妖精の章 三十三.五
ぷつん……
確かに響いたその音は、けれど、鋭敏な人狼の聴覚にさえ届かず。
奇人街の地下に存在する人狼の主たる居住空間・“洞穴”。
中でも広大な虎狼公社、奥に位置する幽玄楼は、群れの頂点に君臨するシウォン・フーリの憩いの場だ。
その造りは目を潰すほどの優美さを誇り、ゆえに彼が認めた者以外は侵入を許されていない。
これを破る者があるとすれば、頂点の座を狙う世間知らずかあるいは――
「……何をしていやがる、餓鬼」
頭痛を堪える億劫な音を滲ませ、唸りに似た低い声が今まさに自分の腹へ跨ろうとしていた小柄な人狼へと向けられた。
ふわりとした暖色の衣を纏った人狼は、覆い被さろうとしていた動きを止めると上体を起し、傍らでにっこり微笑む。
「何って、帰還のご挨拶ですわ。でもパパったら寝苦しそうだったんですもの。添い寝でもして、慰められたらって」
「……お陰で最悪な気分に拍車が掛かったぞ」
「ふふ。光栄です」
うっとり見つめる深緑の瞳に陰鬱な溜息を吐き出し、ゆっくり起き上がったシウォンは、自分を「パパ」と呼んだ同族の少女を振り返らずに寝台を降りた。
捨て置く形で部屋を出れば、楽しそうに近づいてくる気配を知ってうんざりする。
少女の名はニア・フゥ。
正真正銘、シウォンの娘で……少々厄介な性質を持っていた。
邂逅は彼女が四つか五つの頃。
シウォンに似ている、それだけの理由で人狼の子どもが育てられている場所から攫われ、頂点を快く思っていない奴らにより身代わりの名目で暴行を受けていた時だ。
顔を数発殴られ、腕や足を折った痛々しい姿に加え、服を破かれる寸前の光景は今もシウォンを後悔に導く。
あの時、ニアを見つけるんじゃなかった、と。
以来、纏わりつかれること数年。
永く時を生きているシウォンには短い年月なれど、関われば関わった分だけ増す疲労感は勘弁して貰いたい。
廊下を歩けば疲れきった腕に絡みつく、成熟一歩手前の肢体。
無造作に払い後方へ飛ばしても綺麗に着地した音が届くだけで、生半な人狼であったなら壁の一つを破壊する威力があろうとも、ニアを怯ませるには至らず。
また近づく陽気さに面倒臭そうな息を吐いたシウォンは、振り返ることなく言う。
「……帰ったってんなら先に一の楼へ行け。次期石榴宮だろうが。てめぇの無事を伝えるのが先決だろう?」
「えー? パパがそれを仰いますの? 私を果てまで投げ飛ばしたのはパパなのに」
幽玄楼の周囲にある四つの楼の一つ、一の楼、通称・石榴宮。
シウォンの囲い女と呼ばれている、色んな意味で強い女たちが暮らしている其処へニアを放り込んだのは、シウォンが泉を知る少し前の事だ。
これで大人しくなるだろうと踏んでいたシウォン。
煩くしたところで女たちに爪弾かれ、楼に出向いても会うことはないだろうと考えていた。
しかし目論みは大きく外れ、何の因果かニアの立場は次期楼主にまで持ち上げられていた。
まあ、それでも子どもに関しては熟達のニパがいる楼、会う回数自体は段違いに減った。
身を案じるニパの言動に絆され、ニア自身が楼の外へ極力出なくなったのも功を奏したと言えよう。
が、そんな中で自覚したシウォンの初恋は、昔からシウォン一筋を豪語する変な実子の動きを活発にさせた。
まだ泉に会うこともままならず、気ばかりが急き、苛立っていたシウォンの前に現れたニア。
自分の想いで一杯一杯だったシウォンは、失念していた彼女の姿を目にするなり拙いと思った。
奇人街という場所柄、自分に子どもがいる事は愛しい少女も知っているだろう。
しかし、相手は人間。
託児を基本とする人狼とは違う種、もしかすると子持ちを理由に距離を置かれてしまうかもしれない。
何より、泉とニアは同い年。
司楼からもたらされたこの情報は、どう明るく考えてもシウォンの不利にしか働かず。
