妖精の章 三十二
「ふ〜ん? カルテまで引っ張り出して何を知りたかったのかと思えば、そういう話だったんだ?」
「うん、そうなんだ。スイが知りたいって言ったから。私は全てを知るわけじゃないけど、スイを最初に診た時の状態くらいは教えてあげたいなって」
「……しっかし、なんでボクに聞いてくれないかなぁ? この藪に聞くぐらいなら、ボクに聞いてくれた方が話早いのに」
「そ、れはっ、ワーズさんがいなかったからで――――って、その前に! 見ていないで助けて下さい!!
のほほんとした口調のワーズに訴えかける泉。
その声は押し潰された苦しさを孕んでいた。
否、実際に彼女は今、そんな状態に陥っていた。
二階から降りて来た店主により、側頭部を思いっきり蹴られて昏倒したラン。
けれどそのせいで泉は、丸太のような腕の重圧を仰向けになった彼の上で体感しているのだ。
ランが倒れる直前にワーズが襟首を引っ張ってくれたお陰で、狭い板の上で横倒しになる危険は回避できたものの、意識を取り戻したエン共々こちらへ向けてくる視線は何だろう。
呆れのような、同情のような。
ランと同じく仰向けで彼らを見つめ返すしかない泉は、今一度、何かしらの訴えをしようと思って口を開き。
上方、食卓の椅子の背を抱いて座る逆さまの白い顔が、赤い笑みを携えたまま掲げたものを視界に納めては絶句する。
「だから、さ? 泉嬢さえ頷けば、ボクは今すぐにでも助けて上げるよ? 大丈夫大丈夫。ボクはこれでも一応、食材店の店主だからねぇ」
ここで一旦言葉を区切ったワーズは、揺れるこげ茶の瞳へにたり笑い掛けると、愉しそうな表情を椅子の背の上に置いた右腕に乗せ、掲げていたソレを左肩に担いだ。
――刃渡り50cmはあるであろう、鉈状の得物を。
「君を傷つけずに解体する事なんて、造作もない事だよ?」
何を解体するか、など聞くまでもない。
ランと共に倒れ最初に助けを求めた時、黒い帯締めの衣の懐から姿を現したのが、この鉈だったのだから。
彼は言う。
このまま力任せに引き剥がしたら、君はランの爪でズタズタの真っ赤なボロ雑巾になっちゃうから、と。
暗に示されたスプラッタ映像は丁重にお断りしたいが、ワーズの提案とて、対象が泉ではなくなっただけの話。
一気に顔を青くさせた泉はぶんぶん首を振り。
「だ、駄目です! どうしてソッチ系に発想が飛躍してしまうんですか!?」
「んー? だってほら、ボクって一応、人間だから」
「どんな理屈ですか!!?」
「いや、同族じゃないからいいかなー、って」
「良くありません! そ、そもそも、ランさんを起こすって選択はないんですか!?」
「ないよ」
のんびりした受け答えを止め、やけにきっぱり言い切ったワーズ。
泉が呆気に取られた顔をしたなら、鉈の切っ先を床へ易々沈めてワーズが苦笑を浮べた。
「勘違い、しないでね、泉嬢。ボクが、解体しか提示しないんじゃないんだよ。ボクは、解体しか提示できないんだ。君をそのケダモノから助けるには、さ?」
「ど、どういう……?」
不安定ながらも落ち着いた声音に眉根が自然と寄れば、下方、包帯姿がにゅっと現れ煙管ごと首を傾がせた。
「スイはラン・ホングスの本性を知らないんだね」
「ほ、本性?」
「うん。ラン・ホングスは本当はとっても横暴なんだよ。退院してもまだ私の患者なシウォン・フーリよりも、もっとずっと、人狼の本性に近いんだ。残虐非道にして狡猾、目先の利益も遠くにある利益も全て自分の思い通りにしようとするくらい強欲」
