう対象にならないという思い込みで出来ていた。
 ――大半は、ノックなしで部屋に入って来たりする、デリカシーのないワーズに慣れたせいであろうが。
 段々奇人街に染まりつつあると指摘すれば必ず否定する泉だが、竹平と比べられたなら押し黙るしかない。
 職業柄、物覚えが良く接客業もこなせる竹平とはいえ、決して泉程この街に慣れたわけではないのだから。
 その良い例が、部屋を日替わりで使う事への抵抗である。
 けれども泉の提案に店主が賛同を示したなら、三日に一度、という妥協をして竹平はこれを呑む。
 泉の部屋がダメであればその隣にある空き部屋を使おう、そう言われたのが決定打だったようだ。
 縦に長い一階とは違い、横に長い二階の廊下には左右突き当りがあるのだが、それぞれの壁向こうには更に廊下が続いている。
 内、ずぼらな修復によって締め切られた左側の廊下は、泉や竹平と因縁浅からぬ変人学者の住処となっており、それと同じ作りが反対側にあると聞かされた竹平は、手と首をがむしゃらに振って隣の部屋の案を断わったのである。
 学者が使っていても酷い有様の廊下を見た後では、長年使われていない方なぞ開けるのもおぞましい、加えて、手間を掛けた分だけ元居た場所に帰りにくくなるような気がする、そんな理由で。
 ちなみにもう一方の隣の部屋はワーズの部屋だが、彼曰く、彼以外が入ると死ぬそうなので案には最初から入っていなかった。

 ともあれ、奇人街に着いた当初は兎も角、目覚めてからは泉のように寝込んだりしていない竹平。
 もしも泉がカルテ通りの年月を過ごしていたとするならば、彼の口からその手の話が出ても良いはずだ。
 奇人街の時間が代わり映えのしないものでも、感じる長さはそれなりにあるはずなのだから。
 それに今、問題にすべきはそこじゃなくて、ワーズさんが私を連れて来たっていう……って、あれ? そういえば竹平さんもワーズさんに連れて来られたって話なんじゃ?
 正しくは、凪海という名の海に流れ着いた竹平をワーズが芥屋まで運んだ、である。
 思い当たり、視線を再度エンに向ける。
「エン先生って、ワーズさんと随分前からお知り合いなんですよね?」
「んと? 前からって……うん、スイよりは前だね」
「じゃあ、どうして竹平さんの時はいらっしゃらなかったんですか?」
「たけ、へら?」
 泉が芥屋に来た時の事をエンが知っているならば、その時の泉の状態はあまり芳しくなかった事になる。
 愛人云々の話がない以上、そういう理由でもなければ、患者贔屓のエンがわざわざ芥屋を訪れる事もありはしまい。
 だとすれば凪海から連れて来た時、意識のなかった竹平の元に彼が来なかったのは何故か。
 人間好きで人間以外を嫌うワーズが、状態の度合いによってエンへの報告の有無を決める――
 そんな想像が働けば、泉の顔が徐々に青褪めていく。
 あの状態でも医者を呼ばなくて良いと判断された竹平を判断基準に据えるなら、医者を呼ばれた自分の状態はどこまで酷かったのだろう。
 ごくり、意味もなく喉が鳴ると、“たけへら”なる人物にウンウン唸っていたエンが手を叩いた。
「あ、もしかして」
「もしかして!?」
「す、スイ? どうしたの? 何か目が怖いけど」
「あー、すみません。ちょっと力が入ってしまって……それで?」
「う、うん。えっとね、たべらけって人の事は思い出せないんだけど。私ね、ちょっと前まで静養中だったの」
「静養中……」
 ついつい、包帯巻きの姿を上下する視線。
 最中思い出したのは、この包帯は怪我の保護の延長で着用している、といういつかのエンの言。
「やっぱり大怪我、だったんですね……」
「怪我? ああ、これ? ううん、これは違うよ。怪我は関係ないの。静養中だったのは失恋したからで」
「は?」
 痛ましいと顔を歪めた矢先、突拍子もない告白がやってきた。
 いや別に、泉の愛人を自称しているエンに恋心があるとは思わなかった、などと言うつもりはない。
 ――ないが、しかし。
「…………」
 外にも内にも表現できる言葉が見当たらない。
 沈黙を保つ泉に対し、見た目はホラー・中身は不思議、腕だけ確かな名医のエンはいじけた様子で座る板にのの字を描く。
「いきなりね、嫌いって言われちゃったの。片想いだったんだけど、好きって言ったら嫌いって。それまで普通に話していたのに。何が駄目だったんだろうって考えたけど、理由が全然見つからないの。その内、私の事すっかり忘れちゃったみたいで……」
「……ああ、それで」
 先程のエンとのやり取りを思い出し、テンポのズレた納得が泉を頷かせた。
 と、突然ぴょこんっと上向きに跳ねる煙管。
 合わせて顔を上げたエンは、カルテを持ったままの泉の片手を両手に包み込む。
「おわっ!? か、カルテが」
 支えを失いバランスを崩して落ちる書類をこげ茶の眼が追えば、包帯巻きの妖しい顔がずずいっと近寄った。
「でもね、でもね、お陰でスイに会えたの!」
「へ? いや、会えたって、私が奇人街に来た時には知っていたはずでは――って、それよりカルテを」
「あ、そうだ。前にスイに聞かれたよね、好きの理由。あのね、その時に好きになったんだよ? うん、そうなんだ! 初めてスイを、泉・綾音って名前を視た時に!」
 幾ら常人に読めないとはいえ自分の情報が記載されたカルテを放っておけない泉と、自分の想いしか見えていないエン。
 噛み合わない会話の果てに待っていたのは。
「あ……ラン、さん?」
「……どうも」
 いつの間に来ていたのか、拾ったカルテを泉へ差し出す厳つい人狼と。
「スイ、大好き!」
「うおっ!?」
 感極まったエンに腕を引かれた泉。
 迎える胸に抱き止められ、間にあった他のファイルが床に落ちたなら、腕を伸ばす前に頭が固定された。
 続け様、左頬が幾度となく包帯越しの柔らかい何かに小突かれる。
 次から次へと起こる出来事に呆けた顔を浮かべれば、残りのファイルを全て拾ったランがそら恐ろしい面構えに陰鬱な色を添えて、再度ファイルを差し出した。
「お取り込み中のところ申し訳ないんですけど、影解妖(インツィーヤオ)貰えませんか?」