結果、泉に会うとニアが息巻いたせいもあって、シウォンは去ろうとする彼女の襟首を掴むと、自分が知る一番遠い場所を思い描いて“道”へと彼女をぶん投げたのだ。
知識として“道”を知っていても、その出入り口を知らないニアが相手ならば時間稼ぎぐらいにはなる、そう踏んで。
ニアが帰ってくる前には泉と会い、ニアを含めた様々な事を伝えようと思っていたシウォン。
……実際会ってしまえば、短い時間だったにも関わらず、我を失ってしまったわけだが。
ともあれ、まともにニアと向き合う気のないシウォンは、懲りずに伸ばされる手を払い除けながら、主に食堂として使っている部屋へ入っていく。
当然の如く追従するニアをやはり一瞥する事なく、シウォンは広い円卓傍の長椅子に腰掛けた。
ドカッと荒々しく座ったところで、怯まぬニアは遠慮もしないでそのまま隣に座る。
腕を回して擦り寄ろうとする動きをしたなら、これを見もせずシウォンは払い除け。
他愛ない攻防に段々痺れを切らしてきたニアは、シウォンから離れると椅子の上に足を引き寄せた。
「てめぇ。土足で俺のモノに」
「やっと見てくれた」
「…………」
長椅子が汚れると注意するべく目を合わせた矢先、恍惚の表情を浮かべて喜ぶニア。
これがただの娘だったら無邪気だと笑えるが、なまじ自分と似ているせいで複雑な気分を味わう。
全体的にやつれた雰囲気をシウォンが背負い始める、直前。
再び逸れた瞳に頬を膨らませたニアは、転じ、にやりと底意地の悪い笑みを口の端に刻んだ。
とてもよく見知った笑い方に、更なる溜息がシウォンから零れる。
――と。
「今日、会ってきましたわ。パパの想い人、綾音泉に」
「…………ほう?」
瞬間、弾く動きでシウォンの右手がニアの頭を鷲掴みにした。
何時潰されても可笑しくない状況下、それでも指の合間から覗くニアの眼は笑みを刻み続ける。
同族でさえ数多殺す頂点が自分の血筋だけは殺さない事を熟知している――からではなく、ただ純粋に、シウォンの反応を楽しんでいる風体で。
「話で聞いて想像していたのとは全っっ然、違いましたけど……面白い方でしたわ。でも、私がパパの子だと聞いたら」
「言ったのか!!?」
「ええ。大層引かれてしまいましたわ」
「ひ、引かれた……」
途端に力を失い、長椅子の上に落ちる手の平。
がっくり項垂れれば、元凶が気遣わしげにその頭を撫でてくる。
振り払う事すら出来ずに苦悶から目を瞑ったなら、彼の娘は手を離して元気一杯に言った。
「だ、大丈夫ですわ、パパ! そんなに落ち込まれなくとも! 彼女、引いていたのは私が同い年という部分でしたから! 私が彼女より一つ齢を取れば」
「……お前、誕生日はいつ?」
「え…………………………た、確か、昨日……でしたわ」
「はあ……」
シウォンにとっては最早、ほとんど意味をなさない一年に一度のイベントだが、しっかり把握しているニアは気まずそうに視線を逸らした。
この様子に身を起こしたシウォンは、背もたれに背中を預けると、隻腕の手の甲を額に押し当てた。
たぶん、問題はそういう事じゃない。
ニアが齢を一つ重ねたところで、同い年の娘がいるのに求婚していた事実は変わらないのだ。
人狼の本性をなぞるくせに、おぼろげながら彼女の感覚が理解出来るシウォンは、陰鬱な息を口の先に吐き出した。
乗じ、隣がビクついても思うところは何もない。
斯くなる上は泉本人ともう一度会い、己の気持ちを、年齢など関係ない、どれだけ本気かを知って貰うしかない――のだが。
「どう、すりゃ良いんだ? 会うっつったって、二人きりで会える機会なんざ……」
今までもことごとく失敗に終わっている。
成功したところで一時、大概邪魔が入ってしまう。
何より。
“触らないで!”