「けど、ラン自身はそんな自分を嫌っている。その姿は虎狼公社の前頂点、コイツの父親そっくりだからね。経緯は知らないし知りたいとも思わないけど、ラン・ホングスは父親嫌いで、反面、本性に屈しない母親には傾倒していた。だから常日頃は、昼行灯というか、ぼんくらというか、情けない頼りない冴えない、ないない尽くしの理性の抑え方をしている」
「……どさくさに紛れて容赦なく貶してません?」
半眼でワーズを見つめれば、黒い肩が心外だと竦められた。
「まさか。ありのままを言っているだけだよ」
「…………」
フォローのない返答に閉口する泉。
ワーズは顎の下にしていた腕を外すと、右手の銃で頭を小さく叩いた。
「とまあ、そんなラン・ホングスだけど、切羽詰った状態では流石に理性は保てない。――ここまでは良いかな、泉嬢?」
「はあ……まあ、なんとなくは」
「んー? いまいち理解が薄いな? それとも自分の身がどれだけ危険に晒されているのか、その状態になっていても実感していないのかな?」
「危険……て」
ワーズからランへと視線を移動させる。
強制的に意識を閉ざされた割に、時折むにゃむにゃ動く口元は幸せそうであった。
丸太の両腕を腹と肩に回されていなければ、覗く牙の鋭さがあっても微笑ましく思えただろう。
と、腕の拘束が若干緩まっているのを知り、これはしめたと身体をずらす。
「ふぁぎゃっ!?」
けれど脱出は徒労に終わり、それどころか変に動いたせいで、肩と腹に置かれていた腕が嫌な具合のたすき掛けとなってしまった。
胸の間を通って肩を掴む手と下腹部を掠めて腰と尻の境界を掴む手。
他の眼がある事も手伝って羞恥を呼ぶ格好だが、肺と腹を圧迫される苦しさは先程の比ではないため、恥らっている暇はない。
「ら、ランさんっ、ぐ、ぐるし……」
「……母さん〜…………えへへへへ………………」
「…………」
紛う事なき寝言。
なれど、こんなに聞きたくないと思わせる寝言もそうあるまい。
進む時間は異なっても、年齢自体は三十路前の男である。
起きている時に自分の母親を「ママ」と呼ぶ話は時々入ってくるが、寝言まで母親に支配されている話は知らない。
寝惚けた状態の竹平から言われた憶えはあったが、アレにはこんな甘えは混入されていなかった。
何より、甘え擦り寄る現実の対象が“母親”というモノに掠りもしない、未婚且つ子どもも産んだことのない、ランより一回りも齢が離れた泉なのだ。
以前にも、酔っ払ったランから母親に似ていると言われていたが、衝撃はこちらの方が強い。
ランさんのこの異常……もしかしてお酒が原因なのかしら? この前の状況と何だか似ている気がするし。……でも、どっちにしても母親役は遠慮したいわ。
あんまりにもあんまりな勘違いに泣きたくなる泉だが、彼女を愛する母親と信じて疑わない人狼は、唐突に身体の向きを変えた。
「ぎゃあっ――って、こっちの方がまだ苦しくない、けどっ」
居間の階段を背に横向きになったことで、圧死間近かと思われた苦しさからは解放された。
んがその分、身体に捲きつく腕の動きが鮮明に伝わり、泉は顔を真っ赤にして右上のワーズを仰いだ。
「わ、ワーズさん! 危険は分かりましたから、圧死する前に早く、ランさんを起こして!」
「んー? 圧死? 危険って……やっぱり泉嬢、よく分かっていないみたいだねぇ?」
「何がっ」
「ラン、眠れてないって言ったんでしょ? それはもう辛そうに」
「は、はい、そうですけど、それが今の状況と何の関係が」
「だからね、泉嬢。君が今、ソイツに抱えられている状況は、ソイツが眠れていないせいなんだよ」
「は?」