*  *  *

「影解妖。奇人街三大珍味の一つ。――って事は眠れてないのかな、ラン・ホングス?」
 新たな客の登場にそれまでの話を中断した二人。
 話題が泉の初めて聞く食材に移るなり、以前は散々間違った名前を言っていたエンが、ランの名をまともに呼んだ。
 これに少しばかり目を開いた泉はまじまじと人狼を見やる。
「エン先生が名前を……ランさん、相当具合悪いんですね」
 今からお前を喰ってやると言わんばかりの形相や、タックル五秒前の様子で屈められた凶悪な背に変わりはないが、そこはかとなく漂う疲労感は素人目にも分かった。 
 一種の哀愁さえ背負ってみせるランの姿は、地獄の使者を髣髴とさせる容姿でも、何やら涙を誘うものがあった。
 ――が。
「っと。え、エン先生?」
「ん? なぁに、スイ?」
「その、この格好、辛いです。お腹捩れそうだし、腰悪くしそうだし」
「言われてみればそうだね。……スイ、無理な姿勢は良くないよ?」
「……はぁ」
 並び座った状態で肩から上だけを抱き締められていた泉は、エンの勝手な言い草に溜息だけを零して姿勢を正す。
 身体を慣らす素振りで首を緩く振り、改めてランへと向き直る。
「ええと、その、インツィーヤオってどんな食材なんですか? 野菜? お魚? お肉?」
「ああ、そうか。泉さんは知らないんですね……」
 がっくり項垂れる要領でランの身体が大きく揺らいだ。
 驚いた泉は立ち上がると青い着物に包まれた太い腕を引き、自分が座っていた場所に誘導した。
 腰を下ろしても頭の位置は低く、辛そうなまま。
 相当重症なのだと思い、熱を測るように荒い毛並みの首筋に左手を当てれば、鋭いばかりの金の瞳が閉じ、甘えるに似た仕草で腕に頬ずりしてきた。
 服越しに届くゴワゴワした質感。
 若干身じろいだなら背中に黒い爪を携えた右手が回り、肩口に額が軽く押し付けられた。
 空いた左の手は泉の右手を掴むと、殺傷能力の高そうな爪に隠れた指の腹を用い、これをふにふに押していく。
 一見すると捕らえられた状態にも関わらず、丁度良い力加減の指圧を受けて、緊張がちょっぴり解れた。
 とはいえ、ランが何故、こういう格好を取っているのか分からない泉。
 唯一分かった事と言えば、人狼の指先と手の平の上部には肉球と思しき膨らみがある事。
 硬くはないけど、柔らかくもない。……ふぁ。それにしてもランさん、テクニシャンだわ。
 絶え間なく続けられる心地良いマッサージに、泉の頬が恍惚を浮べて緩み始める。
 自らもランへもたれかかる形になれば、背中の手により身体がくるりと反転、肩幅ほど開かれた足の間に招かれ、膝裏を掬い上げるように小突いた右腿へ腰が下ろされた。
 不自然なぐらいに自然な動きでランの右半身に身体を収めた泉だが、本人はなおも続けられる指の動きにうっとりするだけ。
 背を通るランの腕が腹を撫で回しても、空いた片腕は諌めるどころか助長するように、埋めていた首元の荒い毛並みから青い着物の胸を辿って、腹に置かれた手へと艶かしく添う。
「はあぅぅ……」
 揉み返しキツそう……だけど、気持ち良いぃぃ。
 感情の赴くままにランの肩口へ頭を擦りつける。
「ヒ……」
 と、ランから変な声が漏れた。
 しゃっくりにも似たそれへ、おもむろに泉が顔を上げれば、迎えるのは舌なめずりでもしていそうな金の双眸。
「ランさん……?」
「……はい?」
 厳しい面構えのせいとはいえ、奇妙な違和感を抱かせる表情に名を呼ぶと、不思議そうな声が鋭利な歯の隙間を縫ってやってくる。
 気のせい……? そう思った泉だが、呼んだ事実に変わりはない。
 継ぐ言葉もなく呼んだ手前、注がれる視線に目が泳げば、視界の端で煙管と包帯がぴょこぴょこ飛び跳ねた。