目を閉じた闇の中で響く拒絶の言葉。
併せ、払われた手に走る幻の痛み。
ぐっと呻く喉を呑み込めば、苦い思いだけが蝕むように広がっていく。
司楼の話だけを聞くなら、彼女はそこまで自分を嫌ってはいないようだが。
あの姿を最後に目にしたシウォンにとっては、あれこそが泉の本心として、いつまでも心に焼きついていた。
だからこそ、最近では泉へ送る手紙の数もめっきり少なくなっており。
認める文も失い、吐き出せる場所のない想いばかりが膨らむ現状。
いっそ諦められたら、そう考えた事は幾度もあった。
けれどその度思い出される彼女の姿は、考えそのものを打ち消してしまう。
進むことも出来ず、引き返すことも出来ず。
何も為せないまま、淡々と過ぎていく時間。
行く宛を失った気持ちは澱のように沈み続け、シウォンの心身を更に重く鈍くしていた。
……年かな、俺も。
そんな思いに支配され、大袈裟に溜息をつく。
と。
「パパ……二人きりになれるかは分かりませんが、機会ならばありましてよ?」
「……ああ?」
今までとは違う、おずおずとした態度のニアの言葉に、シウォンの三角耳がピクッと反応して小さく素早く円を描いた。
次いでそちらへ視線をくれてやれば、長椅子の上で膝立ちになったニアが右耳の耳飾りを弄っていた。
その意味するところに気づいて、シウォンの眼がやおら顰められる。
「お前……また“糸”を張ったな? しかも今度は泉にまで」
「ち、違いますわ! 確かに張りはしましたけど……相手は綾音泉ではありません」
「ほう? では誰だ? 誰に張った? そしてその耳で何を聞いた――ニア」
「はぅっ……」
あからさまに逸らされた視線を追い、シウォンの右手がニアの下顎を軽く抓んで引き寄せる。
加え、普段は全くと言って良いほど呼ばない娘の名を甘く呼べば、実父に恋する珍妙な少女は同族以外にも分かるほどの朱を気配に混じらせた。
これには、こうなると予想して行動したシウォンも内心で呻き、ドン引きしていた。
グッ……冗談じゃねぇ。俺は先代とは違う。近い血縁に欲情なんぞ出来るか!
全身の毛が逆立つ気分に陥りながらも、ぐっと堪えてニアを見つめ続ける。
表面には優しげな笑みを貼り付けつつ、裏では今すぐにでも手の中のソレを投げ飛ばしたい衝動を押さえつけながら。
すると、もじもじしていたニアは何を思ったのか、すっ……と静かに目を閉じた。
一気に這い上がる悪寒から背中の毛が針のように逆立てば、目を閉じたまま彼女は言った。
「キス、してください。そうしたら教えますわ」
「〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜っっ!!」
限界、だった。
ニアの視界が閉ざされているのを良い事に、あからさまに青い顔をしたシウォンは、それでも極力その思いが伝わらぬよう、顎を掴む手の動きを制御する。
もしもただの情報だったなら即行で跳ね除けているところだが。
「…………」
二人きりで、泉に会えるかもしれない。
抗い難い、魅力的な誘惑である。
しばし、沈黙。
熟考――のち。
「…………パパ。瞼は反則ですわ」
「何処という指定はなかったからな。で?」
何処にしようともキスはキス、思いっきり逃げに走ったシウォンに対し、顎を解放されたニアの頬が小さく膨らんだ。
とはいえ、たとえ瞼でも嬉しいものなのか、すぐに相好を崩してはぴったり寄り添ってくる。
まさかここで払うわけにもいかないシウォンだが、それでも若干の距離を置きつつニアの言葉を待った。
最中、思い出すのは彼女と初めて会った時のこと。
一瞬、だった。
ニアを組み敷いていた奴らへ、シウォンが「おい」と声を掛けた、その瞬間。
奴らの意識がニアからシウォンへ移る合間を縫い、陰でシウォンとよく似た顔が嗤ったなら。
刹那、場面は赤に塗り潰された。
僅かな灯りを宿した狭い路地を染める鮮血は、濃厚な匂いを辺りに撒き散らし。