「平たく言うとね、あまりの眠さに理性を保てなくランが、君に本性剥き出す一歩前の状況なんだよ。気絶させているから君はこうして会話出来ているけど、起こした途端、ランは君をバリバリ食べちゃう。君の事、母親ってほざいている手前、本当に食べることはないと思うけど比喩としては正確な表現でしょ。現に、君の襟元と太腿の其処、ちょっぴり裂かれちゃってるし。ボクが止めなきゃ今頃、店先で素っ裸にされた挙句、ね?」
「ら、ランさんが、私を? だ、だってランさん、何かに煽られたわけでもないですし、前に私の事、魅力ないって」
エンの診療所でのランの様子を思い出しつつ、ワーズの言葉を信じられない面持ちで聞く泉。
最中に尻の横や肩を擦られても、実感が沸かない彼女は身を捩るだけ。
しかし、屈められた獣面が褐色のクセ毛を掻い潜り、首筋をぺろりと舐めて吸い付いてきたなら、ピシッと身体が固まってしまった。
これを憐れむように見つめる混沌の瞳は、優しい微笑みを携えて首を傾がせた。
「あのねえ、泉嬢。君は奇人街の住人を信じ過ぎ。この街の奴らは仲良くなったからって、信用に値するモンじゃないんだよ? それは勿論、このボクも含めてさ? じゃあ何を信じれば良いかって聞かれたら、自分と現状、この二つしかない」
だらりと銃を持つ手を下げたワーズは、傾がせた頭をそのまま椅子の背の上に乗っけて、殊更楽しそうに口角を上げた。
「さてさて、ここで問題デス。ランは君に興味がないと言った。けれど君は今、コイツに抱き締められているばかりか、舐められキスまでされていマス。しかも他の眼がある中で、ね。それでも君は、ランにとって自分はそういう対象にはならないと言い切れマスカ?」
「うっ……で、でも、言い切れないって言ったら言ったで、何だか私、自分にすっごく自信があるみたいな」
「おやまあ。自信、ないんだ。君って真実、人魚だねぇ?」
「なっ」
魔性の女と同意義の呼ばわれ方に目を見張れば、わざとらしい溜息を吐いてワーズは首を振った。
「いい加減、思い知ってよ、泉嬢。奇人街って場所柄、一人でのんびり出歩けない君が知らないのも無理はないけどさ? 君は君が思っているほど街では無名じゃないんだよ。奇人街最強の名を欲しいままにしている芥屋の猫がお願いを聞いて、猫に次ぐ実力の三凶と名高い史歩嬢、シウォン、緋鳥と面識があるばかりか、まぐれでも何でも史歩嬢の太刀を一度でも避けたことがあり、シウォンに限っては身を滅ぼすくらいの恋に溺れさせ、緋鳥は緋鳥で血肉を求めているのに叶えられない。そんな君に対して、魅力がないって奴はもう、奇人街の何処にもいない。もっと言えば、君を掌握したいって連中は街中に溢れ返っているだろうね。実行されないのは、猫と三凶が君の周りにいるからって理由だけ」
「そんな……そんな事言われたって…………」
ワーズの言いたい事は分かる。
改めて言われると、自分が物凄く面倒臭い位置にいる事も把握出来た。
――けれど。
自信、なんて……客観的に自分を捉えたからって、付くものでもないでしょう?
言葉には出さず、ワーズを見つめながら思う泉。
睨みに変わる直前で逸らしては、首の裏を食む感触に肌をざわめかせつつ溜息を一つ。
それに……街の人がどう思おうとも、誰かさんにとって私はどうでも良い存在なんですよね?
目の前でこんな目に合っているのに……危機管理がなっていないって言われたらそれまでだけど。
思えば思った分だけ沈む気持ち。
振り払うようにもう一度、店主へ視線を向ける。
と、頬が一気に紅潮した。
な、な、な、な、なあっ!!?
別段、位置を変えた首に合わせ、寄せられるランの口が耳の外側を舐め始めたからではない。
穏やかな混沌の眼差しと交わした途端、つい今し方、自分が思った事の可笑しさに気づいたせいである。
わ、私っ、私、私、私ぃっ!?