「あー! ずるい、スイだけ! 私もふにふにされたい!!」
 果てしなく誤解を招きそうな叫び。
 呆気に取られる泉から目を逸らしたランは、ちっと小さく舌打ちをする。
 普段の彼からは想像もつかない柄の悪さにこげ茶の瞳が大きく揺れた。
「ラン、さん……?」
 けれど今度は返事がなく、代わりに指圧が遠退いた。
「あ」
 思わず声が上がると眇められた目がこちらを一瞥。
 今一度エンの方へ戻っては、隆々とした肩が竦められた。
「仕方ないな。ほら、手を寄越せ」
「わぁい」
 いつもより幾分低い声に促され、手を差し出したエン。
 程なく「ほぉぉぉぉぉぉ〜」という、世にも気の抜けた声がランの陰から上がった。
「お前、何だよその声?」
「だ、だってだってだって、すっっっっっっごく、気持ち良いんだよっ!?」
 苦笑混じりのランに対し、感激したエンがきゃっきゃとはしゃぐ。
 いつもと違うランの雰囲気に怪訝な顔をしていた泉は、楽しそうなエンの様子を受けると、表情を改めておずおず依然腹に置かれたままの手を指でなぞった。
 ぴくり、手と耳とが動いたが、ランはエンの方を面白そうに眺めるだけ。
 素っ気ない態度に、仲間外れにされた感傷が沸き起これば、指圧を受けていた手が脇腹にある手首を押さえた。
 それでも彼の顔はこちらを向かず。
「あの、ランさん」
「はい? どうしました、泉さん?」
 思い切って名前を呼んだならようやく交わされる視線。
 途端に気恥ずかしくなって目を逸らすが、黒い爪が顎を捉えてゆっくり上を向かせた。
 抗えばすっぱり切れる刃の感触に、しかして泉は慄く心を忘れたようにランを見つめた。
 赤らむ頬、潤む瞳で、一度は飲み込もうと思った言葉を引き出すべく、こくっと喉を鳴らした。
「も、もう少し、して貰っても良いですか?」
「お安い御用ですよ」
 にやり、掛かったとほくそ笑む金の眼。
 ぞわっと這い上がるのは悪寒か別の何かか。
 逃れるべく右手を腹の手に向かわせるが、取られたのは左の手。
「片方ばかりより、両方した方が良いでしょう?」
「え、えと、その……はい。お願い、します」
 回された腕が更に密着を促す形になるも、泉はされるがままに頷いた。
 解す指圧に手が踊り、蕩けてしまいそうな心地良さに目が細められていく。
「へぇ? 泉さん、左の方が硬いんですね。凄くコリコリしてますよ」
「そ、そうですか?……く、ふぅっ。す、すみません。何だか変な声が」
 右手を遥かに上回る快感に、その右手で口を押さえても零れてしまう声。
「ふっ、あぁんっ……や、だ、こんなっ、こんな声……本当に、どうして?」
 血流が良くなっているせいか、泉の耳まで赤くなってきた。
「ヒ……イイですよ、泉さん。その声、凄くイイ。出しちゃって下さいよ。気持ち良いのに我慢するなんて、身体に毒ですから」
 そこへ掛かるランの吐息の刺激に、熱せられた分、身体がビクッと震えていく。
 堪え切れずに揺れたなら、支えを求めた右手がランの着物にしがみ付いた。
「あぅっ……ら、ランさんっ、どうしようっ、私……私、こんなに気持ち良いの初めてっ、ひゃんっ!?」
「そうそう、人間、素直が一番ってね。ヒ、ヒヒ……」
 胸に上半身を摺り寄せ、獣面を見上げて向かい合う格好を取れば、エンの手を取っていたはずの左手が泉の腰を引き寄せて浮かせる。
「ふあっ!?」
 目の端に涙を浮かべて喘いでいた泉、包まれていた手から指圧の波が引いたのを皮切りに、またしても身体を反転させられては目を回す。
 次にすとんと腰が降りたのは、ランの身体を背にした彼の足の間、少しだけ覗く板の上。
 結わえられていた髪が下ろされ、それと共に覆い被さる大きな身体に混乱が生じたなら、これを宥めるように両手がそれぞれの手に後ろから取られた。