自分の子と思しき匂いを嗅ぎ取り、奴らへ声を掛けたシウォンは片眉を上げてどういう事かと一歩足を踏み入れる。
と、爪先に転がるモノを感じ取り、無造作にこれを蹴り上げた。
黒と赤とが交じり合う空間の中、唯一生き残っていたニアに向かって。
ぼんやり、機械的にこちらを見た幼子は、殴られ潰れた半眼でソレを捉えると、自分に辿りつく直前で小さく指を動かした。
途端、輪切りにされて中身を撒き散らす――頭部。
余波はシウォンを目指して襲い掛かり、手を翳した彼は乳白色の爪を用い、事もなく流れを断ち切った。
これによりぼんやりした瞳に恐怖が宿れば、彼を打ち損じた余波が背後の通りすがりを殺める音を耳に、シウォンは鮮やかな緑の瞳に愉悦を混ぜて嗤った。
そのせいで以後、付き纏われる事になるとは露も知らずに。
何故俺はあの時、コイツの“糸”を見つけてしまったのか。
答えはにべもなく、放っておけば自分が死んでいたから、だ。
改良が加えられた現在とはその細さも材質もだいぶ違うが、あの時ニアが使用していたのは極細のワイヤーだった。
あの年頃にしては珍しく力のない自身を熟知し、これを守るためにニアが自分で編み出した技法こそ、後に彼女が命名する“糸”である。
元々、油断させてから奴らを一人残らず殲滅するつもりだったニアは、暴行の合間に“糸”を巧妙に張り巡らせており、シウォンが現れずとも完遂するつもりだったのだ。
結果的にこれを助ける形となったシウォンだが、問題はその後、ニアの“糸”を断ち切った事。
彼女曰く、今まで誰一人として、自分の“糸”に気づいた者はいないらしい。
まあ、だからこそ生き残ってきたのだろうから、これを疑う余地もない。
が、しかし、恐怖を映していたはずの瞳が実は恍惚を表していたなぞ、誰が知るものか。
しかもその歪んだ眼は、嗤うシウォンの姿を都合良く捻じ曲げて映していたのだ。
何を隠そう、理想の男性、ニアの未来の旦那様として。
雛の刷り込みよろしく、そこからシウォン一筋となったニアに対し、持ち前の不遜な態度で接しても喜ばせるだけだと知っているシウォンは、彼女の口が閉じたのと同時に長椅子の背もたれを後ろで殴りつけた。
「きゃっ」
簡単に座板を離れて壊れる背もたれに併せ、揺れる椅子から落ちたニアも見ずに、シウォンは頭を掻き毟った。
不本意ながら助け、それによりシウォンが左腕を失う羽目になった元凶へ、せり上がる憎悪を吐き出す。
「ランの野郎……俺の泉に血迷った真似を!」
「お、俺のって、綾音泉はパパのじゃありませんのに」
すかさずつっ込みを入れるニアの言葉も耳に入れず憤るシウォンは、地を蹴る勢いで立ち上がると怒り肩のまま部屋を出て行こうとする。
向かう先は芥屋。
目的は泉ではなく、ラン。
過去にシウォンから全てを奪い――勝手に纏わり付く最強の名以外をいらないと突っ返して来た、同い年の若造にして宿敵。
内に秘めた本性を抑えきれないばかりか、衝動のまま何の想いもなく泉に襲い掛かろうとしたランは、だというのに自分より泉の近くに在るという。
ニアがもたらした情報は、面白くもなんともない事柄だった。
過ぎる苛立ちには、微かな焦燥も混じる。
そんな奴の傍に泉がいる。
二人きりではなくとも彼女の身が危ういと知っては、居ても立ってもいられなかった。
出来る事なら、ランをぶちのめして泉の身柄を預かろう、というそれはそれで彼女にとっては危険極まりない事をシウォンは心に誓い。
けれど、止める腕が彼の腰にぶら下がった。
「お待ちになって、パパ! それでは駄目です、いけません!」
「るせぇ! 離しやがれ! どうしても邪魔立てするというなら、てめぇをぶち殺してから――」
「駄目っ! 綾音泉にこれ以上嫌われたくないでしょう!?」
「ぅぐっ!!?」
鋭い爪を揃え、激昂そのままにニアを貫こうとした動きが止まる。
泉に嫌われたくないのは勿論だが、「これ以上」とはどういう意味だろう?