丁度その時、散々泉の肌を味わって気が済んだのか、眠ったままのランの腕がだらりと床に落ちた。
再び加わる圧に「ぐえっ」と短く鳴きはしたものの、チャンスと捉える前に彼から逃れた泉は、上半身を起こすとワーズの方を向いた状態で器用に後ろへと下がっていく。
「あだっ!?」
程なく部屋隅の壁にぶち当たったなら、強かに打ち付けた頭を擦り。
「スイ? 大丈――ぶわっ!?」
店側から身を乗り出した包帯巻きの姿が視界に入れば、白い衣の胸倉を掴んで無理矢理引き寄せた。
精神年齢はどうあれ、大の男を引っ張り上げる無茶は泉の腕を多少痛めたが、顰める顔もなく彼女はエンの眼があると思われる付近をじっと見つめた。
「エン、先生」
「は、はい、何でしょうか?」
尋常ならざる泉の様子に、敬語を用いてたじろぐエン。
灯りの陰になる包帯巻きの不気味さも見えない泉は、神妙な面持ちでごくりと唾を呑み込んだ。
「私、治ってますよね!?」
「え、な、何? 何のお話?」
「ですからっ……その、恋腐魚? だかの効果、もうないはずでしたよね!?」
不思議そうなワーズの顔を背景に、包帯男の胸倉を小さく揺すった。
質問の理由は単純明快。
先程の沈んだ気持ちが暗に示している、ワーズを気にする自分の心が何処から来ているのか知りたかったのだ。
人の心を捻じ曲げる恋腐魚の効果がまだ残っているせい、ならば分かりやすい。
しかし、もし仮に、万が一にでも、泉自身が彼を気にしているのだとしたら――
ぞっとしない話だ、と失礼ながら泉は思う。
何せ相手はあのワーズなのだ。
人間という、たったそれだけの理由で泉を庇護している、人間を自称する割に人間以外の住人からも気味悪がられる、言うなれば変人。
今までも、それとなくは世話になっている身分、好意に似た感情を持って接してはいたが、コレを恋愛対象として見る日が来ようモノなら……
好きな人と一つ屋根の下なんて……キャッ!、という湧いた頭レベルの問題ではない。
確実に、今まで以上に、胃に穴が開きそうな日々が続くだろう。
かといって、これを御免だと思えない当たり、泉はかなり危険だと考える。
そして、知りたいと思うのだ。
恋腐魚のせいなのか、はたまた自分自身の問題なのか。
前者であれば何かしらの対処をし、後者であれば――覚悟を決めるつもりだった。
好きな人を好きと想う覚悟。
妙な話だが相手が相手だ、致し方あるまい。
そんな思いを巡らせる泉の、ワーズまでは届かない叫びを受け、しばし揺すられるがまま頭をぐらつかせた医者は首をカクカク縦に振る。
「う、うん。そのはずだけど……」
「はずっ!? はずって何ですか、はずって!!?」
「いや、アレは、精神に作用するモノだから、数値では現れにくいんだよ。だから、スイが治ってないって感じるなら」
「治っていないと!?」
「うん。いやでも、幾ら相性が良いって言っても、ここまで長く続くものでもないし…………ん? ってことは、スイは店主が今も気になっているの?」
「えっ!?」
ストレートに訊かれて、思う存分うろたえる。
しかも視界の端で件の彼が「泉嬢?」と近づいてくるのが見えたなら、エンから離れた手がわたわた意味なく宙を掻いた。
納まったのは、真っ赤に染まった頬の上。
エンを前にした状態で足を引き寄せ隅っこで縮まれば、屈んだ赤いマニキュアの白い手の甲がそっと近づいていく。
「泉嬢、大丈夫かい? 熱でも――」
「な、何でもありません、大丈夫です!」
ワーズの手に気づいた泉は隠しきれない恥ずかしさに、その手を小さく払った。
ぱしん、と軽い音が鳴る。
「……そっか」
「はい、何でもないんです!」
真っ赤な顔で見つめてくる泉に対し、払われた左手を右手の銃で擦るワーズは、それ以上追求する事なく椅子に戻っていく。
奇妙な間が在った気がしないでもないが、泉にとっては些細な事。
それよりも今は、ワーズ相手に心ざわめく原因が意識の大半を占めている。
もう一度エンへ向き直った泉、問いには答えず逆にこちらから問うた。