 絡み合う指を視界に入れ、指圧の続きなのだとぼんやり思えば、耳の輪郭がぺろりと舐められた。
「ふぇ?」
 ぼんやりした顔で横を見やれば、今度は涙の浮いた眦を舐められ、取られた腕が泉の腹の前で交差する。
「ラン……さん?」
 身動きの出来ない状態を知り、一体何をするつもりなのか訊ねるつもりで紡いだ名の主は、未だ正気には程遠い泉へニタリと嗤いかけてきた。
「続きですよ、泉さん。もっと気持ち良くさせて上げます。手だけじゃなくて、他の部分もちゃんと揉んでコリを解しましょう? 大丈夫。痛くても最初だけ、段々善くなってきますから、ね?」
「…………」
 一欠けら残された冷静な部分で泉は思う。
 このランは何か可笑しい、言う通りにしてはいけない、と。
 けれど、大半の乱された思考は彼女の首を可愛らしく頷かせた。
「ヒ、ヒヒヒ……ではまず」
 最早しゃっくりでも何でもない卑しい嗤いを喉に引っさげたランは、交差した腕で泉の身体を持ち上げると、その下へ閉じた両足を潜り込ませた。
 浮いた視界の端で、片手を投げ出したエンが借りてきたネコのように、板へ頬ずりする様が映る。
 片手だけの指圧で骨抜きにされた姿を受け、こげ茶の瞳が少しだけ見張ったなら、降ろされた身体の後ろでランが囁いた。
「これじゃあ座り心地、良くないでしょう? 靴脱いで、足、開いて下さい。俺の足を跨ぐように」
「…………」
 言われた通り靴を脱ぎ始める泉。
 頭は先程より増して冷静さを取り戻してきたはずなのだが、エンの姿を見て身体が別の興味に動いていく。
 あの指圧よりも気持ち良くって、どんな感じなのかしら……
 行き着く先は耳年増、理解出来ないはずはないのだが、指圧に馴らされた身体は深く考える事を許さず、畳んだ脛を板にくっつけてランへと腰を下ろした。
 ふっと嗤う吐息が髪を揺らせば、閉じたばかりのランの足が軽く開かれ、乗じて泉の両足の間隔も広がりを見せる。
 強いられる辛い姿勢に若干眉が顰められたなら、屈められた視界の中で交差していた腕が解かれ、同じく自由を得たランの鋭い爪が、片方は腿の内側、もう片方は襟元へと伸びていく。
 肩に顎を置いた獣面は見つめるだけの泉を横目に、襟元を引っ張ると覗く肌をひと舐め。
「思っていた以上に柔らかくて甘いなぁ、泉さんは。これなら俺まで善くなれそうだ……いや、影解妖がなくても泉さんがいるなら俺は」
「インツィーヤオ……?」
 惚けた呟きに、惜しげもなく鋭い歯列を長い舌で舐めては、唾をごくり嚥下するラン。
 併せ、腿を這う手が宥めるように指を動かし、布地に小さく爪を当てた。
「そうそう。影解妖の事、泉さんは知らないんでしたよね。エン先生が言った通り、奇人街三大珍味の一つなんですが、他の二つ同様、美味である以外に効果がありましてね。食した者を至福の眠りへと誘うんです。だけど……泉さんなら、そんなモノを使わなくても俺を眠らせてくれる。母さんに似た、安らぎを与えてくれる泉さんなら」
 昼でも夜でも冴えないことこの上ないラン・ホングス。
 だが、今の彼には抗いがたい存在感があり――
「泉さん……泉さんも俺と一緒に、ぐっすり眠りましょう?」
 優しく誘う言葉とは裏腹に、ぷつり、爪を当てられた襟元と腿の布が小さく裂かれる。
 これに気を良くした男は抱え込んだ少女へ、喜色満面の笑みをぶつけた。

「添い寝して下さいよ、泉さん……俺の慰み者になって、俺の気が済むまで啼き果てた、その後で!」

 

 


UP 2009/12/15 かなぶん

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