やっぱり自分は嫌われているのかと思えば足下も覚束なくなり、がっくり肩を落とせば、様子を見ながら離れたニアが申し訳なさそうに言った。
「あの、パパ? その、私が言ったのは言葉のアヤだから、そんなに気にしないで?」
「…………」
「あのね、綾音泉はどうも物凄いお人好しみたいなの。だからラン・ホングスを殺したりしたら」
「……知っている」
皆まで言うなとぼそっと返せば、ほっとした表情になるニア。
それほどまでに酷い顔をしていたのかと苦く思う反面、どうでも良いとさえ思う。
嫌われていた――
真偽はどうあれ、第三者の言葉は深くシウォンの心に突き刺さった。
自分で想像する以上の衝撃に、彼女自身に言われてしまったら、そう思うだけで頭が可笑しくなりそうだった。
やはりこのまま、会わずにいた方が良いかもしれない。
らしくない弱腰によろよろ長椅子へ戻っては、預けられない背中を丸めて項垂れる。
ふわり揺れる暖色の衣が視界に入ってきても顔は上げずに。
「ああ。分かっているさ。アイツは……泉は、それがたとえ嫌いな奴であっても、一度知り合ったら情を移すって事くらいな。ランを殺せば更に嫌われるだろうよ、俺は」
「……アヤだって言ったのに、思いっきり引き摺ってるし」
呆れ返った少女の声に倒れる耳はないが、吐き出した息はどこまでも陰鬱。
しかし、ニアの言葉を聞いていないわけではない。
否、本当は分かっているのだ。
本心と映ったあの拒絶にしても、泉本人に尋ねればまた違った答えが返って来る事くらい。
それでも聞きに行く足がないのは恐れているからだ。
泉の言葉に左右される己を、自身のプライドが恐れている。
これ以上関わり合えば、間違いなく引き返せない想いに焼かれてしまうと。
今更足掻いたところで彼女に振り回されるのは目に見えているというのに。
己を振り回せるのは、彼女ぐらいだというのに。
「……クッ」
ふいに鳴る喉。
止められぬ笑いに額を押さえれば、不可解な表情を浮かべるニアの後ろから小さなノック音がやってくる。
「入れ」
相手なぞ知れていると声を掛ければ、併せて振り向いたニアが「げっ」と呻いた。
「失礼いたしやす」
「司楼、チオ……」
「うわ。これはまた随分と派手に壊しましたね、親分」
憎々しげに呼ばわるニアを気に留めず素通りした白い人狼は、椅子の背もたれを軽々と持ち上げた。
次いで座板との接続部を見、ブツブツと口先で何やら呟く。
小さな音ほどよく拾い上げる人狼の耳に、長椅子の材料やその形状が淡々と届いてくる。
シウォンの趣味で固められた幽玄楼は、家具一式に至るまでシウォン自身が一人で作っていた。
このため、必要な物は材料のみとなるのだが、これを集めるのは司楼の役割。
でなければ彼曰く、親分が材料集めをすると目に付いたモノ全部持ってくるから、面倒事も大挙して押し寄せてくる、らしい。
シウォンとしては侮られているようでいけ好かない言い分だが、昔、今の司楼と同じ位置に置いていた側近を材料集めの際に失っていたので、特にこれといって返す言葉はなかった。
言ってしまえば側近の一人や二人、どこで野たれ死のうが知ったことではない。
それでも司楼に関しては有能な面が多々あるため、失うにはまだ惜しいからと材料集めを任せてはいる。
が、これに良い顔をしない者は数多いた。
大半は司楼の齢若さや生きてきた時間の長さが短いという、古参の同族たちである。
自分たちが側近に登用されない不服を司楼にぶつけているようだが、だからこそ登用されないと気づくのはいつの事やら。
そして少数精鋭というか何というか、物凄く理不尽な理由で司楼を目の仇にしているのが、シウォンの実子であるニアだ。
その理由は簡単且つ単純。
仕事に忠実である分、他を構わない司楼が、頂点の娘である自分を無視するのがムカつくらしい。
シウォンに似ているからと、他からおべっかを使われたり狙われたりしているニアにとって、無視される事は実父を蔑ろにされているに等しいという。
今も、ぶつくさ言う司楼に近づくと忌々しそうな表情を浮かべ。
「司楼・チオ! 私に挨拶はないの!?」
「……ああ、アンタか。はいはいこんにちは、お嬢。じゃ、オレは忙しいからまた後でな」
「んなっ!」
しっしとニアを手で払い、長椅子に視線を戻す司楼。
怒りに赤く染まりふるふる拳を震わせるニアだが、司楼の邪魔をする気はないようで悔しそうに歯噛みするばかり。
見慣れた光景を横目に見ていたシウォンは、ニアの耳飾りを目に留めると、今し方思いついた口振りで司楼へ告げた。
「ああそうだ、司楼。明日、山へ登るぞ」
「へい」
「ちょっと! 何よそのやる気のない返事は!」
理由も聞かずに返事をする司楼に対し、間髪入れず文句を言うニア。
二人のやり取りを背に、シウォンの眼は明日、泉に会えるという不安を凌駕する喜びに、爛々とした輝きを宿していく。
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