「エン先生……恋腐魚の効果の有無、すぐに分かる方法ってないんですか?」
「分かる方法? そうだな……うーんと、えーっと、ムムムムム」
「んん……あ、あれ? 泉しゃんは?」
エンが腕を組んで悩み始めれば、むくりと起き上がった人狼が寝惚けた声を出す。
でろりと濁った金の眼が泉を視界に納めたなら、ただでさえ恐ろしい形相がにたぁ……とおぞましい歪みを見せて嗤った。
「見ぃつけた……フ、フヒヒ…………」
嫌な嗤いに肩を震わせたランが四つん這いの格好を取る。
「!」
背後の様子に気づかず首を捻って悩むエンを、全く視野に入れていない目付きは危険だった。
このまま此処に居てはエンが巻き添えを食らう。
思うより先に壁伝いで身体を隅から離す泉だが、妖しい光を放つ金の目との視線は絡ませたまま。
「もぉ……イイ事しましょうって言ったのに、放れないでくださいよ。まぁ、追いかけっこでも俺は愉しめますけど……泉さんも、イイ声で啼いてくれそうですし」
「ひっ」
じゅるり、牙を舐めて唾を飲み下したラン。
怯える泉は注視のせいで揺れ始めた彼に小さく悲鳴を転がした。
いや違う。
実際に、ランの背後が揺れていた。
くゆり、緩やかに振れるソレは一度大きく動くなり、ふさふさした灰色の尻尾を巻き上げた着物の下から露わにする。
「し、尻尾……」
ついつい口に出して言ったなら、小さい音も根こそぎ拾う三角耳がぴくんっと反応。
ちらりと背後を見やったランは泉に視線を戻すと、鼻面に皺をよせ歯を剥き出して嗤った。
「ヒ、ヒヒヒ……ええ、見ての通り尻尾ですよ、泉さん。ほらほら、近くに来て確かめてくださいよ。ねえ、触らせて差し上げますから、こちらにおいでなさいな。悪いようにはしません。俺と泉さんとの仲じゃありませんか。仲良くしましょう? 仲良く……そう、仲良く、一緒に…………」
反芻するようにランの眼が閉じられ、次の瞬間。
「――イけるとこまでイこうじゃねぇかああっ!!」
「っ!!?」
獣の咆哮に心と身体が竦んだ。
呼吸さえ忘れる恐怖に支配されたなら、鋭い爪を立てて突進してくる相手が涙に霞む。
が、それは一瞬の事。
ギャヒィンッッ!!?
突如、金属同士を手加減なく叩き合わせたような鳴き声が響いた。
ぎょっとして取り戻した我により涙を拭った泉は、ふさふさしたランの尻尾を力一杯握り締める黒い姿を視界に置いた。
「え……わ、ワーズ、さん?」
「…………」
名を呼んでもへらりとした赤い口はこちらを見ず。
尻尾を握ったまま、黒い足が小刻みに震える背を叩いた。
何の言葉も発する事なく、何の呼気も荒げる事なく。
延々と、震える相手へ重い踏み込みが続く様。
機械的な一連の動作は、思い通りに行かない事を怒る子どものようでもあり。
――泣きじゃくる、子どものようでもあった。
「っ、ワーズさん!」
はっとした泉は慌てて彼の下へ駆け寄った。
よくは分からないが、何か拙い事になる予感があった。
否、拙い事をしたのは自分で、そのせいでワーズはこんな事をしているのだと。
駆けた格好で手を伸ばし、黒い腕を掴む。
足りなければ身体を寄せて頬を寄せて。
「泉、嬢……?」
反対側の肘を抓んだ矢先、ビクッと震えた身体が尻尾を離すと、惚けた顔をこちらへ向けてきた。
目が覚めたばかりのぼんやりした表情を、泉は案じる面持ちで迎えた。
「ワーズさん…………落ち着きましたか?」
何故、そんな風に問い掛けたのかは分からない。
けれどこの問いにより、ワーズがいつもの彼を取り戻したのは間違いないだろう。
ふらりと傾ぐように泉の手から一歩逃れては、へらへらした笑いは変えず、右手でシルクハットのツバをくいっと下に降ろした。
「――ない。――――のはボクなのに」
「え……? 今、なんて」
途切れ途切れに聞こえた呟き。
それがとても大事なことのように思えた泉は、距離を詰めようと近づき。
がっちり、握られる左の手。
「い〜ずみさぁん。つっかまえたぁ」
「わっ」
忘れてたっ!!
一体誰が、と思う間もなく届いたランの嬉そうな声に、泉は振り返る事も出来ずに顔を青褪めさせては固まった。
あれだけ足蹴にされても、意識の矛先は泉に定まったままらしい。
となるとワーズの力は怒りすらランに抱かせないくらい、彼にとって軽いモノなのだろう。
先程倒れたのは、不意打ちで急所にクリーンヒットしたからに過ぎず。
解体しか出来ない、起こせない――ワーズの言葉に偽りがなかった事を泉は今、思い知った。
当のワーズは考えに耽っているのか、シルクハットの中に混沌の瞳を隠したままで、何の反応も示さない。
こうなると自分の身は自分で守るしかないだろうに、手に当てられた爪の感触を知れば振り払う選択肢は選べなかった。
ワーズはボロ雑巾になると評したが、手だけなら丸ごと奪いかねない鋭利さが肌を撫でた。
「ヒ、ヒヒヒ……もぉ放さないぞぉ? 俺の気が済むまでは、絶対に」
死角で恭しく指に施される口付け。
柔らかな肉の先に掠める歯の質感が生々しい。
こ、殺されるっっ!
今までにも望んでもいない死地に立たされた経験はあったが、こうまで鮮烈な殺傷の気配は初めてだった。
場所が場所だけに、日常から非日常への移り変わりがはっきり伝わってくる。
し、芥屋って人間にとっては安全なところじゃなかったっけ!?――ああでも私、ここで幽鬼と遭遇して、シウォンさんにも攫われたのよね!?
思い返せば碌でもない事しか出てこない頭。
その間にもランは堪えきれぬ震えを泉の手越しに伝えてきた。
「フ、ヒヒ……さぁて、まずは何処からイこうかな? 何処が良いですかぁ、泉さん……なんて。聞く必要もねぇよなあ? 俺は俺の好きにするのが好きなんだから。……ああそうだ。先に一回、抜いとくか。……ちぃとケツ貸せガキ」
「ひぃっ!? せ、性格変わりすぎ!!?」
不穏しか口にしないランに我慢しきれず振り返れば、情欲に塗れながらも捕食を狙う眼光に晒される。
喉を干からびた音が通る。
細められた目はだらしなく舌を垂らし、掴んだ手を引き寄せては、もう一方の爪が泉の腰を捕らえるべく伸ばされた。
「ヒ……心配するこたねぇぜ? 別にマジでケツにブチ込むわけじゃねぇんだからよォ? まあ、場慣れしてねぇてめぇじゃ先だけでイカレちまうかもしれねぇが、ちゃ〜んとソレ専用のトコに――」
「お下品!」
「ぃぐうっ!?」
泉の服にランの爪が掠めるか掠めないかの瀬戸際で、悩みから解放されたらしいエンが、毛深い人狼の首に注射針を刺した。
問答無用で中の液体を注入していく。
途端にランは力を失い、解放を得た泉はよろける動きでワーズにぶつかった。
そこでようやく顔を見せた彼はきょとんとした表情を一瞬浮かべるが、泉の身体は視線を追って背後に向きを変えた。
ぐるんっと白目を向いて倒れるラン。
注射を打った医者はこれを尻目に懐へ注射を仕舞いつつ。
「そうそう、影解妖。影解妖だよ、スイ。アレなら有無が分かるよ。気になる理由もはっきりする。だってアレには解毒の作用もあるんだから!」
「は、はあ……」
きゃっきゃと一人はしゃぐエンに対し、舌を垂らしたまま白目を向くランの惨憺たる様子に言葉もない泉。
ワーズの言っていた危険がどういうモノか、はっきり理解出来たものの、二度と目覚めなかったらどうしようと顔を青褪めさせ。
「気になる理由……解毒?」
「わわっ」
反芻する呟きを耳にし、背後にワーズがいるとここに来て初めて気づいた泉は、急いで振り返ると無意味にパタパタ手を振った。
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